入院は、たった三日ですむらしい。

もっと深刻な治療、長期にわたる入院になるかもしれないと思っていた千歳は、その報告を聞き、やや拍子抜けしたあと、安堵、そして不安にもおそわれた。

あの騒ぎの中、一度たりとて目を覚ますことのなかった肝っ玉の太い双子の姉にもたされた見舞いの花も、たったそれだけの入院なら、大げさだ。昨日、秀人の部屋に合い鍵で入ったあと、持参した小さな花瓶に活けておいた。

制服姿のまま、いつもの下校ルートとはずいぶん違う道。市営バスに乗りこみ、秀人が入院している根岸の病院へ向かった。
病院の味気ない駐車場のなかに、目立つバイクの群れがある。
こうしてみると、秀人がどれほど愛されているかわかる。
秀人のまわりは、常に人がたえない。

バイクは、実に行儀よく駐車されている。見舞客や病院職員の車や原付に迷惑をかけるような駐車ではない。あの人たちは、とても優しくて、とても素直で、とてもあたたかい人たちだ。

千歳が、あの輪のなかに図々しく入り込めるはずがなかった。

秀人の入院している病室とは別のフロアの、待合室。小児科のあるフロアの、色彩と日差しが明るい待合室で、一日分の日用品を抱えたまま、千歳は本を読みながら30分ほど過ごした。

バイクの音が聞こえてくると思ったけれど、大きな通りから一本へだてた住宅街のなかにある病院の周囲は、実に静かなままである。

窓から駐車場をのぞいてみると、バイクの群は忽然といなくなっている。

驚いた。
音をたてずに運転する術とかあるのかな?と、バイクのことを何も知らない千歳は思う。

いや、そうではない。あの人たちは、とても素直で、とてもやさしく、とてもあたたかい人たちなのだ。

階段をこつこつとあがり、そこは、少しだけ扉が開いている、秀人の病室。
さきほどまで、笑い声や、元気などなり声が響いていたのだろう。今は、おどろくほど静かだ。

「こんにちは……」

扉を引いて入ると、ベッドの柵に背中をあずけ、退屈そうに窓の外をながめている秀人がいた。
鋭くも優しい瞳が、千歳のことをとらえたあと、やわらかく微笑をうかべた。千歳もつられて、笑顔をうかべる。

額に巻かれている包帯。昨日に比べ、目に見えて治癒がすすんでいる。顔のきずあとも、ずいぶんきれいになった。
骨折はしていなかったようだ。
衣服と毛布で見えない腹部にも、厳しく包帯が巻かれていることを、千歳は知っている。

「千歳。来てたのか?」
「うん。……大丈夫ですか?」

秀人のベッドのそば。丸イスにこしかけた千歳に、秀人はやわらかい微笑をおくる。

「あいつらに会うの怖いかよ?」
いいヤツらだぞ。ツラぁちっと気合いはいってっけどよ?

少しだけ体をびくつかせた千歳が、力なく笑った。

「知ってます。前、お会いしたし。お話しもしたし。でも、邪魔したくなくて」
ずーずーしく、わりこめないし。

千歳のその言葉に、すこしだけ醒めた目でぴくりと反応した秀人は、すぐに優しい顔にもどり、たばこに火をつけようとする。
千歳は、真っ白な手で、秀人から、たばこ一式をそっとうばった。

「だめです」

一瞬だけ眼をまるくした秀人が、楽しそうにわらった。うばったたばことジッポは、洗面所に静かに置いておいた。

秀人はいやにすっきりとした顔をしている。

あの人たちが、こわいわけではない。
全員ではないけれど、秀人と特別仲の良い面々とは、とっくに顔見知りだ。
でも、その輪のなかに、入っていけるわけがない。
あまりしつこくそばにいるのも、痛々しい。

