Night and day 8


「おまえがすげえがまんしてたのは、よくわかったわ。……つかもっとはやくおれに告っちまってもよかったんだぞ…?おまえを断るタイミングなんか、一個もなかったけどな」
「自信がなかっただけ……。もっと早く行動したらよかった。もしもだめだったとしても、このままでいいなんて間違ってたと思う」
「まちがいっつーほどでもねーとおもうけど……。それに、自信がなかったのは、おれもだよ。てかダメじゃねえから」


学生用のスラックスに長い足をおさめた真志井雄彦は、大きく開いた足のなかに恋人の杏を呼び、薄い胸のなかに整った顔を埋めたままでいる。
杏の痩せた腰を発達した腕でとらえて、異国の街の香りが飛んでしまった胸のなかで、聡明な少年は少しの思案を重ねた。
胸を貸してくれている彼女の、思慮の深い性分に、真志井は出逢った瞬間から好感を抱いた。それでいて壁も感じさせなくて、けれど彼女自身を差し出すようなことはしない。しかしほどなくして、そんな杏がまた優しいこころを持て余していることもしった。実は心の使い方の調節を得意としないことも知った。彼女が彼女自身を差し出さずにすんでいるのは、真志井がそばにいるからだった。おのれにそんな力があることを、真志井は彼女のそばで新鮮に発見した。真志井が巡り逢ってきた男たちはとかく己を粗末にするものばかりで、それは真志井こそ、そうしたものの権化であった。けれど杏は、分厚い体を粗末にする真志井が手の平ににぎりしめる優しさのことを見抜いた。つまり真志井が当たり前と思いこんでいたことは、けして当たり前ではなく、真志井だからこそもっていたものだった。
杏にとって真志井はまるでこどもに思えず、人間はどのように傷つくか、人間はどうしたら幸福になるか、すべてをとうの昔に知っているような深い知性をすでに手にしていた。父親を亡くし、母とふたりで生きてきたという事実がふたりのあいだに共通していて、それがふたりをそうさせたのか、その答えはまだ見つかっていない。何かが自分をそうさせるのか、それとも自分は初めから自分自身でしかないのか、学業に励み、真志井と杏が二人で見つけ続けた学校の教育課程の外にある煌めいたもののなかへ、ときに答えを探した。そして二人は知った。いつだって答えは自分のなかにしかない。


「マーシーも、自信がないの?」
「そういう話もしたことあるだろ?」
「ある……。これからもしようね。マーシー、髪しっかりしてるねー」
「シャンプーお袋のやつ。つってもおまえん家のやつみてーなめずらしーやつじゃねーけど」
「香水の香りのほうがつよいね。それにしても……私がこんなこと、マーシーにしていいんだ……信じらんない。マーシー、誰かにさわられたりするの、にがてでしょ」
「おまえがおれのそばにいても、大丈夫だっただろ?気づいてなかったか?」
「うすうす……。そういえば憶えてることがあるよ」


マーシー、彼女できても手つなぎたくないって言ってた。

ああ。
杏の薄い胸に整った顔を埋めていた彼が、ちらりと瞳をよこす。

すっきりときれた一重まぶたに、様子をうかがわれると、杏の頬にあっけなく紅がさす。知性を帯びた瞳から逃げられることはない。真志井の瞳は時々、夜の色に変わる。


「いやおまえがやりてえならいいけど」
「ゆずらないで。それで私も大丈夫だから」
「人前でいちゃつきたくねえの。別の方法でおまえだいじにするから」
「あ、ありがとう……。その気持ち、わたしも分かる。わたしもマーシーをだいじにするよ。マーシーと付き合えただけでもう充分なのに。他何か嫌なことはある?」
「おまえは?」
「んー……」
「深い話になりそーだな。焦らず決めてくか」
「そうだね。あ、あの、人前でってことだよね。さっきぎゅって手握ってくれたのは、私すごくすきだったから、誰もいない、ふたりだけの場所なら……」
「するよ?」


