「小春……噴きすぎだぜ……?」
「お母さんにも言われた……」
オートロックが解除されて、エレベーターでしずかなマンションをのぼってゆく。ホテルのように絨毯の敷かれた静かな廊下。重たい扉が開けられて緋咲の部屋に招かれた瞬間、学校指定の分厚いマフラーをはぎとった小春は、思い切り背伸びをして緋咲の精悍な首もとにいたずらっぽくぐるぐると巻いてしまう。
整った目元にやさしい苦笑の色をにじませた緋咲は、小春の突拍子もない行為をがまんしてくれる。
それは、秋から冬にかけて、小春と緋咲のあいだでひとつの習慣となった。
そして、小春の愛用するマフラーに、整った顔をうめた緋咲が、あきれ混じりのためいきとともに、小春に忠告した。
ざっくりと編まれた、このシンプルな漆黒のマフラーには、クリスマスに緋咲が小春に贈った香水。その香りが、強く充満しているのだ。
緋咲の部屋の玄関には、小春が贈ったフレグランス。そのあやしいかおりすらあっさり打ち消してしまえるほど、本来ひかえめであるはずのシャボンのかおりは、今日はまるでひかえめではない。
小春にとってはじめての香水。
適量がどれくらいなのか、皆目わからない。
素直にうなずいた小春が、緋咲のことを見上げてうかがってみる。
マフラーを忘れてしまわないように、いつものくせで緋咲に巻いてみせたマフラー。それは、緋咲のことを、過剰なかおりで取り巻いてしまった。
「かおり、気持ち悪くならないですか?」
緋咲は、小春の思案をにじませた言葉を、ゆがんだ口元で笑い飛ばしてみせた。それなら、いつも己が四方八方に纏わせているコロンはどうなるのか。
小春はそのきついかおりのなかで、いつもご機嫌に笑っている。
かすかにかおるシャボンが特色であるこの香水。さりげなさは失われ、強くかおりつづけているが、はっきりした顔立ちの小春がこの香りに負けることはなく、また緋咲にとってこの程度の香りの量は造作もなかった。
黒々とした髪の毛ごしにキスを落としてやり、ほっとしたようすの小春を部屋におしこみ、お気に入りのこたつのなかに彼女を導いてやる。
ココアをいれてやれば、軽やかに礼をのべながら、マグカップをちいさな手でつつんだ小春はうきうきと緋咲に尋ねた。
「緋咲さんは、年賀状何枚きましたか!?」
くわえたたばこをすんでのところでぽろりとこぼしそうになるのをこらえた緋咲にかまわない小春が、わたしは、17枚!と誇らしげに宣言した。
整ったくちもとをひきつらせてみても、小春はうきうきと緋咲のこたえを待つだけだ。
こんなことを、己に正気で訪ねてくるのが小春の小春たるゆえんだ。
「くるわけねーだろ……」
「緋咲さんには、おくらなかった……ごめんなさい……」
高級ライターのローラーを親指ですべらせた緋咲が、生まれた火をたばこの先でかすめとる。
さすがにばかばかしくて、小春のそんないたいけな謝罪にはこたえきれない。
大きなマグカップに口をつけた小春が、素直な気色をいっぱいに湛えた瞳で緋咲の様子をうかがっている。
そしてとどのつまり緋咲は、この、小春のまっすぐな澄んだ視線に、あえなくこたえることとなるのだ。
「気つかったんだろ?」
ちいさな肩をぴくりと反応させた小春が、ココアを啜りながらうなずいた。
ライターをテーブルの上にころがす。
すすけたかおりをまとった分厚い手で、小春のさらさらの髪の毛をなでてやると小春が少し困ったように笑った。
「いんだよ、年明け電話で話しただろ?」
「そうですよね、そこでちゃんと伝えられたから」
おめでとーございますって。
この部屋の住所は知っているけれど、小春の名前がのこるようなものは、この緋咲の隠れ家に、のこさないほうがいいのかもしれない。
そんな気遣いをさきまわりさせて、緋咲に幼い罪悪感を抱いていた小春は、ようやくそれを払拭できたようだ。
聡い緋咲が感じる。すこしだけ気配を緊張させていた小春は、いつもののびのびした彼女に戻った。
