IN THE SUMMER
炎天下のチェリー・ガール

白いTシャツのそでをまくりあげるとむき出しになるその腕は、須王と同じくらい精悍だ。


須王の素肌は、きめがこまかく繊細だ。
白くも黒くもないあすかと違って、生まれつきの肌の美しさと肌の色は、倫子とよく似た純白。
ただし、日に焼けやすいとも語っていた。だけれどこの真夏の炎天下、いまだ、須王の肌がやかれてゆく気配はない。


そして、たった今、あすかのすぐそばにいる男の子。


その精悍な腕は、須王とちがって、ずいぶんすこやかな浅黒さだ。


不思議だ。
あれほど、男の子も、他人も、人間そのものが苦手だったのに。

あすかは、友達になったばかりの男の子のそばで、夏のなんでもない午後を、安心して過ごせている。


真嶋商会。
真夏の炎天下。


トタンの壁を垂直にきりさく影。さびだらけの古びたベランダが、コンクリートに黒と白の陰のコントラストをつくる。

ぎらついていた日差しは、午後3時をすぎて、強気な光に穏やかさをにじませはじめた。


それでもずいぶんつよい日差しの下。
工場のなかには居座りにくくて、店先に古ぼけた丸いすをひっぱりだしたあすかは、いつしかすんなりとなじんだこの解体屋の店頭で、どこかへ行って帰ってこない須王を、ぽつんと待ち続けている。
すっかり慣れてしまったこの場所へ、英会話教室の帰り、顔をだしてみたのだ。
しかし、会えることを願っていた須王、そしてこの店の主も不在。



いたのは、半村誠ひとりであった。



バイクいじりがおわったのか、あすかが気遣って引っ張り出した丸椅子に腰掛けた誠が、まるで尾崎豊のようにととのった顔、そのやさしい口角を、キュートにあげた。

「あすかちゃん、今須王とくらべただろ」
「すごいね、誠くん……」
なんでわかるの?


日吉にある有名私大付属高校に籍をおきながら、まともに通学していない誠。
神奈川県下トップの公立高校で、どうにか見られる成績をたもつあすか。
ほぼ同等の知的レベルであるふたりは、初めからすんなりと気が合った。

それにしても、この暑さの正体はひざしではなく、コンクリートからたちのぼる、熱だ。
やけつくようなそれがふたりにまとわりつく。
我慢強いのか、マイペースなのか。整った顔にあきれにちかいうんざりした気色をうかべる誠とちがって、あすかは存外、暑気は平気であるようだ。


誠が、缶コーラをごくごくと飲みふける。
飲みかけのそれをあすかにわたそうとするが、あすかは片手を横にふって恐縮してみせる。

「間接キスんなっちまうもんな」

そんな冗談も、あすかは首を傾げて、平然と受け流す。
いや、受け流すという言葉は似つかわしくない。あすかのほのぼのとしたオーラのまえで、そんな冗談は霧散してしまう。
誠とあすかがとぼけた会話をかわすさまをきょとんと眺めていた須王が、やがて大笑いしていたのは、夏のはじめの頃だった。

炭酸のぬけてしまったコーラを味わう誠。
タオルハンカチで額の汗をおさえたあすかが、須王よりずっと精悍なのどぼとけがごくりと動くようすを、ぼんやりながめた。
銀縁の眼鏡越しの済んだ瞳の焦点が緩くなったことを悟った誠が、あすかを気遣う。

「暑い?」
「ん?大丈夫」
「そっか、ボーっとしてたからさ」
「水筒があるんだよ」

ちいさなトートバッグからこれまたちいさな水筒をとりだしたあすかに、誠が用意いいなあとわらってくれる。
のむ?とあすかがたずねると、コーラをのみほした誠がわらって手をよこにふった。


かつての自分なら、こんな友達ができるなんて、夢にも思わなかっただろう。


「須王、こねーなあ」

炎天下。
山手のはずれの町の、何の変哲もない歩道が起こす熱ですら、このありさまなのだから。
須王の現状を慮ったあすかが、額ににじんだ汗を布でかるくおさえると、日焼け止めと軽くはたいたパウダーの肌色が、タオルハンカチに付着する。ああと困った声をあげたあすかが、きっと今頃、どこかの道路をバイクでとばしているであろう須王をおもって、懸念の色をその穏やかなアルトににじませた。

