ポケットの中にお邪魔



正月は嫌い。

そう言い残し、パステルピンクに塗り込められた自動車にとびのって瞬く間に走り去ってしまった従姉妹。

あれは、去年のことだった。

彼女は今、つとめていた会社を退社して、この海、この町、この国をとびだし、ひとり欧州で暮らしているらしい。

年上の尊敬する女性が、どこかせいせいとした調子で吐き捨てたあの言葉。

今のあすかは、彼女の気持ちを、我がこととして深く実感している。

普段にくらべてひときわ人の出入りが激しい正月三が日。
手伝いと、酌のようなマネ、うわべばかりのあいさつに疲れ果てたあすかは、お茶とお酒で濡れた盆を抱えて、ひとつため息をついた。

人見知りが激しいわけじゃないけれど、あすかはなるべく、気に入った人とだけ過ごしたい。そしてその思考が、わがままであることも自覚はしているけれど。あまり性根が合わない親戚たち。そんな人たちへの違和感や嫌悪のようなものを露骨に顔にだせるほど、こどもじみているわけでもない。

ガマンをしいられる正月。
あすかはなんだか、無性に孤独だった。

あまり気の合わない親戚。酒のよい方もたちがわるいが、両親はそれをさほど気にしない。そして、のびのびとした性格のあすかの妹は、姉のあすかに一切の面倒ごとをまかせたことにより、一切の形式のわずらわしさから解放されていて、のんびりとしたものだ。

とはいえ、手伝いや裏方を買ってでていれば、関わらなくてすむ。

冷たいおせち料理も苦手だ。ゴロゴロとした具が詰まった雑煮も嫌いではないが、インスタントのジャンクな味が恋しい。しかたなく手伝ったそれらは、やっぱり愉快な味なんてほど遠い。

あまり得意でない親戚たちがそろそろあすかのくらす鵠沼海岸沿いのマンションをあとにしようとしている気配がある。海見え物件にこだわった父のおかげで、この部屋を訪れたがる親戚は多い。今やるべきことでもない食器磨きに精を出していたとき、あすかの自宅の電話がけたたましく鳴りはじめた。いつもは母親におしつける電話。キッチンからとびだしたあすかはすかさず受話器をもぎとった。

そして、機械の向こうからこぼれてきた、少し甲高い声。
でも、あすかにとって甘く聞こえるテノール。
その声は、律儀にあいさつをつむいだあと、母親や妹とそっくりであるあすかの声を、おそるおそるたしかめた。

「ジュンジくん!」
「あーー、あのよ…ひ、ひさしぶりだよナ……」

あけましておめでとう。
そんな定型の挨拶、お互い照れ臭くて伝えられない。
大人はかわすつまらない挨拶。もっと何か、ふさわしい言葉があるはずなのに、やっと聞けた声にあすかは、戸惑ったままだ。

「え、えっと、ひさしぶりだね!去年、去年かー電話したの」
「あ、ああ、あ、あのな」
「う、うん、ジュンジくん元気?確か今、鵠沼には帰ってないんだよね?」
「大晦日だけけーったんだけどよ……、今、家族でよ、じーちゃんちきてんだよ」
「そうだったんだ、道理で家、車ないと思った」

お正月の買い物にいくとき、大型スーパーに向かうため、自家用車でジュンジの家の前をとおったのだ。あかりはついていたけれど、車はなかった。それを聞いたジュンジが尋ね返す。

「とおったんか?」
「うん、あっちのスーパーにね、行ったときに」
「ああ、あすこだとオレんちの前通んよな……、妹ひとりで留守番してんだよ。アイツぁひとりになりてーんだってよ」
「わ!やっぱ私、ジュンジくんの妹ちゃんと気があうと思うー……」
「どした、ひとりになりてーんか」
「……んーー……逃げたいだけかなあ……」

思わずとびでた愚痴、弱音。
いつだって立ち止まることなく、楽しいことと自分をわくわくさせてくれること、そんな事柄のなかに迷いなく身を投じてゆくジュンジに、説教されてしまうだろうか。
こんな愚痴をこぼしてしまう女の子は好みじゃないだろうか。
ちゃんとジュンジの彼女なのに、あすかは時折、こうして彷徨ってしまうこともある。

