Night and day 3


「あーあ、もう……どうしよ、マーシー」
「なんだよ」
「楽しい……」
「ああ、おれも楽しいよ、おまえといると」


真志井雄彦の語気はどこかいい加減で、そして静穏だ。
杏の物言いは、まるで自らの有様に呆れているようだ。
二人になじみきったムードと語り口の手触りは今日も穏やかなままだ。
学生ズボンにつつまれたおそろしく長い足を投げ出し、使い古したスニーカーのまま前方のテーブルにこれみよがしにつま先をのせようとする真志井のひざを杏がすかさず注意する。長い髪を後ろでまとめた彼が、幼いようすで笑ってみせた。

てか暑い……。おまえが厚着してるせいだろ。そうだった……。のんびりとした会話を重ねる真志井と杏のもつ熱は、えらんだ服相応に対照的だ。

杏は、白鳥のような首を飾るリボンを引っ張って、襟の中に忍んだ留め金に両手をかける。ぱちんとはじかれた金具のおかげで杏の胸元は、たちまち風通しが上向く。
少しだけラフな手つきではじいてリボンをはぎとり、スカートのポケットにしのばせた。杏のそのどこか粗野な仕草を、真志井が流し見た。15歳とはおもえぬほどに大人っぽく尖った爪先が、第1ボタンをさらにはじいた。杏のからだは、幼稚なやわらかさより、くっきりとした骨格を誇る。骨張った体は手足のながさを、大人びた様で際立たせた。襟元をさらに大胆にあけるのは、杏の無意識の手癖ゆえだ。くっきりとのぞいた鎖骨が真志井の瞳にふれたとき、彼が今一度杏のそばへ深く寄り添った。ソファに添えられた長い腕のなかに、杏は知らずに収まっている。見知らぬ街のバザールのような香りがいっそうつよくなり、緩やかな冷房がきいているはずの古い部屋を熱く満たした。

古ぼけたビルは、おおよそ耐震工事もまともにおこなわれていないだろう。ビルの一室の時代遅れのカラーの壁面は黄ばみ、部屋の角にはカビが忍び、どうにも不衛生だ。けれど、血気が盛る年頃の少年と少女にとって、とるにたらないことだった。こどもたちはいつも、目の前の体にやどる熱と自らのこころの壊れやすさしか見えなかった。

真志井雄彦と杏の間で、言葉が交換され続ける。
いつからかそれは、お互いを壊さないものに変わっていた。
どこからか杏と真志井が与え合うものは、めきめきと育ち続ける知性を言い訳に、この時間を失う恐れも帯びていたはずだ。

ここは遊興にふけるための諸々の道具も数年前からアップデートをされることはない。
杏は使い古された機器をいたずらめかして、そばに座る真志井のひざのうえへ差し出す。


「マーシーも歌うんだよ?わかってる?」
「いやだね」
「私が歌う間に決めて。あっ、そういえば、5月の中間のまえ…岬くんとマーシーと私の三人でここ来たでしょ、楽しかったね、岬くん……こう、無理して、あのうた、歌って……の、のどがこわれた……」
「ラオウ歌へただろ……でもついてくんだよな……。この前の合唱コンクールでも足引っ張ってよ、がっきゅーいいんに岬は口パクでうたえっていわれてさあ、すげえかなしそうにしてたわ……」
「そ、それで準優勝だったよね…」


そうだった。おまえが伴奏でピアノ弾くの久々に見たわ。真志井がほんの一ヶ月前の記憶をたぐり寄せれば、少しの面はゆさを憶えた杏は、テーブルの上にうち捨てられていたマイクをとりあげて、ビニールのカバーを力任せに破いた。
ここの備品は白いマイクが特徴で、これかわいいねと他愛ない言葉をつぶやいて真志井に同意を求めると、杏の肩口で腕とゆびさきをあそばせる真志井が、軽くうなずいた。

