Night and day 9


そげたように骨張った体にフィットするコンパクトなTシャツは、ユニセックスなパターンを誇るフランスのブランドの逸品で、真志井雄彦のワードローブには存在せず、杏はそれを日頃から愛用していた。
そして彼女の痩せた足を隠すジャパンデニムメーカーのチノスカートにしたって、いずれも杏は、真志井雄彦と寄り添うことをゆるしあったその日から杏はひとつもかわっていなくて、どこか変わったとすればやはりこの子は、うつくしくなった。

そして真志井雄彦は、急速におとなになった。

真志井と杏が、幾度目かのキスをかわしたとき。
黒いデニムシャツ越しの真志井の分厚い胸のなかへ、杏が強く抱き寄せられたとき。
水分と栄養に満たされた杏のブラウンヘアに無骨なかたちの指がしのびこみ、それが杏の頬にまでたどりついたとき。

杏に忍び寄ったかおりは、真志井と杏の体から同じように匂いたつマラケッシュの香りを超克して、強くただよった。

それは、杏が、真志井の体からあじわい慣れぬものだった。


一方で、幸い杏は、それに慣れてもいた。


「……これ、たばこのかおり…?お父さんも吸ってたし、お母さんも吸うから、私は匂いに慣れてる」


杏のしなやかにのびた指が、真志井の黒いシャツにそっと触れて、分厚いからだをとどめる。

そして、まるでごまかすように。
杏はけしてそう抱かないものの、ふたたび杏の元へ伸びようとする長い腕の正体に少しだけ戸惑いを感じて、真志井の厚い胸から少し身をひいた。

杏の部屋の清潔なシーツは、それはいやみなほど整っている。
まるで真志井を拒まんばかりに真っ白だ。
まだ二人が友好と親愛だけで結ばれていたころでも、カムイは幾度も杏のベッドを使ったが、真志井はそれを持ち前の良識と鉄の理性のもと、拒み続けた。ここを使える権利を手にしても、シーツはまだ真志井を拒み続けるように思う。それでも、スカートにつつまれた膝をスプリングに突き、ベッドサイドの窓からこの部屋へこぼれる光をさえぎっていた杏がカーテンをタッセルで閉じたところで、真志井雄彦は清潔なベッドへ遠慮なくのぼった。

そしてきしむスプリングに気づいて振り向いた杏に送られたのは、真志井雄彦と杏が交わす3度目のキスだった。

あの日から、真志井と杏が逢瀬にえらぶのは、決まって杏の自宅だ。
今日も同様で、杏が幼いころに建てられたコンパクトな注文住宅の二階、淡色無垢のフローリングの上にセミダブルベッドが鎮座し、そこが真志井と杏の居場所だった。


「杏の母さんほど量はキメてねーからな」


彼女の母親は、当然のごとく真志井のことを深く知っている。
しかし彼女と深く寄り添うことを決めてから、真志井は彼女の母親に、まだ会っていない。杏の母親が多忙を極める専門職に就いているからだ。その多忙さゆえ杏の家は、真志井と同様の家庭環境でありながら、真志井の家よりずっと豊かだ。真志井はいつか、杏へ、同じ道を選ぶのかと尋ねたことがある。杏は曖昧に首をかしげていた。彼女は杏の母らしく170センチを誇る長身で、40代を少し過ぎたとは思えぬ若々しい人だ。
頭のいい女は、真志井のことを、まず疑ってかかることが多い。それは当然のことだと真志井も理解していて、真志井を素直に愛した賢い女など杏ただひとりだった。杏の母は、真志井の知性と性分を少し疑い、やがて認め、そしてカムイの欠乏や欠落を即座にみぬき、少年を猫かわいがりする。

頭のいい女性は、いつも、真志井に新鮮な緊張をもたらす。


「お母さんは、この仕事、ニコチンキメなきゃやってらんないって言ってる。マーシーも?えっ、夏休みから……?」
「んー……」


ベッドを置けばいっぱいになってしまう部屋で、杏と真志井、そしてカムイは数えきれぬほどいっしょに過ごしてきた。
幼い頃から使っている勉強デスクに、ボードに置かれたテレビ代わりのタブレットは学習にも使われる。そして壁一杯に本が詰まった大きな本棚。母娘で読みふける少年漫画や少女漫画も並ぶ。真志井の趣味と少し異なり、つまり真志井のまだ知らぬ知識が詰まっている。本の背をじっくりとながめ終わった真志井は今日借りて帰る本に算段をつけて、、長い足を投げ出してもまだあまりあるベッドにリラックスして腰を下ろし、壁に背をあずけ、膝を抱えて隣にぎゅっとくっついている杏を見やって、困ったようにわらった。

