銀世界で君を待つ



この小さな家は、外壁のつくりが頼りないのだ。
あすかが生まれる数十年前からこの町に建つ家屋である。時代とともに変化する環境に適宜適応してゆく性能が満たされていないことはいたしかたないと諦めはつくものの。

それでも、自宅前の往来での話し声、いつまでも終わらない車のアイドリング音、ケンカでもしているのか、女の甲高い声や男の胡散臭い低音。
あすかは、壁をつたわってこの家に忍び込んでくるそういった騒音が神経に障って仕方がないときがある。
一方、実にマイペースな性格である母親はつゆほども気にしていないようすだ。

そして、ずっと苦手だった、車やバイクの不穏なアイドリング音。

今は、その音が室内に響くとき、あすかの大好きな人がやってくる合図となった。

ここは材木座と鎌倉駅のちょうど真ん中。
少し逸れると一直線に走るのは、材木座海岸までまっすぐに通る道。そこを歩く観光客は多いけれど、この町まで足をのばす観光客はいない。

それが年末年始となると、家族が帰省するのか、親戚が訪問するのか。あすかの家の傍を通る路上には、見慣れぬ人々に見慣れぬ車がたえず行き交う。

そして、さきほどから、防音にすぐれないあすかの家のなかにひびく、不審な音。

元日の挨拶に、買ったおせちと母親手製の雑煮という朝食を終えて自室に戻り、十数枚ほどとどいた年賀状をテーブルの上に置いたあすかは、暇をもてあますがまま二階の窓をあけて、家の外をおそるおそるのぞきこんでみる。

各家の駐車場におさまりきらぬ自家用車で路上はずらりとうまってしまっているけれど、元旦の材木座三丁目は、いたって静かだ。

不穏な音は、外のどこからも聞こえてこない。

それでもあすかの部屋にもかすかに届く振動。そのみなもとを確かめるため、あすかは、部屋着すがたのまま、もう一度階段を下りる。

その音は近づいてくる。

数10センチほどあけられた浴室。脱衣所。

あすかは、あっさりとこの音のみなもとをみつけた。

「洗濯機・・・・・・」

あすかの家に響く轟音は、いつもより遅く起きた母親がまわした洗濯機の音にすぎなかった。前日の大掃除のおりにほうりこまれた玄関マットやバスマット、パジャマにバスタオルがまとめて洗濯機の中で大暴れしているようだ。

ばかばかしい勘違い。
洗面台にうつった自身の髪の毛はみっともなく乱れている。手櫛で整えながら、あすかは自嘲まじりのためいきをついた。

千冬のようなハーレーに乗ってくる客が、あすかの酒屋に時々訪れる。あの音を、千冬の音だと勘違いしたこともあった。来客への感謝をはるかに越えた笑顔で客を出迎えた瞬間、その中年男性はあまりに不可思議な表情を見せた。

あすかの91年の思い出は、疲れと模索、そしてある日あすかに差した光がつれてきてくれた、新しい世界に尽きる。
そんなあわただしくも愛に溢れた一年が終わり、新しく始まった今日は、なぜだかからっぽな気持ちに満ちている。

簡単なことだ。

ほんの数日、千冬に会えていないからだ。
電話もかなっていない。

たった数日千冬に会えないだけで、この渇望だ。
クリスマスの日、なにがなんだかわからないままに踏み越えた境界。
あの日より、千冬への切情は情けないほど募りっぱなしだ。

休日の時間の使い方にさほど長けてはいないあすかにとって、唐突にもたらされた長い時間が、その切慕をより強くするのだ。

脱衣所をあとにすると、すぐそこの居間から明るい声が漏れてくるのは、母の妹にあたる叔母がこの家を訪れているからだ。逗子に暮らす叔母は、あすかも慕っている人。正月の慣例通り、あすかにお年玉も与えてくれた。父方の親戚とのつきあいもなくなり、母方の祖父も祖母も亡くした。お年玉は、母親と、叔母からしかもらえない。それでも、母がボーナスだと言ってわたしてくれた、高3のあすかにとってたいそうな額のお金。叔母からも、大学合格祝いとして、いつもより大金をもらった。居間をのぞくと、叔母が、ここへくるとき車でそばをとおった材木座海岸に雪が降っていたと教えてくれた。

