水が飲みたくなった。ただそれだけのことだった。何を予感したわけでもない。虫の知らせを感じたわけでもない。高々のどが渇いただけのこと。ただ、目がさめて、冷気が漂う冬の真夜中に、のどを潤したくなっただけだった。

数時間前。夕飯直前の暮夜。めずらしく、秀人から自宅にかかってきた電話を、姉がとりついでくれた。

「むしょーにオメーの声が聞きたくなってよ」

電話越しの秀人に、脈絡なくそんな言葉をかけられてしまうと、千歳はしどろもどろになってしまい、軽妙でしゃれた恋人同士らしい会話なんて、とても接ぐことができない。

「あ、ありがとうございます……」

千歳が頓珍漢な返事をすると、秀人がやわらかいテノールでころころわらった。

電波の悪そうな場所だ。秀人の声がときおり大きくなったり、かとおもえば妙に小さくなったり、かすれたりする。

「どこにいるの?」

千歳がたずねると、秀人は笑ってはぐらかしたあと、

「オメーもくっかよ?」

ひときわ優しい声で、そう問いかけた。

どこにいるかわからないのに、来るかだなんて。

「今から、ごはんなんです」
「メシかよ、はえーな」

千歳の鼻を、ビーフシチューのかおりがくすぐる。めずらしくこの時間から家にいる、上の姉がつくっているのだ。

「ふつーですよ?秀ちゃんも早くお家帰ってごはん食べよう」
「出店も出るんだぜ」
「何のこと?」

話の流れが読めなくて、どこにいるのか、これから何をするつもりなのか、秀人にもういちどたずねた。

「やっぱいーわ。オメーは連れていけねー」
「私は行かない方がいいようなところなんですか?」
「鳥浜。じゃーな?」
また電話する。

一方的に電話は切れた。何か、秀人の機嫌を損ねるようなことを言ってしまっただろうか。でも、切り際の声色や口調は、いつもと変わらなかった。

上の姉に冷やかされても、気がかりの根が抜かれることはない。千歳は首をかしげながら、姉に「鳥浜で何があるの?」とたずねる。すると、「アンタはいかなほうがいい」と、秀人と同じ言葉で、釘をさされた。

そういえば、

「私も、秀ちゃんの声が、聞きたかった」

秀人に、そう伝えるのを、忘れていた。


夜出歩くのが好きな姉も、いろいろ悩んでいるようすの双子の姉も、今日は、かわりなく休んでいる。千歳はひんやり冷えたダイニングの灯りをともし、いすをひいた。
ふかふかのクッションを背にいすにこしかけたあと、テーブルに、ミネラルウォーターのボトルをおいた。
キャップをひねって、のどをならして飲んでいたとき、

聞き覚えのある直管排気音の響きに、まさかと思った。その音は、足の裏をつうじて、ダイレクトに千歳の身体をゆさぶる。

まさか、こんな夜ふけに。

そのとき、猛烈にチャイムがなった。
たちの悪いいたずらだろうかと思うほど、何度も何度も連続して鳴り続ける。

だけど、あの音は。

千歳はイスから勢いよくたちあがり、あわてて玄関にむかった

靴もはかず、ルームソックスのまま。ナイトウェアのうえにストールをはおったまま、寝起きの乱れた髪の毛も肌もそのままに、廊下へとびだしたあと、玄関へかけこんだ。

玄関のあかりをともすと、チャイムの音がやんだ。
ほどなくして、まが開錠していない扉のノブが乱暴にひかれる音と、力任せに木製のドアをたたく音がひびきはじめる。

「まって、まって……」

ドアのむこうに聞こえもしない、千歳の、小さなせっぱつまった声。ガチャンと開錠したあと、ドアチェーンをはずそうとする。

いつも器用にはずせるチェーンがなかなかはずれない。

やっとのことでチェーンをはずし、鍵をあけて、そこにいるはずの人を迎え入れようとした。

その瞬間、浅はかだったかもしれない、そんな後悔が全身を走った。

もしかすると、秀人ではないかもしれない。

しかし、ついてしまった勢いはもう戻せない。一気に木製のドアをあけると、そこにいたのは、たしかに。

「秀ちゃん……!」

秀人の指が玄関の扉をこじあける。力をこめなくても開くはずの扉を、秀人は思い切り力任せにひらいて、千歳の家の中に倒れ込んできた。

「秀ちゃん……!」

一気に倒れ込んできた秀人を、千歳が渾身の力で支えた。
千歳の細い膝に一気に負担がかかるが、ありったけの力をこめて、秀人を支える。
しれっとした冷気がするりと流れ込んできたあと、凄絶な血液のにおいが玄関に立ちこめる。
秀人の、余計な力の入らない、美しい顔に、いい加減にぬぐった血液のあとがみられる。
真っ白の特攻服も、まるで血の雨をあびたように、霧のような血痕がそこらじゅうに付散している。