この後真志井雄彦が三年掛けて育てる、鉄の鎧。

その萌芽をこのとき、杏は確かに見いだした。


「……夏休みからじゃ、ないんだ……。私ずっと、マーシーの喫煙に気づかなかったってことだよね……」
「杏がおまえの母さんの煙草の匂いに慣れてっか、俺がおまえの前で吸わないよーにしてた。その両方だよ」
「うーん、腑に落ちない……。だけど私、何もみえてなかったんだね……。あ、私、マーシーを無理に変えようなんて思わないよ。マーシーがしたいことを、したらいいと思う」
「おまえの部屋では」
「いいよー。お母さんも吸うもん。火の始末だけ……」


ブラックシャツの胸ポケットから、真志井が無造作に取り出したのは、蛍光イエローのライターと、平和という意味の英単語を冠した紙巻き煙草だ。ソフトパッケージはくしゃくしゃにつぶれている。恋人にぴたりとくっついている杏は、彼の無骨な手元をのぞく。乾燥しきっている手にすこしだけ汗が滲む。そして杏は、母親の仕草をおもいだしながら、母親のマネをして、喫煙のジャスチャーをみせた。でもお母さんは、こうやって。アイコス。マーシー、私の部屋で吸ってもいいよ…?杏がそう気遣うと、だめだよ、ベッドの上だとなと、真志井は軽く彼女をおさめあ。少し過剰な気遣いを真志井にたしなめられた杏は、浅くうなずいて、視線をシーツの上に落とした。清潔な素足には、夏の砂浜をイメージしたネイルが施されている。
真志井が低い声でつたえる。おまえも煙草、似合うかもな。
私は吸わないよと答えた杏は、苦笑いをみせた。


「たばこへーき?おまえがゆるしてくれんなら、おまえのまえで吸うかもしれねえ。けどおまえに煙かかんねぇようにするわ」
「へいき。むりしてない。ほんとにへいき」
「カムイには煙がかかります。残念ながら」
「えー!カムイくんからも、匂いしなかったなあ…」
「それは杏が鈍いわ」
「えーー!私、鈍いんだ……。じゃなくて、やっぱりカムイにも煙かけてないんでしょ?」
「おれはカムイに優しくないからな」
「それ本気で言ってる!?」


ほんとにたばこ、平気だよ。
性急な声音でそう告げる杏に、この問いへの答えは、本当はみえていなかった。

けれど真志井が纏う煙のかおりが、杏の皮膚を通して、心の奥底までなじむことに時間はかからないことだけは、わかった。

壁に背中を預けていた真志井が、やおら身を起こしたとき、スプリングがぎしりと沈む。真志井の質量が杏に向けられた音だ。膝を抱えて、そばにいる真志井にただそっとくっついていた杏は、空気の変化を察知した小動物のように、痩身を少しだけふるわせた。


「杏」
「う、うん」
「杏が大事だから、手ぇだせねえとか、」
「は、はい」
「おまえが大切すぎて、指一本さわれねえとか、」
「……」
「俺はそーゆーの、この二年でさんざんやったんでね」


真志井のテノールは、太くもなければ細くもなく、心地よい聞き応えだ。その声が杏に迫る時、少しだけ杏の心をちくちくと刺す大きな声となる。シーツの上で、自分の城なのにどこか所在なくひざを抱える杏が、視線をどこへ逃がしてよいかわからず自らの指先の夏の砂浜のいろを探そうとしたとき、杏の薄い上半身は、真志井の腕のなかに捕らわれた。

人質となっていたヘアゴムとピンは今日ようやく返ってきた。
シャツに染みついたたばこの臭気の奥から、真志井自身の香りが強く漂う。
やっぱサングラスかけてえわ。真志井がひとりごちた声を、杏はただおぼろげに聴いた。