カラオケパネルを取り上げる。機械のアルゴリズムにずらりと提案されるのは、真志井と杏が生き抜く時代の最先端を彩る曲ばかりだ。杏はこの機器の奥の奥からあらわれる、とあるひとつのうたをえらんだ。これ、お母さんが好きな映画。私も小学生のときに観て、大好きになった。杏がそうつぶやいて、しなやかな指さきで、選び取った歌のなまえをそっとタッチしてみせる。

やがて部屋の中にながれていた電子音が消えて、原曲通りの前奏が流れ始める。

オルガンのような音色で奏でられるのは、実にリリカルなメロディだ。
ほんの少しだけ、当時の時代が孕む幼い自己愛も交えている。そんな風に、杏は抱く。その本音は歌声に添えられて、控えめに輝く。

流れてくるのは、絶望を歌ったうただ。

90年代に紡がれた歌なのに、まるで、この街と二人が、この街の若者が、これからあゆむであろう未来を謳ったような曲だ。

まるで繭のような音色のイントロダクションを真志井が味わう。
杏が彼を見上げてつぶやく。私がこれ歌うあいだに、マーシーは何歌うか決めてね。そんな願いを、真志井は、切れ長の瞳を閉じ、発達した首をいたずらに左右にふって、勿体ぶって反故にする。拗ねたような表情をみせた杏のくちびるから、澄みきったアルトによる歌声が響く。この歌を奏でるシンガーはしゃくりあげるような唯一無二の個性が持ち味で、杏の声はそれとはちがう。果実のような声の杏が歌うと、この歌は未来を信じているように聞こえた。

Aメロがおわり、Bメロにさしかかろうとしたとき。

真志井が短く彼女のことをよぶ。


「杏」
「ん?何?」
「付き合おうぜ」
「ま!?まって!!??何!?!?なんかマーシーこの歌詞に流されてない!?」
「俺は岩井俊二は苦手なんだよ。おまえが一番知ってるだろ」
「それは知ってるよ、スワロウテイルだけじゃなくてラブレターもリリィシュシュもマーシー全然好みじゃないよね。そうじゃなくて、私べつに、なんかそういうつもりで歌ったんじゃないし、本当に好きだからうたっただけだし、マーシーがこれをすきじゃないからって、わたしは、わたしのすきなものを、それだけで、変えたり、しないし……」
「おまえのそういうところがすきなんだよ」
「わ、私だって、マーシーがすきだよ……っっ、あっ!!言っちゃった!!!」
「……っつーと俺とおまえは付き合うってことでいいのな?」
「待って!!ちょっと待って!!!こういうの、だめなんじゃないの……?」


さきほどより、部屋の扉にくりぬかれた小さな窓から無粋な客がのぞきこんでは、真志井の影を察知してこそこそと退散することが幾度も起こっている。杏はそれを悟らぬが、真志井はこの古い遊興施設のそんな現状をとうにそれを見抜いている。

"こいつと付き合ったら、こいつ連れてここくんのもうやめよ"

そう誓った真志井は、いつまで持ってんだよ。そう彼女に冷たく告げて、骨張った大きな杏の手からマイクを抜き取った。

白いマイクを薄っぺらい胸のまえでぎゅっと抱えた彼女の声は、白昼夢のようなバックバンドの演奏を無視して取り乱すあまり、握りしめていたマイクを通して狭い部屋にリフレインし続けていたのだ。

マイクをとりあげた真志井が、スイッチを切ってそれをソファの上に放り捨てた。


「マーシー、年上の彼女、いるんじゃないの……、え、な、なに?」


真志井の傍に座ったままの杏は、手持ち無沙汰な手をスカート越しの膝のうえでぎゅと組む。

そして、傍にいる真志井を見上げて、先ほどよりぼんやりと理解が叶い始めている事実を伝えた。


「……えっ、年上の彼女っていうのは、うわさ、だけ?」
「頭いい奴は話が早いな。最初からそうきいてくれ。いやおれが言えばいいんだよなあ…おまえといるのが楽しくてさあ……んで、今はいませんから」
「……今、は……?うわさじゃなくて本当だったけど、もう別れた、って、こと?」
「そーゆうこと。あー話がはやい。1教えたら100返してくる」
「……えっと、うわさをきいたの、もう少し前なの。一ヶ月前、くらい?うわさが本格化したのが二週間…??そのあいだに別れたってこと?短くない?」
「おまえのそういうとこもすきだよ……」


