いつもより近くなる季節



暖房の送風口は、あすかの足元にむかっている。
部屋中に適切に効かされた暖房が、セーターにコーデュロイスカート、ウールのタイツ姿のあすかのことを、つまさきからふくらはぎ、ひざからお腹、体の芯からじわじわとあたためてゆく。
クリーム色のソファ。
ファンシーだが上品な壁紙。
飾られている絵も、どこかあたたかなものばかり。
絵本や、背表紙が黄ばんだ漫画本が所狭しと並んだ本棚。
雑誌や週刊誌は、幅広いラインナップの最新号が並べられている。

ほんのりとただようのは、薬品の香り。

ちいさな待合室は、ジャージを着た若い男の子から、ちいさなこどもに付き添った母親、そして老人まで、はばひろい。
男性患者のすがたが多く感じるのは、あすかの気のせいであろうか。

ここは、祝日でも営業している歯科医院だ。
あすかも何度か世話になったが、腕もよく、医者の感じもよく、いい病院だとおもう。

しかし、混雑している待合室の片隅にすわっているあすかは、今日はここの患者として訪れたわけではない。


この歯医者にしばらく世話になっているのは、あすかの彼氏の、カズである。


今日は、カズがしばらく通い続けている歯科医院に、彼にくっついて訪れたのだ。

今川さーん!と歯科衛生士のかわいいソプラノに呼ばれたカズが診察室のなかに吸い込まれてから1時間は経過した。キリのいい時間をむかえると、受付にかかっている鳩時計から、おもちゃのチャチャチャがフルコーラス。1番だけでいいのに、何もフルコーラスキメなくても……、雑誌に目をおとしながら、あすかはくだらないことを思い浮かべる。

丁寧に診療するからか、時間は長くとる。
少女向けファッション雑誌に、あすかよりずっと大人っぽい人たちが読むファッション誌。2冊も読み終えてしまった。

そこに、扉が開く音。
それと同時に、あすかにとって聞きなれたテノールが響いた。

ドアをあけて見送ってくれた歯科衛生士の女性に対して、ありがとうございましたと律儀なあいさつをかわす、スカジャン姿の広い背中。

律儀に挨拶をのこして、診療室から出てきたのは、カズだった。

前歯の治療に通っていたはずなのになぜか片頬をおさえたカズが、雑誌をひざにのせたあすかを目で追い、なさけなくわらってくれた。

わらったときに、ちらりとのぞいたカズの口のなか。
向かって左側。
ひとつだけ小さくあいていた隙間はしっかりとうまり、丈夫で真っ白な笑顔にかわっていた。
それでも、カズの顔にはまだまだキズがのこっている。

カズが突っ立っているとそのまま受付の女性に苗字を呼ばれている。
歯科衛生士、受付の女性、だれもかれも美人ばかり。
おまけに、歯科医師も女性もたいそうきれいな先生だ。
ひときわ顔のかわいい受付の女性から次の予約をでれでれととるカズの背中をじとりと見守ると、他人のこころに敏いカズが、あわてた視線をあすかに送った。

薬が入ったナイロン袋をさげたカズがもどってくる。
すぐそばのスタンドに雑誌をもどしたあすかも立ち上がった。

「お疲れ、カズくん」
「待たせたよな、一時間か」
「んーん、雑誌いろいろ読めたよ?まだ通うんだよね?」
「あーー、こいつとよ」

ぼろりと欠けこぼれていたはずの歯。カズが、ぴかぴかに生まれ変わった差し歯を指さす。
あすかのぬいだスリッパをとりあげたカズがシューズボックスにほうりこみ、あすかのスニーカーもとりあげて手渡してくれた。

かわいい一軒家のようなデザインの歯科医院の豪華なドアをおしたあすかが、ふむふむとうなずいて、カズの口元を眺める。顔を近づけると、たばこのにおいはつゆほどもかおらず、薬品と清潔な歯磨き粉のにおいが漂ってくる。

「ここぁ差し歯できたんだけどな、奥がヘンな折れ方してるらしくてよ……神経抜いっちまってー、次終わりつってたよ」
「ヘンな折れ方…?痛そう……」
「麻酔はとれかけてんけど、痛くねーよ?」
「神経ぬくやつさー、なんかさしこんで、グリグリってするよね、そんでなんか抜いてんし……」
「すっげーー奥にはいんべ?アレなにやってんだろーな……?」

同じ学区に暮らすあすかとカズ。
従って、なじみの病院もにたようなものだ。

近隣に何件かある歯医者のなかでもこの歯医者は、ケンカで傷ついた不良少年御用達だという。

さほど歯に問題のないあすかが使うことは数年に一度程度であるが、男の子たち御用達である理由は、キラキラとした女性たちの働く病院だからなのだろうか。それとも仕事がはやいから。きっとその両方であろう。

病院帰りにもかかわらず、すべてのキズやケガがゆるやかに快方にむかっているからであろうか、カズの機嫌は上々であるようだ。
どうも、カズのこのひときわ重いケガは、横須賀でこさえてきたらしい。

一時は髪のセットもまともにできなかったケガ。
隣をあるいてくれる恋人のことを慎重に観察を重ねるあすかは、カズのことを冗談ぽくとがめてみせた

「あれ?めがね、またまがってるー」
「あすかにもらったヤツぁちゃんととってあんだぜ?」
「まげてもいいからさ、つかってよ。修理できるんだし」

カズのくらす団地から、この歯科医院は、徒歩3分。
バイクを動かす距離でもない。
そもそも、今日のあすかが身に着けるコーデュロイスカートは、タイトすぎてバイクにまたがることはかなわない。
あすかはときどき、こうしたどじを踏んでしまう。
自分のことしか考えられていないのに、カズはあすかの服装に気づき、それじゃむりだなと厭味一つなく、わらってくれる。そして、あすかの事情を優先してくれるのだ。

