開け放たれたカーテン。狭いベランダに続く大きな窓から、真昼のあたたかな光が、畳貼りの部屋にふわりと差し込む。

秀人は、人差し指と中指の間にたばこをはさみ、灰皿の片隅をたたいてトントンと灰をおとした。テーブルの上には、買ったばかりのバイク雑誌。温和な自然光のなか、秀人は、やわらかい笑顔を浮かべ、淡々と雑誌をめくりつづけている。

ややぬるくなったコーヒーが、シンプルなブラウンのマグカップを半分ほど満たしている。時折それを手に取り、穏やかに口元に運ぶ。パウダーを溶いただけのものであるから、やや味気はない。

秀人の背中。
柔らかに広いそれは、ぽかぽかとした陽気をあび、陽のひかりのようにあたたかい。むやみに分厚いわけでもないそれは、時折切なく、そして、途方もなく広い度量をたたえている。

そのあたたかな背中に、さらさらと流れる黒髪がまとわりついている。

秀人の背中に寄りかかる、やわらかく、心地よい重み。

秀人は、時たま背後を振り向き、その小さな頭を撫でる。

「千歳?」

秀人の背中に頭をあずけて、うつらうつらと眠りかけている、秀人の恋人。

「・・・・・・」

秀人の、甘さを帯びたテノールが、千歳の名前をやさしく呼ぶが、千歳からその返事はない。

「ベッドで寝るか?」

瞳をとじ、心地よさげに秀人のからだにもたれる千歳。そう問いかけられると、うとうととふねをこぎながら、ふるふると首を横に振った。足をぺたりとおりまげ、腕は所在なさげに。頭だけ秀人にあずけ、千歳は、うたたねにふけっている。

「しょーがねーな?」

秀人が、あたたかく笑う。
秀人の呆れ声に、瞳をとじたままマイペースな様相で縦にうなずいたあと、うつらうつらと千歳は、夢と現実のあわいを漂う。千歳のそのやわらかな髪の毛を、秀人が丁寧にといた。

「テスト、うまくいったんかよ?」

瞳をとじ、こくりこくりとうたたねにふける千歳は、迷いなくうなずいたあと、頭の位置を少し変えた。そして、やわらかなくちびるが、うわごとのような言葉をつむぎはじめた。

「秀ちゃんに……数学教えてもらったから……」

秀人が口元に笑みをうかべた。


本格的な試験勉強期間に突入するまえ、秀人の部屋で、難解な宿題に頭を抱えていると、秀人が、千歳にその問題を解明する手がかりを、さらりと教えてくれた。すべてをかわりに解いてくれたわけではない。ひとつの突破口を与えただけ。
その時間はものの数分。
たったそれだけで、みるみるうちに、パズルがうまくはまりこんだように理解がすすみ、千歳は、苦手科目に見事に太刀打ちできたのだ。千歳が学年で20番台にとどまり、10番台への壁をなかなか越えられなかったのは、数学が他科目にくらべ、10点ほど低かったから。今回はその関門を、秀人のおかげで、きっと見事に突破できているであろう。

それでも、自信がなく用心深い千歳の性格は、連日、深夜までの勉強を余儀なくさせた。努力の結果を手応えとして感じた千歳に、糸がぷつんと切れたように眠気が襲いかかったのが、秀人に会う、直前のことだ。



遠慮がちな千歳は、二人だけの時間をともに過ごしているとき、秀人が一人だけの時間にはいりこむと、それをじゃませぬように、部屋の隅、ベッドの上のすみに、そっとすわりこみ、ときには窓から見える景色をぼーっとながめてみたり、もってきた本を自分も読んでみたり。秀人のそばにいられることだけをかみしめ、やや寂しい気持ちはあれど、秀人の後ろ姿をながめながら、ゆっくりと流れる貴重な時間に心を任せる。

