Night and day 6


真志井雄彦は、杏をこよなく愛していた。

聡明さも、優しさも,あどけない勇気も、自分の足で立てる強さも、こよなく愛した。
随分長い時間を性別を超えた親友として過ごした杏の、すんなりと伸びる痩せた足を、こよなく愛していた。杏の鎖骨が浮き出た薄い胸元も好きだった。生まれ持った栗色の髪も、異国の女の子のように、とくべつ際だった彫りの深い顔だちも、成熟することを余儀なくされながらもまだ少年らしい幼さをもてあます真志井が、ずっと愛しつづけたものだった。

そして真志井は、彼女の大きな手を、こよなく愛した。

おまえの指、長いのな。マーシーよりは小さいかなあ。
いつかの夏の日、そんな風に語らいながらどちらともなく広げられた手は、真志井に匹敵するほど大きいなんてことは、やはりなくて、関節一つ分だけ杏のほうが小さかった。

その手は、微かなそよ風が通れる距離で止まった。

ふたりのそばをついて離れない少年は、ほんの数センチの距離を侵せないふたりのことを、真実を見抜く瞳でずっと見つめていた。

長い指をからめあうと、彼女のしなやかな指は真志井雄彦の手の甲の半分までゆうに包み込んでしまうことを、たった今、真志井雄彦は初めて知った。

節と骨がしっかりと張ったこの指を、守りたいだなど、烏滸がましかったやもしれない。

真志井は杏のこの手に、確かに頼っているからだ。

そのとき真志井は、この子に頼り切らず前を向き歩き続けることが真志井にできることだと感じた。


「もっかい言うぜ」


その言葉を聞いた杏の整いきった指にちっぽけで愛くるしい力がこめられる。

真志井の手を覆う分厚く浅黒い皮膚が、白い色に変わる。
古ぼけたソファに身を沈めた杏は、少しだけ切実な色を帯びていた瞳を、今は随分澄んだものに変えている。覚悟の色は滲んでいなくて、ただ真志井の言葉をそのまま慮る杏の姿がそこにいた。

年齢相応の幼い瞳で、杏は彼の言葉を待つ。


「おれは、鈴蘭行くよ」
「うん」
「ラオウと生きる。カムイもついてくると思う」
「うん」


真志井が選ぶ道は、大胆でそしてともすれば絶壁の崖から海へ飛び込むような、そのさきに絶望しか見えぬ道程だ。京華中学の教師たちは、なんだってこんな生徒がこの街に居るのか、そんな風に首をかしげてしまうほど、真志井の知性と老獪さに舌をまきつづけた。

桜の季節、進路票にたった一単語の鈴蘭高校という文字を書いて教卓に置けば、真志井に理解の深い担任教師の平凡な顔だちすら、曇った。
この学校で過ごすにあたって随分まわりに恵まれた自覚はあれど、それでも気色ばんだ大人たちと真志井はそれほど相性がいいとはいえず、生活指導や進路指導の教師に呼ばれては、県下一の公立男子校への志望校変更を提案された。真志井はのらりくらりとした態度ですべてをかわした。

学校全体で事情を理解し、施せる範囲の気遣いを行いつづける、あの岬が大きな少年がおおかた真志井に影響を与えているのだろう。教師たちのそんな予測も、真志井は知っている。岬麻理央にだけは余計なことを言ってくれるな。真志井がそう大人相手にすごむまえに、いつも真志井に理解をしめしてくれる担任が、やんわりと、それが理由ではないからとたしなめていた。

その全てが嘘で、全てが本当だ。真志井がゆく道は誰のせいでもない。
そして誰より、ラオウという男を愛しているせいだ。

杏が進路指導の教師たちに捕まっていたのも知っている。
杏が、教師たちに、おまえから真志井に言ってやってくれないかとたよられていたことを、真志井は知っていた。

杏が、「真志井くんが決めることなので」と教師たちに伝えて、菖蒲の花のように凜とした姿勢で断ったこともまた真志井は知っている。


「このまま、この道を行くから」


杏が、いささか神妙にすぎる調子で、しずかにうなずく。

一転、真志井の声が曖昧な語気にかわった。

続けて。

そんな言葉をこめた熱で、杏は、手をぎゅっと握りしめる。
さっぱりと涼しい風が吹くような間柄に反して、ふたりの手は熱を持ちやすかった。杏のしなやかな指から、真志井の分厚いてのひらから、雨のような汗がにじみだしても、杏と真志井はもう、かまわなかった。


「でさ」
「うん」
「今までも、いろいろあっただろ。けど中坊レベルだよ」
「……あれで、そうなんだね……」
「そうだよ。中坊レベルだ。おまえにも迷惑かけたな。怖いおもいもさせたし巻き込んだこともあったな」
「二年くらいまでだよ、私のことは気にしないで」


