IN THE SUMMER
おとなになるには舌足らず

緋咲の部屋にそなえつけられているエアコンは、リモコンをあやつるった瞬間すずしげな風が吐き出されてくると同時に、送風口がぼんやりとブルーに光り始める。

小春は、その澄んだ青色を眺めるのがすきだ。
小春と緋咲のことを適温に冷やしてくれるエアコンがともるのを、ちいさくすわって見上げていると、緋咲の押し殺したような笑い声がもれてくることもある。
やさしい緋咲にわらわれたって、かまわない。

その美しいブルーは、とてもすずやかだ。

小春の部屋の味気ないエアコンとちがって、みるからに高級感漂うエアコン。そんな機械がはきだす澄み切った風をあびながら、部屋の片隅によけられていたガラスのテーブルを慣れた手つきでひっぱりだしてきた小春は、英語の宿題であるワークブックをひろげて、ひとしきり唖然としたあと、じつに間抜けな所感をのべた。


「これじゃ、緋咲さんに宿題やってもらったってことが、バレますね!」
「・・・・・・小春ぁなんもおぼえてねーんだなァ・・・・・・」
「こんな筆記体・・・・・・かけない・・・・・・」


緋咲のあきれ声をマイペースに流してしまった小春が、ワークをひろげて、頭を抱えている。



あの朝、リネン室でめざめれば、部屋には布団、小春のベッドには緋咲の名残。
机の上に置かれていたワークはぱたんととじられていた。
のこりの宿題は、後回しにしてきたこのワークだけ。英語の宿題を相変わらずあとまわしにしてきた小春は、緋咲の部屋に遊びに行く今日、何も考えず、バッグのなかに残りの宿題をつめこんだ。


部屋で一人で勉強するより、緋咲に見守られながら、ときおりちょっかいをだされながら勉強するほうがかえってはかどる小春が、最後まで残していた英語のワークブックを意気揚々とひろげたとき。

残っていたはずの単元を確認してみれば、まるでくつやのこびとのように、小春が手をやいていた宿題がすべて埋まっていたのだ。

長い足を組んでソファにふんぞりかえり、たばこの味を楽しんでいた緋咲が、あの夏の盛りの夜から朝までのことを思い出しながら、穏やかなまなざしで小春を見守る。


「筆記体?習うだろ?ちゅーぼーでよ」
「・・・・・・習ったけど・・・」
「れんしゅーしたか?」
「・・・・・・だから、えーごは・・・・・・。理数も国語も好きです!数学もね、」
「すーがくの話ぁしてねーぜ?」

緋咲が、ジョーカーの煙とともに、冷たく言い放つ。

小春が、わざとらしくテーブルにつっぷしてみせた。

緋咲のそばで過ごし続けて、緋咲が小春のことを無条件に溺愛してくれるわけじゃないことも知った。
ただ甘やかすだけじゃない。甘やかしてくれるけれど、小春をちゃんと、導いてくれる。

小春をすこしちゃかすような冷淡な声は、小春をあたたかく導いてくれる知性もあるのだ。


そんな言葉に素直に降伏した小春は、冷たいガラスの上にぺたりと頬をくっつけて、ぼやいた。

「・・・・・・れんしゅーしなかったです・・・・・・」
「今やれ、みてやるからよ」
「・・・・・・えーー・・・・・・」

ちいさくつぶやいた不平は、緋咲にしっかりとどいていた。

「えーー、じゃねー、簡単だぞ」
「じゃあ、緋咲さんのマネして練習します」


えーー、とつぶやいてくれたそれは、小春の声マネ。
クールで冷徹で優しさを奥底に隠す緋咲が、ときおり小春に魅せてくれる、軽快なユーモア。
それが愉快な小春は、緋咲のいいつけに素直に従って、ノートをひらいた。