ため息をついた真志井は、この話はもうしたくないといわんばかりの態度だ。

そして


なあ。

そう短く吐き捨てて、180センチに届こうとしている質量ごと、真志井が杏のもとへ迫る。ソファに添わせた腕が、まるで杏を抱きこむようだ。

膝の上で手をぎゅっとくみあわせたままの杏が、わずかに身をひいた。

杏とて、杏がもう少し幼ければ、このまま真志井のもつロジカルな勢いに圧されて、些か威圧感のある彼の知性と論理に、まるで流されるようにからめとられるままであったかもしれない。

真志井がもう一度、杏のこころを支配するような言葉を唱える前に。


「ねえ、マーシー」
「何だ」


そのとき杏が呼んだのは、ひどく懐かしいなまえであった。


「真志井くん」
「っ……、いきなり、なんだよ」
「中一で同じクラスになったとき、出席番号が近いから、私とマーシー、隣の席だった。私、最初はこうやって呼んでたよね」


清潔なスカートの上でぎゅっと組まれた杏の手を、今すぐにでも取ってしまいたい。

そんな執着をコントロールすることは、今はまだ、真志井にとって、かろうじてたやすいことだ。

すぐにでも手にしたいその言葉とそのからだとその声と、杏そのものと、杏のそばにいる権利を奪い取れば、これまでの真志井がたやすく実現してきたことは、壊れるのか、崩れ去るのか。それともますます強固になるのか。


「ああ、そうだったな」
「マーシー、なんでもできた。ともだちもおおくて、もうヤンキーだった。なのに勉強も、スポーツも美術も、あ、リコーダーだけ吹けなかったね」
「今もできません。ベンキョーも運動も。それはおまえもそうだっただろ。おまえはそれに加えて音楽も美術も書道も。すげえわ」
「すぐに私はマーシーと喋るようになって……斜め後ろの席に岬くんがいて。岬くんの事情、たしか、担任の先生がみんなにすぐ話したよね。クラスのみんなも理解してた。いいクラスだったよね。あの先生もいい先生だったな」
「おれさあ、おれがこういう道えらんだの、周りのせいでもなんでもねえんだよ。おれがえらんだんだ。おれらは意外と、周りに恵まれたよな」
「ほんとうにそう思う。……それからすぐに、マーシーってよぶようになったね」
「……おれらしくなかったわ。杏。わり」
「そんなことはないと思うの。あのね、正直な気持ちを言わせてもらうと……」


