彼が決めたそこが終点
「・・・・・・意外と、こわくないね?」
「だろ?」
「みんな落ち着いてる。おなかいっぱいになるからかなあ?」
夏の終わりの夜が黒く染め上げられてゆくなかで、そんな所感を口にしたあすかのそばから、ミルクのような甘いかおりと、かすかなたばこのかおりが漂う。
いつまでたっても、甘いにおい。
おとなびた男の子のにおいじゃなくて、あの頃とかわらないにおい。
あまいにおいは、ふたりして片手に掴んでいるアイスのせいだけじゃない。
彼特有の、やわらかなにおい。
夏の焦げたような匂いのなかでも、この甘さは変わらない。
その甘さのすきまから、たばこのすえたようなにおいが漂うところだけ、彼の身分相応だ。
夏休みの終わりの、夜。
あすかのそばにいるのは、鮎川真里。
林立する建物群を見上げながら、植え込みにふたりして腰掛けて、夏休み終わり間際、夜のぬるくにぶい風を、のんびりと浴びつづけている。
ここは、マイカル本牧。
あすかの華奢な手首をかざるポップなデザインの腕時計は、21時前をさしている。
地上から生えた白い柱にささえられているのは、空中に浮かぶ直角に曲がった遊歩道。乱立する建物はショッピングモールに、ホール、映画館。
様々な世代、さまざまな性別、さまざまなライフスタイル、そして様々な人種が日々出入りする、この、完成二年目を迎える大型の施設は、本牧の文化を変えつつある。
こんな場所の夜の始まりは、
意外にしずかで、
意外に熱っぽいだけの夜だった。
きっと、賑やかで、手のつけられないようなコドモたちが暴れていて、
もしかしたらそのなかに、真里がいるかもしれない。
そんな予想とうってかわって、遊び疲れた町の夏の終わりは、ずっとのどかだった。
夏休み中盤から通っている塾をさぼったわけではない。
ただ、今日は講師の急病により、急遽休講になっただけ。
「はらいっぱい?」
「食べるとこいっぱいあるでしょ、ごはんおわったあと、喧嘩したくなる?」
「んーーーー、なんねー・・・・・・?あ、でもーー」
「ん?」
「アイス食っただけだと、たんねーかも・・・・・・」
早く帰ることより、寄り道することを選んでよかった。
思えば、高校生になっても、生真面目に学校へ行き、生真面目に自宅に帰っていた。決まった通学路、決まった時間。結局、あすかは枠のなかで生きていた。
決められたことを、決められたまま取り組む。
少しだけはみ出してみた。ただ、いつもと違う道を歩くだけ。
あの子の当たり前は、自分の非日常。
そして、あすかの日常は、あの子にとって苦痛なのだろう。
そんなとき、目立つ金髪のことは、すぐに見つけることはできた。
サイズのおおきなTシャツから、分厚い肩がのぞいている。
バイクは、自宅においてきたらしい。
すんなりとのびる足はほねばっている。
体格も、ずいぶん大きくなった気がする。
さほどおとなっぽくもなっていないあすかと、童顔だけど急速に男の子らしくなりはじめている真里。
会えてよかった。
夏の終わりに、会えてよかった。
「夏休み楽しかった?」
「あすかと三回しかあそんでねーよ!」
「遊んだっていうか、あんこ玉食べただけっていうか・・・」
約束して遊ぶことなんてなかった。
あすかの心が整ったときだけ、探しにいったのだ。
心のうちがシンプルにできている真里がいる場所は、決まっている。
会えた時間は、本当にそれでじゅうぶんだった。
それ以上はあすかの心がもたない。
「海とかいったの?」
「いくっつったのにアッちゃんがーー」
「一緒にいってくれなかったんだ・・・・・・」
一人でいくより、だれかと一緒にいたいのか。
あすかの知らない場所で、真里はこの夏を、天真爛漫にすごしたのだろう。
「プールぁ行ったよ」
「市民プール?」
うなずいた彼の手元から、アイスクリームが消えようとしている。
プラスチックの棒は、すぐそばのゴミ箱に軽々と飛んでいった。
あげる。
そうつぶやいたあすかのアイスクリームを、遠慮なくうけとった。
彼が好むこってりとしたクリームまみれの甘さではなくて、シャリシャリとした感触が楽しめるぶどう味。好みかどうか心配していたけれど、真里は平然とぱくつきはじめた。
口許に、ぶどうの残りが居座っていないか。
手の甲で唇のそばをぬぐいながら、あすかが真里にこの夏のことをさらに尋ねる。
「だいたい真嶋くんと一緒にいたの?」
「そだねー」
「お祭りは?」
「花火ぁ、アッちゃんちからみたよ」
夏のかけらが、言葉とともに消えてゆく。
ぬるい風が、あすかの頬を軽く叩いては夜のなかにとけていく。
こんな夜の風を早く知りたかった。
結局夏はすぎて、あすかが知ったってかまわない、誰にもとめられることのない、知ることができたかもしれない風は、秋のものに、かわりはじめる。
時計は、21時30分に近い。
あすかはやっぱり、この時間を、こえることがかなわない。
どんな風に願ったって、何を後悔したって、あすかはあすかにしか選べない道を、自然と選んでいるのだ。
「かえるね」
「おくる」
あっというまにぶどうのアイスをたべつくした真里が、植え込みからひょいとおりたった。
身長に足をおろそうとしているあすかの腕を無遠慮につかみ、軽くひっぱれば、あすかの体もあまりにかるく、焦げ付くようなアスファルトの上におりたった。
物事なんて、こんなに簡単で、超えられない壁なんて、ないのかもしれない。
「こんな遅くまで、外にいることなかったよ」
「へ?ジュクいってんじゃん」
「あー、うん、でも、いつもお父さん迎えにくるから」
「次はさ、もちっと遅くまでいっしょにいよーぜ」
「遅く?」
「五分遅いだけで、見える星もちがうよ」
ぬるい風にみちびかれるように、夏の終わりの重い空を見上げてみても、案の定、見慣れた空がひろがるだけ。
ときおり、妙におとなびたことをいう。
あすかがしらないことを、真里は、確かに知っている。
さらに時間を重ねた夜の話をしているのだ。
あすかのしらない夜に、あすかを迎える準備はできているのだろうか。
「秋になるしね・・・・・・これくらいがね」
「あすかには、ちょうどいいよね」
つないだつもりの会話は、真里によってきっぱりとしめくくられてしまう。
「ここまででいいよ」
少し素っ気なかったかもしれないあすかの言葉に、真里が返してくれる朗らかな笑顔に、よそよそしさはひとつもない。
だけれど、遠い。
夜のなかに消えていくその背中は、あすかよりずいぶん広い。
帰ったら22時になっているだろう。
怒られもしないだろうけれど、心配の言葉はさんざんあびせられるかもしれない。
その言葉が、あすかと真里を隔ててゆく。
ぬるい風、暑さがとまったような時間。
夏の終わり。
夏が終わって、秋が始まっても、彼はこんな夜を、当たりまえのようにいきていく。
あすかのしらない星も、しらない風も、しらない夏も、真里はいくらでも知っている。
あすかの家の、安堵するようなあかり。
真里のきえる、夏の終わりの、深い夜。
これから、真里の時間なのだ。
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