IN THE SUMMER
天の川入水自殺

セーラー服の胸元をかざるスカーフは鎌女結びと呼ばれる結び方だ。ふわりと胸をかざるそれを丁寧に整えていたあすかの細い肩が、ぽんとたたかれる。

思わずふりむくと、同じクラスの女の子たちが軽やかに通り過ぎた。
制汗剤のにおいが、あすかの周りをとりまえて淡く消えてゆく。
廊下の窓からさしこむ7月の強いひざしをあびたあすかのことをふりかえって、友人たちは軽快にわらってくれた。やわらかくわらいかえして手をふると、彼女たちも同じ仕草を見せてくれて、軽やかな足音をたてたクラスメイトたちは、放課後、ぱたぱたと中庭に消えていく。

中3の秋という中途半端な時期にあすかが転入した、古い女学校。
馴染むことに時間がずいぶんかかったけれど、今や、この夏のセーラー服も、厳格な規則も、個性的なクラスメイトたちも、あすかはすんなりととけこんでいる。

不器用なあすかがまごついている一年間、あすかの世話を何かとやいてくれた友達がいる。
両親の影響でサーフィンにいそしむ彼女は、シーズンを目の前にして、海へ向かうため嵐のように稲村ケ崎の自宅へ帰宅してしまった。今頃やきもきと江ノ電に乗っていることだろう。文武のうち、文で目立つ生徒が多い厳格な女学校のなかで、武でとかく際立つ彼女のサーフィンの実力は日本代表レベル。性格も人当たりも奔放で自由な彼女になかば強引に世話をやかれ、あすかがいつしかこの学校に馴染めたのは、間違いなく彼女のおかげだ。
のびやかで大胆で、人の懐に心地よく飛び込んでくる彼女に、あすかがずっと恋している人のことを強引に聞き出されたのは最近のことだ。

年上の人。
そう、ひとことだけ伝えると、ずいぶんいろめきだっていた。
背が高い。
おしゃれ。
でも、服装は、はで。
怖いかどうかは、よくわからない。
単車も車もあやつる。

気づけば、そんな特徴まで引き出されていた。
どこのコミュニティに属する人か。腕っぷしは。そうした情報は、なんとかあすかひとりの心の中にとどめおくことがかなった。

そして同様、体育会系らしく義理堅い彼女は、あすかからひきずりだした情報を、彼女のなかだけにとどめておいてくれているようだ。

そのかわり、

きちんと告白したのか、
ちゃんと言葉にしてもらえたのか、
曖昧な関係はあすかが苦しいだけだ。


二人だけで過ごしているとき、年頃の女子らしく恋愛話に展開してしまえば、そんな熱量にみちたアドバイスをあすかにおくってくれる。

八尋にそばにいてもらえるだけで幸せ。
それは本当のことだ。
でもやっぱり、今の関係にまっすぐ向き合う勇気は、まだあすかのなかに育ち切っていないのかもしれない。
今の八尋は、相変わらず、海のそばのあの家まで、あすかに会いに来てくれる。
そして、あすかのそばであたたかくやすらいでくれて、そして以前よりずっと自然にふるまってくれる。
それがあすかの思い過ごし、過信でなければいい。
そしてあすかも以前よりずっと、リラックスして、彼のそばにいられるのだ。


夏の始まりの放課後、あすかが先ほどから立ち尽くしているのは、学校に一つだけそなえつけられた公衆電話の前だ。テレホンカードをつかんで、友達がおくってくれたひとことを思い出している。


受け身はだめ。


彼女が親身になっておくってくれる熱っぽい言葉を何度も自分のなかで考え直してみた結果、それはあすかの心にすとんと落ちてくる言葉だった。

うっそうと夏の青葉がしげる校庭から、まだせみの声は聞こえてこない。

差し込み口に、テレホンカードをさしこむ。
あすかなりの意地と矜持をこめて、すっかり覚えきった携帯電話番号をゆっくりと押した。




「はい」
「……わ、渉先輩…こ、こんにちは……」
「ああ、あすかか。どうした」
「中途半端な時間に、すみません……」

鎌倉。由比ガ浜。
今まさに単車にまたがろうとしていた八尋が纏う、複雑なデザインのTシャツ。飾り同然の胸ポケットのなかでゆれた携帯電話。反射的に出てみると、以前よりすこし凛とした、そして澄み切ったあすかの声が鳴った。

この不快感あふれる湘南の夏の始まりのなかに、清水のような声。あすかのちいさな声を楽しんだ八尋が、律儀に謝るその言葉に、クスクスとわらった。

「公衆電話か?どこの?」
「学校の……」
「へぇ、めずらしーな。どうした、元気か?」
「……あの……」


そして、あすかは、意を決して、友達から命じられた言葉を継ごうとする。


森戸大明神の七夕まつりへ誘え。

受話器をつかむ手があせばみはじめる。
八尋は、あすかのこんな沈黙など慣れているのだが
数十秒の沈黙ののち、あすかはようやく、ふるえる言葉をつなげた。


「……今日、……」
「……今日?」
「……今日、なんですけど……」
「……?ああ、この後か?それなんだけどよ、あのな……」

八尋の穏やかな声音に、懸念の色がしのびこむ。
断られてしまう。
おっとりとした口調に反して頭の中は何かとにぎやかなあすかが、反射的に八尋の言葉をさえぎろうとした。
たった十数文字の言葉から、あすかの想いを先回りしてくれる八尋から、断りの言葉が出ようとしたとき。
なけなしの勇気があっさりとついえてしまったあすかが、そのさきを拒んだ。