狭い部屋。
杏の間近に迫り続けた、質量の大きなからだ。
真志井の体の香り。
いやにまっすぐにすぎる言葉。
大きな声に、
真正直にさらされた瞳。

まるで杏を逃がさぬように迫る全ては、真志井が何もかも理解して行ったことだった。


「このやりかたも、マーシーらしいと思う」



歌声とは一転、彼女の地声はハスキーなアルトボイスだ。

澄んだ声が真志井を貫く。そして彼は、小汚い天井を仰ぎ見ることとなる。


危なかった。


そんな思いをこめて、真志井は大きな右手で両目を覆う。


そして、大きなため息をつく。


真志井はあやうく聡明で優しい少女を傷つけるところであった。

否、彼女はもう、傷ついたのかもしれない。


「……マーシー、あの……」

杏は、天井を仰ぎ見たまま動かぬ彼の袖をつまんでみせる。
発達した二の腕を覆う半袖シャツを人差し指と親指ではさんだ彼女がちいさくひっぱり、彼のことを呼んだ。


その手に、野太い指は、いまだからめられない。


真志井がやおら、身を起こす。

彼女の手をまだおかさぬかわり、ブラウス越しの痩せた手首をとらえる。

傷つけたくはない。そんなこころと、真志井の行ういとなみの、すべてが一致しない。


「っ……」

真志井の膂力はもとより尋常ではない熱量を誇る。
ほんの少し力をこめるだけで、杏など壊れるだろう。真志井が杏を壊すことなどたやすいだろう。
真志井の長くしなやかな指が、力を帯びる。

まるで杏の心まで握りしめられているようだ。


「杏」
「……これも、マーシーらしい……」


そうつぶやいたこの子は、その柔らかいこころがつぶれそうなとき、形のいい耳がさくらのような色に染まる。少しだけ水分を失ったブラウンヘアは器用なアレンジでまとめられているけれど、少しだけ乱れている。すべすべの頬に髪がこぼれる。

杏の愛くるしい耳元に、真志井が迫る。
痩せた肩がびくりとすくめられた。

無論杏にせまった彼は、いまだ彼女をおかせるはずもない。

真志井はそのまま、かたちのいい顎を引いた。すっぱりと切れた瞳に黒目がいっぱいにひろがり長いまつげが震えるように、彼の瞳を鎮めた。

すると彼の、色を変えぬ耳元に、か細い声が愛らしい言葉となって届く。


「マーシーにずっと、こういうことされたいって思ってた」


杏が澄んだ瞳をふせれば、波のようなまつげが彼女の瞳を守る。

間近にそっと寄り添う真志井を見上げて、杏はこころをうちあける。

この力も、この熱も、この強さも、彼にうばわれるこころも、
杏がずっとのぞみ、ねがっていたことだった。


真志井は、彼女を傷つけなかったのだ。


「おまえにずっと触りたかった。いきなり触っちまって、わり」
「ううん」
「これからちゃんというから」
「いわなくても……いい……。大丈夫。マーシーに……こうされてもいい。え、えっと、ちゃんと伝えたい……のと、まだ聞きたいことが……」
「まて。おまえも言いたいこと言っただろ。おれにもあんだよ」


何?
杏が素直な声音でたずねたとき、膝の上に置いていた左手がやおら真志井に奪われた。

えっ!!
おまえ今いわなくてもいいっつっただろ。

さっそくとった言質を無慈悲に駆使した真志井雄彦は、愛すべき女の子の両手首をしっかりととらえた。

切れ長の瞳をしろくろさせて、彫りの深い異国の少女のような顔のいろを変えて狼狽する杏のことを、もう逃がすわけにはいかないからだ。


「一つ言わせてもらうとな、おまえだって俺に言わずに野球部のキャプテンといっしょに帰ってただろ。おれは知ってんだ、おまえは本当はヤンキーじゃなくて部活のキャプテンとつきあうタイプだ」
「どんなタイプ…?私ちがうから。あれ、マーシーの噂が流れるすこしまえのこと……。言い訳に聞こえるかもしれないけど、すごくしつこかったの。ラインは大丈夫だったんだけど、電話番号…勝手に調べられて」
「まじかよ……こわかったろ。やな思いしたな」
「……こわかった……。断ったの。私は勉強で忙しいし、好きな人がいるからだめって……」
「おれが好きっつったの?」
「…私が言わなくても、それ真志井のことだろって言ったのが、野球部の人と剣道部の副部長…あとバスケ部の……あの、福岡の高校にバスケ留学する人……」

うわ、あいつもかよ……おまえそっちと付き合えば?将来性あるぞ。未来の代表だ。
幼稚な拗ねをみせた真志井が、こころの内に存在もしない憎まれ口を滑らせた。
すると、真志井の幼い心が口から飛び出し二度と戻ることのない言葉の刃を後悔する間もなく、杏の優しく強い切れ長の瞳が、彼へまっすぐに挑んだ。