杏の穏やかにすぎる声は、真志井の心の奥に少しの炎を宿した。

杏を掴んだ手が、やにわに強くなる。

杏は勇気をふりしぼって、その手を握り返した。


「気にしねぇのは、無理なんだよ」
「……。私、知ったようなこと言っちゃったね……ごめんなさい」
「いいんだ。だからこれからは違うぞ。またなんかあったとき、おれがおまえのまえでさ、どうなるか、もうわかんねえ」
「……」
「責任もてねえことはまだいえねー」
「…マーシーらしいって、そういうところ、だよ」


真志井がいたずらめかした手つきで、杏とからめあった指を幾度か動かす。
杏の小さな骨に触れてそれはどこか心地いい。
そして、杏のそんな指摘に、真志井は太い首をかしげてみせる。


「けどー、ま理想論だけどよ」


言葉を漏らすことなく、杏はしずかにうなずいた。


「おまえのまえで、ケンカしたくねえと思う」


自宅に帰宅した真志井が、自分でケアを施した白いシャツを中学生離れした精悍な体から剥ぎ取れば、脇腹に大きなあざ、そして背中に、虫がはうような痕がまだ残っているはずだ。擦り傷はシャワーをあびればしばらくのあいだ痛み続けた。こどものケンカは、大人よりたちがわるい。善悪の区別のつくおとなより、ものごとのよしあしの判断する力をもたぬこどもの残す傷は後味が悪いものばかりだ。真志井のシャツの下のケガのことも熟知する杏は、聡明な瞳を静かに伏せた。

うん、とも、そんなことないとも言えず、ただ真志井の手を握りしめたまま、真志井の恋人の澄みきった瞳に夜が訪れる。


すると、真志井の分厚い心が、やにわに、鋭利なもので貫かれたようにいたむ。

たとえばこれはサバイバルナイフではなくて、もっとほそく、するどい凶器だ。中学一年生からくり返してきたケンカで、そんなものによる痛みを味わうこともあった。その痛みを杏に見抜かれたこともあれば、彼女に手当をほどこされたこともあれば、彼女の鋭い瞳をなんとかごまかしきれたことだってある。

分厚い心を、何かがえぐってやまない。

これまでの真志井に、存在しなかった痛みだ。

これからもこうして、ぬくもりを伝えてくれる少女が傷つき、凪いだ海のような瞳に嵐の予感がおとずれるたび、己にこれほどの痛みが訪れるのか。

それが誰かを愛するということか。杏と愛し合うということか。


「りそうな」


自らの中にねむっていた愛に気づいてしまえば、こうして重ね続ける言葉がまるでみぐるしい言い訳に聞こえてやまない。

聡明な杏の瞳が、真志井をえぐってやまない。

勉強に限らず、古い映画に最先端の映画、そして母親の蔵書に、死んだ父親が残した本。
一定を下回る年収世帯に区から無料で配られる書物に、街の小さな図書館に、そしてテレビから流れてくるドキュメンタリーや外国のドラマに、そして、スマートフォンで楽しめる、世界中の音楽に。
真志井はあらゆる場所から知識をかき集めて、あますところなく飲み干した。
そして今の真志井雄彦ができあがった。

積み重ねてきたあらゆるものを駆使して、真志井は今、言葉を慎重にさがしている。

当の杏は、真志井におこる葛藤を知ってか知らずか、真志井のことを信じ切ったままだ。

ただ只管に、恋人として杏を選んでくれた男の子の、整いきった横顔をみつめる。


「おまえを、……おまえ、を……」


選び抜いたつもりの言葉は喉元で消え失せて、一転真志井の語気はシンプルに、そして性急なトーンにかわった。

なにより、渾身の一言は伝えられない。


おまえを守りたいと思う。
守りたい。

そんな言葉が出てこない真志井の大きな手を、杏はやわらかな力をこめてぎゅっと握った。

大丈夫だよ。わかってるから。杏の手に帯びたやさしい熱は、真志井には、彼女のそんな心持ちのように思えた。


「おまえを巻き込みたくない」


矢継ぎ早に声をかさねたとき、杏はようやく、真志井が負っている痛みを悟った。


気づくのが少し遅かったかもしれない。

マーシー。そう呟いた杏の喉に、彼の名をよぶこえが引っかかった。


「おまえに何かあったら」
「マーシー、大丈夫。いいよ」
「おまえをきずつけたくないんだよ」


いつもたったひとりで傷ついて、たったひとりでその傷を治してきた真志井を、こんなにそばにいるのに、杏は、ひとりぼっちにさせていた。

真志井と寄り添うとは一体如何なることであるか。
それは、彼をいつだってひとりにしないことだ。
一人で生きる時間を守り、二人で生きる時間をあじわい、それでもこの一人で頑張ってしまう男の子を、たったひとりにさせないことだ。