「秀ちゃん、どうして、こんな」

狼狽しながら秀人をとがめる千歳の声を意に介さず、秀人が千歳の肩をつかんだあと、千歳の体に、おもいきり腕がまわった。

秀人に勢いよくかき抱かれ、眩眩する千歳は、なけなしの理性をかきあつめて、秀人の意識をたしかめる。

「秀ちゃん、顔、みせて」

千歳の肩口に顔を埋めてしまった秀人の肩をつかみ、一気に起こした。

刹那、秀人が、いきなり、千歳の口にかぶりつく。
秀人の舌で千歳のくちびるをこじあけ、己の口のなかのすべてを、己のからだのなかのすべてを千歳におくりこむように、秀人が、千歳のくちびるに噛みついた。

「んっ・・・・・・」

ふりほどこうとしても、すいつくような秀人の力から、なかなかのがれられない。
首をおもいきりふり、千歳は秀人を力任せにふりほどいた。

「秀ちゃん、血が」

思い切りキスをあびせられた自分の口元をぬぐうと、血痕。今のキスは、まるで、血を飲み干しているかのようなくちづけだった。

もう一度、秀人が千歳になだれ込んだ。

「千歳」

反動で、千歳は三和土にひざを突いた。

このほうがいい。このほうが、秀人を支えることができる。

「秀ちゃん、秀ちゃん」

つとめて冷静な声で、秀人のなまえを呼んだ。

「秀ちゃん、どうしたの」

前髪にボリュームのある黒髪は、ぼろぼろにみだれている。土がまざり、ひどく荒れている。
額、顔中に、あきらかに血のあと。
あまりに血なまぐさい。
なにより、体が熱くない。感じたことのない低い体温だ。

千歳の耳元で、秀人の熱い息が何度もくりかえされる。眩暈に襲われそうになるが、千歳は必死でできることを探している。

「秀ちゃん、救急車呼ぼうか」

秀人の激しい呼吸につられ、千歳も、上半身が張り裂けそうなほど息が苦しくなる。

「あいつがよ、うちのハチマキしめてよ」

千歳の名前をよぶばかりだった秀人が、何かをつぶやきはじめた。千歳の華奢な肩に顔を埋めた秀人が、うわごとのように語り始めている。

「あいつ・・・・・・?」

千歳は秀人の背中を何度も撫でた。何度もうなずきながら話を聞く。おそろしいほど、体が冷たい。

「やったらしーんだよ」

「うん、うん、秀ちゃん」

秀人のかすみのような会話に、千歳は必死で相づちを打った。

「なあ、千歳」

救急車を呼ばなければ。ここまで、どこから、どのようにやってきたのか。秀人にきちんときかなければ。

「むしょうにおまえに会いたくなっちまってよ」

いつのまにかだらりと垂れていた秀人の腕が、千歳をさぐろうと、空をかいた。その腕をとり、千歳は、自分の背中にまわした。

「うん」

秀人の体を今一度支えるため、わき腹から腕をまわそうとすると、硬いわき腹に、しずむような感覚があった。おそるおそる、触れた手のひらを確認してみる。

「好きだ」

ずぶりと沈んだそこから、どくどく噴出している、大量の血。

千歳の腕が、シューズボックスをかく。引き戸をつかみ、そこを支点に立ち上がろうとした。秀人のからだが、ずりさがるので、一度抱え直す。

「千歳」

「うん、秀ちゃん、何?」

うわごとのような秀人の声に、なんでもないように答えながら、小刻みにふるえる腕で千歳はもう一度たどりなおす。
ボックスの上の電話に、千歳の長い腕がたどりついた。
受話器をあげ、コードをひっぱると、勢いで電話ごと落下した。