真志井という少年は、ヒマラヤの山のような泰然自若たるムードはこの頃から育ちきっていた。それでいて、自分を見る目に敏感だ。そばにべたついた空気を纏わせていたり、鋭敏な気配を邪魔する者がいれば、岬麻理央という少年を守ることができない。大切な人を守ることのさまたげになる。
真志井は、好むと好まざるに関わらず、そんな能力を身につけたのだ。
そんな恋人に、杏ができることなんて限られていてる。自らのちっぽけな我など通すより、彼の願いをかなえることに尽きるだろう。

二人だけの場所なら、真志井は杏を、その大きな手の平で、愛してくれる。これ以上真志井にもとめることなんて、もう何もないはずだ。

そんな彼の言葉をしっかりと小さな心にしまい込んだ杏が、軽くうなずいた。

「杏、もっとやって」
「これ?これくらい?」
「たりねえわ」
「わっ……」

すると真志井は、杏の壊れてしまいそうな腰を片腕で抱きこんだ。

大きく広がっていた真志井の足がやおら揃う。
力任せに引き寄せられた杏の体が、あっけなく前方につんのめり、骨張った痩せたからだは、真志井の元に招かれる。
すとんと伸びた腿を、真志井の手が大胆に割ったとき、杏が軽い悲鳴をあげた。むだな脂肪のない内腿に真志井の手がしのびこんだからだ。

「や、えっ!?」
「あのさ、おまえさっきおれになにされてもいいだとかなんだとか…なんか壊されてもいいとかなんとか……」
「忘れて!!」
「はあ?やだよ」


スカートの下にしのびこんだ真志井の手に、杏の細い足は思うままになる。
ど、どこさわってるのと杏が弱った悲鳴をあげると、しっとりとした内腿は、清潔なスラックスに触れる。

杏は、ソファに超然と腰をおろして長い足をそろえてのばした真志井の膝を、はしたなくまたぐ有様と成り果てた。

自らのはしたない姿に狼狽する杏は、真志井の肩に両手をあずけるほかなくて、間近に迫った聡明で真摯な瞳をまっすぐ見つめ返したあと、コミカルにそらした。


「ち、ちかい!マーシーがちかい!」
「?さっきのがちかかっただろ」
「や、私、マーシーまたいでるじゃん」
「何、見たまんまのこと言ってんだ?もっとちかくに来いっつの」

真志井は杏の腰をそっと抱く
そして遠慮して身を引こうとする彼女をしっかりと捕らえる。
やわらかい腿の感触が、スラックスを通して、真志井の筋肉に覆われた分厚い体へ伝わる。無駄な肉ひとつない杏の体だけれど、彼女が持つ熱は真志井の持つ無骨な熱とはまったく違う。それは真志井の鋼の理知があっけなく狂ってしまいそうなぬくもりだ。


「杏」
「……マーシーがちかい……」
「いやか?」
「やじゃない……。ね、重くないよね?まえ、足けがしてたでしょう」
「こんなに軽いのなあ、おまえ」


壊せねえよ。


真志井のからだをまたいで座る杏は、やがてこの姿勢に慣れて、真志井のくろがねのような体に大胆に座っている。

聡明さにあふれる切れ長の瞳同士が、真摯に見つめかわされた。


杏は、真志井の頬に、しなやかな手を添える。

真志井が、強い腕で杏の肩を抱き、杏をますます抱き寄せる。

真志井の首の裏にそっと腕を回し、そして彼のいとしい頬にしなやかな手を添えた杏が、大好きなひとのなまえをよんだ。


「……マーシー……」


杏がこぼした声は、なんだか切ない語気だ。そして、少しだけこどもじみている。
なぜだか、ほのかに拗ねたような気配すら滲む。
高度専門職に就く母親ゆずりか、同じ職業で若くして活躍をみせ、進行性の病気で亡くなった父親ゆずりか、杏は同年代のこどもたちよりずいぶん早熟で、そして早熟さを奢らぬ聡明さと謙虚さも、両親からさずかった。
けれど今、恋人のなまえを呼んだ声は、たった15歳の女の子の声そのものだった。


