雪にたとえてみれば



昨夜は、鎌倉にも雪が降った。
霧のなかにかすんでゆく相模湾に、雪はさみしそうにはらはらと落ち、あえなく消えてゆく。
凍り付くような朝に、自室のカーテンをあけてみると、朝露につめたく光る庭に、その残骸は存在しなかった。

そんなとき、千歳は思い出す。
あの、雪にたとえられるタンクのことを。
春にはさんざめく陽光のなかで誇らしげに光り、夏の厳しい太陽にひとつも負けやしない。
初秋のすこやかな熱のなかで、あの雪のようなホワイトのタンクは、潔い影が、オレンジ色の色彩を生んでいた。
そして、この、木々も風も硬く縮こまっている冬。
大空からあわくふる雪は、きっとあのパールホワイトのFXを、廉潔にきらめかせるだろう。

あの美しいバイクの音、あの美しいバイクの生命力をしばらく千歳は味わうこともないまま、冬休みもあけて、学校はのんびりと続いている。4月から高等部に進学する。まもなく訪れるそんな変化を、転遷してゆくことが得意ではない千歳は、憂鬱に待ち続けている。

そのとき。

千歳がずっと待ち続けていた変化が起こる予感がした。

千歳にとって、あまりに都合がよく、あまりに甘く、あまりにいとしい、千歳が唯一耐えられる変化。

高級住宅や教会がたちならぶしずかな山手の町を、愛した音が切り裂く。

一気にこの町を切り裂いた音は、下校する千歳のそばに音速でたどりついた。

「千歳」

痩せた体をぴくりとふるわせた千歳のために、秀人は、その音をしずめた。
千歳は、冬の午後、そばに唐突にあらわれてくれた恋人のなまえを、小さな声で呼んだ。

「秀ちゃん……!!」

マドラスチェックのマフラーに顔を埋めていた千歳は、控えめな眼もとをみるみるうちにほころばせ、感情をコロコロと表に出すことに欠けた瞳に、慎み深いよろこびをいっぱいに湛えて、秀人の整った顔をじっと見上げた。

単車にまたがったまま、千歳の真横につけている。
そばでじっと見上げてくる恋人の澄んだ瞳の甘美さを、秀人はたっぷりと味わった。

あのクリスマスから。
冬休みが終わり、三学期が始まって一週間とすこし。

千歳は、今年初めて、ようやく秀人に会えたのだ。

風で流れてしまった前髪をざっくりと整えながら、秀人が千歳にわびた。

「ほったらかしちまってたなー、TEL入ってたの今日きづいてよ」
「実家にいたんですか…?」
「ああ、ちっといろいろあってな……」
「そうだったんだ……入院とかじゃないよね……?」
「みろよ、ヘーキだろ?」

千歳は、澄んだ瞳で、秀人が促す言葉どおり、秀人のことをじっと見つめてみる。

こんなに冷えるのに、秀人は、晩秋の頃と同じ、ずいぶん身軽な格好だ。

そして、平日の午後であるのに、秀人が纏う衣服が、制服ではないことが気にかかる。

秀人の言葉にこくんとうなずいた千歳が、秀人の美しい姿の観察を素直に続けている。

よごれひとつみあたらない、白のロングコート。
背中に、あの名前は染めぬかれていないようだ。

あの名前が主張してやまないコートと、雪のように真っ白なコート。
秀人の部屋には2着しまい込まれていることを、千歳は知っている。

秀人愛用のグローブ。

足下は、地下足袋だ。
特攻服ではないけれど、コートの下は艶やかな色のつなぎ。

秀人が、すべての看板をおろして、たったひとりで疾風のなかをかけぬけるときに選ぶ装いだ。

千歳のおくったネックウォーマーは、装着してくれていない。

たしかに、午後にかけて、この冬の中では幾分かあたたかい気候に変わりつつあるけれど。

千歳の首を守るのは、米国ブランドのチェックのマフラー。ポロ競技のロゴがめだつそれを、千歳がおもむろに取り去った。

「おまえが巻いてろ、さみーだろ」

淡く、少女らしい見た目に反して、甘口のデザインの持ち物は然程好まない千歳。秀人は、それを知っている。自分自身の趣味と一致する千歳の好みも、千歳に好感を抱いた理由のひとつだ。その媚びない色のマフラーは、秀人の好みでもあるのだ。

千歳の行動の理由をすぐにさとった秀人は、風にさらしっぱなしの己の首元をあたためようとする千歳の行動を制止しようとこころみた。

165センチの千歳の手は、すこし背伸びをするだけで、秀人の首にあっさりと届く。

秀人の空いた首に、千歳の体温でぬくもったマフラーを、力任せに巻き付けてみる。

そして、秀人の精悍な首の後ろで、おもいきり結んでみせた。

「これで、寒くないです」
「強くなったなァ、千歳」

千歳が与えてきたマフラーに、秀人は、美しい顔をうめてみる。風で乾いた己のくちびるはたばこくさいだろうが、しかたない。
それなりに恵まれた経済状況の家庭で、おとなしく育った千歳。彼女の持ち物は、慎み深い質の高さに満ちている。秀人の冷たい首が、千歳のぬくもりと素材のいいマフラーで、みるみるうちにあたためられてゆく。

