Night and day 4


「杏、こいつ」
「あっグラス。ありがとう」
「でさあ」
「何?」
「おまえは恋愛と勉強の両立ができるタイプ?」


清潔とはいえぬグラスをとりあげた真志井雄彦は、ドリンクバーのボタンを迷いなく押した。注ぎ口にセットしたグラスに、飴色の液体が注がれてゆく。冷たいアイスコーヒーだ。この遊興施設は、ビルや機器の古さに反してドリンクバー周りは充実している。選び放題の機械のなかから、真志井は迷わずコーヒーをえらんだ。

そして、真志井は、あっさりとした語気でそんなことを告げながら、そばに寄り添う少女を見下ろした。そばにいるのは勿論、先ほど真志井の恋人となった女の子だ。

真志井の恋人、杏は、今までもこれからも、この瞬間もかわらず真志井のそばにいる。

真志井の浅黒い腕にそっと触れるか、触れないか。真志井はいつも、ほんの数十分前まで親友であった杏がいつもそっと取ってくれるこの距離が心地よく、愛おしかった。

お互いのそばにいることをゆるしあってから経った時間はほんの数十分だけれど、どうしたものか、彼女が選ぶ距離はさして変わっていない。

真志井は、いたずらめかして、大きな体を彼女へ触れさせ、軽く重心をかけた。

少し驚いた杏が、背の高い恋人を見上げた。
重いよとぼやいた彼女は、枝のような体をすくめてそれでも真志井の質量を受け止めてみせる。
マーシー、くっつきたいの?そう尋ねる彼女の凜とした目元が、真志井の知る限り最も大人びたようすでほころんだ。
汗と香水の混ざり合った匂いをまとう真志井が、杏の痩せた肩をつよく抱く。
グラスをとりあげたままの彼女が真志井の腕におとなしく抱かれながら問いかける。


「えっ、マーシー、人前でくっつきたいタイプ……!?そうじゃないのかなって思ってた。人前じゃないけどね今は。誰も居ないし」
「かどーか、確かめてんだよ」
「私はどっちもすきだな、くっつくのも、そうじゃないのも。多分マーシー側で、答えが出てる?」
「よくわかるなあ、おまえ」
「そ、それは、私はマーシーがずっとすきだったからね……。だから、これは、マーシーのしたいようにして。あ、あの、マーシー、香水ずっと残るタイプだね、私とびやすいみたいで。あ、そ、それと……」
「何?」

真志井に比べて選択に時間をかける彼女は、グラスを両手で抱えたまま、恋人となったばかりの少年をちらりと見上げた。これから三年をかけて重い影を目元に育てることのなる少年は、この頃はまだ、幼い瞳を誇っていた。陰影の深い杏のきれながの目元に深い思慮が顕れている。杏はただ、真志井のぬくもりが与えてくれるものへ感謝を述べた。

「……いろいろあったから、こうやって、してくれてる……?」
「…それだけじゃないけどな。おれ、おまえのこと傷つけたたろ」
「き、きずついてないよ……。私も、マーシーを傷つけたと思う」
「いやおれだろ」
「わ、私……も……ごめん……。私ね、マーシーのそばにいていいってだけで贅沢だと思うの。なのに、こうしてくれてありがとう。マーシーに、こうされるの、すき」


わ、私も何か!マーシーに、できることあるかな!
空っぽのグラスを抱えたままの杏が、真志井の腕のなかでくるりと彼へ向き直り、先に成長してゆく体躯をみあげて性急につげた。
ある。飲むやつえらべ。
色とりどりの機械をゆびさした真志井が冷静な指摘をする。
すると素直に肩を落とした杏が、小さくうなずいた。
杏の聡明さも優しさも、ときに痛々しいほどの利他の心根も真志井はよく知っていたけれど、彼女の弾むような自由さもまた真志井のそばでのびのびと育てばいい。真志井は己をさしおいて、そんなことを抱く。


「それで、さっきの質問のこたえ。今まで、れんあいと勉強を両立してきた気がするんだけど……マーシーと私の今までって、れんあいなのかな?」
「そうだなあ……両想い……両想い!?両想いとか初めてリアルでゆったわ。まんがかよ…」
「そういうことだよね……?」
「杏どの辺からだったんだ」
「そんな恥ずかしいこと聞くー??マーシーぜんぶ見抜いてるくせに……」
「おれから教えようか?」
「今はいい!あとで!!」

