Night and day 10


アディダスのトラックパンツはそのままに、トップスを野暮ったい体操着からオーバーサイズのTシャツに変えた彼女の削がれた背中を、伊東カムイは大海のような瞳でただ一心に見つめた。

カムイの暮らす賃貸アパートは、かすみの家より徒歩十五分、真志井のアパートより徒歩八分、そして杏の自宅より徒歩十分の、なんとも曖昧な場所に位置している。そして京華中学校と加地屋中学校の境目だ。あともうすこしかすみの家から離れていれば、真志井や杏と同じ中学へ進めなかった。居心地の悪い家は真志井の自宅より築浅で、真志井の自宅より日当たりが悪い。湿った自宅を足早にあとにしたカムイは、夏を生きる不良少年らしく、ラグジュアリーストリートブランドの古着のTシャツを選んだ。これは真志井のクローゼットで眠っていたものを譲り受けたのだ。そして見慣れたTシャツを選んだカムイをドラッグストア前で出迎えた杏は、先ほどカムイと語らっていたときの愛くるしさをさっぱりとシャワーで洗い流していた。すがすがしいほど正直なすっぴんに、ざっくりとしたシルエットのTシャツを痩せたからだにひっかけた彼女は、小麦色の肌にうっすらとうかぶそばかすをあらわにして、深い顔立ちでカムイへあどけなくわらってくれた。ブラウンヘアは陽に透けて、萌える太陽の色に変わっていた。青白い肌で、どんな光のもとでもどんな曇天のもとでも、黒く鈍くしずかに光るあの男と、考えてみれば対照的だ。そして彼女は、いくら買っても会計が4ケタに届かない不可思議なドラッグストアで、痩せた少年と少女の体のなかへ無限に取り込まれてゆくお菓子に加えて、片隅に備えられた食品売り場で、杏がカムイが見たこともない薬味を次々と青いかごへ放り込んでゆく。彼女の慣れた手つきを、カムイは大きな目で見守った。そして、とがった顎に手を添えたカムイが、清潔な売り場を見渡す。あごや頬、額に点在するにきびを気にしているのだ。薬ぬるより、さわらないようにして、お水とかいっぱい飲んだほうがいいよ。彼にそんなことを告げた杏が、彼のコンプレックスをそっと気遣った。その言葉は、真志井が与えてくれた助言とまるで同じだった。



俺の目がないところでも、飲酒はしないように。
真志井にそう言いつけられているカムイは、14歳の身空でそれを欲するはずもなく、杏と真志井のいいつけどおり、シンプルなグラスに注がれた冷たいミネラルウォーターをしずしずと味わいながら、ダイニングキッチンに慣れた様子で立つ杏の姿をまっすぐに見つめる。

カフェのような設えのキッチンに立つ杏は、夏の間に肩甲骨まで伸びたブラウンヘアを飾らぬヘアゴムでざっくりとまとめている。髪にかくれていた白鳥のような首すじだけ真っ白だ。

白ネギをみじんぎりしていた彼女が、カムイの大きな瞳がおくるメッセージに気づいて、顔をあげた。

そしてこのひとがカムイを呼ぶ言葉は、いまだ定まらない。


「カムイ、泊まってっていいよ?ていうか休みにカムイくんがうちきたとき、二回に一回はそうなっちゃうよね。漫画よんで、アニメみて、配信でドラマ見て……、私ちょっと勉強して、カムイまた漫画読んで、なんかマーシーが通話してきて」
「おれらのじゃましますよね」
「ね!そのあと……なんか……寝ちゃう」
「はらいっぱいになるかどーかすね・・・眠くなかったらかえります」
「そういうかんじでいこうか」


私には気を遣わなくていいからね。したいようにしてね。
そうつげた彼女が、意外にラフな手つきで、鍋のなかへ、母親が飲み残した日本酒を直に注いだ。ストウブの鍋のなかには、たっぷりの鳥のひき肉と先ほど手際よくきざんだ白ネギがおさまり、塩をふりかけた杏は一度蓋をして、しばらくそれらを酒で蒸してゆく。好きなものはいくらでもむさぼるカムイと、杏自身に当て込んだ量だけれど、少しの期待をして材料は多めに投入した。どちらにせよ、出汁カレーの多くはカムイに与えることになるだろう。