小春の上品なワンピースのすそからのびる足は、タイツにつつまれている。それでもすっかり冷えきった足を、緋咲の部屋の中央に鎮座するこたつであたためさせてもらう。
この部屋で過ごす新しい年は、今日が初めてだ。
小春のマフラーをおとなしく身に着けた緋咲が、たばこを楽しんでいる。
こうしていると、いつものように、あのマフラーは緋咲のかおりでいっぱいになってくれる。
緋咲に会えないあいだ、ずっと味気なかったマフラー。
出かけるまえに、慣れないトワレをふきつけてみると、思った以上に香りをただよわせてしまったみたいだ。
でも、あの調子では、このマフラーには、トワレがすべてを打ち消してしまって、つまるところ小春のにおいしかのこらないのではないか。
小春がもう一度たずねる
「緋咲さん、香水きつくないですか?」
「ま、いーんじゃねーか?こんくれー吹いたほーがよ」
「ほんと?」
「ああ。小春こそ、かおりキツくねーか」
「だいすきです、緋咲さんの香水」
男の人のかおりは、緋咲にかぎって平気だ。
あっという間にあたたかいココアを飲み干して、炬燵布団ごしにお気に入りのクッションをぎゅっと抱き締めた小春がそう伝える。
「炬燵も来月までだな……」
たばこの煙を漂わせた緋咲は、己の口からすべりだしてきた牧歌的な言葉に、ためいきをついてしまいたくなるが、小春がそれをさえぎってしまう。
「!!わたしんち、4月まで出しますよ!」
「だいたいよ、コイツぁな、ちーせーんだよ」
「うん……緋咲さん、脚長くて、外に出ちゃってる……」
ちまっとすわりこんだ小春の足が緋咲と交差することはなく、このこたつを支配するのはほとんどが緋咲の身体が。小春の指摘を聞いた緋咲は、こたつのなかから大きな体を華麗に抜き、ジョーカーをガラスの灰皿におしつけた。
「ソファにすわるんですか?」
こたつから抜け出し立ち上がった緋咲が、きょとんとたずねた小春の脇に両腕をさしこんだ。
「わっ……」
緋咲は、小春がおびえることなんて、ひとつも与えてこない。
だから小春は、いつだって、緋咲にされるがままだ。
軽々とこたつから引っ張り出されたまま、小春の小柄な身体は、緋咲に器用に抱え上げられた。ちいさなこどものように緋咲に抱かれた小春は、そのまま、広いベッドにみちびかれた。上品なワンピースが、小春の膝の上で翻った。
「ひ、ひざきさん?」
「オレぁよ、こっちの気分だ」
緋咲の薄手のセーターは、まるで毛並みの整ったネコのような感触だ。
質のいい部屋着をまとった緋咲は、小春をベッドのうえに、抱き上げた。
有無をいわせず緋咲のそばにさらわれた小春は、口をぽかんとあけたまま、緋咲のなすがままに身をあずけることとなる。
緋咲はそのまま、清潔なシーツの上にしなやかな体を横たえる。
小春を抱いたまま、ベッドのなかにおさまる。
緋咲の首をあたためていたマフラーははらりとほどかれ、小春のリュックの上に放り投げられた。それを大きな瞳で追いかけた小春は、そのまま緋咲のことをじっと見上げる。
「こーしときゃ、さむくねーだろ」
そして緋咲は、小春の身体だけ、毛布で覆ってしまう。
ゆったりとおろされた緋咲の紫色の髪の毛が、シーツの上にひろがる。
小春の黒髪もさらりと流れて、いまだどきどきとおさまらない胸のなかをととのえながら、緋咲の毛布に体をつつまれた小春が、緋咲の腕の中に体をあずけて、つぶやいた。
「この部屋、寒くない」
「無理するなよ、毛布あったかいかよ?」
毛布にくるまって緋咲に体を寄せる小春の髪の毛をもてあそぶ緋咲が、小春にたずねた。
「あったかい……」
すこしめくれあがったワンピース。
毛布のなかで、すそをいそいそとととのえなおした小春は、緋咲の胸のなかに安心して頭をあずけ続けている。
小春のかすれた声。
このまま、ずっと抱かれていたいけれど。
「緋咲さん」
「あ?」
緋咲が小春に無意識に返した短い言葉。
その短い声は、少しきびしくなっただろうか。