「私は、マーシーがすき。そんなのですきなひとを、選んだりしないし、付き合ったりしない。大事なの、そんなところじゃない」
「おまえは甘いよ。おれと関わったらろくなことになんねぇぞ」


こころのうちに積もり積もった言葉は、やはり己自身の本当の声なのかもしれない。

この子を傍にほしくてたまらない本音と同時に、それもまた真志井雄彦にとって、本当のことであった。

汗でじっとりと濡れた真志井の手に細い手首と自由をとらえられたまま、杏はまっすぐにつたえる。


「そんなの私、この三年間で全部知ってる。そういうことも、全部ひっくるめて、私はマーシーがすき」
「……お、おれとおまえはつきあうってことか?」
「えっ私、何告白してるの!?ま、まって、さきに、話の続き。だから、その野球部の部長も、ほかのひとたちも、私が一回だけ一緒に帰ってくれたらあきらめるっていわれて、かえっただけで……」
「んなの5件くらいあんだろ。おまえなあ、案件5つって多すぎるぞ。それでよく同性に嫉妬されねえな」
「私みたいにデカくて骨と皮みたいな体型で胸がなくて色が黒くてもとから茶髪でこのへんにそばかすある子は、女子が嫉妬しないんだって。ネットに書いてた」
「ああ?どのネット見てんだよ。全部忘れろ。おまえの人柄だよ。そういうの全部関係ないぞ。頭いいのにバカなこと信じるな」
「……わかった……。ていうか、ぜんぶバレてるよね……そうなの。どの人も、そういうこと言う……」
「しってるよ。カムイも心配してたぞ。どいつも大変だったろ?」
「……そうだったんだけど、いつの間にか、全員何も言ってこなくなって……これって、あっ、カムイくん……?」
「じゃねえんだよ。全部おれだ」
「……マーシー、だったんだ……。私の知らないところで、いつも…マーシー、そうやって……。ありがとう……守って、くれて……」
「ああ、これくらいなんでもねえぞ。またなんかあったらいえよな?俺でもカムイでも、ラオウでもいいんだからな。遠慮するな。これからもずっとな」

ま、最初は俺に言え。
そうする……。あの、手首、そろそろ……。
ん、ああ。細いなあ、おまえ。
私、逃げたりしないし、私の手も、汗で手のひら、べたべたになってる。


その願いを受けた真志井が素直に彼女を解放すると、杏はカフスボタンをはじいて、そっとブラウスを捲る。折れてしまいそうな手首の内側は象牙のような色で、真志井のあとがくっきりとついていた。がさついたくちびるを添わせたところで、このあとがきえることなんてない。


「杏、痛かったろ、ごめん」
「大丈夫だよ。マーシーだったら……ぜんぜん。えっ、それで八つ当たり?え、私へのあてつけで誰かと付き合ったの?」
「あたまのいいやつと話してると話がはええわ」
「はええわ、じゃなくない?あてこすりで付き合われたその人って……マーシーがいっぱい告白されてるのも、学校の外だと15歳って思われてないのも知ってるけど……」
「おれがふつーにヤンキーしてたらふつーに嫌われました。向こうからふられたよ」
「…?え、そ、それで、おわり……?」
「そうだよ」


杏の瞳は真志井を疑うつもりもないけれど、何かやり残したことがあるのではないか、そんなことを探って考え続けるような瞳だ。

杏のうつくしく、そして聡明な瞳に、真志井は今度こそ、自らの聡明さで戦ってみせる。


「おれはまけねーぞ、おまえの目に。この話に嘘はないからな」
「……」
「杏」
「うん、わかった。あのね私、マーシーのそのうわさきいたとき……あっ今思い出したんだけど、私、あの、美術の時間にいっしょになる子…隣のクラスのともだちに、マーシーがね、すっっっっっっごくきれいなひとといっしょにいる写真みせられた。無理矢理ラインにおくってきたの。マーシー、すごくおしゃれで、その女の人も……素敵だった。白くて、すごくほそくて、まっしろで、」
「おまえにそんなことをするやつは、ともだちっていえるのか?」
「ちがうよね。私が落ち込む顔をみたかったみたい。だけど……ネコみたいにきれいなかおのひと。あの子みたいにきれいな人」

