IN THE SUMMER
しろくま殺戮家

「できた……!」


油性マジックペンのふたを、カチっと音をたてて締めたあすかの右の親指のつけねには、マジックが描いた線が一本。

満足そうにつぶやいたあすかの手元を、兄の英二と相棒の久保島が見下ろした。

英二の部屋で三人がたむろし、部屋の中央にあるちゃぶ台の上に鎮座しているのは、冷却シートだ。身体が熱をもったときに、額にぺたりとはりつける、気休め程度の日用品。病気だケガだと何かと体に熱をためこみがちな英二や久保島も、常日頃から愛用している。

透明感あるブルーの粘着性の冷却材のなかには、いっそう濃い青のつぶつぶがしずんでいる。

そして、それをうらがえせば、冷却材により安定感のない白い裏地がみえる。


英二の妹あすかは、その白地によりいっそうの清涼感を与えようと、すらすらとイラストを描いてしまったのだ。


「しろくま!すずしそうでしょ」


あすかが黒の油性マーカーでいともかんたんにいろどってしまったそれをしげしげとみつめていたエージと久保島が、それぞれ低い声でうなってみせた。

いやみと皮肉、他人の弱点を見つけるのが上手く、姑息さと厭世味たっぷりにいつも人の神経を逆なでしてやまぬ久保島まで、相棒の妹に対して、さすがにもろ手をあげて素直な賞賛をあたえた。

「うめーな、おまえ……」
「絵とゲームと……バスケかな」
得意なこと!

料理もできない。そうじもへたくそ。おしゃれはいい加減。勉強もフツー以下レベル。足があすかより速い子なんていっぱいいる。
バスケ部は、人間関係のわずらわしさで、もうやめてしまった。

そんな言葉を聞いた久保島がにやりとわらう。

「あとぁバカなんか…?」
「中の下、ですね!!」
「堂々とゆーことかー?」

兄のエージが、わるびれもしなければ図星をつかれて怒ることもなく、平然とのべてみせる妹あすかに、わざとらしいためいきをついた。

ちゃぶ台の上には、上部を乱雑にひきさかれたパッケージがころがる。
冷却シートの上に、あすかがマーカーできゅっとかきあげたのは、しろくまの絵。
デフォルメされて愛嬌たっぷりのしろくまのイラストと、あすかの感性のおもむくままにふちどられたデザイン、あすかオリジナルに描きあげたそれは、ひとかどの商品のようだ。このまま売っていてもおかしくないかもしれない。


「これをー、武丸さんにあげる!」
「あ?久保島つってなかったか?」
「久保島さんカノジョいるじゃん、その人にやってもらえばいいんじゃないですか」

そもそも久保島にあげるなどひとことも言っていない。そして兄にあげるとも言った覚えはないあすかは、ふたりのことを、いたってさわやかに切り捨てる。

久保島自慢の、きりきずのはいったくちもとがぴくぴくとふるえても、あすかはいっさい意に介さない。
興味のないものにはドライなあすかの性質は重々承知している。

「だーれが欲しいっつった…。エージぁ……今何股してんだよ」
「にいちゃん最悪なんですよ!このまえ、ギャルっぽい子が家んまえで泣いててー」
ほんとかわいそう!!

ケッと吐き捨てて、冷徹な笑みをうかべた英二が、たばこに火をつけた。このくそ暑いのにたばこを吸うなと、あすかはさんざん苦情を申し立てているのだが、英二はひとつも聞き入れやしない。冷房がしっかりきかされた部屋に、むせるような煙が充満していく。

あすかが纏うボタニカルデザインのノースリーブから、骨ばった二の腕がのぞく。その適度な細さに気を取られていた久保島に、あすかがしれっと質問した。

「武丸さんどこにいるの」
「キャロルにはくるなよ」
にしてもよ、あちーんだよ、冷房さげろ……。

「寒い!!」

リモコンをとりあげた久保島が23度までさげたそれを、あすかがとりあげて、マイペースに27度に戻した。

「ロックオンにもくんじゃねーっていわれたんだろ」
「そうなの、武丸さんの言うことはちゃんときくんだよ」

ちゃぶだいに頬杖をついた久保島も、ケッと悪態をつきながらたばこに火をつけた。四方八方をけむりにかこまれ、わざとらしく煙をはらうしぐさをみせるあすかに、ふたりして煙をふきかける。あすかがおおげさに両手をふり抵抗をしながら、ちいさな声でつぶやいてみせる。