そして、じゅうぶん一人の時間を堪能した秀人に、千歳のその時間は、あるときマイペースにやぶられる。

それが、今回は。
極度の寝不足なのか、ふらふらとおぼつかない足取りの千歳を、秀人が思い切り部屋におしこむと、千歳はバッグをほうりだし、ぺたりとすわりこみ、ベッドによりかかったまま、ことりと眠りはじめた。

その華奢な体を抱きかかえ、ベッドに横たえようとした秀人の腕を、日頃の千歳にはありえない反射神経で拒んだあと、そばにすわりこんだ秀人の背中に頭を思い切りあずけ、いよいよ千歳は眠り込みはじめてしまったのだ。

秀人にあわせてばかり、秀人におとなしく寄り添ってばかりの千歳が、めずらしく、秀人の時間に大胆にはいりこんでいる。

それが秀人には新鮮で、興味深かった。

今日テストが終わったばかり。徹夜明け、ねぼけまなこでゆらゆらと歩いている千歳の細い腕をつかみ、連れ去るように単車に乗せた。

さぞ、甘くかわいく驚くであろう。
千歳らしい不器用な反応を期待していたものの、その安直な予測をうらぎり、千歳は、うまく働いていない頭でぼんやりと反応したまま、なぜだかひとつうなずき、秀人の背中に頬をよせ、ぎゅっとあまえるように、精悍な体に腕をまわした。

テスト終わりであるから、まだ、時刻は真っ昼間だ。
この街か、もしくは、もうひとつ遠くの街か。ひさびさ、年下の彼女とのんびりできる時間。秀人は、千歳を、どこか遠くへつれてゆくつもりだった。

それが、結局こうだ。
背中でマイペースにねむりかけているこの子を連れてきたのは、結局、己の部屋であった。

部屋にいれても、この調子である。
いつもは、はずかしそうに、遠慮がちに部屋のすみにすわりこみ、秀人にちょこんと寄り添ったり、だまって、笑っている千歳。

その千歳が、今日はマイペースに、秀人のからだにもたれかかってきた。

そうして、うとうととうたたねにふける千歳。
千歳に、すこしずつ理性がもどりはじめている。
もう起きなければならないことは重々わかっているが、秀人の、あたたかく広い背中にあずけた体を、どうにもおこせない。

それほど秀人の、あたたかく、しなやかにみなぎる体が、心地よいのだ。

かえって寝てしまったほうがいい。
秀人の、一人の時間をじゃましてはいけない

でもどうしようもなくねむい。

「秀ちゃんのおかげで・・・・・・すーがく・・・・・・」

ねごとのようにうわごとを口にうかべる千歳に、呆れたように秀人は笑った。

ただし、秀人にとっても、いつまでもこうしているわけにはいかない。
秀人は、ぐいと千歳の肩をつかみ、一気に体を起こした。

「おら、千歳、こーしとけ」

体をすこし引き、畳の上で、向きを変えた秀人。

一気に体をつかまれた千歳は、その肩への衝撃に、やおら覚醒しかける。

「えっ」

短い悲鳴をあげた千歳の、華奢なからだは、秀人により、いったん起こされたあと、ゆっくりと倒される。

そして、畳の上にあぐらをかいた秀人のひざのうえに、
千歳は、少しだけ乱暴に、そしてやさしく、横たわることとなった。

秀人の堅い膝の上。
千歳は、そこをまくらに、ゆるやかに寝かされたのだ。

「ひざまくら・・・・・・」

いつもの千歳であれば、途端にしどろもどろな状態に陥ったあと、謝罪や詫び、もしくは礼をくりかえし、およそ10分はおとなしく寝てくれないだろう。秀人に悪いだの、わたしがやるだの、ごめんなさいだの、遠慮する言葉ばかりくりかえし。

それが今日は、ぽつりと、状況を把握するひとことをつぶやいたあと、気持ちよさそうに眼をとじた。

「俺のひざだぜ?」
「はじめてですね・・・・・・」
「オメー以外に、やすやすと貸せねーよ」
「今日だけですか・・・・・・」
「いつでも言え」
「ありがと・・・・・・」