アジアのトップアイドルのなまえをあげる。記憶をたどった真志井が、まゆをしかめて、まあなあと呆れたように零した。あ、じゃあ、あの写真は本当にだったんだ…ちゃんと消したよ。クラウドにも残ってないから。杏は、糾弾の声をあげることもなく、真志井と見知らぬ女性のことを気遣った。かまわねえのに。真志井がそう杏を案じると、杏は黙って首を振った。


「……そのとき、私はもうマーシーに頼っちゃダメなんだって思った」
「杏」
「もう、マーシーには守る人がいるんだって思ったの。私は、ちゃんと、自分で頑張らなきゃって」
「おれはそこがおまえとちがうんだよ。おまえはおれがほかのおんなとつきあってもへいきなのか」
「へいきじゃない……」


杏がもう一度、真志井のシャツを掴む。

今度は杏の手が真志井の胸元にせまり、分厚い体を覆う夏服をつかみ、杏は正直に訴えた。
生まれ持ったブラウンヘアに手を添えることは遠慮して、真志井は杏に向き直り、壊れ物のように繊細なからだに、そっと手をそえる。

大きな手の平は、まだ杏の体に触れない。


「へいきじゃなかったよ……」
「おれもおまえがほかのおとこと帰ってんのみてへいきじゃありませんでしたー。カムイもだ。あいつは昼飯三回抜くくれーショック受けてたからな。杏センパイがんな人だとおもわなかったっつってたぞ。あ、ラオウは全然しらねえから」
「カ、カムイの誤解、とかなきゃ…」
「もう解けてるぞ。なあそもそもおまえ、おれが杏をすきってわかってただろ?」
「……うすうすわかってても、それを信じるのはまた別の話……。あ、あのね、マーシーの……か、かのじょさんの写真…」
「もとな」
「もと、かのじょさんの、写真をみせられても、私、ノーダメだと思ったんだ。わたしにそんな攻撃、きかないっておもった。へいきじゃないって思おうとした」
「そうか、おまえはノーダメなのか。あんま嫉妬しねえタイプっつーことか?おれはおまえが他の男と付き合ったら、もうノーダメじゃねえぞ。殴ってでもおまえを取り返しに行くけどな」
「だから、ノーダメって思おうとしただけ。マーシーが、そのひとといてほんとうにたのしくて、嬉しいなら、それでいいって思おうとしたんだ」
「おれよかつよいな、おまえ」
「この前は勝ったしね」


なあ、もういいだろ。杏、おれと付き合って。
このまま抱きしめてやりてえから。

真志井がそう告げると、杏が痩せた体をいっそうすくめた。
杏が真志井のシャツをぎゅっと掴んでいたものだから、清潔な開襟シャツの胸元にしわがうまれている。なんだか杏のがんじがらめの心のようで、杏は羞恥に襲われて、こころの中からこぼれてやまない言葉を、ひとりごちる。


「私たち、おとなっぽいとかいわれるじゃん」
「そうだな」
「おとなでもなんでもなくない?」
「おれはおれのことおとなとかてめえで言ったことねえぞ。おまえもだろ」
「そうなの。わたしはおとなでもなんでもなかったんだよ。当たり前だよね」