「なに。杏」
「私を、すきになってくれて、ありがとう……」


なんだ。そんなことか。
真志井は、腕のなかに捕らえた恋人のことを、そういわんばかりの顔の表情で見つめ返す。
杏の手に、頬を寄せたままだ。

真志井の顔は、整いきり、そして美しいままだ。今日に限って傷ひとつない。


「……マーシー、テスト期間中は、ケガしないでしょう。綺麗な顔。傷がない。赤くのこってる痕もあざもない」
「不良もそこちゃんと守るんだよ。海老塚のやつも加地屋中のやつも、この時期こないからな。けどひとりだけ。おれ狙いじゃなかった。相変わらずラオウ狙いだ」
「……そうなの?」
「今回は名前もおぼえたわ。変わった名前だった。けど名字はふつうなんだよ。ツラがなあ、まーーーーーあキレイな男なわけよ」
「……めずらしい。マーシーが、興味もった人……?」
「ああ」
「気になる!!」
「気にするな!!んだ、おまえ……まさかおれがすきなんじゃなくて不良がタイプか!?」
「………マーーーシーーーーさあーーー………、3年いっしょにいてわからない……?私が!マーシーにしか!興味がないってこと!」
「ああわかるよ。つか今杏怒ったね。こわい。杏ちゃん怒ったらこわい。ごめんなさい杏さん」
「わかったならいいんです。私が気になるのは、マーシーがそこまで岬くんとカムイくん以外の誰かを、気にしてるってこと。めずらしいよ」


ふつうの名字で、なまえがめずらしいの?カムイみたいだね。
山口って男。知ってるか。
ほんとだ、ふつうの名字。他校の男子は知らないよ。私は、塾にも行ってないし。

真志井は、自然に身をひいていた杏のことを今一度抱き寄せる。

真志井の肩に左手を添えて、頬に右手をそえたままの杏は、真志井を見つめて次の言葉を待った。


「増えるかもなあ」
「ん?」
「仲間」
「……マーシーがそう思うのなら、そんな未来があるのかも」
「今はさあ、ガッコの人数もすくないし、おれのダチもおまえのダチも同じだろ?」
「ほんとだ。そうだよね」
「おまえはどうだ。彼氏のツレに紹介されても大丈夫なタイプか?」
「どうなんだろう…人見知りのつもりはないんだけど。ちょっとそのときがきてみないとわからないから、そのとき考えて、答えるね。今の質問だけ憶えとく」
「やっぱりいいや。おまえはおれだけ」
「んー……私は私でやっていくんだけど……けど、マーシーがみとめたひとに、会ってみたい気持ちはあるよ。きっとその人もマーシーをみとめてると思うの。だけど、マーシーをみとめたからっていって、私のことはみとめてくれるとは限らないよね」

もっとひろくなってくね!!そうつぶやいた杏に、真志井も健やかなようすでうなずく。二人は、大人になることにおびえなかった。


そして。


杏のこと抱きしめてぇ。


真志井が伝えたことばはひどくシンプルだった。

澄んだ真水のような言葉に、杏は素直にうなずいた。

そして、真志井の太い首に両腕ですがり、彼自身の匂いが強く漂う首筋にそっと顔をうめた。

しばし、お互いの頼れる、そして頼りない、幼い肩に、顔をうめあう。

何せ杏も真志井もずっと、こうしたかったのだ。

ずっと、もとめることを、ゆるしたかった。ゆるしあいたかった。

モロッコの街の香りの香水が飛んだ杏の首筋は、彼女自身の、あまくすずしい香りに満ちている。真志井が彼女の匂いを思い切り味わっていれば、杏は真志井の耳元でくぐもった声でたずねた。


「ねえ、香水、このまま?イソップの…。マラケッシュじゃないのも使ってみたいけど、これ高いからね。お母さんが使わなくなったからもらった。まだいっぱいあるけど」
「おれはまだ金も知識もないから色々選べねえし、この香りがいいよ。おまえは?」
「私ね、この香りに支えられてるんだー…。つらいときとか、この香水があったらもう一回がんばれる。マーシーといっしょのかおり。これ以外の香りに、まだ興味ない。だけどマーシーがこれじゃないといやとか、そういうめんどくさいこと、いわないから…これからもしも色んなもの知って、高校行ったらバイトして、そしたら、好きなのつかってね……。そこそこかぶるよね、これ」
「ガッコでこんなのいねえけど、よそいくといるな」


私、今、喋りすぎたかな?