好きにすごしていいと伝えたけれど、なぜだか今日は杏のそばにいたがるカムイは、ダイニングチェアに大人しくすわりながら、思春期らしく油分の調整のきかぬ肌のあちこちを、手癖のままにさわっている。杏は少年をもう一度気遣った。生来肌が乾燥しがちな杏は、思春期の過剰な油分分泌による肌荒れに悩まされることはない。


「ニキビさわらないほうがいいよ。気になっちゃうよね、だけどさわらなきゃ大丈夫だよ」
「ん……。そーします……。真志井センパイもすけど、杏せんぱいも、慣れてんすよね。飯つくんのも……家に、独りでいるのも」
「中1くらいまでかなあ、お母さんが忙しいときは、おばあちゃんちに行くことも多かったんだけどね。おばあちゃんちは鬼邪地区なの。けどもう今は一人。お母さんが忙しいのに慣れた。それにおばーちゃんも、お母さんみたいに変わった人だから、孫に時間奪われたくないっていうの!だけど、そうだよねー、今となっては気持ちがわかるなあ」
「おれは、ひとりで、いらんねえから……。真志井さんに、てめえのそーゆーとこはちゃんと認めろっていわれました。おれ、真志井さんのいわれたとーり、できてますか……」
「できてるから、私たちに気持ちをつたえてくれて、私と今、いっしょにいてくれるんでしょう?私もさっき、かっこつけて親が忙しくて独りに慣れたとかいったけど、カムイくんがいてくれるから安心して過ごせるんだよー」
「せんぱいんち、居心地いいんで、ずっといたくなるんすけど……真志井さんが、ちゃんと…けじめとか、なんとか、」
「そう。ちゃんとけじめもついてるよ。ね、マーシーがちゃんとまともだから、私も甘えてるだけ」
「真志井さんは、おれはまともじゃないよっつってましたね……」

まともなひとほど、そういうよね。
杏がそうこぼすと、カムイが大きくうなずく。

伊東カムイという少年は、めんどうをこまやかに看てくれる真志井雄彦に、ありのままの心を見せることにいささか時間をかけていた。
そして岬麻理央という男のまえで、自尊心を正しく持てずにいた。

その一方で、真志井が最も信頼していた女友達の杏には、壊れてしまいそうな心をあっけなく開いた。もっとも、カムイが真志井の家より杏の自宅に訪れることが多いのは、真志井自身がそうしているからにすぎない。


杏の自宅のダイニングテーブルにちんまりと座ったその少年は、おとなしくごはんを待つ子犬のようで、真志井からこまめにケアを受けるようになってそのもろくて感じやすい精神は随分安定したものの、ときおり、惑星同士の力が重なり合うような攻撃性が、カムイのなかから現れる。
何の罪もない、ただカムイに関心を持っただけの生徒たちに、不器用さをあらわにしたカムイがかみついたときは、さすがの真志井や杏も、彼を叱った。
そして己のなかの何かを持て余すのは、真志井や杏とて同じだ。
そんなとき二人は、つとめてその事実を、この少年に伝えた。きみはひとりじゃないと伝えた。そんなとき、獰猛な目はいつもやわらかく変わった。そうしてカムイは不器用なあゆみを積み重ねて、真志井とあの大きな男の背中を追いかけて、ようやくここまできた。
三人がこの男の子の傍に逐一いられるのも、あと半年だ。


あの。

ダイニングチェアに小さくおさまることに瞬く間に飽きたカムイが、長い足で椅子をまたぎ、背もたれに顎を乗せて、出汁を取っている杏を、大きな湖のような見上げる。


「ん?何?出汁これくらいで足りるかなあ。カムイ、どれくらい食べるの?」
「すげーくいます。昼もくってねーし。あの、杏せんぱい、真志井さんの彼女じゃないすか」
「そうだね」
「おれ、せんぱいとふたりであそんでいいんすか。しかも家…今日すげえふつーにきましたけど…」
「私は、カムイとあそびたいなあ」
「おれもなんすけど、マーシーさん」
「カムイはゆるすっていってたよ」
「おれ、杏センパイのお母さんにも、カムイはゆるすっていわれました」
「みんなにゆるされてるね」

家だとゆるしてもらえねーのに。
がっこでも。
せんこーにも……。

ちらりと少年を見やった杏が、まっすぐに伝えた。


「私はカムイがすきだよ」
「おれもすきす」
「私は、マーシーがすき」
「おれもすきすね、真志井さん」
「すきだから、これからも一緒にいよ」


あらいざらしの整った顔でわらってくれたひとは、いつだって、カムイのもろい心の最も壊れやすいところに温かい手をそっと当ててくれて、カムイの冷えきった心をとかすことに、カムイよりずっと諦めることはなかった。