「こうなるからな、おまえは」


杏はその腕にただ、いだかれるままでいる。
たばこのかおりに巻かれて、真志井の腕に蒔かれて、清潔なシーツのうえに、痩せたからだが押しつけられた。

杏の細い喉の奥で、ちいさな声が漏れる。ダークブラウンに彩られたくちびるから、熱い息がこぼれおちた。

杏のその声とその気配は、真志井雄彦の冬山のような体内の深奥に、鈍く響いた。

真志井を、いとも簡単に変えてしまいそうな声だった。

真志井を根こそぎ変えてしまいそうな声を、たばこの味がまとわりつくくちびるで、やにわにふさいだ。
杏のハスキーな声の色が濃厚にかわる。くちびるはそのまま、なめらかな頬をすべり、杏の首筋をさぐった。最も香りがつよくかおる部分をさぐりあてる。

真志井がそのほっそりとした手首を捕らえようとしたとき、杏の手は真志井の発達した肩へしのばされた。


「おれは、おとといも、おまえを襲った。きょうも襲う」
「んっ……マーシー、そういうこといって」


サキュウのチノスカートは、流石のジャパンデニムメーカー仕様で、杏の大人びていながらも幼い体をしっかりと真志井から守り抜く。タフな素材は、こうした場で少しだけ異物感がある。杏の長い足を、パンツに包まれた獰猛な膝で割ったところで、杏の体をこれ以上さぐることを諦めた。


「……ただこうやって、私の一番近くにいてくれるだけじゃない。これは襲うじゃなくて、ふれあうっていうの」
「おまえと合意を形成せずに押し倒したのにか」
「そ、そうだよ、べつに…だいじょうぶ、だし……」
「おれがおまえのそばにいられねぇときもあるだろうからさあ」
「…そう、だよね?それはあると思う・・…」
「いつもいてやるって、いってやりてえんだけど」
「あれから会うの、3回目だね。いつも私の家。キスして、こうしてくれるだけ」
「これ以上は受験終ってからな……って、おれ守れんのかな、その約束」
「…私のほうがあれかも」
「いや、おまえとちゃんと向き合ってわかった。おまえは守れる。守れねえのはおれ」
「マーシーがこうしてくれるから、大丈夫ってことなのかなあ……」
「おまえは大丈夫か。それならいいんだ」
「……マーシーは?」
「大丈夫だよ」
「ほんとに……?」


真志井の胸のなかにぎゅっと潜り込む杏の、深いところに触れられるのは、いつであろうか。

真志井の纏う、マラケッシュの香水の香りは、すこし控えめになった。

なんなら、杏のほうが強いくらいだ。

たばこのかおりが香水をこえて、そして真志井という男の匂いが杏のもとへ強く届く。爽やかな風が吹く距離をおかさぬように、ふたりして怯えていたあのころには、届かなかった匂いだ。この香りがこれ以上強くなったとき、杏の体は耐えられるだろうか。

そしてそのとき、この男は、どこにいるのだろう。

杏が今できることなんて、この分厚い背中にただしがみつくことでしかなかった。


「杏」
「ん?」
「これ以上はないよ。んなここに力いれるな」
「力入ってた……?あ、あの、私、マーシーにこうやってするのがすきなんだ。されるのもすきだけど」
「まて俺、杏の横いく」
「うん。あ、枕つかっていいよー」
「ん、ライン……。あー明日体育祭の登校日か」
「私も11時くらいから行くよ」
「カムイくんのかな。ライン、ラオウからだ。施設のちびたちが熱だしたらしくてよ」
「それはそっち優先しなきゃだね。私が先生に伝えとくよ」


清潔なベッドにめぐまれた体躯を誇るこどもたちふたりがリラックスしてよこたわったところで、杏の母親が選び抜いたベッドはまだゆったりとしたスペースを誇る。
おれ杏の家で毎日寝てー。そうつぶやいた真志井が、遠慮なく奪った枕に顔をうめる。
うつ伏せの姿勢で彼を見守る杏が、やわらかくわらった。
いつかそんな日が来たらいいと、そっといだいた。




京華中学校の何の変哲もない体操着は、この二人の手にかかれば、リンガーTシャツのように小粋に変わった。

袖口を軽く捲った杏は、小麦色の肌を夏のひざしに堂々とさらしている。骨張った腕から日焼け止めの香りが少しだけ漂った。
杏のそばに座る男子生徒は、新雪のようなましろの肌を夏のひざしにさらして、濃厚な瞳は、グラウンドに立ち上る陽炎をみつめている。