「須王くん、大丈夫かなー日射病とか」
なんでヘルメット使わないんだろ…。

首にかけていたブルーのタオルで汗をぬぐった誠が、軽く笑ってつたえた。


「心配?」
「んー、うん……」


それにしても、暑い。
だけれど、ものごとの快不快をはっきりと言葉にすることが不得手なあすかは、暑いというグチすらカンタンにこぼすことはない。


そしてあすかは、存外、こんな季節がすきなのだ。


「心配だけどさ……こんな季節だと、夏がなんとかしてくれそう……」
「……?なんかの引用……?」

ロシア文学、ドイツ文学、イギリスの古典文学。
個人で貿易商をいとなむ半村家の父親は、息子と娘にありったけの書物をあたえた。誠にも晶にも、基礎教養はしっかりとそなわっている。あすかがふいに述べた、ひどく曖昧なフレーズ。今まで読んだ本から該当しそうな箇所をたどってみようとしたが、残念ながらみつからなかった。


あすかが首をかしげて、横にふる。
こんな季節は、本を読むわりにロマンにおぼれないあすかの頭を、酔わせてしまっている。

「夏だなあっておもって」
「あちーよ」

苦笑いをうかべた誠が、質の高いシンプルなTシャツの首元を気ままにひっぱり、生まれたすきまからわずかな風をよびこんだ。

「単車はこういう季節にはむかない?」
「オレらにゃかんけーないけどさ」
でも暑ぃのは、ホント。


オレら。
誠が標榜する、その気持ちいい言葉。
一体彼らは、どこへ行ってしまったのだろう。
真嶋商会はしれっと開店しているのに。


もしもこんなときにお客さんがきたら。もしも電話がかかってきたら。
商売系のアルバイト経験のないあすかが、もしも事務対応をうけもつなら。
暑さにかられて想像がはじまろうとしていたとき。

あすかの夢想を、そういえば聞いたことのある音が、粉々にうちくだいた。

それは、いかめしい直管の音。あすかが反射的にちいさな体をすくめれば、大丈夫だといわんかばりに誠がわらってくれた。

須王や誠のそばにいる男の子たちのなかで、最も畏怖をたたえていて、そしてもっともこころのやさしい不器用な男の子。

同い年のこの男の子は、どこか曖昧でぼんやりしているあすかよりずっと誠実に内省していて、頭のいい子だ。
サイドスタンドを華麗にだして、豪奢なバイクの上から、ひとりの少年がおりてくる。なんて器用な足さばきなのだろう。とろい自分にはきっとかなわない仕草。


「龍也くん……こんにちは」
「……ああ」
「……」
「……」

会話術に劣るふたりは結局、こうして沈黙を選んでしまう。

龍也の単車を興味深くながめていた誠が、不可思議な沈黙をこらえきえないように笑った。
笑いやがったなとじゃれる龍也を、あすかは不思議そうに見守る。
須王には結局すきにされているのに、このふたりは、対等だ。

ひととおりじゃれ終えて、あすかにはわからない会話をかわしているとき、龍也がぽつりと案じてくれた。

「須王、ちっとおそくなっかもしんねー……」
「教えてくれて、ありがとう」

こんなに迫力があるのに。こんなに剛毅なのに。
なぜか、心地よい隙のようなものがあって、ふしぎと話しやすい。
きっと、そんな思いを抱く子は多いのではないだろうか。
いつだったか、中学生くらいの黒髪の女の子が、龍也の背中をちょこちょことくっついて歩いていた。その懸命なさまは、まるで昔のあすかのようだった。


