IN THE SUMMER
夏の薄片をさがしに

空は濃厚な青に染まり始め無慈悲に光がぎらつきはじめるこの季節に似つかわしくないアンティークゴールドのアイシャドウは、夜の始まりの空の色のように、すっかり滲んでしまった。

千冬の持ち前の切れ長の眼もとに残ったラメを剥き出しの白い手首でこすりあげ、毒めいた粒子が真っ白なこめかみあたりまでちらばっても。

フィルムタイプのマスカラがするりと落ちて、みっしりと生えつくすまつげの束があらわになっても。

この静かに澄み渡った瞳のつめたさと、この瞳にひそむ毒と、一定のものにだけ与える愛は、ひとつも変わらない。


7月のはじまりの、朝のぬるい風。
6月の名残の、ひそやかな霧。

闇が相模湾の果てにたちきえて、うすむらさきの朝を運んでくる。


早朝。
材木座海岸。

単独で走り終えた夜明けをひとり迎えた千冬は、数日前の雨で少し湿り気をおびた砂浜の上に、昨夜纏った洋服のまま、ばたりと体を投げ出して、ぼんやりと、淡くあけてゆく空を眺め続けている。
汗と香水のかおりが、千冬自身のにおいにとけてゆき、えりもとからユリのにおいをはなつ七分袖のシャツ。袖のボタンをはじいて、真っ白の腕を砂の上に投げ出せば、吸い付くような砂が千冬をつつむ。


ネコがごろりとねがえりをうつようにしなやかな体をすこしちぢめて、金髪を枕して横になって観れば、千冬の視界をかすめるのは、砂浜に規則的にたてられた木材だ。

白木の木材が、一見無造作に、しかし意味を持って、材木座の砂浜に突き刺さっている。

これは、海の家の柱と土台だ。建設業者のなかには、八尋の実家もあるだろう。


湘南に、夏がおとずれる。


海のざわめき、海のかおりは、鎌倉と逗子の境目に建つ千冬の家に、容赦なく運ばれてくる。

湘南の夏のいまいましさを思うと、千冬の眉間に、深いしわがよりはじめる。
紫に染まった空の隙間から、澄んだ光がさしはじめて、それは千冬を容赦なく焼きはじめる。光をさえぎるものは、何もない。
千冬の自慢の白い肌を赤く焦がしてしまうこの光が、何よりいまいましい。
しかし今日はこれをさえぎるための予防を、何一つほどこしていない。
重量級の単車がもたらす疲労は、千冬の身体に相応に負担をかける。
こぶしをつかう機会はなかったものの、高い湿度とつかれが千冬の身体をむしばみ、千冬はあえなく、朝のこの光を浴びたままでいる。

艶めいた金髪のあいだから、すっときれた瞳をほそめて、光をにらみつけ、真っ向から迎えてみせる。

この一瞥をあびて、正気でいられる男も、正気でいられる女も、数少ない。
怒りも軽蔑もこめたつもりはない。

ただ、おまえはいったいだれなのか。
そんな問いかけをひめた瞳で、一瞥する。

すると相手は、この瞳に、おおいなる意味をみいだそうとするのだ。
ただそれがたずねたいだけであったのに。
ひとりでにおそれられ、一方的に遠巻きにされる。

そんなこともすっかり慣れてしまった。
湿った砂浜のうえで寝返りをうてば、金髪が砂の上にひろがってゆく。すきとおったブロンドにからまる砂をにらみつけながら、千冬は、みずからの心のなかをよりシンプルに濾してゆく。

ただ、ムカつくかすきか。
醜いか美しいか
好きか、嫌いか、
それだけだ。

この瞳におびえなかった人物は、何人かいる。

千冬が片手でことたりる人物のうち、一人。


スニーカーが、サクサクと砂を踏む音。
シャンプーのかおり。


「おはよ、千冬さん」

千冬に、やわらかな陰がさす。

それが、千冬の恋人だ。

千冬を覆ったのは、彼女ひとりの陰ではない。
想いにふけっていれば、いつしか、ほぼ完全な朝をむかえていた。

「暑くなるよ」

あすかがしゃがむ。

折りたたみサイズの日傘がつくる陰が、千冬をやさしく守った。





朝の海の色は、雨のように淡い。

千冬が、あすかに流れるように手をさしだす。

「……おはよ」
「ねえ、ハーレーは?」
「渉んちだよ」
「由比ヶ浜から歩いたの?」

すこしつめたくなった千冬の手を、あすかがそっとにぎりしめる。
あすかの瞳は、由比ガ浜から続く海をまぶしくみやったあと、メイクがすっかりはがれてしまった千冬のことを、あたたかく見守り始めた。


灰色の砂浜にひろがる金髪。
乾いた砂にすべてをあずけた千冬が、冷たい瞳をおくっても、彼女はびくともしない。

あすかのまっすぐな瞳が、夜通し駆使した千冬の瞳をやさしくつつんでしまえば、千冬の瞳は、あすかのことを守り抜くあたたかな瞳にかわる。

材木座の朝は、地元にくらす人々のものでもある。彼らはまた、千冬のようなタイプの人間に慣れてもいるけれど、それでもどこか、腫れ物扱いだ。

「千冬さん、みんなびっくりしてるよ」
「よけてんじゃん、慣れてんだろ」

あすかは、千冬の髪の毛に砂がからまってしまうことを気兼ねしているようだが、千冬はそんなことどうだってかまわない。
スキンケアとメイクには最善をつくすが、髪の毛のめんどうはいいかげんだ。


