部屋の照明は絶対に点けないで。
どうしても点けたいなら、ベッドサイドのライトを使って。
だれが来ても絶対に出ないで。

「ゆっくり寝てろ。いいな?」

優しいことばで、まるで、ちいさな子どもに懇切に言い聞かせるように千歳に伝えたあと、秀人は足早に出ていった。特攻服の上だけつかんで。もうあのバイクの音が聞こえて、時間差で残った音も、あっという間に宵闇に消えていく。

千歳が口を挟む暇はなかった。いつになくけたたましく聞こえた電話の電子音が、二人だけの時間を切りさいてからは、ものの十五分ほどのことだった。

ゆっくり寝ろといわれて、こんな状況で眠れる彼女なんているのだろうか。
もしかして、秀人の理想はそんな女性だろうか。
関係ない方向に思考がねじれてしまう。

たったひとりで、真っ暗な部屋。千歳は、秀人のタオルケットをだきしめて、ベッドのすみで手足を縮めてまるまったまま、かたく目を閉じてみる。
夜は苦手だ。夜から朝までの時間が、たまった澱をゆっくりとあらいながし、起きたらきっと、何事もなく次の日がきていることを、千歳は願う。そんな夜を、千歳独りだけで耐えるのが、ひどく苦しい。

ベッドサイドのライトをともして、何かしようという気も起きるはずがない。うっすらとあいたドアからもれてくる冷蔵庫の音が、ときおりラップ音のように静かな暗闇の部屋に響き、それがおわればふたたび無音に戻る。

ざわざわと、千歳の小さな心に、不安がうまれはじめる。それは重たい岩のような、得体のしれない、どすぐろい雲のような。
質量の膨大な不がゆっくりとのしかかり、心が扁平になってしまいそうだ。深いため息をついたあと、深呼吸のまねごとをくりかえしてみても、ざわつきや、無意味に早くなる動悸がおさまるわけではなく、むしろ落ち着かない気持ちになってくる。

秀人のにおいがするタオルケットをかぶって、言いつけどおり寝てしまおうとするも、うるさい頭と心臓の音が、それをゆるしてくれない。

今の自分は辛気臭い顔をしているだろう。秀人のベッドに広がった、天然パーマの長い黒髪を、千歳らしくない乱暴さでかきむしる。枕に顔をうめて、思い切り息を吸い込むと、逆に苦しくなって、けほけほとせき込んだ。

何をやっているのか。寝てろといわれたのだから、さっさと眠ってしまえばいい。

そう思考が転換すると、急に、重たい眠気がおそいかかってきた。起きているのか覚めているのかわからないあわいで、うとうとと、思惟の上下を繰り返した。
ぐぐぐと、眠りの沼にひきずりこまれそうになると、浅瀬に足がついたように急に目が覚める。そのとき、きまって、瞼の裏にうかんでいたのは、路面とタイヤが不穏にかみあったときのききたくもない不吉な音や、想像したくもない姿。結局、現実のほうが、まどろみに勝ってしまい、どろどろとした断続的な午睡をくりかえした。

ベッドサイドに置いてあるデジタル時計のバックライトボタンをおし、時間を何度も確認した。

それが4時をまわったころ、階下に、ずいぶん聞きなれた排気音が響いた。
バイクのことはいつまでたってもおぼえられない千歳だが、秀人の音だけはわかる。
古いアパートの金属の階段が、やや鋭い音で鳴っている。
性急でもなく、激しくもなく。
マイペースな音で、階段が鳴り続けている。

電気はいいつけどおりつけない。

反射的にとびおきると、頭がすこしふらついた。

たぶんまぶたも腫れぼったくなっている。顔にはシーツのあとでもついているだろうし、ひどくクセがついているだろう髪の毛を手櫛でととのえて、暗闇のなか、ベッドに座り込んで秀人の帰りを待つ。

真っ暗な玄関に、開錠されるシリンダーの音が響いた。重い音をたててひらく、金属のドア。すぐに、やや大きな音でバタンとしまる。やや乱暴な足音、地下足袋を脱ぎ捨てているのだろう。

秀人はまだこちらの部屋には来ない。浴室に特攻服を放り込んでいるようだ。

ちょこんとすわりこんでいた千歳は、ベッドからおりて、隔てている扉をそっとおした。

真っ暗だ。あかりをつけたいけれど、ここは真っ暗闇のまま。千歳の目は暗闇にすでに慣れていて、秀人のぼんやりとした輪郭も、暗がりにうっすら確認できる。
血の臭いが、かすかにたちこめている。

薄い闇のなか、上半身裸の秀人に、千歳が後ろから抱きついた。

千歳の長い腕が、秀人の精悍な腰にまきつく。

腫れているような箇所はどこにもない。でも、血と秀人自身の、なまなましく強いかおり。ずいぶん汗ばんでいる背中。こうして甘えるまえに、タオルでも渡してあげればよかった。そう後悔しながら、千歳が、その背中にひたいをおしつけた。

「おかえりなさい……」

秀人のからだが、やや驚いたようにぴくりと反応したあと、ふかくてやさしいため息をついた。

「起きてたのか。寝てろっつったろ?」

恐ろしいほど落ち着いていて、恐ろしいほどやさしい声が、頭上から落ちてくる。
いつもの秀人らしいラフさ、いつもの秀人らしいストレートさ。それは今はまだ、どこかへ消えているみたいだ。
そのかわり、とりつかれたようなやさしさ。
秀人の体は正面をむいたまま、腕だけ後ろにまわして千歳の頭を優しくなでる。