真志井の心を先回りして、言い訳のように気遣ったつもりの自分自身に気づいた杏が、彼の耳元でそうささやく。

そして真志井も、杏の遠慮がちな側面に、そっと最良の薬を塗り込むように、返した。


「めんどくさくねえから」
「……私、めんどくさい子かもしれない」
「そういうの誠実っつんだ。そういうの嘘つかねえっつんだよ。んで真面目っつーの」
「それで私はマーシーを幸せにできるの?」
「いやまて。おれはなあ、もうしあわせなんだよ。ラオウもいてカムイもいて、幸いガッコにやなやつらもあんまいねえ。クソな上級生は卒業して、ラオウと俺がにらみきかせてっから、人の道をはずれるようなことする不良もいねえだろ。何よりおまえがいて、お袋がいる。悲しいことになあ、おれはなあ、勉強もスポーツもガッコの行事も充実してやがんだよ。帰宅部だけどな。俺の不良ライフも満たされちまってんだ。さっきも言ったろ、ずいぶんまともな男とカチ合ったばっかだ。んでそういうのはなあ、てめえの力でやることなんだよ。おまえもわかってるだろ?」
「……そうだった……あーまた私、はずかしいこと言っちゃった……。決めつけないで、ちゃんとマーシー自身を見なきゃ……。私がどうしたいかより、マーシーの気持ちがだいじなのにね」

はずかしい……。マーシー傷つけた……。
傷つきません。わかったらいいんだよ。おれしあわせだから。大丈夫だ。

そして、しっかりと発達した首筋の香りを味わっていれば、杏はまたも、自らの醜態を顧みることとなる。


「わ、私、何付き合って一時間で、マーシーにこんなに甘えてるの!?おかしくない!?それに、こ、こんな格好で……私バカみたいじゃない……?」
「あ?ここからどくなよ。逃がさねぇぞ」
「自分で自分にひくよ……もっと私、さっぱりしてるつもりだったんだけど、やっぱり自分に嘘はつけないね。本当は私、全然そんな子じゃないんだ」
「甘えろ。甘えろよもっと。このおれがこうしてるんだからな!?おれがこんなはずかしいことしてんだからな???いいか?杏もだぞ。杏もやるんだ。おれひとり恥かくのは、なしだ」
「もういっぱいはずかしいとこ見せてる気がする……。いいの?甘えて。って、もう甘えてるんだけど」
「おれがいいっつーまでこのままでいろ。つかさあ、慶応とかお茶の水とかうけねーんならさ、おまえ夏休みずっと寝てても受験問題ないんじゃねーの。明和女子ってよ、おまえもっと上目指せるだろ。おまえがここでやりたいことってなんだ。物足りないんじゃねえの」
「マーシーが思ってるほど、私は優秀じゃないよ。今いっぱい話してわかったでしょ?私、今すぐここから出て行って何者かになれるなんて思わない。そんなに思い上がった人間じゃない。まだ何もしらないし、まだ何もできないの。だからまず、ここで勉強するの。やるべきことをやるの」
「降参」
「やった、マーシーに勝った!」


それと、女子高がいいんだ。
私、男子は、マーシーとカムイくんと岬くんみたいに、信頼できる人だけでいい……。

彼の大きな肩に手をおいた杏が、健やかな声で、自らの信念を語る。

そしてちいさな本音も添えた杏は、彼のことも慮る。

マーシーも……。
隣町の超一流公立男子校に、数々の文人や政治家を輩出した歴史ある名門公立高校。あるいは日本屈指の国立大付属高校に、理系の付属高校。
真志井雄彦を呼ぶ高校は枚挙にいとまがない。