今日は、真冬の寒空の下、ふたりで肩をならべて歩くこととなった。
こうして二人きりで過ごせるのも、なんだか久しぶりだ。

「もったいねーよー?それによ」

カズが、へらりと穏やかにわらった。
ケガのことだ。

「いいんだよ、コイツぁ」

なんだかそのケガは、カズのなかで、きれいに理由ができあがっているようだ。
いわゆる、名誉の負傷というヤツか。
ケガなんて、部活動でのオーバーワーク、あるいは日常生活で軽く失敗したときに負うだけのあすかには、よくわからない感覚だ。

「なんで誇らしげなのー」

へへっとやさしくわらってくれたあと、カズから、こまかな説明ひとつない。
ダチと横須賀でケガをした。
支離滅裂に聞こえるそんな説明ひとつだけ、あすかに教えてくれた。

片目を覆っていた眼帯もとれて、額から右頬にかけてぐるぐると覆っていた包帯もとれた。
それでも左頬のすりきずはなかなか完治しないようだ、ガーゼがはられている。手当は、あすかにはさせてくれなかった。確かに、あの擦り傷は生々しかった。

歯もずいぶん欠けたり折れたり、重いダメージを与えられてしまい、歯医者通いは長引いているようすだ。

カズがさげている半透明のナイロン袋には、薬の紙袋がぎっしり詰め込まれている。

「お薬、いっぱいもらったの?」
「ああ、ロキソニンとかよ、痛み止め」
「ろきそにん……」

レベルの高い運動部に所属しているけれど、あすかは平の部員。
かたかなの名前のそんなものには無縁だ。バファリンならわかるけれど。

「痛いときにのむの?」
「ああ、コイツがよー、歯が痛いとき以外にも役に……」
「……ケンカとかで、ケガしたとき?」

やっべ。
そんな言葉が、カズの顔に書道の筆で一気に描かれたような表情へ変貌した。
あすかがこの病院にかかったときには、貰わなかったはずだ。
ごまかしたがるカズのために、あすかは、時々頬をおさえているカズのことを気遣ってみる。

「口、麻酔でぶよぶよする?」
「ん?とれっちまったよ?もーデージョブだよ」
「なんかさ、カズくんが痛いとき、わたし何もできてないね……」

すこししずみがちの声をあげたあすかを気遣ってか、カズが、頭一つ背の低いあすかをのぞきこんだ。気遣っているはずが、あすかは結局いつも、カズに気遣われている。
きっとこうして、カズはいつだって、自分の痛みそっちのけで、他人の痛みまで背負っているのだ。

「待ってんと疲れたか?どっか行くかよ?」
「さむい……帰ってカズくんちの炬燵はいる……」
「だなーー、あすかがさむいっつーならしゃーねーや」
「どっか行きたかった?でもカズくん、麻酔うった後なんだし、休んだ方がいいと思う!」

カズが、かすかにのこった麻酔のききぐあいを確かめるように、頬に大きな手をあてている。

いつだって、ひとりだけで片づけてしまうカズ。
くっついていれば温かいはずの季節に
あすかを安心させるために意地をはるカズ。

そんな事実が、あすかは少しだけ悲しい。
だから、あすかは、カズにいそいそと近寄った。

「どーしたあすか?さみーかよ」
「寒ぃなー」

スカジャンにつつまれたカズの腕をそそくさととったあすかはそのまま、ぎゅっとしがみついてみせた。
こうすると、カズが露骨にあわてること。
それを懸命に隠し通そうとすること。
すべてが愉快で、甘酸っぱい。

ずれたメガネを指でなおしたカズを見上げて、尋ねてみる。
診察台に寝かされていたからか、後頭部にかすかなクセがついていることは教えてあげない。

「カズくんは、あったかい?」
「ん!あ、ああ…」
「やっぱ、このままカズくんどっか行く」
「あ?このまま?コイツ持ってかよ?」
「ロキソニンを飲みながらどっかいく!」
「あのな……オレぁ別にジャンキーじゃねんだぜ……今日ぁもー痛くねーからよ、外歩いてもヘーキだべ?」

いつもより近くなれる季節。
いつもより近くにいていい季節。
こうすれば、さみしくない。
ひとりで成長してしまうカズにおいていかれそうでも、こうしていれば大丈夫。

カズの精悍に鍛えられた腕にますますしがみついたあすか。
何か不安にさせてしまったか。急にくっつきはじめた彼女の行動原理が理解できぬカズが、あすかのこころを案じ始めた。

「あすか?」
「なに?寒い?カズくん」
「デージョブだよ?」

カズの問いかけに、わけもわからずうなずいたあすか。

こうしていれば彼女が安心するなら、こんな腕の一本かしてやればいい。
あっさりと結論をみちびいたカズが、あすかの小さな頭を見下ろして、へらっとわらった。

「たまにぁ歩きもいっかー」
「そうだよ、運動になるよ!」
「ジーサンじゃねーんだからよ……おれぁ運動してんゾ?」
「ケンカは運動なのかな」
「あすか……」

カズにしがみついたまま、ちゃっかりと笑ってみせた。
いつもより近くなる季節。
カズがどこにもいってしまわないように、カズがどこにもつれていかれないように。
あすかは、たばこのかおりひとつ漂わぬカズの腕に、ぎゅっとしがみついて歩いてゆく。




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