彼女ヅラも、いや、千歳はれっきとした彼女なのだけれど、彼女ヅラもいきすぎるとうっとおしいだろう。

遠慮をしすぎる千歳にむけられた、あの一瞬の醒めた瞳。
なるべく、だれもいないときをみはからっておとずれていることも、秀人にはとっくにばれているだろう。

「あ、ごめんね」
とびらのそとから、大人の女性のきれいな声がする。千歳が振り向くと、そそくさと去ってゆく。
秀人の部屋をそっとのぞいて、調子をたずねたあと去っていく、やたらきれいな看護婦。
それも、ひとりやふたりではない。
秀人の病室にはいって、妙に浮ついた顔ででてゆく姿を何度も見た。


自立した大人の女性からみると、私なんて、こどもの一時のままごとのようにみえているのだろう。


そう思った千歳はあきらめたような表情で、だまってうつむいた。
いや、あの女性たちは、そんなことを考える暇すらないはずだ。あの大人の女性たちは、仕事を全うしているだけだ。

つまらない邪推を、千歳は懸命にたちきろうとする。こんなにどろついた気持ちなど、秀人のそばにいるうえで、何よりも捨てるべきものだ。

いまだ、つかんだままだった荷物に千歳は気づく。

ビールはよ!?ビール!と、こどものような声をあげる秀人に、千歳は「ありません!」とぴしゃりとはねつけた。買い物してきたものを冷蔵庫に並べながら、千歳は、つとめて平静な声でたずねた。

「明日退院できるってほんとですか?」
あれがそんなに早く・・・・・・?

「今すぐFXに乗れんぜ?」

秀人が、やわらかな声でうそぶく。千歳はひとつも笑えないまま、背中をむけて、うなずいた。

「バイク・・・・・・」

千歳が鍵をコトリと置いた。

「おめーが乗ってきたんかよ?」
「ち、ちがいますよ・・・・・・いい加減な冗談を・・・・・・。おねーちゃんがもっていこうかって言ってたんだけど、やっぱ、わたしの家に。退院したらすぐ寄ってね」
「ねーちゃんの車血塗れだろ?弁償する」
「そんなのいらないってゆってたよ。お礼もいらないって」

千歳は、日頃から、さほど、秀人と軽妙な会話をつむげるわけではない。
そんな千歳と、秀人は、やさしい顔で一緒にいてくれる。
千歳は、それでじゅうぶんだった。言葉なんてなくても、秀人と一緒にいれば幸せだった。
でも、秀人はそうなのだろうか。
そう思っているのは千歳だけではないか。

会話が途切れる病室。うつむいたままじっと座っている千歳。穏やかな表情で、退屈そうにベッドにおさまっている秀人。
今日ここにきてから今まで、まともな見舞いの言葉ひとつ、秀人にきちんとかけただろうか。せっぱ詰まったような顔で、千歳が言葉をつむごうとしたとき、秀人から、声がかかった。

「千歳」

うつむいたまま、今にも顔をあげようとしていた千歳。その切りさくような、刃物のような鋭さなのにやわらかくもある言葉につらぬかれ、千歳はハっとした表情で顔をあげた。
気づくと、秀人の肩にかかっていた上着がずりおちそうになっていた。
いくら丈夫な秀人でも、冷えるといけない。

「何?」

返事をしながら、やおらたちあがり、千歳は、秀人の肩に丁寧に上着をかけなおした。血のにおいはもちろん薫らない。薬品のかおりが、つよく漂う。今はスウェットにおおわれている、包帯がまかれた腹部が目に入った。その下の、一生残るであろう傷跡。

秀人が、そばに寄り添った千歳の細い腰をそっと抱き寄せた。
上半身を起こしてベッドにすわっている秀人。秀人の頭はちょうど千歳の胸元あたりにある。
千歳の腰を抱き、千歳をとらえたあと、秀人が、千歳の胸に顔を埋めた。