そのやわらかでゆたかな黒髪を、秀人が幾度も撫でる。
これまででもっとも素直で自然なほほえみをたたえ、千歳はしずかに瞳をとじている。

たばこは、灰皿のうえでゆっくり消えようとしている。

「政経も、秀ちゃんが教えてくれたから・・・・・・」
「なんで中坊でんな科目やってんだ?」
「中高一貫だから・・・・・・」

膝に頭を預けたままうとうととうわごとをかたりつづける千歳。
形のいいヌードカラーの唇が、誘うように、ふわふわと動く。

秀人は、おもむろに背中をおりまげ、そのやわらかな口元まで、己の唇をちかづけた。
秀人のその唇は、千歳の寸前でとまる。

「こりゃ、やりにくいな・・・・・・」

やや不格好な体勢に、秀人が一度体をひこうとした。
その折、千歳が、畳に手をつき、少しだけ上体を起こした。

そして、秀人の頬にそっと手をそえた。

千歳に実行できたのは、さすがにそこまで。

至近距離で見つめあったまま、秀人の瞳にまっすぐな光が湛えられたあと、やっぱりやわらかにほころんだ。

そのまま、ふれるだけの、軽いキス。
千歳のくちびるは、めずらしく乾燥していた。

千歳の意識の半分は、たしかな覚醒に向かっているようだ。とろんと融けそうになっていた瞳は、じょじょに明白になりはじめている。

「秀ちゃんは、どうだったの・・・・・・?」
「おれぁいつもどーりだぜ?」
「秀ちゃんはすごいですね・・・・・・」

いつ勉強を重ねているのか見当もつかないうえはっきりとした結果は教えてくれないが、秀人の成績は、常にまったく問題がないようだ。今の秀人に、秀人の未来を問いかけるつもりはないけれど、何か具体的なビジョンがあるのだろうか。それとも、親に厳しくいわれているのか。秀人に、しっかりと客観性が備わっているからか。その日々は、楽しいわけではなさそうだけれど、秀人の高い能力は、灰色の日々すら、さらりとこなしている。
そして、その努力を、他人に見せたくないだけなのだろう。時折雑然とした部屋の、雑誌や棄て損ねた広告の下から、参考書や教科書がのぞいていることは、少なくない。

何でもフラットにうけとめ理性的な助言を与えてくれる秀人に対して、千歳自身のことを、いくらでもさらけ出してしまうのに、秀人は、千歳になにも教えてくれない。

千歳を膝にのせたまま、秀人がやさしく語りかける。

「エーゴは問題ないんだろ」
「ないです……」
「国語も?」
「ないです。化学がまあまあ。数学が、すごくできたから、秀ちゃんのおかげ・・・・・・」

かすれた声で、何度も礼をのべる千歳の頭を、秀人は何度も撫でた。

「オメーががんばったからだろ?」
「秀ちゃんのおかげ。ありがとう」

同じ言葉を、夢うつつでくりかえす千歳に、秀人はためいきまじりに、微笑をうかべた。

「友達のおうちが、箱根なんですけど、テストが終わったら、みんな旅館においでって」
「オメーのガッコ、すげえな・・・・・・」
「彼氏ときてもいいよって言ってた。秀ちゃん、一緒に……」

あいまいな笑みを浮かべる。
この話は、次回あらためて、真面目に切り出そうと千歳は考える。

真昼のとろけそうな自然光のもと、この膝のかたさは、努力したご褒美。いつでも不器用な自分でしかいられない千歳と、風のようにさらりと笑い、飄々と支えてくれる秀人。
いつか、むき出しの秀人を見られたら。
少しだけ真面目な瞳になった千歳は、ふたたび、秀人の膝のうえで、夢とうつつのあわいに引き込まれてゆく。

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