「やっぱ、ランコ……」

ちゃぶだいの上の灰皿にたばこをたてかけた英二が、あすかの後頭部を軽くはたいた。
あうとうめいたあすかが、テーブルの上にわざとらしくへたりこんだ。


「お休みの日は、どこにいるのかなあ……」
「武丸か?実家だろ?」
「オヤジさん、最近ださせねえらしーぜ」
「親子関係、問題あるの?」
ケンショーにも、そういう子いっぱいいるよ。

二人して、あすかの無神経な言葉に眉間にしわをよせてしかめっつらをつくれども、怒りはしない。
彼らもあすかには甘いのだ。

そのかわり、英二が、兄らしくさとす。

「武丸んとこぁな、それたーちげーんだ」
「……同じ高校生なのに…?」

氷がほとんどとけたコーラを久保島が一気のみする。
ちゃぶだいにつっぷしたままのあすかが、しろくまのイラストが施された冷却シートをもてあそぶ。
英二が、一つ年下の妹のちいさな頭を、ぽんぽんと叩いた。






"あぁ?ビョーインだよ"

"今日はおそくなっからよ、冷凍ピザでもあっためてくえ。レンジ使い方わかんな?600Wのほうでやるんだぜ?”

7月の半ば。県立正明はもうすぐ夏休み。聖蘭高校も夏休みを迎えようとしていたある夜。今日の夕飯づくりは、兄の担当だ。冷蔵庫の中身を見ても、手際よく料理なんてかなわないあすかが、ダイニングの椅子にこしかけて、麦茶を味わっていたとき。
けたたましく鳴り響いた電話。ガチャリと持ち上げれば、多少切羽詰まった声色でそう矢継ぎ早に伝えた英二の声、受話器の向こうでぷつりと途切れようとしたとき。

両親は仕事場で夜をすませるだろう。
独りの夜を過ごすことはいたって慣れたものなのだが、今日もあすかの食いつきは、日ごろとはちがったものであった。


「兄ちゃんがケガしたの?保険証ある?」
「ちげーよ、武丸だ。今日じゅうにかえれっ………つって……て、よ……」


ぺらぺらと言葉を並べ立てていた英二が、次第にくちごもりはじめる。

妹に、余計な情報をあたえてしまった。

ちいさな部屋で妹の与太話を聞いてやることはできるが、それを真に受けて本当に近づけるわけにはいかない。
英二のその思いやりは、妹の身の安全への一心の想いなのである。


「今日中に帰れるの!?」
「切るぞ」
「わるくはないの!!??」
横浜大学病院だよね!?!?


叩きつけるように電話をきったあすかは、ずるりとおちたオフショルダーのカットソーの肩口を一度ぐいともちあげて、迷いなく、二階の自室をめざす。


あすかの部屋の勉強机の上には、乱雑に上部をひきちぎったパッケージにおさめてある、冷却シートが一枚。

きちんと開け口を折りたたんでしまいこんでいたから、冷却機能はうしなっていないはずだ。

デニムのポケットにそれをおしこんだあすかは、再び階段を駆け下り始めた。


玄関口に放置してある鍵をひっつかんだ。ダイニングの冷房はつけたまま。家から近い大学病院へ、走れば10分。あすかより足の速い子なんていくらでもいるけれど、遅い子だっていくらでもいる。


酷いケガなら、あすかが会ってどうにかできるものじゃない。


でも、今日中に帰ることがかなうケガなら。


あの人が、ほんのすこし、傷ついているだけなら。


あすかのなけなしの分別は、ざっくりとそう切り分けて、あの三人がいるであろう病院へすべてのベクトルを向けるように命じた。


夏の夜は、ずいぶん明るい。
薄紫に染まった空がもうすぐ、真っ黒に染まり始めるはずだ。
あすかを押しつぶすような湿度は、つるりとした額やうぶげがめだつ生え際をしっとりと濡れさせ始めるけれど、こんな夜にかく汗は、悪くない。
武丸のための汗だ。