もーこいつにしろよ。いい加減に指さしたそれはとびきり甘いカフェラテの機械だ。
真志井や杏はそれを避けて、ラオウやカムイはそれを好む。
カムイじゃないんだからと呆れた杏が、ようやく決断をくだす。慎重な性分の彼女が選ぶのは、定番の炭酸飲料だ。それを見届けた真志井が、無料のスナックをスコップですくい上げるように器へ盛った。


「で、勉強と恋愛なんだけど……。今までは出来たつもりだったんだけど、私ね、マーシーに彼女出来たってきいたときの動揺が、じつはひどかったんだよね……。お母さんに、そんなやつは社会人になってもいい仕事できないとか怒られて!」
「今のおまえとおとなになったおまえはちがうだろ…?相変わらず厳しいねおまえのおかあさんは」
「うーん、でも当たってると思う。こういうのをいい方に持って行きたいって思ってるんだけど、やってみないとわかんないかも…これからの自分がどうなるか、まだ見えないんだ」
「その動揺は恋愛のせいじゃねえぞ、おまえのせいでもない。おれのせいだ。もうそんな思いさせないようにするから。けどおれはもしかすっとできねえタイプかもしれねえわ」
「マーシーが!?だけど私、マーシーのせいにしたりしないよ。私がそんなこと言い出したら……」


私なんか捨てて。
マーシーは、しあわせになって。

気泡がたっぷりとふくまれる飲料を生真面目に抱えた杏が、炭酸の泡のようにこころのなかから湧き上がってきたそんな言葉を、ぐっと飲み込む。

おまえはだれかのせいになんかしないよ。

言葉に詰まった杏へ、そう伝えた真志井が、くるりときびすをかえしてすたすたと歩き出す。
そして杏はそのあまりにも大きな背中をあわてて追いかける。


「マーシーと付き合って、悪いほうにいったりしないようにがんばる」
「おまえが?悪い方に?ないない。ねえよ。おれは元から歩いてる道が狂ってるからな」
「そうやって信じてくれてありがとう……。マーシー、そんなことないよ」
「それとだ。おれらが付き合っても、このままカムイと遊ぶだろ?」
「私は、マーシーとカムイくんと私、ずっと三人でいたい。カムイは嫌かな?カムイくんの気持ちが一番大事だと思う」
「じゃ、カムイの意志を尊重か」
「そうしたい!」

真志井が重い扉を押して彼女をうながす。
杏は真志井の精悍な腕を身をかがめてくぐり、杏は部屋の中へ舞い戻る。扉をいい加減な手つきで閉ざす恋人を振り返った杏が、そういえばマーシー、みんなにイエモン歌うって思われてるよねと明朗な声で伝えた。おれイエモン好き説いつになったら消えてくれんの。年上彼女説はこれで消えたからな。そっちもどうにかなんねーかなあ。うんざりといった語気でそんなことを吐き捨てた真志井は、スナックとアイスコーヒーを乱雑な仕草で置いた真志井が、杏と、彼女の名を呼んだ。そのそばに、そっとグラスをおいた杏が、何?と尋ねてみせる。片腕をソファにそわせた真志井がただ、彼女のことをそばへ呼びたかったようだ。


「連絡は、どうする……?今はしたいときにしてるよね」
「おれは今まで通りがいいんだけど。おまえも充分じゃねえの?」
「私はー、どうかわるかなあ……。今のところ、私もそういう感じ」
「気が変わったら言え。すりあわせてこうぜ」
「言うね。ありがと。あと、勉強もなんだけど、それだけじゃなくて、ひとりの時間は……あったほうがいい、よね」
「オマエがそういうタイプだからな。おまえがひとりでいてえときは、」
「マーシーもいたいとき。ちょっと思うんだけど、それは今まで偶々そうだっただけな気もする……」
「んじゃおまえがひとりでいてえときにおれがどーしても会いてえときは、話し合うっつーのは」
「そうする。ていうか大丈夫な気がする、今までのままで」

これ何?前来たとき、あった?空気を孕んだようなスナックをつまんだ杏が、かたちのいいくちびるに放り込む。そして炭酸が隅々までゆきわたったドライなドリンクを味わうと、彼女のとろけそうなこころに、心地よい緊張感が生まれた。