二人の耳を、マイクがハウリングする音が突き刺していった。

体育祭当日、今、杏と彼女のそばにいる少年が座る金属の台は、表彰台として使われる。

少年たちに人気のスケーターブランドのショッパーには、ドリンクやお菓子が雑多に詰め込まれていて、それを境界として、日陰におかれた表彰台のうえでしばし体育祭の準備の休憩をとっているのは杏と、杏がこよなく愛する後輩、伊東カムイである。


「真志井さんと、付き合うんすね」

ぬるくなった清涼飲料水を、ほそい喉に流し込むカムイが、ボーイソプラノの名残がある声で、存外さっぱりと述べた。

「うん、付き合うことになったよ」
「あっさりしてますね」
「そうなの。付き合ったときはね。だけど、なんだか、あっさりしてる」
「杏先輩と真志井さん、やっと付き合うんすね……」
「そうだよ。もしかしてずっと、心配してくれてたの……?」

いよいよ170センチを越えようとしている杏に、カムイもそろそろ追いつきそうだ。先日の健康診断で167センチという数字をたたき出したけれど、この男の子はいつまでもどこかこぶりだ。

筒型のお菓子に汚れた指先をつっこんで、分厚いくちびるのなかに矢継ぎ早にスナックを放り込むカムイは、神妙な顔でうなずいた。


「カムイは優しいね。マーシーもきっと助かってるよ」
「かどーかは、わかんねーすけど。おれ、あんま、ちゃんと」
「できてる」
「っす……。杏センパイ、真志井さんの、かのじょすね」
「彼女……」


真志井さん、センパイんこと「オンナ」とかいうなっつってました。杏センパイは、ものじゃねえんだからって。
カムイがそうつぶやくと、長い足を宙に泳がせ、金属の台に大きな手をついて座っている杏が、うつむいたまま、形のいい耳をそめた。

「……」
「真志井さんとしゃべってっと、ベンキョーになるんす。ゆっちゃだめなんすね、オンナってことば」
「別に、それでもいいのに」
「で、真志井さんは、けどおれは多分杏のことおれのオンナとかゆっちまうって……あ、これゆってよかったかな、だめかもしんないす。内緒にしてください」
「……」
「せんぱい、そいつぬるくなりますよ……」
「…あ、そうだね」
「すいぶん。とんねぇと……」
「ほんとだ。ありがとう」

Supremeのショッパーに無造作に詰め込まれたスポーツドリンクを引っ張り出したカムイは、ご丁寧に封まできって、杏に手渡した。杏も素直にそれを受け取る。


真志井の恋人となったひとが、ペットボトルにくちびるをあてて、このうえなく優雅な様でドリンクを味わった。

白鳥のような首が、野暮ったい体操着から伸びる。
胸はかすかに目立ち、相変わらず体の薄さと骨っぽさが目立つ。
夜明けの星のような瞳は、少し疲れたような風情で臥せられている。
そして細く高い鼻が走り、大人びた気配をつくりあげる。くちびるは少し薄くて、笑うと、それは知的な香りがただよった。
茶色い髪がきらきらとうつくしくて、濃厚に彫られたような顔立ちと小麦色の肌は、昨年の夏であったか、TOHOシネマズ戸亜留市西にて、真志井とカムイと杏が三人で楽しんだMCU映画のヒロインに、少しだけ似ている。

カムイは、この杏というひとを、こよなく愛した。

けれどそれが敬意と親愛、そして憧れからついぞ動かなかったわけは、カムイが、色の白い女が好きだからだ。


「あのひとといちゃついてんすか」
「……」
「いちゃついたんすね……」
「……」
「会えるときに」
「?」
「……マーシーと、会える時間は、すごく大事だから、会ったとき……大切にしなきゃ……」
「……?二学期もすぐ始まりますよ。それに杏センパイは真志井さんちもしってんし、真志井さんのお母さんも杏センパイんことすげー好きじゃねーすか。べつに、家凸っちまえば……」


その折、表彰台より数十メートル離れた向かいのグラウンド入り口にて、すこしの騒ぎが起こった。体育祭の展示パネルが落下したようだ。生徒たちが集まり、あわてて設営の修正が行われている。そんな様をカムイと杏が黙って見守る。交わしていた会話が、曖昧に終わったことをカムイが悟り、話題を変えた。そういえば、カムイの尊敬するこの女子生徒は、昨年度の体育祭を成功にみちびいた立役者で、そして大変な苦労を重ねていた。装飾部門や応援部門、競技部門の責任をすべて押しつけられ、学年の縦割りで決められるチームにすべての部門での優勝をもたらしたかわり、心身に多大なダメージを負っていた。カムイは、杏に真志井に岬と同じチームに所属がかない、充実した行事の後味もおぼえているけれど、それは責任感の強い人間を傷つけて得たものであるという、ものごとの裏と表を学ぶ体験となった。