そうだ。カムイはこのひとといると、安全なのだ。
ここは、安全な場所だ。
そんな言葉が浮かぶ。
そしてきっと、真志井雄彦もそうなのだろう。


「けど」
「ん?うん」
「ラオウ…さんには、なんかそゆこといえません。おそれおおい、っつーか」
「それも、すきっていみだと思う。そういうすきもあるんだとおもう」

カムイが首をかしげたとき、IHコンロのタイマーが音をたてた。カムイのために少し時間を取った。料理につかった日本酒のアルコールをとばすためだ。


「煮えた。ん、大丈夫。次はカレー粉。わあ、カレーのにおいしてきたね!!」
「普通のカレーじゃないのに、かれーのにおいす……」
「出汁入れて、めんつゆいれるの。あと少し煮込むね」

カムイ、テレビで好きなのみていいよ。firestickあるでしょ。私昨日ユーフォリア見てたけど気にせずすきなのみて。そんな声を聞き流したカムイは、いささかわがままな調子で小さく首をふる。この人と話していたい。スパイシーなカレーの香りを楽しみながら、カムイは、抱いた心をそのまま言葉に変えた。


「すげ、いーにおい」
「まって、もう少し塩いれる。ニガテだったらのこしてね。普通のカレーもすぐできるよー。冷蔵庫で冷やしてるポトフにルーいれたらいいから」
「それ、マーシーさんが教えてくれたやつっす。おれやったことねぇけど」
「教えてくれたんだ。すぐにやらなくても、いつか役にたつよ」
「マーシーさんは、おまえもちっとはてつだえっていいます。で、おれ、てつだうと」
「いいっていうんでしょ。私もいいからね。あとは薬味…薬味も、切れてるの買ったし、全然かんたん。何なら手抜き……いつも手抜きだけど」

マーシーさんもそーいいます。カムイがそう答えようとしたとき、杏の媚びないアルトが、できた!!と小さく叫んだ。
行儀のわるいさまでチェアにまたがっていたカムイが、カウンターキッチンの向こう側をのぞこうとする。
温かいご飯にカレーをかけて、みょうがに、しょうが。しそにねぎ。あらかじめ刻まれていた薬味を大量によそって、仕上げにかつおぶしにいりごまをかける。そして添えるのは柴漬けだ。

マイペースに椅子から降りたカムイは、彼女に随分近づいてきた体躯で、彼女のそげた肩口から手元をのぞきこむ。シンプルな器に盛られたそれは、カムイの想像を超えるムードを湛える。カムイが真志井と足を運ぶどのチェーン店でもみたことのないしろものだ。


「…こういうの、くったことねえ…」
「むりしないで、あ、運んでくれるの。ありがとう。まず一口だけ。いやだったら、のこして」

香りはスパイシーだけれど、やがてやさしいものにかわる。
スプーンを掴んだカムイは、清潔な飴色のテーブルのうえに丁重に並べる暇もなく、すり鉢状の器に木製のスプーンを差し込んで、あまり味わったことのない薬味、そして苦手なはずの漬物とともに、スープ状の出汁カレーを一気にかきこんだ。

すると、惑星のように大きな瞳が、ますます光を増した。
波佐見焼のボウルに杏に見合った量をよそっても、カレーも薬味もたっぷりと残っている。それを見届けた杏が、瞳を輝かせるカムイの前に、器をもったまま座ったのち、素直な瞳が歓びをにじませた様を確かめて、ほっとしたようにわらった。



「……うまいす」
「よかった。私も……。わあ、おだやかな味だねー。ちょっと独特だよね。それに、ガッツリ系じゃない。やさしい味だね。中2の子が食べる味かな」
「おれこういうのくったことあります。んでそいつよりうまいす。ばーちゃんかな……」
「マーシーがカムイにつくるのは、がっつりしてるんでしょ。あ、これ、冷えてるごはんのほうがいいね。これもおいしいけどね」
「あったけーのがいーす。おいしーす。センパイ、すみません……」
「ううん、私が誘ったしね。まだ残ってるよ、食べてね」

半分ほどたいらげたカムイは、あっとつぶやき、ダイニングテーブルのそばに設えられたコンセントで電気を補給していたスマートフォンを引っこ抜いた。真志井によって随分鍛えられた食事マナーのおかげで、本能のままに食事を味わえど、カムイの器のなかはさっぱりときれいなままだ。それでも、初めから写真を撮っておけばよかったと後悔したカムイは、今になってようやく彼女の手料理をカメラの中におさめた。


