Night and day 5


「こっちにするか」
「わ……」
「おまえはこっちのほうがほしそうだ」
「……どうしてなんでもわかってくれるの……」
「おまえだけをずっと見てきたからだよ」


大きな手をしっとりとつつんでいた汗はやがて乾ききったけれど、マラケシュの街の香りとともにつよくかおる、真志井の広い胸のなかは、熱をおびたままだった。
清潔なシャツは、真志井が自身の手でケアを行っている。たとえば、世界の深いところまで届く音楽をこよなく愛するわりに、教育課程の音楽は苦手とし、楽譜もよめなければ楽器もできない真志井だけれど、家庭科の成績は当たり前のように優れている。母子家庭育ちゆえだ。幼い頃に父を亡くした彼は、自分自身の手で自分と大切な人々をケアする力を、とうの昔に備えている。そして杏もよく似た環境に育った。杏も真志井と同じ力を持っていた。それが二人を強く結びつけた一因ともいえるだろう。そしてその力をお互いに施すことをゆるされ、ふたりはとうの昔から、お互いに与え合っていた。

真志井の冷え切った手が、まだ夏に届かない制服を着ている杏の背中に添えられた。
いつだって彼女の薄い背中のそばの、ほんの数ミリで止まっていた手は、今ついに杏の元にたどり着いた。

大きな手に呼びよせられるまま、杏は真志井の大きな胸のなかへみちびかれる。
強い香りに、杏のことをおもうゆえうまれた湿度と、熱。

真志井の広い腕のなかへおさまった杏もまた、彼の背中をさがした。
恋人となった少年の背中を求めて、杏は分厚い肩にただぎゅっと、しがみつく。その様がこどもじみてはいないか、こころのままに真志井を求めてもかまわないのか、確信を真志井からもらったはずなのにまだそれを掴みきれない杏は、まだ揺れ続ける杏のしなやかな芯をふりしぼって、真志井の体を抱いた。そのとき杏は思った。抱かれるだけじゃなくて、彼をこうして、いだき続けたいと思った。

杏が、熱をおびたため息をつく。
そして真志井の胸のなかで聡明な瞳をとじたとき。

真志井のがさついたくちびるから、どこか呆けたような声がもれた。


「やっとおまえに、こういうことできたわ」


杏が、骨張ったからだを痩せた猫のように縮めてみると、真志井はそんな彼女の切ない肢体をますますかき抱く。
切れ長の瞳をぎゅっととじた杏はぱちりとひらいてみたり、そしてまた閉じてみたり、肩口に這い上がりたいけれど胸のなかにとじこめられたまま、一つ大きく呼吸をこころみた。これから育ち行く小さなこころは、ぎゅっとしめつけられども、やっぱり真志井に愛されることをとびきり素直に慶ぶ。そしてまた、まだ何もしらない杏の小さなこころはすくみ上がる。真志井が愛してくれるほど、真志井にずっと愛されていたことをしるほど、杏の育て続けた芯はとろけそうに変わる。
ずっとこうされたかった。ずっとこうしたかった。それは杏もおなじのぞみだった。おなじことを願っていたのだ。


「…こんな気持ちに、なるんだ……」
「ああ、おれもそう思ってる」
「マーシーも、私にこうされたかった……?」
「そうだよ。言っただろ」
「……こんなに、あったかいんだ……」
「やべ」
「ん?」
「加減わかんねえわ」
「加減?大丈夫だよ。マーシー、ちゃんとわかってやってくれてる」


これくれぇでも大丈夫か。
真志井が、三年間で随分育った膂力で、杏をますます掻き抱く。

それはどこまでいっても杏がどうしたって求めていたものであった。

真志井に壊されたっていい。彼に何をされてもいい。
そんな杏の本心はまだ、ちっぽけなこころの奥に隠れたままだ。


「なあ杏、おれはこういう道いくけど」
「うん」
「鈴蘭に行く。どういうことか分かるな。おまえがそばにいても、それはかわんねえ」
「私は、そういうマーシーを好きになったよ」


真志井はこの宣言を、異国の少女のように整った恋人の顔を見て伝えたいけれど、今はまだこのまま腕にやどる力で彼女を抱くばかりだ。


「なあ、ここだけはさあ、考えても答えがでねえんだ」
「……マーシー、あのね、いっしょに考えていこうよ…って、付き合うまえの私だったら言ってたかもしれないんだけど」
「今は言ってくんねぇの?」
「…私は、多分、マーシーよりながく、マーシーのことだけ見てきたとおもうんだけど」
「いやほとんどいっしょだとおもうぜ?おれがさきっつーか、多分同じ」
「いつからなのか、あとでおしえてね……。マーシーは、私のほしいものと、してほしいことがわかるのに、私は自信がないの」


