「よぉー、あすか、どうよ?」
真嶋家の二階。
古い木造家屋のひときわ使い込まれた一室に、開け放たれたカーテンから、新しい年のすがすがしい光が射し込んでいる。
がさついた右手で扉をささえ、自室に入ってきた夏生は、年始休みを取らずに仕事を引き受けているゆえ、オイル汚れのめだつ作業着姿だ。そして、もう左手で盆をささえている。盆のうえには、ほかほかと湯気がたつ小さな鍋と、れんげに箸。番茶が満たされた急須に、湯呑みがふたつ、さらに脇にはミネラルウォーターを一本抱え込んでいる。
新年を迎えたというのに掃除ひとつ行き届いていない夏生の部屋。大晦日前日までたてこんでいた仕事ゆえ、大掃除などままならなかったのだ。
そのふるぼけたベッド、洗濯していないシーツの上には、パジャマ姿のあすかが休んでいるところだ。
日焼け肌は、めずらしく生気がやや欠けている。さっぱりとしたショートカットを少し乱したままのあすかは、まともに干されていない夏生の布団で腰まで覆いかくし、上半身をベッドの柵にあずけ、夏生の部屋の古いテレビに見入っている。
テレビ画面には、箱根駅伝。
腰越に暮らすあすかにとって、絶妙な地点で無縁となるしろものだ。ただし交通規制の影響はしっかりとあるうえ、今も練習場として使っているスイミングクラブがうつる瞬間を、ちょうど視認したところである。
夏生に礼をつたえようとしたあすかは、はずみで軽くせきこんだ。
「大丈夫かよ、これ食ったらよ、コイツ飲んで寝ちまえ」
「おうどんだ、ありがとう……!」
元日の朝。
あすかは、秋生を無理矢理引き連れて、歩いて15分ほどの北方皇太神宮へ初詣に出向いた。
どうも、そのときもらってきたカゼで、あすかはのどをやられたあと、元旦の夜から今朝まで高熱にくるしんでいたのだ。
そして、1月2日も昼過ぎをむかえ、体力の優れたあすかはほどほどに回復しているようだ。
「あっ」
あすかのパジャマのしたから、電子音が響いた。
ボタンをふたつはじいたえりもとから体温計をひっぱりだそうとすると、自室のこたつのうえに鍋やきうどんの盆をガチャリとおいた夏生が、はだけたパジャマのなかからすこしとびだした体温計に、やおらオイルのかおりただよう指をのばした。
少し汗ばんだ胸元にのびた、夏生らしいかおりをただよせわたごつごつとした指。その指が妙になまめかしく体温計を引き抜く様。
回転が鈍くなっているあすかの頭は、ぼんやりとそんな状況を受け止める。
「……」
「どうした?あすか」
「ん?んーん、何度?」
「37丁度だな。まだ休んでろよ」
「えーーもうそんなに気持ち悪くないのに」
「コイツくっちまってからだな。あついうちに食え。おりれるか」
布団をぺらりとはぐってやり、あすかの熱のこもった手を夏生のがさついた手がつつむ。
夏生に手をとられたままベッドからおりたあすかは、そのままこたつにおさまった。
薄い顔立ちいっぱいにわらったあすかが、夏生があたえた半纏をまとったまま、ちゃっかりとお礼をのべる。
「ナツオさん、ありがとうっす」
「……ここ工場の声聞こえんのか……」
テレビを看ながら夏生のベッドでやすんでいると、シャッターをあけはなしている隣の工場から、若い男の子の大きな声が聞こえてきた。そのモノマネをしてみたのだ。そして、あすかの目の前には、昼食の、ほかほかのうどん。あすかは切れ長の瞳にきらきらと快哉を宿らせる。
「聞こえたー。新年のご挨拶だね」
「食ったらここで寝てろよ」
「うん。ねえ、ナッちゃんの後輩の人?」
「マー坊がよ、ちっと寄っててよ、秋生としゃべってんよ?すぐどっか行くみてーだけどな」
「またマー坊くんって人とすれちがったー」
ホカホカと湯気が立つそれをあすかが見守り、箸をとりあげて手をあわせた。
いただきますと挨拶をしたあすかがたずねる。
「これナッちゃんがつくったの?おいしそう!」
「ばあちゃんがやっててよ、途中からオレだ。テキトーにつくったからよー、おおざっぱだぞ」
れんげでスープをすくって、だしのきいた味をたしかめる。
ほかほかのうどんはそれだけで幸せな味だ。そして、あすかの家でつくるうどんよりなんだか力強い。
