恋の方程式は導けない
15000hitリクエストです。
みーさまリクエスト「マー坊くん夢の高校生になった二人のお話」です。
大変お待たせいたしました。
リクエスト、誠にありがとうございました。
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期末テストが、終わった。
凡百の得点と順位が印刷されている細長い成績表をつまみあげたあすかは、それをぺらりと勉強机の上に落とした。
順位は、中の上。
平均得点も、立派な数字とはいえない。文系科目も理系科目、万遍なく点を失い、これといった得意分野が見当たらないのだ。
高校に入学して、春は瞬く間に去り、あっけなく夏が訪れた。つかめそうなものをつかみそこねたまま、あすかのアイデンティティはゆっくりと崩れ、なんだか、砂のかけらになってしまった心持だ。
最大まで強さをあげた冷房が、机に突っ伏しうなだれているあすかの身体をじわじわと冷やしていく。すぐそばのドアをあければ、二階の狭い廊下に充満する熱気があすかに襲い掛かるだろう。あの粘ついた熱気に包まれたくはない。
冷房に甘えながら、あすかは、最も不本意であった数学Aの得点を、うつろによみあげた。
「73てん…」
意味もなく、数学の教科書をひっぱりだしてみる。
61点しかとれなかった中間テストから考慮すると、成長したというべきか。
そんな風に、自分でハードルをさげてちっぽけな肯定を得ようとすることが実になさけない。
復習しようととりだした教科書のそばには、使い古した一冊の教科書が置いてある。
それは、中学数学の教科書だ。A6サイズの高校教科書と違って、A4の薄い教科書はなんだか幼稚で、やすっぽい。
かつての自分は、こんなものに苦戦していたのだ。
関数に、素因数分解、三平方の定理に、相似に、方程式。とはいえあすかは、中学数学は一通り理解がかなっている。高校数学への曖昧な理解度は、基礎力の不足ではないだろう。中学からやりなおす必要性は感じない。
では、なぜ、もう用のない教科書が、あすかのそばに置いてあるのか。
それは、教科書の裏表紙になぐりがきされた、こどもっぽい字が理由だ。
なぜか、「あすか」と、自身の名前が書いてある。
何かにぶつかったとき。
見えないものに、行き詰ったとき。
そんなときあすかは、この子どもっぽい字を見て、ひとまず目の前の壁をのりこえる力を充填する。
強い筆圧。異様に書きづらいボールペンでぐりぐりと書かれた文字を、あすかは辿ってみる。
これは、あの子の字だ。
鮎川真里。
ほうりだした教科書に少し乾燥した頬をよせてみても、コーティングされた表紙のつるつるとした質感が皮膚をたどりゆくだけ。
むくりと起き上がったあすかは、結局、一学期の間、一度も会うことのなかったあの子のことを、思い出してみる。
無理を重ねて入学した高校のめまぐるしい日々に忙殺されていたのも事実。
真里に約束したことも、真里が好きだったものも、そういえば、あえて思い返してみることはなかった。
この部屋のあちこちを漁れば、この文字以外に彼を思い出せるフックは忍んでいるはずだ。しかし、冷房でかちこちに冷やされた体を引き起こすことが面倒くさい。
どれもみんな、こどものおもちゃのようなささいなものばかり。
いや、それをささいといえるほど、あすかはまだ大人になれていない。
勉強机の上には空っぽのグラス。とけた氷に、ブラックの液体。炭酸が水と氷にとけてしまったコーラだ。
彼は、炭酸が嫌いだった。舌がピリピリするといって。
そのくせ、甘いものはだいすきだった。
砂糖がたっぷりとかされたこんなのみものも、きっと好きだと思う。
そういえば。
あの子が大好きだったもの。
四角いフォルムの椅子から立ち上がったあすかが、ベッドに落ちていたリモコンをとりあげて、あすかを冷やし続けていた冷風を断った。
手櫛で髪の毛を整える。
ペン立てのそばにそなえつけてある、申し訳程度のコスメボックス。
日焼け止めを取り出して、顔に塗りたくる。
コンパクトな部屋。立ち上がってしまえば、全身が姿見にうつる。
少し凝ったデザインのTシャツに、デニム。これなら恥ずかしくない。少しでも大人びて見えるかもしれない。彼のそばにいるだろう女の子たちとは、くらべものにならないだろうけれど。