腕のゆきばを逡巡したあと、千歳は、秀人の頭を、そっと抱き寄せた。

「どーしたの秀ちゃん、痛いところ、大丈夫ですか……」
「おめーが足りねーよ」
「昨日も、来たでしょ?それに、普段、そんなにいつも、会ってくれないじゃないですか」

千歳が秀人のふわふわの黒髪を撫でた。

秀人が千歳をみあげる。

これでは、いつもと逆だ。
どんなに傷つこうとも、秀人の真摯な黒い瞳は、かげることはない。その光を失わせることなんて、だれにもできない。
千歳は、自分の存在は、わずかでも、その光がつよく輝くためのちからになれているだろうか。そんなことを、いつも思う。
その瞳は、入院以降、すっきりと清潔感をおびている。
そもそも、この大けがは、何のために、だれと戦ってできたものなのだろうか。
そんなことをたずねる勇気は、千歳にはなかった。
秀人はこの傷とひきかえに、何を手に入れたのだろう。何をわかったのだろう。誰のことを認めたから、その瞳からすっきりと余計なものがそぎ落とされているのだろう。

しばらく、だまって見つめあったあと、どちらともなくすい寄せられるように、くちびるをかさねた。千歳の長い髪の毛が、秀人の頬にふれた。秀人のくちびるから、歯磨き粉の味がした。少しふれただけのくちびるが、ゆっくりと深くなり、お互いを、丁寧に味わいはじめる。
いつもの、性急な強引さ、ストレートな欲望は、秀人からすこし欠けていて。そのかわり、千歳が、いつもより勇気を発揮して、その深さにこたえた。

秀人がもう一度千歳の腰を抱き、己の方にひきよせる。

「秀ちゃん、大丈夫?この体勢、痛くならない?わたし、ここにすわろうか」

秀人は何も答えないまま、千歳の胸に顔をうめた。あまりにきゃしゃな体の、うすっぺらい胸。それでも、かたくはなく、すこしはやわらかいはずだ。千歳は困ったようにわらって、秀人の頭をそっと抱えた。

千歳の胸元にいる秀人が、くぐもった声で語り始めた。

「なあ千歳」
「ん?」

秀人の髪の毛を撫でながら、千歳が、綿菓子のような声でたずねかえした。

「もしおめーになにかあったらよ、俺ぁまたこれくらいやるぜ」

「・・・・・・」

千歳が、秀人の頭から腕をほどいた。
足下からくずれおちそうになる。
そのくだけた腰を、秀人がかかえ、千歳をベッドにすわらせた。
腰かけたまま腰から振り向き、秀人を見ながら深刻にかげってゆく千歳の表情。
その変化を、じっくりとたしかめ、じっくりとあじわいながら、秀人が言葉をつづけてゆく。
千歳が逃げ出さないように、この美しい恋人の腰を、しっかりと抱きながら。

「なあ、千歳。おめーに何か起きりゃよ、俺ぁこんなもんじゃねぇ」

軽口とはおもえない。
秀人のすごみ。
千歳は一度、ふかくためいきをついた。それは歓喜のためいきではなかった。誰よりも潔く、誰よりも美しい顔をしていて、誰よりも誇り高く、誰よりもやわらかい、この少年。そんな秀人からはげしくもとめられ、そんな秀人に命がけで守り抜かれる、甘美な喜びではなかった。
それは、絶望に近いものであった。

秀人の腕が、千歳の背中にまわり、千歳をかたくとらえた。
いつもの秀人であれば、このまま千歳をベッドにひきずりこみ、逃げられぬように拘束し、押し倒し、おおいかぶさり、千歳の全身を秀人の意志でつらぬきはじめるだろう。
でも、傷ついた秀人に、それはできない。
千歳は、だんだん強くなる秀人の腕の力を、そっとしずめるように、秀人の二の腕に、自分の手を置き、ひとつだけ頷いた。