「せんぱい、今年はラクできてよかったっす」
「去年めーわくかけたもんね、カムイくんと、マーシーに……。岬くんにも。もう、向いてないことはやるもんじゃないよー」
「けど、まじセンパイ、全部結果だしますからね。内申もすげー点なんしょ。そのぶん無理が…きてましたね……」

おれあんとき、熱中症がやばいっつーことがわかりました……。マジ気をつけてます。
カムイの役にたててよかった。
そう笑った杏に、あのときの後遺症など何もないことを確かめたカムイが、ちいさな心をなで下ろす。

あの日、盛り上がりが最高潮に達した体育祭の予行演習の裏で、校舎の裏でひとり倒れ込んでいる杏のことを、追いかけてきてくれたのは真志井だった。
カムイも真志井のあとを追って、熱中症と疲労でたったひとりで倒れている杏を見つけた。真志井はプロ顔負けの手順で、杏のケアを行った。後ほど、それは、介護職に就く真志井の母親から授けられた技術ということも知った。校舎の裏で意識を手放している杏の、しなやかな体を、難なく抱き上げたすがたを、あの日のカムイはしかと見つめた。あの様は二度と忘れられないだろう。あの瞬間カムイは、真志井雄彦が杏を愛していることを確信した。
そして、真志井は、誰にもみえないところですべてを独りで抱えようとした彼女の心を尊重し、誰にも見られぬ道をえらんで、彼女を保健室へ運び込み、無事杏を守った。

杏のからだとこころを、救った。

いつだって顔色を変えず、そして明朗で、それでいて冷静な男。

そのとき、伊東カムイは、真志井雄彦の血相を変えてしまうのは、岬麻理央と杏だけと知った。


「起きたら保健室だった!あのとき、ありがとうね、カムイ」
「おれ、なんもしてねーす」
「そんなことないよ。マーシーは、怒ってた」
「あのひとが怒るときって……」
「ね」
「はい」
「本気のときだよね。すごく大切なことを言ってくれるとき。それで」
「すっげ、誰かのこと…」
「……思いやってくれてるとき、だよね」

やさしいよね。
やさしーすね。

杏は結局、甘えや弱さは、真志井の前でさらすことしかできなかった。杏はとどのつまり、真志井に、すべてをさらしつづけてきた。
本来であれば、きっと逆だろう。
大人になることを余儀なくされた少年のそばにいるならば、自らも大人でなければならないのに。


「……」
「杏せんぱい?」
「うん。私、こどもだなあって」
「中3すよ」
「早く、おとなにならないと。マーシーのために……」


そんなことを、あの男が、のぞむはずはないのに。


大きな瞳を見開いたカムイが、憧れ続ける少女をそっと見やる。
あの男と深い愛を紡ぎ始めたばかりなのに、あこがれの女生徒はどこか、張り詰めたままでいる。

美しい少年の嘘のない目につらぬかれた杏が、素直に頬をそめて、困ったようにわらった。


「うん、わかってる。マーシーはそんなことのぞんでない。私の空回り。こういうところもなおしたいな」
「なおすとかじゃないと、おもうんすけど……。つか、顔赤いすね、せんぱい」
「はずかしいな……あ、でもカムイのまえだとはずかしくないな!面白いね」


このうつくしいひとは、ときおりとても可愛い。
ときおり、ひどく愛くるしい。
カムイには読めないけれど、きっと、あの男と愛を交わしてから短い間で、多くのことが起こったのだろう。
このひとは、これからもずっとカムイのあこがれでありつづける。
あの男とともに、あこがれのままでいる。


「なんか杏せんぱい、かわんないすね」
「変わらない?よかった」
「よかったんですか?」
「そうだよ。急に変わっちゃったりしたら……こわいよね」
「あベンキョーとかのことすか。それもそうですけど」
「今までどおりなんだから。マーシーがすきで、マーシーといっしょにいて、カムイくんがいて、カムイくんのことがすきで」
「おれも、杏せんぱいのこと、すきです」
「私もカムイのこと、すきだよ」