秀人のうつろな瞳が、それをぼんやりと追いかける。

「千歳」

片手だけで、千歳は秀人を抱いている。秀人との精悍な背中、秀人の冷たい背中をあたためるように、片手だけで抱きしめる。

「待ってね、いま電話する」

ふるえがとまらない千歳の指は、電話のボタンをなんども押し間違える。

「愛してる」

いつもであれば、その言葉ひとつでふるえあがるであろう千歳の心臓は、今は、別のことのためにつかわれる。

「うん、うん、わたしも」

ようやくつながった電話に、しどろもどろで住所をのべた。兄の為に何度も呼んだことがある救急車。まさかこんな日がくるとは。激しい血のにおいのなかで、いとしい恋人を抱きかかえて、その人のために、呼ぶ日がくるとは。

「千歳」

気がつけば、玄関に血だまりができている。
足下に鮮血。
わきばらから、ぽたぽたと落ちている。

秀人の体重が、そのまま一気に重みを増した。
気を失ったのだ。
その重みを支えきれず、千歳も崩れ落ちる。膝をたてて支えていた秀人に、一気に倒されるような体勢となった。手をつき、体勢をととのえなおし、秀人の身体を、ぎゅっと抱きしめる。

千歳のふわふわのナイトウェアに、気がつけば、べっとりと血糊が付着している。

「秀ちゃん、もうすぐ救急車くるよ」

気を失ってしまった秀人に声をかける。がくんと頭をたれた秀人を抱え直し、玄関にすわりこんだまま、千歳は、秀人をもう一度ぎゅっと抱きしめる。血塗れのナイトウェア。千歳の白い頬も、かさついた血のかたまりが付着している。

秀人に頬をよせた。

「秀ちゃん」

名前を呼ぶことしかできない。土と血液まじりの髪の毛に顔を埋めて、そっとキスをおくる。

秀人は目を閉じて、みょうに安らかな顔をしている。

「秀ちゃん、わたしがいるから」

バイクはきっと、すぐそこにおいてある。この家に帰ってこられるまで、ここにおいていてあげよう。
呼んだはずの救急車がまだこない。電話したのは数分前にすぎないのに、やけに遅く感じる。
保険証は?あとでわたしにゆけばいい。
いったい何が起こったからこんなけがを?喧嘩?交通事故?その両方?
だれにやられた?どこのだれとなにをして、秀人はこんなに傷ついたのか?
秀人といつもともにいる仲間たちはどこへ?その人たちは無事なのか?

はやく。はやく。

秀人を一度起こそうにも、気を失った体はずっしりと千歳にのしかかり、これ以上動くことができない。千歳のナイトウェアも、ますます激しくぐっしょりと血をすいこんでいる。

スリッパが廊下を叩く音が、夜の家にひびいた。

「どうしたの」

いやに冷静な声が、ぼんやり灯りがともった玄関にこだまする。

「おねえちゃん」
「救急車待ってたら間に合わない。アタシのカレラで行こ」

千歳がさきほど飲んだ水は、すでに意味をなさない。からからのノドのまま、何度もうなずく。

「アンタも、こういう子選んだのなら、覚悟をもちなさい」

車の鍵をつかんだ姉が、ハイヒールをひっかけ、血だまりを細いヒールで踏んだあと、扉をひらいた。

秀人は眠り続けている。
安らいだ顔で、口元に不思議な笑みをうかべて。
千歳の腕のなかで、穏やかに眠り続けている。
腰に力を込めて、千歳は秀人を思い切り抱き起した。
だらりと垂れさがった秀人の腕を肩にまわし、姉とふたりで車まではこびこむ。

姉のカレラに秀人を放り込んだあと、そのそばに千歳は寄り添った。必要なものをとりにもどった姉を待ちながら、秀人の身体をあたためる。申し訳程度に肩にひっかけていたストールで秀人を覆って、手をとり、腕で覆う。

「わたしも、秀ちゃんの声が、ききたかった」

意識を失い眠り続ける秀人に、ささやきつづける。

「わたしも、秀ちゃんがすき」

乾いた血に覆われた秀人のつめたい顔は、変化することはない。

「わたしも、愛してるの」

姉のポルシェに、血がしたたりはじめる。

「秀ちゃん」

救急車は来ない。

秀人をどこへもゆかせないように。
秀人をここへつなぎとめるように。
千歳は、秀人の名前を呼び続けた。
表情のない冷気。
車にもたちこめる血のかおりの中、
千歳は、幾度も、秀人の名前を呼び続けた。

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