「真志井さんに写真おくります」
「あれ、グループラインのほう?最近動いてなかったね。先々週かあ……」
「ここ、これからもつかっていいですか?」
「私は使いたいよ。マーシーもだめとかいわないよ。使おうよ」
「じゃ、グループラインに送ります。自慢するんす。このりょうりのなまえ、なんですか」

出汁カレー。そう呟いた杏も、大きな口を媚びることなくひらいて、薬味をたっぷりのせたカレーをざっくりと味わった。そして、カウンターのうえに置いたままのiPhoneを取り上げる。
彼女がiPhoneを取り上げた瞬間、カムイがトークルームへ写真を放り込む。
そして、"出汁カレー食いました"
そんな言葉を添えた。

杏もメッセージアプリをタップしてトーク画面を開けば、既読数がただちに3つとカウントされた。ミネラルウォーターを味わった杏は整った口元を親指でざっくりとぬぐいながら、画面を見つめる。


「えっ、早いねマーシー、ライブ終わったのかな」
「まだじゃないすかね……スマホみれんのかな。そのまえのはおわってそーす」
「あれマーシー、何歳って言ってまざってるの?」
「19す。おれはばれるからくるなってゆわれてますね」
「見えるけど!19に見えるけど!」
「いや、ガチのときのマーシーさん、もっと大人にみえますよ」
「ほんとに…?」


やがてグループチャット画面に矢継ぎ早に送られるメッセージは、ラフな言葉に彩られた、年相応の少年のありのままの姿があらわれていた。


"なに食ってんの"

"おれおいて"

"おれにもくわせろ"


「くるのかな?岬くんはいいの?」
「ラオウさんは多分行かなかったんすね。えー、くるんすかね、マーシーさん……」
「カムイさ……マーシーに隠し事したいときとか、本音が出るとき、マーシーのことマーシーってよぶよね。岬くんのこと、マーシー来たら聞いてみる」

柴漬けが優しいカレーに、少しの渋みを演出する。そんな味わいをたのしみながら、杏もトーク画面に言葉を放り込む。


"くるの?"

"いわなくてもわかれ"

"ちゃんと答えてください"

"いく。くう。そいつくうから、俺の残しといて"

"そうするね"


「えーーーーー……、マーシーさんくるんすね……」
「い、いやそうな顔してるーー…。バレちゃうよマーシーに。マーシーに笑われるよ?」
「まじきてほしくないす。マーシーさんにくわれます、これ。おれ、あと五杯食いたいんすけど…」
「五杯!?二杯にして!?」
「いやす。くいます。すげーうまい……」
「プロのレシピ再現しただけだからね。カムイいっぱい食べてくれたね。うれしいなー。いつでもつくるよ」
「家でこんなくいません」

おれ、あっためますね。
器をからにしたカムイが立ち上がり、IHを器用にあやつりながら、目を輝かせて出汁があたたまるのを待った。その器用な手つきを杏が見守る。この少年のもつ自信が正しくのびてゆけば、きっとなんだって出来る青年に育ってゆくだろう。

くるまえにくいます。
そう呟いて薬味を大胆に盛る姿は、さすがの杏も苦言を呈した。

「そんなことしてたら、マーシーにばれるよ。マーシーをごまかせたことなんかないじゃない」
「どっちの味方ですか、杏センパイは」
「この場合は……そうだね、カムイだよね……。これ、カムイくんにたべさせるために作ったんだしねマーシーはアポなしだし」
「そーす、マーシーさんは、すじがとおってません」
「一杯分だけ残してあげて」
「くいます」
「あーあマーシーはごはんなしだね。ね、カムイ、いくらでも私にそういってくれていいからね。いつでも作るよ」
「……真志井さんにもしてあげてください」
「カムイに言われちゃうとね。やるしかないね」
「そーす。おれのおかげすよ」

そのとき杏の自宅に響くのは、どこか間抜けな電子音で、ダイニングテーブルから確認できるインターフォンには、杏とカムイが心から愛する青年のすがたが当然のごとく映っている。


「マーシーきた!」
「意外とはやかった……。やべ、おれぜんぶくわねえと」
「残してあげて!?」
「やです」
「ほんとにー?」

カムイと遠慮なくじゃれ合う杏が、恋人を迎えるためにダイニングチェアから立ち上がる。

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