緋咲が、一人がけのソファからたちあがる。
足が長くて背が高い緋咲が部屋を横切ると、大きくて優しい影が、小春の上を横断する。

たばこを灰皿に押しつけた緋咲は、小春の背後に腰をおろした。


そのまま、大きな体で、小春の華奢な体を包んでしまう。


緋咲に後ろから抱かれた小春は、平然と勉強をつづけている。
この精悍な腕に抱かれることに、小春はすっかり慣れてしまった。
緋咲なんて、小春の座椅子だ。


緋咲が、やせた肩越しに小春の手元をのぞきこむと、想定していたよりずっときれいな筆記体が、緋咲のあたえた見本をそのまま丁寧につづりつづけている。


そして、こうして繰り返し書いていると、この構文ごと覚えてしまえる。
アルファベット、単語、単語のつながり。
緋咲の筆記体をマネして何度も下記つづっていると、構文ごと小春の体に入り込んできて、まるごと理解がかないはじめる。

「あ、そっか、ここ、こういうことだったんだ・・・・・・」

一人納得している小春の髪の毛に、高い鼻を埋めた緋咲は、小春の逡巡などほうっておいて、清潔なかおりをたのしむ。
緋咲にじゃれつかれることにすっかり慣れた小春は、きまじめに宿題をつづけている。


ほどなくして、緋咲が小春の華奢な手元から、チェリーピンクのシャープペンシルをぬきとった。


「あー」
「終わりだ」
「えーー、まだ途中までしか筆記体で書けてない」
「あぁ?」
「緋咲さんの筆跡によせるから、全部書き直すの」
「あほくせー」


あほくさくないです!

そうちいさくさけんだ小春が、軽く腕をふりあげて抗議しようとしたとき。


不平の声をあげる小春を、緋咲は、片手一つでとらえて、だきよせる。


チェリーピンクのペンは、すずしげなラグの上にころがった。


緋咲のやわらかな腕力によって反転させられた小春の小さな体は、緋咲にすがりつくように抱き寄せられる。
緋咲のあたたかい胸のなかで、小春は存外すなおに、緋咲のことをじっと見上げた。

「・・・・・・」
「・・・・・・どーした?」

ライラックの色の髪の毛は、穏やかにおろされている。
緋咲の、リラックスした目元。
けがのあともない。



でも、緋咲には、たったひとつ、小春には解せぬ変化が起こっている。


それは。


「・・・・・・今日、香水、量少ないですよね?」
「こんくれーだとよ、小春もちょーどいいんじゃねーか」
「あー!」

首筋にそっとくちびるをたどらせると、驚愕した小春が先ほどより少し大きな声で叫んだ。

かすかに漏れる息の声ではなく、なんとも素直な大声。
なんと色気のない叫び声だろうか。

あの日与えた痕は、とうに消えてしまった。小春もとくに不平はもらしていない。何も気づかぬまま、さっぱりと消えてしまったのだろう。
相変わらず、緋咲のそばでのびのびと振る舞い続ける小春のことを、緋咲は降参したように見守る。

「どうして?コロン、いつもみたいにつけないの?」
「小春あんときよー、やっぱ寝酒キメたんだろ?」
「緋咲さん、何言ってるんですか?」

緋咲がわざとらしくためいきをついてみせても、小春はすんなりとした調子で語っている。子犬のように、緋咲の胸元に鼻先をあてて、かすかなコロンと、緋咲そのもののにおいを、いっぱいにすいこんだ。


「いっぱいこのにおいつくの、うれしいのに」
「頭いたくなんねーのか」
「ならない!」
「嘘つくな、がまんしてんだろ」
「してません」
何言ってるんだろ、緋咲さんは!