宇宙で最も大きな惑星のように深い瞳を持つ少年が、杏の傍に大人しく座って、ただ杏を見つめている。
聡明な少女の、澄みきった泉のような瞳もまた、いとしい少年のことを見つめた。
そしてふたりして、端正な顔を遠慮なくくずして笑った。


かんたんにいえますよね。
いえるねー!マーシーには、ずっと。


「ずっと、いえなかったのに」
「……真志井さんに、いっぱいゆえたんすか」
「あはは、いっぱい…もう、いっっぱい言っちゃった。言い過ぎて飽きられるかも」
「それはないす。あのひとに」



言ってあげてください。



きっと、それが真志井の助けだから。

そこまでは告げることができずに、カムイはただ、祈りのような言葉を杏に贈った。



「大丈夫かな?しつこくないかなあ」
「そ、それは…どうなんすかね……おれは真志井さんじゃないんで……」
「そ、そうだよね!知りたいことは、ちゃんとまっすぐに、マーシーに聞かなきゃ。マーシーはそういうこがすきだとおもうし」
「いやそういうオンナが好きなんじゃなくて杏せんぱいが好きなんだと思いますよ。それにせんぱいまっすぐっす。心配になんのもふつーのことだと思います。大丈夫です」
「ありがとうカムイーーーーカムイくんがいてくれてよかったーー!」
「あ、あの、きょ、今日セット成功したから頭なでないでください…真志井さんはそーゆーともっと撫でてくるんすけど……。つか真志井さんは?」


あ、今日はね。
スポーツドリンクを飲み干した杏が、グラウンドの西側に整然と取り付けられたテントを指さす。そして次に、色とりどりの絵が描かれたパネルが吊られる鉄骨も指さした。



「朝8時にきて、3年のテントの設営、マーシーが仕切って全部完璧にやっちゃったみたい」
「すげ……保護者に頼むひつよーないすね」
「放送のテストも全部完璧。装飾の絵の仕上げもやったんだよ。道具のチェックもして…応援の練習も仕切ってた。一年と二年の女の子たち、みんな、眼がハートになってた!去年の私が死にかけでやってたこと、マーシーはもうあっさりやっちゃった。すごすぎるね」
「真志井さんすげーす……。あんなもてて飽きないんすかね。つか杏センパイと真志井さんセットでファンっつってる女子、俺のクラスにすげーいますよ」
「みんな気を遣ってくれてるんだよ。いい子たちだね。今日は岬くんが、施設の子が熱出しちゃってこれなかったっていってたから、その分マーシーのやることが多かったの」
「俺かすみの家に薬届けてきました。もう治りそうっつってました」
「よかったね、岬くんとこのコたち。カムイもえらいー、マーシーも岬くんも、カムイくんに助けられてるね」
「んなことないす・・…今日は、真志井さんと、学校で話しましたか?」

お菓子あげる。半分こしよ。
カムイの好むスナック菓子の封を切った杏は、袋の口をカムイのほうへ向けて促した。あざっすと短く告げたカムイは、大きな口に、スティック状のスナックを次々に放り込んでゆく。

「全然話さなかったよ」
「そうなんすね」
「目だけ、合ったよ」
「よかったっす……」
「笑ってくれた、と思う」
「わらってます。おれはみてねえけどわかります」
「それで、お昼前に帰っちゃった。家のことやって、お母さんの明日のお弁当作って冷凍して、夕方からイベントとライブだって!行けるようなら岬くんも誘うみたい。あと最近できた、他校の友達…?」
「あ、あいつのことすか。ダチじゃないす。けど気ぃ合ってんみてえ。にしてもじゅーじつしてますねーー…真志井さんには杏せんぱいもいますし……」
「忙しいよね。行事がいろいろ終わったら落ち着くよ、マーシーも」