さっさと会いに行けばよかったのだ。
会いたい人に、会えばよかった。
あの店に行くことすら、今のあすかは、おもいつかなかったのだ。
あの中学の三年間、彼を想いつづけて、真里から教えてもらったこと。
心から好きなものを大切にすること。
やりたいことをやること。
自分が今、何をすきで、誰に会いたいか、明確にすること。
今朝がた新聞を取りに行くときあびた、早朝の心地よい澄んだ空気。
その時見上げた青空は、いつのまにか雲におおわれ、梅雨のなごりの湿気が山手の町をつつんでいる。
雲がまるで重い音をたてて動いているようだ。
温度は鈍い。湿度が重くあすかにのしかかる。
でもきっと、大丈夫。
彼に雨は降り注がない。
そして。
懐かしい姿は、やっぱりそこにある。
ちいさくまるまった背中。だぼだぼの短パン。
真っ白な手足。
ああして華奢に見えて、あの薄手のTシャツの下の身体が鍛え上げられていることは、遠慮なくシャツをぬぎすてた体育の着替えでよく覚えているのだ。中学時代。ほんの数か月前のことなのに、あすかの心が軋み始める。
ととのった口元から、ぽろりとたばこが落とされた。
一度それを拾い上げた彼が、アスファルトにぐりぐりと押し付ける。
入念に火をけした、金髪の男の子。
真里が、息をはずませてそばにかけよってきたあすかを見上げて、澄んだ瞳で笑った。
「やっときた」
「えっ、まさか毎日いるの?」
「毎日いたよ?あすかこねーかなーってーー、思ってた」
真里のその物言いには、さっぱりとしたそっけなさと、無邪気さがある。
あすかにはわかる。
ただ、食べたいものを食べに、好きなもののために、守りたいもののために、走りたいことのために、真里は今も、正直に生きていることが。
真里は、駄菓子屋の店先にしゃがみこみ、もう動かないガチャガチャを、何度も回し続けている。
あすかも、そのそばに遠慮なくしゃがみこむ。
ひざをきゅっとかかえれば、ストレッチのきいたデニムが、ぎゅっと足を包み込みなおした。
まるで、あの雨の卒業式の続きのように。
あすかのそばで、真里が、あたりまえのようにすわってくれている。
真里がぐりぐりとつぶしてしまったすいがら。そして目の前の古い機械を眺めながら、あすかがほっとしたようにつぶやいた。
「ここにきたら、いつでもあえたんだ」
「??そーだよ?オレ毎日くってんもん」
「毎日かあ……」
もはや、真里の健康をとがめる言葉も出てこない。
何一つ変わっていない。
そりゃそうだ。変わらなくたって当たり前。
変わることが正しいことなんて、なかった。
なんせ、まだ、数か月しかたっていない。
ふたりには、夏がきたばかりなのだ。
そして、あすかはようやく、真里の最も大きな変化をさとった。
そのひよこのような頭は、うまれつきのブロンドのようだ。
悪びれない顔で真里の頭を指さしてみる。
「似合うね!サラッサラじゃん」
「コイツ?もーオレもコーコーセーだしぃ」
ぱらぱらとおりている前髪をつまみあげた真里が、下唇をつきだして、ふっと息をおくった。はらりとひるがえった前髪が、真里のつるつるの額のうえでひるがえる。
「あすかも髪伸びたね?」
似合ってんよー
自身の外見の変化を指摘されることは、妙に恥ずかしい。
真里のようにさらりと受け止めてしまえればいいのに。
あいまいにうなずき、そんなことないよとつぶやいたあすかが、それなりに恵まれた頭の回転を駆使して共通の友達の名前をあげた。あの子はきっと、ずいぶんきれいになったことだろう。
「晶ちゃんげんき?」
適当にうなずいてみせた真里が、ポケットからつぎつぎに粉まみれのおかしをとりだしながら、澄んだ声で指摘する。
触れられたくない話題でもないのだろうけれど、真里は真里なりに考えあぐねたあと、今の晶をそのままにしておくことを選んだようだ。これ以上ふれられない話題に、あすかが口をつぐんだとき。
「あすか、元気んなった?」
真里の言葉に、彼のそばにしゃがみこんだまま、あすかが瞳をまるくする。
香水のかおりはただよわない。汗の匂いも、デオドラントの匂いも漂わない。
澄み切った無のかおりが、真里をつつみこむ。
「ちゅーぼーんときからさ、あすかときどきんな顔してんもん」
「みてくれてたの」