緋咲ひとりであれば、このままたばこに手がのびるけれど、小春が腕の中にいればそうはいかない。
くせのようにのびかけた腕を、さりげなく小春の背中に寄せる。
のびのびと澄んだ声から、ややかすれた声にかわった小春の背中を、ゆっくりと撫で始めた。
「緋咲さん、わたしと……付き合って、くれたころ……」
おもむろに語り始めた小春の前髪にそっとキスをおとして、緋咲は、その愛らしい声に耳を傾ける。
「えっと、その、最初のころ……」
「ああ」
「……こんなに近くにいてくれるよーになるなんて、思わなかったです……」
そんなによそよそしかったか。
族を受け継いだあの一年間、急に緋咲のまえにあらわれた小春を隠し、庇護し、守り抜くことだけ考えていた。
そうたずねてみると、小春はおずおずとうなずいた。
「こわかったか?」
「緋咲さんがこわかったことなんて、一回もないです。けど……」
ためらうわけではない。
言葉を一生懸命さがしている小春の打ち明けに、さほど気の長くない緋咲は、気づけばせかすように小春の次の言葉を促す。
「けど?」
「わたしは、緋咲さんの負担になってないかなって……」
緋咲を見上げてこない大きな瞳。
伏せられた大きな瞳は、緋咲のセーターに額をぎゅっとおしつけて、黒髪からのぞく耳は真っ赤にそまっている。
「わたしは、緋咲さんのことを幸せにできてるかなって……ずっと思ってたけど……」
身じろぎを何度かくりかえした小春が、緋咲の腕に抱かれたまま、緋咲のことを、やっと見上げた。そして、力強く宣言する。
「もう気にしないことにしたの!」
「何をよ」
「なにがあっても、わたしの前で、緋咲さんは、いつも緋咲さんのままでいてくれてるから」
片腕だけで小春を抱き込んだ緋咲はいつしか、小春のちいさな体の向こうでこげついて煙とかわってゆく灰皿の上をぼんやりと見入っている。
小春からそれてしまった、切れ長の美しい瞳。緋咲の、深く切れた、整った目元。
それを見上げて追いかけ続ける小春の瞳が、不安に変貌しそうになったとき。
緋咲が、穏やかなテノールで、静かにささやいてくれた。
「なにがあってもよ」
「……」
「ここに帰ってくるからよ」
この静かな部屋。
小春と緋咲しか知らない部屋。
清潔なシーツは、小春の高い体温で穏やかにぬくもりはじめている。
「待っててくれるか」
深刻な眼元の緋咲とはうらはらに、小春が何かを思い出したといわんばかりの陽気な色で答えた。
「それ、電話でも聞きましたね!」
電話越しに緋咲とすごせた年越しのことを思い出した小春の機嫌は、ただでさえご機嫌な気色をさらにうきうきと上昇させる。
「緋咲さん、わたしも」
そして、誇らしげに、得意げに、力強く。
小春らしい澄んだ声が、きっぱりと宣言した。
「なにがあっても、緋咲さんのそばにいます」
ボルトが忍ぶ冷たい手。
小春にだけ、あたたかい手。
緋咲の残酷な手が、小春のやわらかな髪の毛を慎重になでる。
安心したように目をとじた小春が、緋咲にますます寄り添った。
ぴったりとくっついて、ご機嫌に瞳をとじてみせた小春のことを、緋咲のからかい交じりの声が忠告してみせる。
「起きてろよ」
「ひ、緋咲さんも……です……!」
「起こさなかったのぁよ、どいつだったかよ?」
「あのね、お母さんが、緋咲さんのコーヒーに栄養ドリンク仕込んで、ずっと起こしとけって……」
「……」
「してませんよ、そんなこと」
ちゃっかりわらった小春の、前髪ごしの額を、緋咲のつめたいくちびるが優しいすべってゆく。
小春の腰を毛布ごしに器用に抱き上げた緋咲が、緋咲の腕のなかにすっぽりとおさまってしまっていた小春の身体をあらためてそばに抱き寄せた。
わっと驚いた小春。気づけば、ちいさな顔の正面には、緋咲のととのった顔がせまっている。
小春の、ぽってりとしたくちびる。
そのはしには、かすかにココアのあと。
それをかるくなめとった緋咲は、小春に、今年最初の、優しいキスをあたえた。