それで俺には連絡こなかったのか……

カムイがそうひとりごちたとき、すかさず杏は、彼の様子を慮った。
今日はずっとカムイに気遣われてばかりで、そろそろ杏が、彼のことを愛する番だ。


「最近おうちどう?」
「んー、ケアマネが来て……今日も俺ガッコくるとき、お袋寝てました。んでパン食って…けど今日は夜は訪問の人くるみてーで。ばーちゃんはふつーす」
「そうだったんだね。昨日は夜は…?」
「てきとーに、あっためて、インスタントと…。朝は何も食ってないっす」
「じゃあ、カムイくん、もう帰って私とあそぶ?」
「いんすか、じゃあ、おれ一回帰って、着替えて……マーシーさんどっかいっちまうし、杏せんぱいんちいっていーすか」
「ごはん、そと?うちのお母さんも忙しすぎて最近帰ってこれないから、私もずっと独り。今日はいっしょにいようか。ごはんもつくれる」


まじすか…

そう呟いたカムイのあまりにも大きな瞳が、俄然すなおに輝き始める。

杏は、長い足をつつむトラックパンツのポケットから取り出したiPhoneで、手早くレシピを呼び出す。

すると彼女へにじりよったカムイが、スマートフォンを遠慮なくのぞきこんだ。


「これ作る。出汁カレー」
「ふつーのカレーじゃないんすか……こゆのわかんなくて、おれ……」
「カムイも食べられる味だよ!よかったら食べてって?」
「杏せんぱいのめし全部うまいす。これ、真志井さん食いましたか?」
「あ、まだマーシーにごはんつくってない…。付き合う前は、こういうことよくしてたのに、付き合ってからだと……意味が、変わっちゃうっていうか」
「?めしくうだけじゃないんすか?」
「……カムイだと、むずかしいこと、かんがえないのに」
「おれにするみたいに、したらいいんじゃないんすか?真志井さんにも……」
「!!!」


カムイくんは、天才だね……。
おれがすか……。


お菓子全部食べて。杏がそう伝えると、カムイは再び遠慮のかけらもなくうなずいて、素直に杏に甘えた。

杏よりずっと厚みのあるくちびる。杏よりずっと透き通った肌。そして杏より大きな瞳。美しいものをほしいままにする年下の愛すべき男の子へ、杏は、このところ知ったばかりの事実をそっと告げた。


「そうだ、マーシーがたばこ吸ってた」
「そうか、そうすね……杏センパイにばれてもよくなったんすね。てか匂いで気づきませんでしたか?ピースにおいきついっしょ」
「…香水のかおりが強く、て……そっか、香水がきついときがあった。そうだったんだ。そういうことだったんだ……あれでたばこ、ごまかしてたんだ。マーシーと三年いっしょにいても、まだ知らないことがあるんだ」
「前からす。つってもそんな前じゃなくて、三年になってからすよ。多分ラオウさんにもばれてません」
「岬くんも…」


だいじなひとには、ばれたくないんすよ。
だから、そーゆーことです。
ラオウさんと、杏せんぱいが、だいじ。

杏の痩せた体から香る異国の街の匂いは、カムイもこよなく愛した。そんなカムイも、真志井がアルバイト代で買い与えた香水を欠かさない。地中海の香りをイメージしたトップメゾンの香水と、天然香料にこだわった日本製の香水と迷い、安い方を買い与えたと、真志井はひとつの飾り気もなく少年につげた。あの日からカムイは、四季を通じて金木犀の香りを纏う。不良少年にはそぐわぬ香りだが、オスマンサスの香りがたちのぼれば、杏も真志井も、愛する男の子が現れたことをすぐに悟る。
杏は、秋の花の香りをさせる少年に、凪いだ海のような声で伝えた。


「カムイもだよ」
「おれはどーなんすかね。たばこ、すっげ、けむいっすね。なれますけどね。においも……。おれはすうなってゆわれてます」
「そうだね、カムイは、たばこやめとこう」
「おれは吸いませんね。それと、マーシーさんに、多分ゆっても…」
「うん。勿論。マーシーを変えようなんて、思ってないよ」


それに私のお母さんもすうしね!
…前、杏センパイの母さんのクルマにひろってもらったとき、その、……おれでもひくくれえ……灰皿んなか……。おれのお袋の元カレよりえぐいすよ……。
すごいでしょー。マーシーの喫煙量はかわいいよ。
…っすよね……。



「け、けどおれまじで杏センパイと真志井さん、よかったって」
「ありがとう。私ずっと、マーシーにいえなかった」
「いえなかったのはあの人もすからね」
「……マーシー、私のこと、好きだったんだ……」
「わかってましたよね?おれは別に、相談とかはされませんでしたけど、おれもずっと知ってましたよ。真志井さんが杏センパイを、好きっつーこと」
「……私、マーシーとカムイとずっと一緒にいたいな」
「おれ?おれっすか」
「カムイくんは、いたくない?」
「いてーす。おれがせんぱいたちと、いっしょにいても、いいんですか」
「いてほしいの」
「いっしょにいてくれんすね…」
「いるよ。むしろカムイがいなきゃ、何にもはじまらないよ」
「センパイたちがいっしょにいてくれて、よかったっす」