「あすか、ここでなにやってるの?」
「んー、5時くらいに起きちゃって、海でもみよーかなと思ったの」
「マジかよ、こんなモン用意してよ、ぐーぜん?」

千冬が、自身のことを守ってくれる日傘をゆびさして、そばで膝を抱えているあすかを見上げた。指先をつつむマニキュアは真紅。紅が欠けることはない。

「千冬さんのお母さんから、電話きたんだよ」

慎、あすかちゃんちいない?
すこし懸念をにじませた声に、あすかは首をふりながら、知らないとこたえた。


少しだけ、ねむりの浅い夜をすごした。
夜中、なんども目がさめたけれど、幸い、そのままねむりにひきもどされた。すぐそばに、千冬があすかの部屋にわすれた香水のミニボトルがあったからだ。あすかが使うことはない。この濃厚なユリのかおりは、千冬だけのものだ。ミニボトルのふたをきゅっとはじいて、慣れたかおりにつつまれてしまえば、心配をしずめてねむりに頼ることができた。

起きてもいないことを心配しても、しかたがない。
生まれつき浅黒い肌にはもうおそいけれど、あがきのようにとりだした日傘をさして、ねむりの浅かった早朝、まだ休んでいる母親をおいてあすかはめずらしく外にでた。

今日から始まる7月。
はじまったばかりの真夏の朝は、早くも温度にたくましい熱をもっていて、それでいて、空気が澄んでいて、じつにすがすがしい。
光は自信をもって朝の材木座の町にさしこみ、風はなめらかですずやかだ。

夜学に通学するつかれもあり、普段のあすかは、なるべくぎりぎりまで寝ているタチだ。


まずは、いつもふたりで過ごすあの海にでかけてみる。

きっと、千冬はかえってくる。
千冬はかならずかえってくる。
着替えるときにつけたラジカセからのAM放送で、事故のニュースなんてなかった。

大丈夫だ。
大丈夫。
真新しいスニーカーにつっこんだ足が逸る。
きっと、あの海にいけば、あの金髪が、こんな朝のなか、千冬のニガテな朝の下で、けだるく寝転がっている。


それは、あすかの都合のいい夢想ではなかった。
あすかは、千冬を無事みつけたのだ。
そして、千冬は、あすかが昨夜かすかに抱きしめただけのかおりを悟る。アイシャドウがすっかりはがれおち、幼さをにじませためもとに、千冬はわんぱくな気配をしのばせた。


「あ、オレのじゃん。つかっていいんだぜ?」
「うん」

無事でよかった。
大げさな実感と安堵をいだきながら、傘を器用にさしたあすかが、しゃがみこんだまま、ひざしから千冬を守り続ける。

「日焼け大丈夫かな」
「まだ紫外線よえーだろ」
「そうだね、夜だったもんね、さっきまで」


肌は赤くない。
すぐに黒くなってしまうあすかと違って、千冬はまず真っ赤にそまりあがり、それから白くもどるのだ。夜という時間と、濃厚なメイクに耐えられるほど、千冬の肌はタフだけれど、ひざしに対してだけデリケートだ。

「一人になりたかったの?」
八尋さんちで過ごせばよかったのに。

それは、あすかの素直な所見。
この冷たい瞳が伝えようとすることを必死で読み取るより、自分のこころを素直に千冬に伝えてしまえばいいこと。
それは、千冬のそばで過ごし始めてすぐに、あすかが理解したことだった。

ルージュがはがれたくちもとに、穏やかな笑みをうかべながら、あすかのまっすぐな問いかけに、千冬はうなずくことも、否定することもない。


相変わらず寝転がったままの千冬のそばに、あすかがすとんと腰をおろした。日傘はまだ、千冬を守り続けている。日焼け止めをぞんざいに塗ったあすかの肌を、厳しいひざしがじりじりと焼き始める。

砂浜は乾き始めている。

海の家の建築作業をおこなう人々はいつやってくるのだろう。

ふたりの背後には、建築途中の商業ビル。材木座の風景もすこしずつかわってゆく。



湘南の夏。



「夏が、くるね」


紫色から、水飴のような色にかわってゆく朝をみつめながあ、あすかがぽつりとこぼした。

スレンダーな体を砂浜になげだし、ブロンドの下で腕をくみ、長い脚を交差させた千冬は、彼女のセンチメンタルな声に、あっさりと答える。


「うっとーしーぜ……たまんねーよ」
「騒音もだけどさー、鎌倉駅の混雑ひどいんだよ……でも千冬さんはのらないか……」
「江ノ電かよ、あんなモンこの時期よくのれんよな」
「ひどいよね。江ノ電しばらくのってないなあー」


水色の日傘が砂浜におかれた。
守られることなく、堂々と、千冬は光を迎える。
光に慣れたあすかは、澄んだ潮風をあびて、気持ちよさそうに目をとじた。

朝のまっすぐなひかりが、千冬を焼き始める。

光にも負けない。
夜を愛するけれど、光だって、堂々とあびてみせる


「夏だよ」
「夏だな」


いつしかほどかれていた手。
砂浜に手をついているあすかの手を、千冬がそっと覆った。
すっかりあせばんだあすかの手。
いまだ冷気を保ち続ける千冬の手。


湘南に。鎌倉に。
ふたりに、夏がやってくる。
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