さきほどのぞきこんだ外は、キンと晴れ上がり、雪の気配もなかった。15分も歩けば、気候がそんなにかわるものだろうか。あすかはその言葉をにわかに信じられない。

頭がぼうっとする暖房につつまれているより、廊下の冷気が気持ちいい。少なかった年賀状。それは、あすかの友人たちが受験勉強に励んでいるからであろう。あすかはこの正月、もう、試験で得点をとるための勉強に励む必要はないのだ。もともと受験は大きな目標でもなかった。今年ムリなら、来年もある。鷹揚にかまえていたものが比較的容易にかなって、こんな自分のままで、大人になっていいのだろうか。
今年の元旦を、あすかは、たかが昨日の続きにすぎないうすぼんやりとした感覚でむかえている。

明け方、夢とうつつのあわいをただよっていればきこえてきた激しい爆音。あれは、あすかのしらない千冬のような人たちが奏でる音だろう。

こんなに冷えた、叔母がいうには、銀世界にたどりつくかもしれない夜から朝。千冬は、あすかにあまり見せてくれないあの特攻服を纏って、暴走りぬけていたのだろうか。

洗濯機がとまった。
千冬のハーレーと似ても似つかぬ音を失って、あすかはふと思い立つ。

階段を上り、いったん部屋に戻ったあすかは、だらしない部屋着を次々ぬぎすてた。


「出かけてくる」

タイツの上にデニム。だぼだぼのセーターを纏い、コートを羽織って、マフラーをぐるぐるとまきつけ、ブーツを履く。肩から提げたショルダーバッグのなかには、お年玉から少し抜いたお金。

千冬くんと初詣に行くんじゃなかったの?

母親があすかに声をかけるが、そのまま背をむけて自宅をあとにした。
お店はしばらく休み。
あすかにも、当面のあいだ越えるべき目標はない。推薦合格者に向けて大学から出される課題の詳しい内容が届くのはまだ少しさきだ。

原付はしばらく動かしていないまま。
自転車に乗るより、歩いたほうが体があたたまる。

材木座海岸までの道。
鮮魚店もドーナツ店もカフェも、サーフショップも雑貨店も、すべて静かに閉まっている。

時折すれちがう家族づれは、八幡さまに向かうのか。

そして、材木座海岸に降ったという雪は、あっと言う間に消えていた。
銀世界とはほどとおい、がらんとした海が広がる。
千冬もあすかも、この海が好きだ。あの夏、あの秋、この冬。
あすかは何度となく、千冬とこの海辺で過ごした。

材木座海岸につづく低いトンネルをくぐると、先の見えない海が、あっけらかんと開けた。
犬の散歩をしている老人に、こどもを遊ばせる母親。
いつもと変わらない、冬の材木座の海にすぎない。

寒いのが苦手でも得意でもない千冬なら、暴走り終えた後、こんな日にも、この海にいるかもしれないと思ったのだけれど。

足元の砂浜は、よくよく見れば銀色にも見える。
湘南特有の銀世界で千冬を待っていても、あてどないだけだ。

ここから海沿いに10分ほど歩けば光明寺だ。秋に千冬とおとずれたお十夜は、あすかにとって大切な思い出の一つだ。八幡様にお客をとられて、元旦は実に空いているときく。千冬と、またあの寺へ行けたらいい。

会いたいなあ。

まるで、湘南を舞台にした楽曲の主人公みたいな気分でつぶやいてみる。ロマンチックなものは、ときに可笑しみも孕んでいる。子供っぽく陶酔した自分を自覚して、あすかは、一人、元旦の空のようにからりと晴れ上がった間抜けさを笑った。

コンビニエンスストアのない材木座。お金を持ち出したものの、買い物をする手立てもない。元来た道をてくてくと歩いて、あすかは自宅への帰路につく。考え事をしながら歩いてみたいけれど、慣れた道は時計の針を急速にすすめる。気づけばもう自宅だ。


そして、そのとき感じた音は、ようやく本物だった。

「あっ!!」

清閑な町をおびやかす音。
本当の音だ。会いたかった音。
あすかの軽い叫び声は、ほんものの音にあっさりと消されてしまった。

店のまえの駐車場に足を踏み入れたあすかを見つけたその人が、エンジンを一旦切った。

フロックコートのようなものをまとった千冬。
ウェーブのとれかかった髪をかきあげて、あすかに向かって短く叫んでみせた。

「あすかー、どこ行ってたんだよ……!」
「あ!ご、ごめん……海岸で……千冬さん探してた……」
「歩いてさがすかよ?原付つかえよ。夜行くっつったろー?」
「覚えてたけど、なんかむしょうに千冬さんに会いたくて……」
「それで海行くか?フツー」
「ち、千冬さんあの海好きじゃん」
「まあな。オレどっか行っちまったと思ったの?」
「家にはいないだろうなーって」