「おめーを守るためなら、俺はどんなことでもやるぜ」

この二日間で、ばらばらになってしまった心の中の感情のおきどころを、ひとつひとつ丁寧にしまいこんで、もとの場所にもどした。

それを、ふたたび、ばらばらにされてしまった気分だ。

あまりにあまりな秀人のその言葉を、千歳は呆然とうけとめた。

秀人の二の腕においていた千歳の片手が、ずるずるとさがる。そして、千歳が、秀人の手を思い切りにぎりしめた。

「おいおいいてぇよ?俺ぁビョーニンだぜ?」

千歳は秀人の手を離さない。

「千歳?けっこういてぇーぞ」

秀人が、うつむいてしまった千歳をのぞきこむ。

「千歳」

顔をそむけた千歳のために体をかたむけ、千歳に近づいている秀人が、腹部への負担のため、おもわず顔をゆがめた。
秀人のその痛みをすぐ察知し、千歳が手をゆるめた。
千歳は、ごめんなさい・・・・・・と泣きそうな声でつぶやいた。

「本気にしたかよ?」

秀人の、うそぶくような愉快な声。
その声をきいた千歳が、渾身のちからで、秀人をにらんだ。
こんなにかわいいガンを、秀人はこれまであびたことがない。
やや驚いた顔でそのにらみをうけとめ、秀人は、大切な千歳の髪の毛を、丁寧になでた。
千歳のアーモンド型の瞳の黒がふかくなったあと、みるみるうちにとけはじめた。

ただでさえ印象的な千歳の瞳は、薄くにじんだ涙に覆われて、ますます深く見える。

秀人におもいきり抱きつきたいけれど、千歳には、それはできない。
傷ついた秀人のからだに、甘えるわけには、いかないのだ。

千歳はおもむろに立ち上がった。一度はなした秀人の頭を、千歳はもう一度胸元にだきよせた。秀人の腕も、もう一度千歳の腰にまわる。

「じょーだんなの?ぜんぶ、じょーだん?」
「怒ったか?」
「……私は、秀ちゃんに迷惑かけないようにするから。守ってとか、言わないよーにするから……」
「安心しろ。俺がいるかぎり、おめーには何も起こらねー」

やわらかな腕で、千歳は秀人のことをそっと抱える。

「俺がいるかぎり、千歳には、指一本ふれさせねえ」
「秀ちゃん」

「何も起きねーよ。デージョブだ」
「秀ちゃん」

「俺が怖いか?」

千歳は、口の中の、内側の肉を噛んで、泣きたいのを我慢する。
咥内がすこしきれて、血が口のなかにたまった。

秀人の頭を、千歳がぎゅっと抱きしめる。

「わたしが、秀ちゃんを傷つけさせません……」
「ははっ、頼もしいな」

「わるかったな?悲しい思いさせちまってよ。すぐ退院すっからな」

そういう問題ではないのに。

「俺は、おめーを守るためなら、なんだってするぜ」
「もう休んで、秀ちゃん」
「千歳。好きだ」
「お願いだから……」

もう言葉はでない。
ベッドの傍のいすに再び座りこんだ千歳は、秀人の右の拳を、千歳のほそくてうるうるした両手で封じ込めるように、閉じこめるように握った。
今度は力をこめず、そっとつつんだ。
キスを降らせる。
何度も何度も、その手に。千歳は、秀人のその乾いた手に、くちびるをすべらせた。

唇で、この人の拳を封印できるなら。
眠らせることができるのなら。

秀人の冷たい手を唇で封じ込めた千歳は、ベッドの柵にもたれたままの秀人から、上着をはぎとった。そのまま肩をつかみ、秀人を、そっとベッドに寝かせた。肩まで布団をかけたあと、秀人の腕をひっぱりだして、その手をもう一度握りしめたまま、千歳もベッドの傍に顔をふせる。されるがままであった秀人は千歳の頭を撫でてあげたいけれど、千歳が握ったままなので、手だしのしようがない。ベッドに頭を伏せた千歳の髪の毛にそっとキスをおくり、秀人は、その豊かな髪の毛、その小さな頭、顔をあげないかわいい恋人のことを、困ったような顔で、笑った。

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