きみの好きのひとことが奥歯にしみた
「……」
一人がけのソファにしなやかな体をしずめた緋咲の手元には、シンプルなグラスに注がれた漆黒の液体。
さっぱりと磨かれたグラスを満たすそれは、緋咲の整った口元に慎重に運ばれている。
ふたりして、ぽかんとしたまま観終わってしまったイタリア映画。ジャケットが夏らしい海辺だったから、小春が選んできたのだ。緋咲は、小春の映画の選択眼を信頼しているけれど、たまにはそれがはずれることもある。小春は罪悪感を抱いていないし、緋咲の厳しい眉間には、めずらしく苦笑いからくるしわがよっていた。
あまりおもしろくなかったシュールな抽象映画のビデオをデッキからとりだし、ブルーのレンタルバッグに丁寧にしまいこんだ小春が、ひとまずカーペットの上にそれを置いたあと、緋咲の足元にぺたりと座り込み、緋咲の冷たく整った表情の、微細な変化を観察しはじめた。
「……」
小春にとって、飲みなれたそれ。
緋咲にとって、はじめて味わうそれ。
緋咲の部屋のガラスのテーブルの上には、ポップなデザインに彩られた紙パックのリキッドアイスコーヒーが置かれている。
氷を浮かべて急冷したアイスコーヒーは、それぞれのグラスとマグカップにそそがれて、みつばちとくまの絵が描かれたパッケージは、かさを失い、表面は冷風で乾ききっている。
「……うめーな……」
「ね、おいしいですよね!」
小春が家から持ってきたリキッドアイスコーヒーは、ぜひ緋咲にも楽しんでほしかった。
夏にぴったりののみもの。小春のお気に入りのそれを緋咲にすすめてみれば、緋咲はすんなりと飲んでくれた。
小春専用のマグカップには、まだなみなみとコーヒーが浸されている。
マグカップをとりあげた小春は、緋咲のすわるソファの側面に背中をあずけて、慣れ親しんだ味をひとくち味わった。
「微糖ですよ。最初からお砂糖はいってる」
「小春、ブラックがすきだろ」
「緋咲さんも。大丈夫ですか?」
小春がちらりと緋咲を見上げてみると、コーヒーの色にそまった緋咲のくちびるが軽くあがった。緋咲がごきげんであるサインをたしかめた小春は、わきあがるうれしさをこらえきれず、ぎゅっと体を縮めて、再びソファの側面にちいさな体をあずけなおす。
氷で急冷されたコーヒー。
緋咲のしっとりとした腔内を美しいかおりと味わいに染めて、のどをたどって体のなかにおりてゆく。
やすっぽいパッケージ、手間より利便性を重視したものかと思いきや、予想に反して質の高い味を楽しみながら、小春のためにつくられた表情はゆるゆるとほどかれて、緋咲は、薄いくちびるをかみしめる。
狐につままれたような映画だったが、流れていた音楽はわるくなかった。さっそくそれを覚えていた小春が、緋咲に背中をみせたまま、コーヒーを楽しみ、覚えているメロディをくちずさむ。
その愛らしい声に身をまかせた緋咲のコーヒーにそまった腔内を、自らの舌がたどり、歯の具合を確かめる。
小春こうして、緋咲の死角になる場所に座り込んでしまうと、その愛らしい姿が見られない。緋咲が隠すように会っている子。すきなときにすきに楽しめるわけではない彼女の姿。
今日ばかりは、それでかまわない。
緋咲の厳しい眉間に、しわがよる。
確かにうまい。
上質なリキッドアイスコーヒーだ。
小春に適した温度は、緋咲にとって物足りない冷気。そんな温度の室内で、緋咲の体の温度をさらにつめたくさげてくれる。
これに、何のつみもない。
緋咲の口元がゆがむ。
クセのようにきめたくなる舌打ちは、小春がそばにいるときは懸命にこらえている。
思わず舌打ちが飛び出しそうになったとき、緋咲はそれを軽い吐息でごまかした。
息が歯茎をなでると、痛みがうまれる。
緋咲がこらえる痛みは、歯だ。
不意打ちでくらいかけた鉄パイプでの一打は、致命傷にならぬかわりに奥歯だけを中途半端にくだいた。
こんなとき選ぶものは、もちろん冷たいものだ。
痛みにさらなる刺激をかぶせる。
いつだってこうして乗り越え、痛みより己が強くなることで解決してきた。
しかし、歯は大敵だ。