「暑いだろ、そこ」
「龍也くんこそ、長袖暑くないの?」


頬のキズがすっかりいえた龍也が、あすかのすんなりとした指摘に、顔をしかめた。
至極当然ともいえる指摘に、誠が悪びれないようすで笑った。

「でもよー。龍也、汗くさくねーよなあ」
「そうだね、清潔だよねー」

相変わらずがらんとした店先。
はたと気づいたあすかが尋ねる。
そういえば、彼らにまとわりついてやまない中学生たちがいない。

「あの子たちは?」
「いちおーガッコの講習いってんだと」
「じゃあ今日は、高一メンバーだけかあ」
「だなあ」


龍也が会話の輪をしばし離れる。1分ほど歩けば、自動販売機があるのだ。誠が飲んでいたコーラもそこで購入したもの。

おおまたで戻って来た龍也が、ウーロン茶の缶をほうりなげてきた。

あすかが、それをあわててうけとってみせるものの、運動神経には途方もなく欠けていて、どうしようもなく不格好だ。龍也は、それを笑ったりしないけれど。

さきほど、誠が見せてくれた気遣いは断ってしまったのに。
それを気にしたあすかが、ウーロン茶の缶と誠の顔をみくらべる。

誠が、さばさばと笑い飛ばした。

「あ、ありがと……」
「いーんだよ?リューヤんおごりだ、もらっときな」

オレにもおごれよリューヤーと、龍也の精悍な肩にさわやかに誠がからみつく。
あちーんだよと悪態をつきながら、龍也はよく冷えたコーヒーをひとりじめしている。

「うーろんちゃってよー、にがくねーか?」
「?そうかな?龍也くんは苦い?」

冷たいコーヒーをあおり、それを誠にわたした龍也が、母親が中華街で見つけてきたというおいしいお茶の情報を語った。須王くん、一緒に行ってくれるかなあ…、そうつぶやくと、須王なんか連れてくとトラブルのもとだと常識的な口調でいさめた。龍也のそんな意見に同意の姿勢をみせた誠が、あらためて切り出す。

「あすかちゃん、龍也とぁフツーにしゃべれんよなあ」
「龍也くんがふつうにしゃべってくれてるんだよ。私、ここ以外で男ともだちなんかいないんだもん」
「そーなの?それもヘンな話だなあ」
「…ダチ、須王だけだったんか」
「男の子の?そうだよー」
「須王のちゅーぼーんときって、今とかわんねーの?」
「えっとね、宿泊研修のときね……」

すべての情報を語ってしまうと須王に申し訳ないから、校内校外、須王のことを知る人物ならだれでも知っているエピソードを語って聞かせる。そのなかには龍也も誠も知らないことが多かったようで、ふたりして目をまるくして、素直に耳をかたむけてくれた。


そこに。

意外に水分を欲していたあすかが、龍也にもらったお茶を飲み干そうとしていたとき。

これまた聞きなれた迫力の直管の音がひびいた。


中性的な澄んだ声が、夏空の下、恋人のなまえをよんだ。


「あすか!!」
「須王くん、お帰りー……」

龍也の丹念な所作とちがって、あらっぽい単車扱い。
それでも、単車は、ちゃんと須王のいうことを聞く。


ナッちゃんはー?誠が、のびやかな声でそう尋ねると、おいてきた!!と須王がさけんだ。さきほどまでの穏やかな表情とはうってかわった龍也が、須王を鬼の形相でにらみつける。でも、そんなもの、須王にはどこ吹く風だ。

そのかわり、須王の整った顔はあすかにだけ向けられて、あすかはそんなせっぱつまった表情で見咎められたところで、どうしていいやらわからない。

龍也は、みなれぬ須王の変化をまのあたりにしたところで、ばかばかしいだけだ。
矛先がこちらへむかないことがむしろよろこばしい。


「待ったかよ?」
「ん、んーー」

まだ、はっきりとものごとをのべることがにがてなあすかのかわりに、龍也がこたえる。

「……てめーのオンナまたせてんじゃねーゾ……」
「龍也くんがいうほどまってないから……」
「まってたんだぜ?こんな炎天下でよ?」
「そんなことないんだよー…」

誠の援護射撃を懸命にいさめてみせながら。
あすかは、またもこめかみをとろりと落ちてきた汗を親指でぐいとぬぐった。
そばで笑っている須王は、まるでさっぱりとした汗しか掻いていないのに。

そして、強い炎天下。くらくらしそうな夏のなか、あすかは、ぎゅっと瞳をとじる。

ああ、こんな人たちに。
自分のこころを代弁させてしまう。
自分のことばで、こんな人たちとおなじようにこころをかたれるのはいつになるか。


そして、こんな夏がいつまでもつづけばいい。

須王が、あすかの細い肩をぎゅっと抱きながら、余裕をにじませた笑みでニタニタとけん制している。

「あすかん手ぇだすなよ!」
「だれがだしたりするの…ないから、そんなの」
「なあ、須王んバカと話あうんか?」
「あ、あうよ!ね?」

間近に迫る須王の、さわやかな汗のにおいと、香水と、心地よいシャンプーのかおり。

誠がふるくさい調子でひやかすと、けらけらと須王がわらいとばし、龍也の口角もやさしくあがった。あすかのウーロン茶はもう飲み干してしまった。そういえば、あすかのちいさなバッグのなかにおさまる水筒に、わずかにお茶が残っていたはずだ。あすかがいそいそととりだす。須王くん、のむ?と尋ねてみれば、フタも中蓋も取り上げてしまった須王が、炎天下のなか、魔法瓶で守られていた冷たい麦茶を、一気に飲み干した。
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