だ、抱きしめるの、まってね。
真志井のもつ強い熱をとうのむかしに察している杏は、それでも、今伝えるべきことを伝えるみちを、えらぶ。
こんな女の子を愛してしまったのは、真志井自身だ。そう自覚した真志井が、これからのことを慮りながら、己の欲より杏の気持ちを重んじた。
真志井の広い胸のなかに飛び込んでしまいたいのは杏とて同じだけれど、杏はひとまず古ぼけたソファのチープな合皮のシートに背中をあずける。真志井の長い腕は、ふたたび背もたれに添わされた。


「うすうす思ってたんだけど、私たち、カムイくんがいつも傍にいるからそういう感じなんじゃない?」
「気づいたか。おれもだ」
「別にふたりだと……全然…コドモじゃん……」
「ラオウは一人でもおとななのになあ」
「……そ、それがね……」


なんかあったの?

真志井がそう尋ねると、スカートの上に丁寧に手をかさねた杏が、鮮明に残る記憶を組み立てはじめた。


「合唱コンクールの後かなあ、みんなで教室に残って話してたら、隣のクラスの子たちもうちのクラスにきて。あ、これ、マーシーにかのじょができた頃じゃん…」
「……」
「……そ、そこに岬くんもいたの。みんなでずっと話してたの。そしたら岬くんがきゅうに、……杏はいつ、あいつに告白するんだ?って、も、ほんと、何の脈絡もなく、いきなり……みんなのまえで……すっごく大きな声で……」
「あ、あ、ああ、そう……おいラオウ……そりゃへたしたら、ろくなことになってねえな…」
「ね、たまたまそこにいたのがみんな、口のかたい子たちで、たまたまマーシーのことをすきな子もいなかったから……だけど、もう、すっごい空気になって…、私のともだち、ほらラインでマーシー殺すって送ってきた、あのこ」
「殺すじゃなくて、マーシーはしね、な」
「…そ、そう、しねっておくってきたこが、岬くんにお説教してた。思ったことをそのまま言うなって、怒って、岬くんすごく素直にその話きいてて、すごくはんせいしてた……ごめんな、杏って言われた。全然大丈夫なんだけどね。岬くん、おこられて、かなしそうにしてたよ」
「ラオウなあ、海老塚とか加地屋中のやつらのまえだとああだけどよ、うちのがっこうだとなー」
「ね、ふつうの男の子だね、私、みんなといっしょにいる岬くんとマーシー、それとカムイくん!マーシーたちが楽しそうにしてるの見るの、大好きなんだ」
「おまえがおれにいうすきって、それか?」
「ちがうよ」


ソファに痩せた体を鎮めた杏が、まっすぐにのびた背筋をよりいっそうしなやかに伸ばして、真志井へ向き合う。

長い足を尊大な様子で組み上げていた真志井が、両足を床につく。

少しだけ身をかがめて、10センチほど背の低い杏に身を寄せた。

彼女の澄んだ声をしっかりと受け止めるためだ。


「マーシー」


その言葉は、杏の心の中から、ようやくあらわれた。

たったひとりで疲れ切って。
たったひとりで抱え込んで。
見えないものと戦って。

ようやく見つけたのは、この真実ひとつであった。



「私は、マーシーがすき」
「おれもおまえしかいなかったよ。すきだ杏」
「私もマーシーしかいない。ちゃんといえなくて、ごめんなさい」
「なんで。謝るのおれだろ。なあ杏、おれと付き合ってほしい」
「うん。付き合いたい。私、マーシーの彼女になりたい」


おれは、おまえの彼氏か。
私、マーシーの彼女……。

口々にそうつぶやいた真志井と杏は、ふたりして、呆けたようにソファの背もたれへ身をあずける。異国のバザールの香りの香水は、真志井のそれはいまだ強くかおり、杏のかおらせるそれはゆっくりと消えてゆく。

ちらりと真志井をみやり、真志井もまたちらりと杏をみれば、とびきり幼い瞳はしっかりとお互いのことをとらえた。

そして聡明なふたりはただ、カムイにも見せない、ひどくこどもじみた笑みを、ただふたりだけで交わし合った。

拍手

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