兄の部屋に、あの病院の名前がしるされた薬の包み紙がたくさん放置してあったのだ。めざす病院はきっと間違いじゃない。



小高い丘の上の病院までの、ゆるやかな坂をかけのぼっていく。
足元はたよりないサンダルだ。走るたびにかかとから離れてペタペタと情けない音をあげる。
駐車場には、見慣れた単車はみあたらない。きっと、どこか見えないところに隠してあるのかもしれない。


そして、正面玄関、すっかり照明をおとされた広い待合室で、陰鬱なオーラを纏いながら居座っている三人の姿をみつけて、あすかは英二そっくりの鋭利な顔立ちをいっぱいにほころばせて、安心したように笑った。


「きやがった…」
「……」

押し黙っている久保島は、片目の治療をおとなしくうけて、腕を組んでふんぞりかえっている武丸の様子を、注意深く伺っている。

「兄ちゃん!久保島さん!」

しんとしずまりかえった待合室。
これほどどすのきいた空気を醸し続けている三人に、毅然と注意できる看護師や事務員、警備員は存在しないのか。

がらんとしずまりかえった病院内に、あすかの爽快なアルトが響く。

「……武丸、さん……!」

いやに神妙に武丸の名前を呼んだ妹の姿を見た英二が、生唾をごくりとのみこんだ。
ひとまずこの問題においてみずからに責任はとわれぬとふんだ久保島は、高みの見物だ。


両サイドのイスに両手をあずけて、ふんぞりかえっている武丸が、オフショルダーのカットソーとデニムに身を包んだあすかを、上から下まで眺めた。

「……」

武丸があすかの品定めをしている間、あすかもまた、武丸を品定めする。
怪我の具合、心の乱れ、武丸と過ごしたわずかな時間で、あすかが野性の勘でかぎとった微細な変化を、克明に記憶と照らし合わせる。

武丸と神妙に見つめ合うそのすがたに、さすがの久保島も肝をひやしはじめたとき。

ゆったりと組まれていた武丸の長い脚が、組み替えられようとした。



「すわっててください!」

途端、あすかが、爽快な声で武丸の行動をとどまらせる。

立ち上がるのか、そのままなのか。
立ち去ろうとしたのか、あすかにかまおうとしたのか。

あすかがもう一度、穏やかな声で武丸をその場にとどめた。


「すわってて、ください…」


デニムのポケットにつめこまれた、しろくまもようの冷却シート。
ケンカした後の身体にはきっと、不要な熱がこもっているはずだ。
ここは冷房がきいているけれど、一歩外に出れば襲い掛かるような湿度と熱。


ポケットから引きずり出した冷却シート。

あすかは、それを、おそるおそる武丸にさしだした。
英二によく似た切れ長の瞳には、子供じみた期待が滲んでいる。


「これ、あげます……」


久保島が生唾をのんでみまもる。
英二は、いつ矛先が己にむくか、武丸の感情の動きを読むことに徹している。


武丸の片手がゆっくりと動く。
見えない血にまみれたその白く分厚い手は、あすかの両手から、パッケージに包まれた冷却シートを、やおら取りあげた。


雑に折りたたまれた開け口をこじあけたその白く野太い指は、パッケージのなかから、冷却シートをとりだす。


かわいいしろくまが描かれたシート。
ブルーの冷却材をまもっていたフィルムがぺろりと剥がされて、冷却部分がむきだしとなった。


しろくまが、今にも殺されてしまう。


三人が、そう、固唾をのんだとき。


ばさりと黄金のとさかが上下する。

武丸の、きめのこまかな白い肌。

その額があらわになったとき、しろくまが、真っ白な額を彩った。


「…熱ぁ、ねーんだけどよ……」
「良かった!これから熱でないといいですね!!」

噛み合わぬ会話をかわしてみても、武丸の顔色がかわることはない。
思えば久保島が、このふたりの会話にまみえたのは初めてか。

久保島が息をのみ、呼吸が止まる音が、がらんとしずかでだだっ広い待合室に、しずかにひびく。

しろくまが、武丸の額に鎮座すると、あすかが、にぱっと笑った。


「今夜も暑いですよ!」


英二が、つるんと冷たい床にへなへなと膝をつく。


あすかの爽やかな声を受け容れた武丸の、ぶあついくちびる。その口角が、かずかににやりともちあげられたとき。

日頃は硬直した表情筋のかすかな動きにつられて、しろくまが、にたりとわらった。
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