「ごめんな…。さみしかったのか?」

千歳は首を横に振る。
さみしくなんかない。

「何もなかったか?」
「大丈夫です」

弱々しく千歳は答えた。

秀人の厚い手が、千歳の手に重なった。千歳のしっとりした手を秀人の手がそっとなでたあと、手首がつかまれ、秀人によって、千歳の腕による秀人への拘束はさりげなくほどかれてしまった。

千歳は立ち尽くしたままでいる。

ケガの有無を心配することば。状況の無事をたずねることば。次のことばを千歳が選ぶ前に、

「ちっとわりぃな」

千歳にふれず、秀人が直行するのは浴室。ガチャンとガラスの引き戸をしめて、すぐに熱いシャワーの音がする。

隔てていた扉をとおって、千歳はバスタオルと下着をクローゼットから出してきて、風呂場の外へそっと置いておく。

もういいだろうか。でも、秀人からゆるされるまでは。

まだ千歳は暗闇のなかにいる。

ベッドのライトだけをともして、千歳はベッドのすみにすわりこんだ。体育座りで、膝のうえに腕をのせて、顔をそこにうめる。

長いシャワーの音が聞こえてくる。鎮めるようなシャワー。あのガラスの扉のむこうで、秀人は、何を鎮めて、何をなかったことにして、何の傷を覆って、何を洗い流そうとしているのだろう。

もう一度、デジタル時計のバックライトボタンをおす。4時半をまわり、もう、この日は、朝へ入ろうとしている。

もう一度うつむいて顔をうめて、体をちいさくまるめた。
汗ばんだ秀人の体が一気に恋しくなり、体をさらにぎゅっと縮めた。

部屋の照明が一気に明るくなった。腕のあいだから光がさしこみ、千歳は顔をあげて、まぶしそうに目をしばたかせた。

ボクサーパンツだけの秀人が、頭にタオルをかぶっている。手には冷蔵庫からとりだしたミネラルウォーター。先ほどまでの宵闇で確認できなかった秀人の顔を、じっとみつめる。千歳の大きな瞳で、穴があくほどじっとみつめる。少しだけ腫れている目元。それ以外に、めだった傷は見あたらない。

「気がきくなおめーは」
ありがとな?タオルとこれ。

なんでもなさそうにベッドに腰掛け、千歳に礼をつたえながら、秀人は、千歳にミネラルウォーターをさしだして、すすめるようなジェスチャーをおくった。千歳は、ふるふると横にくびをふり、力ない笑みを浮かべる。

「さみしかったんだろ?」

タオルで水気をとりながら、秀人が千歳にからかうように声をかける。

「さみしくないです」

言葉とうらはらに。千歳は、ベッドの片隅から、秀人にちかよって、背後から、秀人のからだに手をまわす。上半身裸の秀人。その背中に耳をくっつけて、秀人のからだの音をじっとききながら、かすかな声で囁いた。血の香りはもうしない。ただようのは、秀人の家の石鹸のにおい。ふかふかと漂うお湯のにおい。

「濡れちまうぞ?」

秀人は、背後に片腕をまわし、まだすこし水気のある手で、千歳の髪の毛をゆっくりとといた。

「わるかったな?ほっといて」
「大丈夫です……」
「おまえにデージョブって言わせてばっかだな、おれぁよ」
「だ……、いいんです」

千歳は、うでに少しだけ力を込める。

「どした?もーどこにも行かねーぞ」

秀人がタオルでわしゃわしゃと髪の毛をぬぐうので、千歳にすこしだけしぶきが散った。
その言葉だけでは、こころもとないから。

「秀ちゃんは、大丈夫ですか」

帰ってきてから、一度もかけられなかった言葉を投げかけてみる。

「デージョブだよ」
「本当ですか?」
「ああ」

背中をみせたまま、確かな声で、なんでもないように秀人は答えた。
千歳は秀人から、腕をほどいた。

「よかったです、かえってきてくれて」

背中に耳をくっつけて、ことばをおくった。そっと体をはなして、そのまま、秀人のタオルケットをひとりじめして、体をまきこむように纏ったあと、枕に頭をおいた。秀人ではなく、壁の方を向かって、しずかに目をとじる。

「大げさだなー、おめーは」

秀人が愉快そうに声をたてて笑った。

「おおげさなんです、わたし……」

千歳は、タオルケットをいっそうつよく体にまきつけて、眠りの海へ足をしずめていく。
ベッドがギシっと音をたてた。

「タオルケットくれよ」

うとうととしている千歳が、うん、とも、ううん、ともとれるような、あいまいな声をたてて、タオルケットのはしを握りしめていた手をゆるめた。
一度それはうばわれて、ふたりぶんの身体を覆いなおす。

秀人が、千歳を覆うように両手をついた。千歳の口元は、枕にうまりかけている。届かない。無理にあおむけにさせるわけにもいかなくて、秀人は、千歳の頬に、そっとキスを落とした。一度だけおくろうと思ったキスは、何度もくりかえされる。千歳はまどろみのなかへとりこまれようとしている。千歳の片頬に何度もキスをおくり、秀人のくちびるは、首元を一度きつく吸い上げて、赤いあとをのこした。
そのまま、千歳の細い腰を抱いて、秀人よりひとまわりきゃしゃな千歳の身体を、そっと抱きしめた。

「もうデージョブだからな」

千歳の夢の中に、秀人の声が落とされる。千歳の身体に秀人の腕がからみつく。その言葉を己の力であらわすように、千歳の身体を大きく覆って、秀人も、恋人とともに、眠りに落ちていく。

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