杏がただ心を浮き立たせているばかりでは、真志井が自ら引き受けてみせる、おそろしいほどの痛みに気づかない。

それほどこの少年は、巧みだ。

そして、悲しい。

そして、愛おしい。真志井雄彦は、杏の大好きな男の子だ。


「おまえに怖いおもいさせたくねえの」
「マーシー、私、」
「怖いめにあわせたくねえんだ」
「うん、ありがとう。あの」
「おれはなんでもするとおもう」


杏のやわらかな心もまた、鋭利な凶器でえぐられてしまったようだ。

また真志井を一人で頑張らせてしまった。

そばにいるのに何もできない。

彼の友人としてずっと同じ時間を過ごして、杏の抱いていたもどかしさは、この一点において、ずっと消えることなく存在してきた。


「ろくでもねえぞおれは」


真志井のそばにいるなら、杏は、杏自身とも、そして真志井のつよさとも戦わねばならないのだ。

真志井の弱さではない。

彼が自ら育て続けた。その強さだ。

道は遠い。

真志井の手をぎゅっと握りしめながら、杏はただ、これから歩む道の果てしなさを思った。


「だせえとこみせるだろうな、おまえに」
「マーシーが言うださいって何?私には、そこがよく見えない」
「そのときがきたらわかるとおもうぜ」
「…私には、マーシーが選ぶことが、ださいなんて思えないんだけど」
「おまえ、ずっとそうやって言ってくれたよなあ。そーいってくれて助かるんだけどさ、それじゃ解決できねえこともあるかもしれねえのよ」
「……そうだね……。私まだ、全然わかってなかった」
「いや、わかってる。だからさ、」


真志井が、やおら、杏を掴んでいた手を強く引く。

杏の痩せた体はあっけなく真志井の思い通りになり、骨張った細い肢体がふたたび、真志井の分厚い胸にぶつかった。


「きたねえとこも、おまえにみせるぞ」


その声をきき、杏が息を呑む。

そして杏が、切羽詰まったようにうったえた。
まるで先ほどと逆だ。
こらえ続けてきた想いを真志井につたえた杏と、役割が変わっている。

そばにいるとはこういうことなのだ。

杏はそんなことを悟る。


「マーシーもういい、もういいよ。マーシーが今どんな気持ちか、気づくの遅くてごめん」
「杏。おれさあ、おまえのそういうところがすげぇすき。も、ずっと、おまえが、ずっと、すきだった」
「あ、ありがとう……。私もずっとマーシーがすきだったよ……。あのねマーシー、いま、マーシーは、絶対なんて、ひとつもいわなかったでしょ?」
「そうだよ。すげえ言葉選んだぞ?おれアタマで考えんのと言葉いっしょに出てくるからな。おまえのまえだけだよ、こんなの」
「私はマーシーほど頭よくないから、いう」


覚悟、きめた。

杏がそう呟く。

こうしていつもこの女の子は、痩せた体で、しなやかな足で、真志井のさきをゆく。

だから真志井は彼女を愛した。
彼女のことがずっとすきだった。


「私は、絶対に、何があっても、マーシーのそばにいる」


真志井が言葉にできないことをあっさりと言葉に変えてしまう杏を、真志井はようやく、確かに傍に置くことがかなった。そう実感した真志井が、一度しずかに、切れ長の瞳をとじた。


「マーシーに迷惑かけないから……岬くんにも、迷惑かけないから……マーシーが何をやったって、大丈夫だし、もう私、覚悟できてる。絶対にマーシーを好きなのやめない。だか
ら、そばにいさせて」
「さっそくださかったなおれ」
「えっ、ださいの私だよ。マーシーがこんなにすぐそばで、苦しんでるのに、すぐに気づけなかった。それに無責任なことばっか言ったし……。だって、マーシーが言葉にできないって、すごく、大事なことを言おうとしてるじゃない。マーシーが言葉で表現できないって、よっぽどじゃない。だけど私は、あさはかなことを言っちゃった。だから、マーシーは全然、そんなことないんだよ」


杏、おまえすげえんだから。

そゆーふーにおればっかあげててめぇさげるよーなこというな。

すげえんだから。

真志井はいつもこうして、杏を勇気づけてくれるのに、そんな自分は。

自分をそう責めた杏は、豊かな心が溢れる瞳を伏せて、真志井の胸に額をあずけて、少しだけうなずいた。そしてちっぽけな声で、ありがとうとつぶやいた。

なにせ、そんなはずはないのだ。
少しでも歩みをとめてしまえば、真志井において行かれることなど、杏はわかっている。
それがわかっていたから踏み出せなかったのだと杏は思う。

真志井から逃げてしまえば、真志井を失うかわりに、自分自身のことは、どうにか掴んでいられる。

それがどれほどおろかだっただろう。
そんな現実が今ならわかる。
こんな愚かな自分のままで、彼のそばにいられるのだろうか。
だけれど、そばにいると決めたのだ。
本当に、杏自身が、始まるのだ。


「やべ」
「ん?」
「言葉がでてこねーわ」
「それは、言葉がないって意味で言ってるの?それとも……何かを、今も、さがしてる?」


おまえを絶対に守る。


その言葉が、のろいにかかったように出てこない。


かろうじてしぼりだせた声は、真志井のあゆんできた道でもっとも、脆弱で、自信に欠けていて、そして。


「おれでいいのか」
「マーシーだけがすき」


ただ、弱く、ただ、やさしかった。

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