千歳は、からかいまじりの秀人の越えに、こたえない。
先ほどまでの大胆な行動をすっかり忘れてしまったように弱々しくうつむいてしまったまま、千歳がつぶやいた。

「こうしとけば……、かぜはひかないから」
「千歳がひいちまうぞ?いくらコートきててもよ」

足付きのいいシート。単車にまたがったままの秀人は、そばに立ち尽くしている千歳の頭をぽんぽんとなでて、ぎゅっとくちびるをかみしめている恋人の顔を、すこし困った表情でのぞきこんだ。

少しだけ思案をかさねた千歳が、気にかかっていたシンプルな事実を伝える。

学校がはじまってすぐ。放課後なのに、秀人のマイペースな装い。

「制服じゃない……」

秀人は時折気まぐれに風をさがしにいってしまうことはあれど、それは稀だ。
秀人は、自分自身の責任のもとに、果たすべきことは果たす人だ。

「何か、ありましたか……?」

実家にいたこともふくめて。
千歳は、おそるおそるたずねる。
秀人に、何か変化が起こったのだ。

「てかよ、千歳」
「……」

秀人が、頬をかいたあと、わるびれずわらった。
千歳がつとめて、秀人に対して千歳自身の感情を押し付けないように努力していること。
心配されるのをやわらかに跳ね除けた日以来、千歳は、秀人のことをまるごと受け止めようと、懸命に努力を重ねている。
そこまで察した秀人は、千歳に確かめる。

「ガッコいけって、怒らねーんだな?」
「秀ちゃん、行けるときはちゃんと行ってるの、知ってるよ、だから何かあったのかなって」

懸命に続ける千歳に反して、秀人は、しれっと答えてみせる。

「転校だってよ」
「転校……?」

校内で何か起こしたのだろうか。
秀人が通うのは、偏差値70にも近い学区トップ校。

秀人のすごみはどうしたって一般生徒のなかで浮いてしまうのであろう。それでも、おもてだって秀人の暴力を引き出すような人がいるのだろうか。

「秀ちゃんが、学校の人を傷つけるわけないのに」
「言い切りやがんなあ、千歳」
信用してくれてんのか。

グローブをぬいた秀人。片腕にはメットがさげられている。メットのなかにグローブをつっこんだ秀人は、革のかおりが漂う深い手で千歳のちいさな頭をぽんぽんと撫でた。
千歳は、あたりまえだといわんばかりにうなずいてみせる。

「なのに……」

誰かが、秀人の別の顔を悟ったのだろうか。

「いいんだよ、誰がなんてゆってやがろーがよ」

コートのポケットからたばこのケースをひっぱりだす。
そして、千歳が贈ったライター。
それに目をとめた千歳が、耳まで真っ赤に染めた。
そのいとおしい変化を悟った秀人も、整った顔にかすかな照れを滲ませてみせる。

トントンと叩くととびだしてきたタバコ。
引き抜いたそれに、こすりあげられたローラーによって生まれたあたたかな火がともされた。

「オレんこと、わかってくれるやつがわかってくれてりゃよ、それでいいんだ」

秀人は、そんな友達に恵まれている。
そして、千歳だって、そのうちの一人であるつもりだ。
くゆる煙。このにおいも、ずっと味わっていなかった。
千歳もその煙につつまれてゆく。秀人の煙だ。秀人の生み出すものは、いつも千歳をいつくしむように包んでゆく。

「横浜の公立って……横暴ですよね!」

千歳の澄んだ声は、いつも末尾でたよりなく消えてしまう。
そんな千歳がめずらしく声をあらげた。

「筋がとおってるとは、思えないです」

せつなく笑って、黙って己に寄り添うだけかと思っていれば。
ひごろ、実におとなしく、激しい自己主張というものを滅多におこなわぬ恋人が、めずらしく怒っている。

「オレも他人んコト言えた立場じゃねーからな?」
「秀ちゃんは、ちゃんと、そこにいる権利があるのに」

すこし鼻をすすった千歳が、やりばのない感情とストレスをあらわにしている。それを人は苛立ちと呼ぶのだが、そう名前をつけてしまい込んでしまうには、不器用で、秀人にとって、愛らしい。
秀人に起ったことを、まるで自身に起ったことのように感じてしまう千歳。
純粋な心の千歳が抱えているストレス。