けれど、どこか杏を追い詰めるものから逃げるようなきもちで安全な女子高を選ぶ彼女とちがって、真志井は、戦う道を選ぶのだ。


「マーシー、忙しくなるよね。勉強もだけど、もっといろいろ」
「ひつよーのねぇことでな」
「そんなことない。これから、高校生になっても、もっと忙しくなるから」
「まあな。けどひつよーのねーことでいそがしいんだよ」
「マーシーに甘えたらだめなんだよ」
「俺もおまえに甘えたらだめなのか?」
「マーシーはいい。私は、だめ」
「どうしてそうなるんだ。おまえはだめでおれはいいの?おれとおまえは対等だろ?」
「…いつか、そうじゃなくなる日がくると思う。それも、意外と早くくる気がする」

今だって、ほんとうは。


杏がたったいま、遠慮なく愛しているのは、あまりに大きな体だ。そして、途方もないほど大きな背中だ。

その大きさを愛すものもいれば、憧憬を抱くものもいて、憎むものもいる。

せめて杏は、ちいさな心で彼を愛し続けようと決意した。

この背中をけして独りにさせないように生きようと誓った。


「んー…そーなんのかねえ、鈴蘭いっちまうと・・・。なあ、杏」
「ん?」
「おまえはおまえでいろ」
「私は私にしかなれないし、ならないよ?」
「それもそうだけどよ。俺がおかしくなったとき、言ってくれ。なんでもいいから。俺に言ってくれ」
「マーシーはおかしくならない……」
「してなくても、おかしいんだよ。俺らは基本的におかしいんだ。そこは見ててくれるだろ?」
「……難しい問題……。私に、できるかな」
「おまえがおまえでいてくれたら、できるから」
「そうしてみる……」


頼りにしてるんだよ。
頼られてうれしいー……マーシーに頼られたら、こんなにうれしいんだ。
おまえめんどい役員とか委員とかさんざん押しつけられてきただろ?そんで、ぜーんぶ結果だしてっけど。頼られんの、こりごりじゃねーのか。
好きな人に頼られるのうれしい。あ、あの、今回の体育祭は逃げたよ。頑張って逃げた……。
俺が逃げかた教えたからな。これは必要な逃げ。おまえにない部分だ。

そんな会話をかわしていると、杏のスカートのポケットで再びiPhoneが震えた。あとでいいだろ。真志井のそんな小言をマイペースに黙殺した杏は、彼の体に痩せた肢体を預けたまま、ポケットから機器を取り出した。ひとまず杏に届く言葉には誠実に対応する。それが杏の信条であるようだ。ここを粗末にすればいずれ、真志井にとどけられる優しさにも無理がくる。それを即座に理解した真志井も、幼稚な小言を呟いたあと、彼女の行動を尊重した。

まってね。そう真志井を気遣った杏は、iPhoneをのぞく。メッセージアプリにはふたたび、
友人からのメッセージが届いている。


『伊東くんかわいいけど、途中で糸が切れたみたいに帰っちゃった。
清邦の人たちも拗ねて帰っちゃったよ。
無理させたよねー、今度伊東くんに謝っておいて。

マーシーと会えた?話せた?夏休みにはいるまえに告白して、なんとかしたほうがいいよ。
マーシーが今日も杏に謝らないなら、私らで計画たててシメるから』


杏の腰を支える大きな腕が、好き勝手に背中であそぶことを自由にさせながら、そんなメッセージを確かめた杏は、真志井に告げる。


「あっ、私べつに携帯みられてもだいじょうぶだよ」
「は?みねえみねえ。おれのは、ま、いっかおまえなら」
「みないよ。ていうかお互い別にみないってことだね。マーシーなら見られても大丈夫なんだけど…ていうか私たち、パスコードいっしょじゃん」
「おまえ変えてねえの?おれもめんどくさいからそのままだ。いっしょのままかよ。おれらでふざけてやったやつ……」
「そうだよ、私とマーシーとカムイと岬くんの誕生月……。マーシーが10月で、カムイくんは8月…。私が一番誕生日早いんだよね」
「んであんなはずかしーことしたんだ?おれら」
「ねー、はずかしいよ!!」