緋咲の胸のなかで、一番リラックスできる体勢。
それはやっぱり、緋咲を座椅子扱いして、緋咲にもたれかかることだ。

緋咲の堅牢な腕を軽快にふりほどいた小春は、マイペースに体を動かして、緋咲にこてんともたれなおした。

そんな小春のことを軽く抱き寄せた緋咲は、気にかかっていたことを彼女にたずねる。



「親にバレたか?」

小春のさらりとした黒髪をもてあそびながら尋ねると、小春は実になんでもなさそうに答えた。

「お母さん、玄関に、髪の毛落ちてるのに気づいてー・・・・・・」
「で、どーしたんだ」
「なんで髪もピンクじゃないの?って言ってました」
統一しなさい!って怒ってました。


ケッと笑い飛ばす緋咲をよそに、チェリーピンクのシャープペンシルを拾い上げてテーブルの上に戻した小春が続ける。


「あと、門のまえにかんしゃく玉まいたら、来てもすぐにわかるって言ってた」
パンクはしないやつって言ってましたしー、撒いてはないですよ?


ブルーの送風口から流れてくる風が、ふたりをひんやりと包み込む。

かんしゃく玉がタイヤに与えるダメージについて思考をはじめた緋咲の腕のなかで、小春が少しだけ遠慮がちな声をあげた。


「あの・・・・・・」
「なんだ」
「私ん家は、郊外だし」
「ああ」
「・・・・・・緋咲さん、いつきてくれても・・・・・・」


これは、緋咲が小春を守るために敷いてくれている境界を、ずけずけと踏み越える言葉だったかもしれない。
瞬く間に後悔が小春に襲いかかったとき。
紫色の髪の毛が、小春の頬にさらりと触れて、大きな瞳をさみしくふせてしまった小春の耳元で、艶めいた声が、小春にやさしくわびた。


「いつも待たせっちまってよ、わりーな」
「!」

はっと顔をあげた小春が思わず振り返る。
その量の多いつややかな黒髪が、緋咲の頬をぱしんと叩けど、緋咲には痛み一つ走りやしない。

緋咲の切れ長の瞳が、小春の澄んだ瞳から流れてくる心と声を、うけとめる。

そんな緋咲のことをすっかり信じ切った小春のその瞳は、みるみるうちに腕白でユーモアのある様相を帯び始めた。


「緋咲さんって・・・・・・・・・」
「・・・・・・んだよ」
「私に、びびってますね?」


今度こそ、本気のためいきをつく。
なぜ、小春にびびらなければならないのか。
ちいさな体をくるりと翻して緋咲をいたずらめいてみあげてくる小春を腕のなかであそばせながら、緋咲はあきれ果てている。


「私、寝起きいいし、ちゃんと留守番もできるし、筆記体も書けるようになりました」
「・・・・・・おまえの親が心配すんのもよ、わかるぜ」
「心配されてません」

緋咲を、もう不安になんかさせない。
小春が不安になるときは、緋咲もそうなのかもしれない。

だから小春は、緋咲のあたたかな腕のなかで、もう一度誓う。


「ひざきさん」
「どした」

あきれきった笑みをうかべた緋咲が、小春のことを抱き寄せてくれる。
その短い三文字の返事は、小春にとってあまりに甘く、いとしく、あたたかな言葉。

「・・・・・・ううん」

緋咲のことも、ずいぶん理解できるようになった。
すきなごはんも覚えた。
すきなものも知っている。
すきな音楽、すきな映画。
すきな色。
緋咲の大切なもの。


「この部屋に、これからもきます」

緋咲の大切なものがある場所に。
緋咲の大切な場所に。
小春は、緋咲をまるごと愛する。


「ここだいすき」
「小春ん部屋も片づいてんだな」
「緋咲さんちがきれいだから、私もマネしてるだけ」


いつか、小春の部屋の味気ない風をもう一度浴びてほしいけれど、
小春はこの涼しい風が好きだ。それに変わりはない。


「まだまだ、あついですねー」


緋咲の広い胸にあらためて頭をあずけた小春が、緋咲の熱と軽めのコロンと質のいいTシャツの感触を楽しみながらつぶやく。

そんな小春の厚い前髪を指先でかきわけた緋咲が、あの日ぬぐわれた額に、もう一度、優しいキスをおとした。

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