「でさー、オレがあんこ玉やると、元気になる!」
「あんこ玉でなおったのは一回だけじゃない?」
きみとはなせば元気になることは、本当だけれど。
あいにく、あすかは、その甘くごろごろとした食べ物は、とりたててすきじゃないのだ。
「そだっけー?」
真里が、ととのった口元に、何やらあんこ玉とは別のをほうりこみ、ごろごろところがしている。光速で剥きとられた包装紙は、飴玉のようだ。こんなに甘いものばかり食べて、口内炎とは無縁なのだろうか。
あまりに神神しいブロンドに目をほそめたあすかが、ぽつりとこぼした。
「元気になった」
ひとりで納得したように、自身で自身のことを確認するようにうなずいたあすか。そんなあすかを、真里が、きょとんと見守っている。
「なにも、不安じゃないよ」
真里の瞳が、ぱちぱちとまばたきをくりかえす。
あすかの停滞をあっさりみぬいたくせに、あすかの言葉にはぴんとこない様子だ。
「マー坊くんが、元気でいてくれたから」
ちいさくしゃがみこんだ二人の影がのびていく。
重い音をたててひろがっていた雲はいつしかバラバラになり、真っ青な空がのぞきはじめている。
真里が、小さな頭のなかに生まれた謎の感情を言語化しようとしたとき。
そこに、おどろおどろしい音の直管がすべりこんできた。
「単車のらねーっつったのに!」
「え、だれ?」
湿度と夏の蒸気につつまれた駄菓子屋の店先に、あっというまに黒煙が巻き起こり、ひとりの少年が華麗に飛び降りて、バイクをとめた。
「……っ……」
「…あ、ああ…」
そのしぶい声は、名字で、あすかのことを呼んだ。
あまりのことに、あすかは言葉がつげないのだ。
なにせ、その頭。
金髪リーゼントではなかったか。
駄菓子屋の前に黒煙を巻き起こした少年、真嶋秋生の髪の毛は、緑を指し色とした、パンチのきいた色にそまりあがっている。
真里のブロンドにうろたえることはなかったのに、目の前に、こうして、どすのきいた不良少年があらわれると。
あまりのおどろきに、ぺたりとしりもちをついてしまったあすかが、あわてて立ち上がり、真嶋秋生にぺこぺこと頭をさげた。
「?なんかついてんかよ」
「ご、ごめん、緑色にびっくりした…」
頭の回転が比較的のんびりとした真嶋秋生は、あすかが何に驚いているやらわからないようすだ。女が苦手な彼も、旧知のあすかはひとまず平気であるようで、真里は、ふたりを見上げてケタケタと笑った。その声をきいていると、あすかの心もたちまち落ち着きをとりもどした。
「ひさしぶりだね。真嶋くん、元気だった?」
「アッちゃん、おんなしクラスなんだぜ!」
「そうなの?同じ中学校から同じクラスって、めずらしーよね?」
「目付けだろ、どーせ……マー坊のよ……」
真嶋秋生は、ボヤく声音に反して、なぜだか妙に得意そうだ。
無骨で男らしいイメージもありながら、あすかの覚えているかぎり、意外にデリケートなところもあったクラスメイトだ。
元気でいてくれてよかった。
そして、真里が相変わらず駄菓子屋にいることを悟って追いかけてきた真嶋秋生が、真里のことをしっかりととがめる。
「まーたアンコ玉かよ」
「暑いときに、そういうのたべたいものなの?」
「くいてーよ!あすかもくいてーからきたんだろ?」
「うーん…」
真里に会いたかったからきただけだ。
ジーンズのほこりをはらいながら、夏のひざしをほっそりとした腕でよけたあすかがつぶやく。
「アンコ玉以外が食べたいなあ…」
「よっちゃんイカうめーぞ」
真嶋秋生の口から出た駄菓子の製品名。似つかわしくないその言葉に、あすかが、ギャップからくる微笑ましさを抱いていることに、秋生は気づかない。
かれーよアレ!!そう叫んだ真里が、我先にと駄菓子屋のとびらをひく。
「アンコ玉食う!」
「まだ食べるの?」
「こいつ尿検査ひっかかったんだぜ」
「………………あーあ……マー坊くん…………16歳からそれでどうするの………」
「あれアンコ玉のせーなの?」
「たぶんそーだよ……」
雲を蹴散らした太陽と空が、この町に降り注ぎ始める。
山手の夏はきっと、彼らが思っているより、短い。
分厚く強気な光に、あすかも、真里も秋生も、きっと負けることはない。
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