美しくとがった指先が、あすかを呼び寄せる。
千冬のそばにかけよると、後頭部をあっさりと引き寄せられた。

どんな風を浴びても水分一つ失われない、千冬のつやつやのくちびるが、あすかに躊躇なく近づいた

体を引く余裕もない。
コート越しに、腰も捕らえられる。

千冬にもらったルージュをひいたあすかのくちびるが、千冬の整ったくちびるに、やわらかくふさがれる。

今年初めてのキスは、なんだか慎重だ。
千冬がおごそかにあたえてくれるそれを、眼を閉じてしずかに味わう。

そして、額をこつんとつきあわせた千冬があすかにたずねた。

「行く?初詣」
「行こーか?」
「でもよー、八幡宮すげー人だったぜ……」
「だよね……。別のとこにする?」
「ああ。あそこぁよ、いつでも行けるだろ」
「じゃー、光明寺にしよっか」

それにしても、千冬のからだは、少し冷えている気がする。
千冬の黒いコートにつつまれるように抱き寄せられているから、薄手の上質なカシミアセーターのうえから、千冬の温度が確かめられるのだ。
あすかのことを片腕で抱いた千冬が、ウェーブのとれかけた髪の毛をけだるくかきあげた。

「しょーがつって、つまんねーよな」
「千冬さんもそう思う?あたしもそう思う」

静かだけれど間延びした時間をもてあましたふたりが盛り上がる。

「おせち食った?」
「ちょっとだけ。あそこから買ったんだよ」

あすかが北鎌倉の和食店の名をあげた。
取引先の和食店になかばおしつけられたおせちについて、偏食のはげしい千冬はげんなりとした気色だ。

「オレ、あんなか食えるもんひとつもねーよ」
「お母さんがつくるの?」
「そうだよ。マトモなもんじゃなきゃだめっつってよー、オレの食えるのつくってくんねーの」
まだ今年家帰ってねーからよ、くってねーけど。

やっぱり千冬は、こんな夜でも、この街を暴走っていたのだ。
そのわりに、きれいな洋服に着替えているが。

「家帰ってあげなきゃ」

あすかが冗談と本音をこめて千冬を急かしてみせると、あすかの頬が千冬によってぎゅっとはさまれて、しなやかな手がやわらかな頬をぐりぐりとおした。

「正月ってぱっとしねーよなー」
「千冬さんに会えたからぱっとしたよ」
「そーだよ、あすかでもいねえとぱっとしねーよ」
「千冬さん、ずっと外にいたの?」
「年明けはよー、渉のマンションにいた」
「そっちだったんだ!」
「あすかも渉んち行くか?由比ヶ浜だぜ」
「い、いいよ……」

ぐにぐにと頬をひっぱる千冬のいたずらな指をひっぺがしたあすかが気付く。
そういえば、大事なことを伝えていない。

「あ、あの、千冬さん、おめでとう」
「たんじょーびじゃねーんだからさ……」

片腕にさげていたヘルメットを、あすかにわたす。

「行くかよ、光明寺」
「千冬さんにお守り買うね」
「あすかいくらもらったんだよ」
「お年玉?」

母と叔母からもらった金額を伝えると、千冬が、なんだか少年っぽい笑顔をみせた。
メットを装着するのを待ったのち、千冬はあすかにリアシートをゆびさす。

「そのカネで屋台でいっぱい食うの?」
「屋台……!!」
「八幡には出てたけどよ……光明寺には出てねーんじゃね?」
「そっか……」

背中に寄り添うあすかを確かめた千冬が、ハーレーにまたがり、正面を見つめたままあすかの名前を呼ぶ。

「あすか」
「ん?」
「今年もさ」
「うん」
「ずっとオレといてよ」
「いるよ。ずっといるよ、大丈夫」
大丈夫だよ。

千冬のしなやかな腰にぎゅっとしがみついたあすかが、メット越しに、切ない背中に寄り添う。

澄んだ空気を踏みつぶすような音が奏でられ始める。
冷たいコート。
あたたまってきた体。
ややぱさついた金髪へ、メット越しにもう一度つぶやく。大丈夫だと。

そのあたたかな声を知ってか知らずか。

いつもより勇ましい声で吠えたハーレーは、銀色の海めがけて走り始めた。




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