そういえば、私のお母さんがね。

小さなサイズのiPhoneを掴んだ杏が、心のなかにずっと揺蕩っていた言葉を、今になって探り当てた。


そして、真志井雄彦へ、贈る。


「大人になったときに、いつかそういう記憶に、救われる日がくるんだって」


意味、わかる?
さっぱりわかんねー。何に?すうじに?
すくわれるんだってー。意味わかんないよね。大人のいうことわかんないよ。


iPhoneがブラックアウトし、中学三年間でつくった宝物のような友情と愛情を象徴する数字が、杏のことを知り尽くした通信機器を守る前に。

杏を片腕で抱いたまま、真志井の右手が彼女の手元に伸びた。

「あっ」

真志井は、彼女のiPhoneminiをあっさりと奪い取る。

この時真志井はみずからの幼さを思い知った。自らの希求より真志井への愛情を優先する杏と違って、真志井はこのころ、杏がからめばずっと、半可であった。


「みせろ」
「あっ!さっきみないって」
「みていいっつった」
「そうなんだけどね。いいよ、みて。私が不安になるみたいに、マーシーもなる…?確かめたいことはいつでも確かめて」
「いやもっと単純。おまえは俺だけとラインな」
「えー?カムイくんは?」
「カムイはゆるす。なんだこれ、おれシメる計画!?おれはよびだされておまえのダチにやられちまうわけだ。はいはい。何人でも呼んでこい。勝ち抜きでやってやるぞ。おれは慣れてるよこういうの。身長170越えた時点で、男からのはゼロになりましたけども?」
「全部冗談だよ!マーシー、そういうの、入学のときからあったよね……」
「ラオウにはこねえの。おれには勝てると思ってる。0敗ですけどねぇ」
「カムイもそうだった……カムイくん、すごくひどいこといっぱいあったね……」
「ああ。ひどかったな」


カムイくん、すごく強い子なの知ってるけど、やっぱりそばにいられる間は、あの子のそばにいたい。
そうだな。あいつに教えること山ほどあるから。


小さな体、そして突出した顔立ち。孔雀のような容貌。
そして、飢えた絶滅危惧種の山猫のような迫力に、幼さ。さらに、図抜けた身体能力。どんなスポーツも難なくこなしながら、彼は間違いなく不良の魂を持っていた。

京華中学校に入学した頃から、伊東カムイという少年はひときわ目立っていた。

人形のような顔は今もずっと変わらぬまま、つまり初めから完成していたすがたは、とかく多くの生徒たちの感情を乱した。

真志井と岬、杏の学年は奇跡的に平穏にみちていたけれど、上級生、そしてカムイの学年は、この街らしく、嵐と大波が日常であった。
カムイは真志井同様、当然のごとく不良少年というルートをえらんだ。
その獣道で自らがどんな扱いを受けるか、そんなことすべてわかって歩みをすすみはじめると、すぐにそのけなげなカムイの足を阻む者は次から次へと現れた。中学二年の真志井は、初めは、冷たい瞳で、カムイを台風の目とした不良絵図を見守り続けた。
正々堂々と闘いを挑む者など、ごくわずかだ。
とくに、突出した者、さらには突出した能力と容貌をもち、その能力で不良以外の世界でも目立ち、ましてや痩身で体格が小さいとなれば、そねみ妬みのターゲットとなるのは当然だ。

真志井とカムイの出逢いは、校舎の裏で、カムイが手ひどいリンチを受けていた二年前の春に遡る。

正義感から彼を救ったつもりはないけれど、これ以上黙ってカムイをみつめているのは、真志井とて耐えがたかった。カムイが、たったひとりですべてを引き受けようとするからだ。カムイが、だれにも頼らず、たったひとりで戦い続けようとするからだ。