真志井の大きな手は、あっけなく汗が滲み始めている。
真志井の胸のなかにとじこめられているおかげで杏の声がくぐもってい
る。あまりに薄い彼女の背中を、真志井の大きな手が何度か軽く叩く。

ずっと彼女にこうしたいと思っていた。
自分自身より誰かを想って壊れそうになる彼女の頼りない背中や、竦むはらわたや震える細い足をこらえてそれでも真志井のそばにいようと立つ彼女の背中を、幾度こうしたくて、そして幾度諦めてきたことか。


「おれもわかってねえぞ。おれがしたいときとおまえがしたいときが偶々一致してるだけだよな、これ」
「私は、そうじゃなくても、だいじょうぶ。でも逆はこわくて」
「こぇーの?」
「こわいよ。私の気持ちと、マーシーの気持ちが、いっしょじゃなかったら……。私が勝手にやったことで、それでマーシーを傷つけるのが、一番こわい
よ」
「あ、そっちのこわいね……あっちかと思ったわ」


わかった。

そうひとりごちた真志井が、深い声で彼女を呼んだ。


「杏」


ねむりにおちることのできないちいさな子の背中を叩くかのように何度も彼女をたしなめていた真志井の手は、いつしか、そげたように痩せていてだけれど誰より強くて賢い背中を何度も撫でている。背中を何度も上下するその手に頼り切った杏は、みずからの名前が真志井によばれ、その意味が深く変わってゆくことを、ただ感じつづける。


「おまえがこわいものは、それか」
「…今思いつくのは、それ」
「おれは、おまえも」
「うん」
「ラオウも」
「うん」
「カムイも」
「全部大事だ」
「マーシーはずっとそうだよ」


こんなのいちいち言ったことねえんだけどな。

真志井がそう呟くと、古ぼけたソファに座ったままの杏が、痩身をよじって、真志井をみあげる。

ん?と小さく漏らした真志井が、杏のことを愛しく見下ろした。こうして見下ろすと、同級生のなかでひときわ大人びたうつくしさを誇る杏も、ぐっと幼く変わる。ずっと傍にいた子の、正直で、そして真の姿だ。

そして真志井が漏らした小さな声は、杏が今まで味わったことのない色をしていて、その声を聴けるのは杏だけとわかってしまうと、杏の小麦色の肌が少しだけくれないに染まる。

それにしたって、真志井がここを選んだ理由がいまとなってはよくわかる。こうして深く寄り添うには、今のふたりにはここしか選ぶ場所がわからない。
二人がこの場所を選ぶのは、世界もまだ狭ければ自分を自由に生かすための力もないことが理由だが、何せ真志井の家は隣近所に声が筒抜けだからだ。真志井、そしてカムイは、杏の家を好きに利用することを注意深く避けてきた。こうして欲しかったものを手にしたふたりの居場所は、次はどこになることだろう。


「じゃあ、ちゃんと言葉にする?」
「そうしたほうが幸せになれる気がするわ」
「私もそう思う」
「全部守るんだよ、おれは」
「……マーシー、」
「おまえも。ラオウも。カムイも」
「ん……じゃあ、私も…、言葉にするね」


杏、ちょっとだけ。
うん。

やはり、二人が選ぶものは同じだったようで、真志井は杏をしっかりととらえていた腕をそっとほどいた。
杏も、大きな胸のなかから、一度離れる。

こいつだけさせて。
そう杏に甘えた真志井がとった選択はやはり、杏の望んだものであった。

汗ばみつづけている杏の手と、真志井の大きな手が、そっとからめられる。

痩せ細った杏の手首を思うままに捉える真志井のあの強さも杏はのぞむものだけれど、こうして手をとって指をからめ、ぎゅっと手を重ね合うことがゆるされた。

その現実はただ杏を救い続ける。

そして、真志井のことも、救い続ける。


「全部ひとりで背負わなくていいよ、マーシー」

私、マーシーのために、何ができるかなあ……。
杏がそんな言葉を、すこしだけのんびりとした語気で続けようとしたとき。



「こいつは話しときてえんだけど」

杏の艶やかな指も整った手も、実にすんなりと育った。めぐまれた骨格やめぐまれた背丈と同様に、杏の手はしなやかな大きさを誇る。真志井の手には劣れども、少女離れした大人びた様を誇る。

彼女の頼れる手に、ごつごつとした指を絡めた真志井が、汗ばんだ手を握りしめ離さぬまま、絞り出すように語り始めた。


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