プロでしかなおせぬものを、こうして刺激でごまかしつづける。それも、そろそろ潮時か。
小春がもってきたコーヒーでも、ここが限界かもしれない。
深い夕闇にそまった氷だけが残ったグラス。
緋咲が、大きな手のなかでそれをあそばせ、舌の先で、尖った患部をもてあそんでいると。
「緋咲さん、もういいんですか?」
ソファの下。
緋咲の真下に移動していた小春が、いつのまにか、緋咲のことを、懸念するようなまなざして見上げていたのだ。小春がのみきったマグカップは、ガラスのテーブルの上におかれている。
「あ、ああ」
少し呆けたような声音だった。
小春が、緋咲の手元から空のグラスをそっとほどくように取り上げる。
残ったこおりをなぜだか観察した小春が、ガラスのテーブルの上に戻したあと、振り返った。
「コーヒー、私が全部のんでいいですか!」
「・・・・・・ま、いーかよ、ひえてもよ・・・・・・」
「?」
愛用のマグカップに、少しぬるくなったアイスコーヒーを遠慮なくそそいだ小春が、ぺたりとすわりこんだまま緋咲を見つめる。
「緋咲さん」
声は緋咲ではなく、マグカップのなかに落ちていき、音がくぐもってしまう。
それでも、緋咲をよぶ声はちゃんと届いた。
緋咲の手元にジョーカーも灰皿もない。
持て余された大きな手は、紫色の髪の毛をかきあげて、返事するかわりに、緋咲の切れ長のひとみは恋人のことをまっすぐ見やった。
「むしば?」
しれっとした声でたずねた小春の質問は、緋咲の想定を、ほんの少しはずした。
マグカップにみたされたコーヒーを、満足そうに一気にのんだ小春が、マグカップを緋咲のグラスのそばに戻す。
「そうだよ」
日頃の緋咲であれば、考えられないほどやさしい声音。
あまくいとおしい言葉じり。
緋咲は、優しい嘘をつく。
「歯だけは、ほっといてもなおんないですよね・・・・・・」
アイスノンでひやしますか?
そんな手当はとうのむかしに、やりきって、効果がないのだが。
てもちぶさたなままソファにふんぞり返っている緋咲が生返事をすると、それを肯定と解釈した小春がぴょこんとたちあがった。
お気に入りのリュックのなかから大きめのフェイスタオルを取り出して、勝手知ったるキッチンへぱたぱたとはしってゆく。
がらんとした冷凍庫に、クラッシュアイスと、氷と、氷嚢。そして、小春のすきなアイスクリーム。
アイスクリームをみつけたことに笑みをかみころした小春は、一番ちいさなアイスノンをとりあげて、母のくれたヴィヴィッドな模様のタオルで丁寧につつみあげる。
アイスノンを抱えてもどってきた小春を、緋咲は、迎え呼ぶように招き入れた。
緋咲の長い脚のあいだに迎え入れられた小春は、そのまま、緋咲の頬にタオルごとアイスノンを近づけた。
「あてますか?」
「ああ」
ふわふわとフローラルのようなかおりをただよわせた小春が、緋咲の形のととのった頬に、アイスノンを慎重にあてた。大きな手を、小春の手にそのまま重ねた緋咲が、しばし、タオル越しのものたりない冷たさを楽しむ。
「歯医者さん、行かなきゃ」
「めんどくせーけどよ・・・」
「行かなきゃ治らないですよ」
アイスノンは小春の手の熱をすいあげまたたくまにぬるくなり、そのぬるい冷気に飽きた緋咲が、アイスノンをずるりとすべらせてソファに落とした。小春がとがめる声をあげるまえに。
緋咲は、小春の痩せたからだを、そっと抱き寄せる。
小春はおびえなくなった。
小春はおずおずと抱かれなくなった。
ただ素直に緋咲に身をまかせ、緋咲の体に遠慮なく甘えた小春が、逞しい腕のなかで、緋咲をみあげる。
「好きです。緋咲さん」
この痛みの正体をしらない小春の澄んだ声に、緋咲の、欠けた奥歯がうずく。
ゆったりとおろされた紫色の髪をかきあげた緋咲が、薄手のワンピースごしのやわらかい体を、片腕だけでぎゅっと抱きしめる。
冷房が生む風が規則的にたなびき、ふたりを冷やす。
ぬるいアイスノンとはほど遠い小春のぬくもりが、わずかなキズを抱えた緋咲に、いとおしい熱を与える。
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