まくをはったタマゴをさいて、黄身をひろげてゆく。そこに太い麺をからめていると、テレビの中で、実況アナウンサーが叫んだ。転倒した選手がいたようだ。ふたりして画面につられて、陸上競技にさほど興味もわかぬふたりはまた手元に視線をおとす。
「おいしい……!!」
「そーかよ」
ネギやかまぼこをもぐもぐと食みながらあすかは思いやる。
「あっちゃんは、大丈夫なのかな」
「アイツは免疫つえーんだよ。人からビョーキもらうことはねェな。あすかぁ意外と体よえーだろ」
「そうなの。水泳はじめたのも、体強くするためだったし」
落ち込む声で麺をすすってゆくあすかを、夏生がやさしく見守る。
「別に悪いことじゃねえよ。よわってんときぁよ、甘えられるヤツに甘えっちまえ」
「ありがとー……」
昨日の夕刻、急激にあがってくる熱をもてあまし、こたつでぺたりとのびてしまったことを思い出す。
そしてこの朝目覚めると、たばこのにおいとオイルのニオイにまみれた、見慣れたこの部屋でねむっていたのだ。
「ねえ、なんでわたし、ナッちゃんの部屋で寝てるの」
「コタツでのびちまってただろ?」
「よく覚えてない……。いつも泊まるお部屋じゃなくて、ナッちゃんの部屋……」
「いやかよ」
「夏休みんときも泊まったよね。ここ寝るとねー、ナッちゃんて感じのニオイすんだよ」
「……加齢臭……?」
「19で加齢臭する人なんかいないってば。オイルとたばこだよ」
がつがつと食べ過ぎてしまうと、回復より消化にエネルギーを使ってしまう。
適度な量にみたされたうどんを、あすかはあっさりと食べ終えた。
湘南大橋の手前で、夏生が古いテレビのスイッチを落とした。このチャンネルと国営放送しかうつらないおんぼろテレビも、そろそろ寿命だろう。
「ごちそうさま……!」
「コイツ飲め」
朝から軽く仕事をこなしていたから、作業着すがただ。そのポケットから夏生が錠剤をとりだした。
あすかの細いあごをやおらつかんだ夏生が、口のなかに錠剤をふたつほうりこむ。
「あーー、ナッちゃん、自分でのめるよ……」
「ほら、水あるぞ」
「ナッちゃんってお世話好きなほうだっけ?」
「つべこべいわずにのめ」
「ありがとー」
ミネラルウォーターをうけとったあすかが、錠剤をごくりとのみくだす。
これできっと、夕刻目覚めればすっきりと回復しているだろう。
半纏をぎゅっと着込んだあすかがコタツ布団を肩までひきあげる。
家の大掃除は、あすかの母親が大晦日に手早くすませてくれたが、この部屋の掃除はまったくゆきとどかないままだ。
このこたつ布団もかびくさいだろう。
「食器オレがかたづけんからよ」
ここ置いとけよ。
ふたりぶんの茶を、夏生が注ぐ。こぶりの湯のみに満たされるあたたかな番茶。
ありがとうとつぶやき、あたたかい番茶をずずとすすったあすか。
またひとつせきこんだあすかが、訥々とぼやきはじめた。
こたつに足をつっこんでいる夏生は、しずかにその言葉に耳をかたむける。
「あー、去年から、腰もいためるし」
さっき、アイツ初泳ぎっつってニュースでてたし……。
「焦るな。マジで競技やってっとよ、だれでもぶつかることだろ?」
夏生が落ち着いた口調であすかをさとした。信頼するコーチにも同じ言葉を伝えられたが、夏生のかすれた声でそうさとされると、ほんの少しの情けなさとともに、現状の自分をひとまず自分で認められる気がするのだ。
長い腕をのばしてあすかの頭をポンポンとなでてやると、あすかの切れ長の目が、ほっとしたようにさがった。
「神社で小銭ぶちまけちゃった」
「んなことなってんのオマエだけじゃなかったろ?」
「昨日、人混みで、キーホルダー落としたよ……」
「大事なモンだったのか」
「小学校のとき、おじいちゃんにもらったやつ。そのかわりにアッちゃんが、キーホルダーのお守り買ってくれたんだけど」
アキオがねぇ……。
夏生の声が据わったことを、あすかは悟らない。
日頃、心に引っかかることを、さっぱりと彼方へ吹き飛ばしてしまうあすかは、体と思考がよわっているからか、めずらしくグチっぽい様をみせている。
「元旦からかぜひくし……」
あすかが数える、身近な災厄。
夏生にとってそれは、かわいらしくて、実にささいなことだ。