そのアネモネの花のように濃厚な少年は、理不尽に踏まれてなお、立ち上がろうとしていた。

その姿を見た真志井は惚れた。カムイは、何かを守りたいという気持ちを持った男の子だったからだ。

そして真志井は、こどものけんかを通り越した暴力を浴びていたカムイを救った。虐待に近い方法でカムイを嬲っていた不良少年たちを、真志井はあっけなく蹴散らし、二度とカムイに手を出すなという約束まで取り付けた。守ったつもりはなかった。ただ、好ましい者が傷つくことに、真志井は耐えられなかったのだ。

孔雀の羽がもがれてもなお、救ってくれた真志井をにらみつける勇敢な瞳に、真志井はますます惚れた。そしてカムイも、真志井に惚れたのだ。

カムイという少年は、駆けつけた杏のやわらかい腕の中でばたりと事切れた。

あのとき、寝てる間、ずっといい匂いがしました。
杏せんぱいだったんすね。
あとすげー。やわらけー。

カムイが、真志井と杏とそして岬のつくる温かい時間のなかに慣れたころ、杏と真志井にこっそりとそう打ち明けてくれた。

伊東カムイという男の子はあれからずっと、真志井雄彦と杏のそばにいる。


「……こ、こんなにいちゃいちゃしながらカムイくんを心配しても、説得力がないよね……」
「ああ?何言ってんだ、逃げるな」
「逃げられないよ!逃げる気もないけど。あ、あと、意外と慣れるから」
「じゃこのまま話すか。杏」
「ん?えっ、何、近い」
「杏」
「マーシー?どうしたの」
「ごめんな。おまえだけといるべきだった。おまえだけとキスするべきだった。最初からおまえだけでよかった」
「えっ!!そ、それは、も、もういいよ!もういいの。私がもっと早く、マーシーに好きって言えばよかっただけ。私きょう、マーシーとずっと話しただけで、もう、マーシーからたくさんのものをもらったもん。あ、あとそろそろ延長の時間になるよ」

もういいよマーシー……。それと、慣れたんだけど、そろそろ普通に、すわりたい、かなー……。

だめ。

真志井がいたずらに太ももを突き上げると、杏の痩せた腰がびくりと揺れる。

「んっ……。……マーシーは本当は、くっつくの、すきだね」
「こんなこと知ってるのおまえだけだ」
「誰にも言わないから大丈夫」
「もう出し切ったからな。あとは、おまえにしてやれることして……んでおとなになってくわ。鈴蘭行ったらサングラスかけよ……髪はきらねえ。のばす」
「マーシーはどんなおとなになってくんだろうね。クールで……もっと落ち着いちゃって、多分もっとやさしくなる。だけど、それは外からみえなくなるのかもしれない」
「ま、そのとおりだわ。おまえは、おまえでいいんだぜ?」
「わたしはわたしでしか、いられないから。そういさせてくれて、ありがとう」
「結局おまえを傷つけないことしか、できねえかもなあー」

曖昧にうなずいた杏は、今一度、真志井雄彦の発達した肩にすがり、彼にしがみついた。のんびりとした声で決意をあらたにした真志井は、そんな杏の痩せた体をそっと抱きしめる。

「それができれば上出来かね。それすらできねぇのが現実だろ」
「もうもらってるんだよ。マーシーには充分もらったの。言ったじゃない……」
「おれ選んでくれてありがとな。杏」

ここで抱くのはやめてやる。
スカートの裾にタックインされたブラウスを器用に引き出し、あたたかいからだのなかに、真志井のがさついた手が忍びよる。
や、やめて!
この愛くるしい悲鳴を、その声の裏にある可愛い本音を、これからいくらでも味わえる。
これを奇蹟といわずして、なんといおうか。

予想通り彼女のからだには無駄な肉ひとつない。それは心配になるほどだ。
やっと手に入れた杏のこころと杏のからだ。

喉から手が出るほどほしかったそれを、真志井雄彦は、今一度、感じる。

世界でたったひとりの女の子のことを。

そして、彼女を守る力すら、まだ持たない、真志井雄彦という、己自身のことを。

拍手

前へ戻る | 次へ進む | 表紙へ戻る
- ナノ -