「だ、だいじょうぶです!!…ごめんなさい…」
「ああ、明日ならヘーキだぜ」
「は、はい」
「わりぃな、七夕じゃなくてよ」
「た、七夕…」

八尋には、すべて見透かされているのかもしれない。


今日は金曜日。明日から、夏休み前の特別時間割に入る。
それすら把握していた八尋が、告げる。

「明日…夕方、だな」

八尋が、おだやかな声であすかに指示を与える。


森戸海岸で待ってろ。
すぐいくからよ。ちゃんと東屋で待ってるんだぜ?


「それとよ、今日ぁ、ダチと楽しんでこいよ?」


顔を真っ赤に染めて電話を切ると、学校から飛び出していったはずの友人が、あすかのもとに走ってくる。いわく、心配で帰って来たとのこと。


結局、森戸大明神のたなばた祭りには、その足で友達と出かけた。

ちんまりした境内に笹がかざられているささやかなお祭りを見物していたとき、霧のような雨が降ってくる。ふたりして祖母に着つけてもらった浴衣は、水分をすって重みをましはじめる。

少し前まえでの自分なら、こんな雨にあっさりと体力が吸い取られて、弱ってしまったはずだけど。
今のあすかは、つよくなった。
霧のような細かい雨をふたりであびて、顔を見合わせて楽しそうに笑った。




「で、ちゃんと髪乾かしたか?」
「大丈夫です!ふたりでおふろはいって…友達は迎えにきてもらって…」

あすかがめずらしく弾む声で伝えてくる昨日の夜の顛末を、八尋が目をほそめて見守る。あすかは、こうした瞳でみつめられることが、いつしか苦手になった。
いつか、このすわった瞳で、対等にみつめられたい。あすかはいつのまにか、そんな願いを抱くようになった。

「顔色…わるくねぇな。デージョブか?」
「体調、どこも悪くないです」

昨日とうってかわって、雲が空を覆う。
それでも、オレンジ色は分厚い雲のあいだから強くさしこみ、森戸海岸の砂浜、そのかたすみにそっと腰をおろしている八尋とあすかのことを照らした。やや野蛮な波に、整備されていない砂浜。七里ガ浜や鎌倉海浜公園と違ってこの時間、森戸の海から人は減ってゆく。
八尋の精悍な肢体があすかをかくして、それは影になる。
日差しが強すぎないか。そんな心配をうかべて八尋を案じるあすかの頬に、ぬれたペットボトルをそっとあててやれば、ちいさな声をあげたあすかがそれをうけとった。


「期末もよかったんだろ?」
「ふつうです……」
「どんなことやってんだ?ちゅーがくの勉強もおぼえてねーよ…」
「で、でも先輩、すぐ資格くらいとれちゃいますよね……?」

賢くうまれついたあすかが、学校で教わっている内容を、正統なルートを自らすてた八尋に丁寧に説明してみせる。またたくまにそれをのみこんでいる八尋に、あすかはやっぱり目をみはってしまう。この人はきっと、どんな道を歩んだって、学ぶべきこと、身に着けるべき力、すすむべき道を見失わない人だ。


そして二人は、だれもこない海辺で、このしずかな夕暮れが去り、夜を連れてくるのを待つ。


昨日味わえなかった七夕。


しかし、天文の知識にうといふたりは、そもそもどの空を見上げればその夜がおとずれるのか、見当がつかないのだ。


夕方の空を強情に隠し続けていた雲は、夕陽がおちても空から立ち退くことはなく、ふたりが期待していた空をしれっと覆い続けた。

天の川。
空気の澄んだ葉山であればまみえるだろうというこどもっぽい期待は、あえなく打ち砕かれてしまったようだ。


「あん、まり……みえませんね…」
「そもそもよ、天の川って何だ?」
「ぎ、銀河……かと……」
「一年中出てんのか?」
「そ、そうです…」
まだ習ってないから、よくわかりません……。


濃く暮れてゆく空。
今日だけは祖母も、夜の外出をゆるしてくれている。
見たいものが見えなくても。
のぞむものを、雲がかくしてしまっても。

この力強い人のそばで過ごせていれば、どんなときだってあすかは、その現実を、受け止められると思うのだ。八尋がいつもあすかを見守ってくれたあの夏から、今日まで。

天をみあげてためいきをついた八尋が、少しだけ離れて砂浜に腰をおろして遠慮がちによりそっているあすかの肩を抱いた。
痩せた体をぴくりとすくめたあすかが、ますますうつむきがちになる。

あすかの長い髪の毛がそっとかきあげられて、あすかの目元を、八尋のかわいたくちびるがやさしくすべった。


「あすか」
「……」


こんなにはずかしいなら、いっそ、雲に隠れてしまったあの天の川に、とびこんでしまいたい。


あすかの品のいい口元に、八尋のくちびるが近づく。

八尋の分厚い胸板にそっと抱き込まれたあすかが、目のまえに迫る現実にこらえきれないまま、ぎゅっと瞳をとじた。
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