「あっ岩井俊二は苦手なままでいいから」
「おまえさあ、あれの最新作観たか?くっっっっそきもかったぞ」
「観に行ったんだね、マーシー……私も花とアリスまでが好きなんだ。それ以降は……いまいち。あれ気持ち悪いって言ってくれるマーシーでよかったよ…。あんなワンピース着る子いないし、あのいぬとか、何ってかんじ」
「な、だよなあ。それとおまえもしらねー音楽無理してきかなくていいから」
「マーシーのきく音楽、大人っぽい……だけどかっこいい。マーシー、私と付き合っても、私にかまわずに好きなことしてね。ライブも、イベントも……仲間のこと、だって……。って私に言われなくてもするよね?」
「そうするよ。おまえもやりたいこと後悔しねーよーにやれ」


グラスを両手で抱えた杏は、素直にうなずきながら、真志井の言葉を受け止めた。
一方で、ドリンクもスナックもそのままにした真志井の指は、ソファを這い、杏の肩のそばまでたどり着くけど、そこでとまったままだ。


「じゃあ、もしもだよ。オマエがあのレベルのガッコいって」
「いかないよ、明和女子が第一志望。先生たちにいわれても受けない。誰かに言われて受けるなんて変」
「いきゃいいのに。ここじゃできねえ経験できるかもしんねぇし、格が違う連中に会えるとおもうぜ」
「私は、ここで勉強しなきゃいけないことがいっぱいあるから」
「おれは」
「鈴蘭だよね」
「ああ」
「彼処もうけて、あの高校もうけて。マーシーはきっと全部合格する。それで、鈴蘭以外全部けっちゃうんだよね」
「ああ。俺が行くべき道が見えるわ。おまえがそうやって言ってくれるからな」
「言わなくてもマーシーは、ちゃんと見えてるよ」
「そーか。じゃ、別のガッコ行っても」
「そうなんだよね、そこはそんなにかわんない気がするんだ」

決めたこと、整理したほうがいい?
iPhoneにメモしとくか。
パートナーシップを築き、真志井と杏が二人でどう成長してゆきたいか。どちらともなく語らい始めた話し合いは、ここまで速やかにすすむ。

そこで、古い型のiPhoneを取り出した真志井が、その海のようなこころのなかに漂っていた、とある事実を思い出す。


「そうだ、おまえやっぱ嫉妬しねータイプだよな。そもそもこの三年オマエが誰かんこと悪く言ってんのみたことねえしな。おれはさっきも言ったけどふつーに…」
「ま、まって」


テーブルにドリンクを置いた杏が、おそるおそる呟く。

ソファを這いながら、杏の体を侵すことのなかった指先が、清潔なブラウスごしに、華奢な肩にそっと触れた。


「そこは、そ、そうじゃない……」

真志井の黒髪を結っていたゴムが、彼の髪を解放した。
ほどけた髪をかきあげた真志井が、ゴムを手首にはめる。
そして、しぼりだすように語り始めた杏の顔に、自らの整った顔をそっと寄せる。


「私、さっきの話でへーきだとかいってたけど、全然、へーきじゃない」


嘘ついた、ごめんなさい。

そう呟いた杏が、プリーツスカートをぎゅっと握りしめる。
うつむいてしまった杏の髪もやがて崩れ落ちはじめて、器用にセットされたブラウンヘアが乱れると杏の異国の少女のような顔立ちは、幼さが際立ち始めた。


「私、嫉妬、する・・…」


しなやかな背筋をいつも凜と伸ばして、真志井のことを想い、未熟な後輩の少年のことを想い、自らよりだれかを優先し、それでいて自分自身を幸せにする能力にも事欠かない。すくなくとも、真志井の賢明な瞳にうつっていた杏は、そんな少女だった。
そばにいることをゆるしあって、杏は少しずつ、たったひとりの少女であることを真志井に打ち明け始める。

その小さな声は、真志井の分厚いこころの扉をそっと叩いているようだ。



「全然へいきじゃない……。誰のことも悪く言わないっていったけど、そんなことない。私ずっと、マーシーは私のことだけみててほしいって思ってた」
「おまえのことだけみてるけど?それにおまえが誰かの悪口とかいってるのみたことねえぞ」
「岩井俊二の悪口言ったよ、さっき。あ、あと私が思ってることは、もっとわがままなの。もっとひどいの……」
「おれも杏に近づく男全員なぐりてーとか思ってんだけど」
「別にもうだれも近づいてなくない!?マーシーがいつも、近くにいるし……って、あ、あれ、そういうこと…?」
「そういうことだよ。全部消した」
「け、消したって……。私本当に、ひどい子なの。いい子じゃないの。マーシーが告白されてるのみたら、いつも悲しくなったし、マーシーが幸せになることがだいじなのに自分のことばっか…」