こうした身近でかわいらしいことだけ、この子に起こっていればいい。
己が知る悲しみなど、あすかが知る必要はない。
そして、そんな悲しみから、あすかを守ってやりたい。
「どいつもこいつもよ、厄おとしだよ。そう思っとけ」
「厄おとしかー、でも、元旦にやってたことは一年中やってんだって……おとーさんがゆってた」
「オレぁ今年も一年中仕事してんのか……」
「わたしもカゼばっかひいてんのかな、あ、でもアッちゃんとも遊びまくってるってこと?」
一気に番茶をのみほした夏生が、卓のうえに乱暴においた。
「オレもいただろ」
「そうだよねナッちゃんもいてくれたし」
「今年、オマエになにかあったらよ、オレがめんどー看てるっつーことだな」
「一年中ナッちゃんに甘えてんのかもしんないね……ナッちゃん仕事あるのに!」
「繁盛すんのはいんだけどよー……支払いをな、キッチリよ……」
パーツもよー、そこら辺から湧いてくるワケじゃねんだぜ……?そこをよ、わかってほしーワケよ……。
グチグチとぼやいてみせる夏生を、少し元気をとりもどしたあすかが笑う。
栄養のある食べ物を消化し、体温が上昇しているからか。
あすかの頬と鼻先が、赤く蒸気している。
「さ、横になっちまえ」
「うん、ありがと!ベッドかりるね」
あすかの肩から半纏を剥ぎ取った
幼いころから夏生が知るあすかは、もとの体つきは華奢であったはずだ。
日々の努力で鍛えぬかれた肩は、こころなしか筋肉がおち、ほっそりとしてみえる。
胸元があいたパジャマ。
夏生の手がひゅっとのび、第一ボタンをとめた。
あすかがかすかに息をのんだ。
すこしびくついたあすかの肩をささえて、干されていないシーツに、いつもより軽いあすかの体を横たえる。
肩まで布団をひきあげてやれば、あすかは、夏生の精悍な顔を間近に確かめ、すこしうるんだ瞳で夏生をじっとみつめる。
赤くそまった鼻先。
そして。
すべてをあっさりとうばってしまえそうな距離で、ふたりはしばし、見つめ会う。
「……」
「……いやか?」
「な、何がどういやなの?そういえばナッちゃん、たばこのにおい、しないね」
「病人のまえで吸えっかァー?」
あすかの鼻先をかすめようとしていた、夏生のかわいたくちびる。
コーヒーのかおりが微かにただようそれがゆっくり離れたあと、がさついた大きな手が、あすかの額におかれた。
「だいぶ下がったな。冷えピタもってきてやろうか」
「頭は痛くないから大丈夫。あとちょっとだけ寝たら、もうなおる」
「オマエが寝るまでここにいてやるよ」
ややぱさついたあすかの茶色の前髪を、ベッドにすわりこんだ夏生がなでる。
年下のかわいいイトコを苦しめる熱は、ゆるやかに引き始めたようだ。
「ナッちゃんやさしいね」
「せっかくあすか泊まりにきてんだからよ、早く元気になってもらわねーとよ、つまんねーだろ」
「今日中になおすよ」
「ムリするな。あと、5日いんだろ。ずっと休んでていいんだぜ」
「ゆっくりする……ありがとう」
「ああ、弱ってるオンナ襲ったりしねーから安心しろよ」
「ナッちゃんが女の子襲う!?ありえないねー」
オマエ一回襲われてんだぞ。
そんなことを内心にしのばせながら。
あすかは、すっかり安心しきって夏生のベッドにもぐりこんでいる。
ここにオンナを寝かせたことはなかった。それは、単純に、いつだって小汚い部屋であったからだ。オンナとひとときをともにするのは、オンナの部屋か、金を払って過ごせるホテル。
この小汚い部屋に寝かせたオンナは、あすかがはじめてだ。
「ナッちゃん、ありがと……」
「ああ、ゆっくりやすめよ」
この子は昔から寝付きもいい。
すうっとしずまるように眠りにおちたあすか。
赤く染まった鼻先は、いくぶん乾燥しているようだ。鼻よりノドにくるカゼであるからか、とくに呼吸に困っているようすもなく、あすかはすっきりと眠りに落ちた。
さらっと流れる前髪を、無骨な指先がととのえる。
夏生のかさついたくちびる。
さきほど離れたそれは、もう一度、鼻先におりてくる。
あすかの整った鼻梁を、かさついたくちびるがそっと撫でた。
そのくちびるは、さっぱりと日焼けしたあすかの頬をたどったあと、ひそやかに離れた。