あっ、お菓子食べ切っちゃったね。
せんぱいんちいくまえにあすこのドラストで…
安いもんね。あ、私が買うよ。
いっしょに。
そうだね、行こうか。

杏が表彰台から身軽に飛び降りれば、カムイも彼女に続いた。
エコバッグ代わりのスケーターブランドのショッパーを手に取った杏に、カムイがもう一度伝える。


「あの、杏せんぱい、いっこだけ」
「何?」
「おれ、ふたりがいっしょにいるとこ、みるのが、すげーすきで。だから、ずっと」
「うん」
「ずっといっしょにいてほしーす。つか」


いてあげてください。あのひとと。

グラウンドを突っ切るのを遠慮した杏が、日陰をえらんで、バックネット裏へ向かう。そのそばに寄り添ったカムイが、けなげな声で、祈るような言葉をつげた。その言葉と声音が、杏には実に意外であった。いてほしいのは杏のほうで、真志井にいてもらうのは杏のほうだと決め込んでいたからだ。


「え?私がマーシーといっしょにいてもらう立場なのに?」
「んなことないすよ!!」
「……そうかなあ……」
「どしたんすかせんぱい、もっとちょーしこいていい時期じゃないすか!やっぱマーシーさんいそがしすぎっす……」
「ちがうの、それ、私のために、時間をむりして割いてもらっても、解決しないから」
「……そゆとこ、せんぱい、おとなすぎて、おれにはわかんねぇす」
「うん。ごめんね、カムイ」
「おれには、わかんねぇかも、だけど」
「マーシーと私だと、早さがちがうね。がんばって追いついたらいいのかなあ。それとも」

TEKLAのタオルを取り出した杏が、真新しいそれをまずカムイにすすめた。
カムイが遠慮すると、杏は、無造作にまとめられた髪ゆえに露わになった首筋にそっと当てて、汗をすいとった。
白鳥のような首に後れ毛がからみつく。
艶やかなそれを大きな瞳でおいかけたカムイが、短く告げる。


「あの」
「うん」
「ずっと。春も、夏も、秋も、冬も。朝も、夜も……昼も……。ずっと」
「ずっと……」
「ずっと、いてください。あのひとと、ずっと、いっしょに……」
「…そうするつもりだよ」
「真志井さん、たぶんいろいろあります」
「そういう話もした…」
「ああ、したんすね、なら……、なんかあっても、おれらで杏センパイ守りますんで」
「あっ……、それ」


タオルハンカチをぎゅっとつかんだ杏が、そばを歩いてくれる男の子を見やって、静かに伝えた。


「マーシーは、言わなかったよ」
「それなんすけど、……それを、言わなかった、マーシーさんのきもち、」
「うん。わかってる」
「大丈夫です。杏せんぱいなら」


真志井が選んだ道は、すでに、始まっている。

だから彼女は戸惑っているのだ。
そして聡明な心と頭で考え続けているのだ。彼のそばにいるため、カムイが伝えた願いと祈りを叶えるため、どうすればいいか。


「おれ」


カムイは、そのあまりにも大きな瞳で黄昏の世界を見つめる。

暗い世界の果てを探し当てて、その場所があまりに残酷であることを知る。


「すげーうれしーのに」
「うん」
「すっげ、すげー……うれしいのに」
「……」
「ここが、なんか」
「さみしい、じゃ、ないんだよね、それって」
「そーす。それじゃないす……センパイ、これ、何なんですか」
「ね、ちがうよね。たぶん、それはねー」


杏は、15年の人生で学んだことと、生まれ持って授かった聡明な頭を振り絞って、ある言葉を導き出した。

そして短い言葉を、たった一言。
愛する少年に教える。

大きな目の男の子が、深くうなずく。


この言葉はずっと、三人のそばにいた。

この時間の果ての日まで、三人のそばにいた。

三人に静かに寄り添う賢い動物のように。
これから長く青く若い時代をすごす三人のそばに、いつまでも、いた。

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