んー、さっきゆったの撤回か?毎日すげーラインすりゃいい?それでおまえの不安、なおるか?杏の肩を抱いた真志井がそんなことを提案すると、杏があわてて白鳥のような首を振った。
そういうことじゃないの!!ちがうの、ただ……。
力ない声で呟いた杏が、言葉を続けた。


「私のなかに、そういう汚い部分があるってこと、知ってほしかったの」
「あのなあ、おまえが汚かったら俺とかこっちの世界の連中とかどうなるんだよ」
「そういうことじゃなくて……」
「ああ。おまえも」


うん。

真志井の聡明な声の続きをまった杏が、抱き寄せてくれる腕に素直にあまえたまま、真志井の胸を借りる。


「ふつうの女子ってことか?」
「そう!!それ!それなんだ……私、ただの…ふつうの、ふつうなの……」
「けどなあ、おれはカムイとおまえが一緒に居るの見ても嫉妬しねえぞ。ま、今はな。これからどうなるかわかんねぇけど。いやおれカムイにキレたくねえぞ……」
「うん。私このまえ、カムイくんと一晩いっしょに私ん家で遊んだ。ただ漫画読んでただけ……途中でそれぞれ寝ちゃったし」
「ああ、そうだったな。なんっともおもわねえわ。ラオウもだ」
「お互い、みんなの内面まで知ってるからかな?私もそうなの、マーシー倒すってラインしてきたあのこたち」
「マーシーしね、な」
「そうだった、しねっていったらだめだよって言うね……」
「もうしねっていわれねえだろ。付き合ったんだから」
「そうだね!私も、あのこたちとマーシー、ほらこのまえも、マーシーが混ざってみんなで遊んでたでしょ、全然嫉妬しなかった。私は模試でそこにいなかったけど、みんなが楽しくて良かったって思った。友達だからかなー」
「たかられたけどな全員に。んでさっさとマーシーは杏に告れっつって脅迫されました。おれと杏のペースがあんだからほっとけっつったら蹴られました。いてえよ。だからもうおまえの友達とはあそびません。たかられて蹴られて痛い。すげー痛い」
「……。な、何から何まで、ごめんなさい…全然知らなかった……」


マーシーずっと、私のペースを、尊重してくれてたの?

最後失敗したけどな。

失敗なんかじゃ……。マーシーは悪くない。私が招いたことだよ。

どうしてそうなる。そうじゃないだろ。

真志井は、そうつぶやきながら、少し乱れたブラウンヘア越しの耳もとに、そっと指をそえる。

とがった顎をひいた杏が、静かに瞳を伏せて、素直にうなずいた。

真志井の胸と真志井の指にすべてを委ねて、呼吸はやがて穏やかに変わる。



「けど、不思議だね……こうやって話してたら少し整理できた気がする……」
「おれは、おとなでいられねえかもしんねえから」
「おとな……」
「カムイとラオウはいいや。どうも思わねえからよ。杏。あとは、俺だけ見ててくれ」
「そうするにきまってる。私も、マーシーを困らせたりするようなこと、言わない。マーシーに迷惑かけちゃうようなこと、しないし、言わないから……」


杏のブラウンの髪に触れていた真志井の大きな手は、やがて杏のしっとりとした頬に添えられた。


「私のことだけ、すきでいてほしい」
「おれもそうするに決まってるだろ?」

真志井の大きな手は、杏の両頬をつつんだ。汗はひいて冷たい温度に変わる。



"あのひととも、こういうこと、したの。"

その言葉を我慢したとき。

途端、杏のちっぽけな心が悲鳴をあげた。

真志井雄彦のそばにいるということは、この痛みとたったひとりで戦い続けることだ。

この痛みで、この少年を傷つけることだけは、ゆるされぬことだ。

そんなことが起こったとき、杏はもう二度と、このひとのそばにいられない。

ふせられたままの聡明な瞳をぎゅっととじたとき、汗が乾いて冷えた大きな手が、杏の頬からゆっくりと離れた。

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