秀人はその正体を、あっさりと見抜いてやる。

「寂しかったかよ?」
「寂しかったです!!すごくさみしかった!!」

突然顔をあげた千歳が、せきをきったように本音をこぼした。
そして、われにかえって、ごめんなさいとつぶやく。
彼女のちいさな頭をなでて、胸元にひきよせた。

「大丈夫だ、新しいガッコも、もー決まってよ、落ち着いたからよ。わるかったな」
「 ……わたし、秀ちゃんと離れてると、いやな子になります」
「千歳が?」

秀人にとって、こんなにかわいい子が。
秀人にほっそりとした背中を抱かれた千歳が、秀人の腕のなかで、恋人のことを切なく見上げた。
先ほどまで自分が身に着けていたマフラーが、千歳の真上にある。千歳を抱いていない腕にはメットとグローブ。そのヘルメットは、秀人が千歳にあたえたものなのだ。

「電話も、つながらなくて……心配って押し付けたくないのに……心配で……。次に会えたとき、拗ねてみせたくなる……」
「んなことやったことねーだろ」
「……秀ちゃんに負けるんです」

千歳が、秀人のあたたかい胸元に素直に頭をあずけた。
そのちいさな頭を、秀人が何度もなでる。

「秀ちゃんに会えて、うれしいです」
「甘えちまってんな、オレぁよ、千歳によ?」
「甘えてるのは、わたしです」
「そーかよ?千歳、なんか食いいくか?」
「……お正月で、ふとったから……」
「あ?どこがだよ」

めずらしく部屋の外で体にふれてこようとする秀人から、千歳はちいさな悲鳴をあげて体をよじってにげようとする。
結局、千歳の頼りない体は、秀人の精悍な腕にあっさりととらえられた。

片腕だけでぎゅっと抱かれて、秀人の逞しい胸元にぴったりと体をあずけて、その温かさをたしかめる。秀人のにおいとぬくもりを確かめる千歳に反しで、秀人は、コート越しに、千歳のやせた腰をやわやわとさわってみせる。千歳が声にならぬ声で抵抗をしてみせたとき。

千歳の頬は、そっと千歳を解放した手によって、ひんやりとつつまれた。
グローブをとると、またたくまに冷気に包み込まれてしまった手。
秀人の、深く、やさしい手に覆われた千歳は、その手にすべてを任せきる。

ほんのすこしの覚悟をきめようとまばたきをしたとき、青リンゴのリップグロスにおおわれた千歳のくちびるは、秀人のかさついたくちびるにそっと覆われた。


人前でこういうことをするのは嫌いだ。
秀人は、そんな主張をくりかえす。
千歳だって、その気持ちには同調する。
なのに秀人は、しずかな山手の町のなかで、時折千歳のことを、こうして奪ってみせるのだ。

ぎゅっと目をとじて、そのやわらかなくちびるは、リップグロスにおおわれてかたくとじている。
いつまでたっても不器用なそれに、秀人は、いとしい苦笑をにじませる。
かたちのいい千歳のくちびるから、グロスを丁寧になめとってゆく。

けなげにそれにこたえる千歳を、この冷たい風のなかこれ以上いじめることは、しのびない。
千歳のくちびるを音をたててすいあげて、今年最初のキスは終わった。


上気した頬で、とろりと夢とうつつのあわいをただよう千歳に、秀人がぽんとメットを手渡す。同時に、千歳のかばんがとりあげられる。秀人が、右肩に抱えて運転してくれるようだ。

おとなしくリアシートにまたがった千歳が、秀人の鍛えられた腰にぎゅっとしがみつきながら、メット越しにたずねた。

「次のガッコって、どこになったの?」
「あすこだよ、本牧中のすぐそばの。フェリス近くなるぜ、会いに来てやるからよ」
「……さ、さすがですね……」

公立校のなかでも、中堅より上の優秀な高校といえるだろう。

秀人が、人知れず行ってきた努力に、千歳はあらためて感嘆のおもいをいだく。

「あたらしい学校かあ……」
「ああ」
「お友達、できたらいいですね」
「そーだな」

この人はいつだって、おびえない。
拗ねない、意味のない怒りをいだかずに、曇りのないまなこで本質を見抜く。
秀人の通す清潔なこころざしを粗末にしながらおとずれてくる変化すら、柔軟に乗り越える。
強い人。いとしい人。
千歳の大好きな人。秀人。

短い言葉にこめている強さ。
こうして秀人に寄り添っていると、こんな強さが自分にも生まれるだろうか。
そして、秀人は、自分の強さを自分で育てろと、千歳に教えてくれるのだ。
秀人の強さにみちびかれながら、そして秀人は、千歳の純粋なこころのなかに秘めたつよさを見抜き、見つめ、育てながら。
二人を乗せた雪のような単車は、山手の町を、滑らかに発進してゆく。




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