「ああ、そんじゃよ」
「ん?」
「逃げてこいよ」
「!」
「オレんとこ」

ジュンジの誘いに、あすかは、迷いなく返事した。

いわく、これから、ジュンジの祖父と祖母の家に、ごはんを食べに来ないかとのこと。
即答したあすかは、ジュンジがざっくりと教えてくれた説明にしたがう。

お仕着せのようなエプロンをぬぎすてて、一番気に入っている洋服に着替える。
髪の毛をセットして、パウダーをはたいて、かわいいバッグに荷物をつめこんだ。
帰宅する気配をただよわせていた親戚一同は、いまだ居座っているようだ。
彼らにも、精一杯いい子ぶった挨拶を残した。

「ジュンジくんちいってくる」

ブーツに足を突っ込むと同時に、ぺたぺたと部屋から出てきた妹に伝える。

親戚のために用意していたもののなかに、余った進物があるはずだ。
玄関までの廊下のかたすみに置かれていたお酒。紙袋をひっつかみ、金属のドアを押した。背中から妹の声が聞こえてくる。ごはんは?と尋ねる声に、短く残した。

「いらない!!お母さんにも、言っといてね!」

あすかのマンションから鵠沼駅まで、やや距離があることがもどかしい。それでも、江ノ電が駅に到着する時刻と感覚は、肌で理解している。ちょうどすべりこんできた江ノ電で藤沢駅まで。正月三日目の夕刻は、とても混み合っている。初詣客か。あすかも、友達や妹とともに鶴岡八幡宮に出向いたけれど、それはひどい混雑だった。ジュンジのためにかったお守りは、わすれてしまった。次のデートでわたせばいい。今日はとにかく、彼に会いたい。あわてて飛び出してきたあすかの手は、真冬の冷気にさらされたままだ。クリスマスには、これを包む手袋も贈ってくれたのに、それすら忘れてしまった。このことはちゃんと謝らなければならない。

そして、磯子駅。
駆け下りた階段、ざわつく駅の構内。
まばらな人影のなかに、スカジャンを羽織った恋人のすがたをみつけた。

「よぉ」
「ジュンジくん!!!」

電話では幾度も話していたけれど、こうして会うのは、クリスマス以来だ。

照れくさそうにわらったジュンジのことを素直に見上げてみると、いつもよりラフな髪型のジュンジが、ますます照れて目をそらした。

「ジュンジくん、ごめん、手袋わすれた……」
「手袋!?あ、ああ、あれかよ、急いでたんだべ?」
「ごめんね……そもそも寒いのもわすれてたよ」

この駅から、ものの2分ほど。あっというまにジュンジの家に着いてしまうことは、ジュンジが以前アクセスの良さを語っていたから、あすかも知っている。そんな短い距離であれば、冷たいのも寒いのも平気だ。マフラーに顔をうめたあすかがそう伝えると、ジュンジが、あすかの冷たい手をそっととりあげた。

そのまま、ジュンジのスカジャンのポケットにみちびかれる。

「こーすっか」
「……ん、ライター?」

ジュンジにぎゅっと握りしめられた手は、ジュンジのジャンパーのポケットであたためられながら、あすかの手の甲にかつんかつんとあたる何かが気にかかる。

「や、やべ、こっちのがあいてたのによ……」
「いいよこのままで、ジュンジくんのおじーちゃんとおばーちゃんちに、家族で泊まってるの?」
「ああ、じーさんもばーさんもよー、そんでうちの親がよ、あすかも呼べってうっさくてよ……。オヤジは仕事でけーっちまってよ、じーさんとばーさんと、お袋だけだけどよ」

ジュンジの話を聞くには、不良少年の自分を見捨てずに面倒をみてくれる厳しい祖父母。そして、ジュンジを持てあますことなく豪快に接する母親。
うまくやれるだろうか。あすかのこころのなかに、緊張がはしる。とにかく、きちんと挨拶を伝えなければ。
そして、右手に掴んでいる紙袋を見せてみる。

「ごはん、おじゃましちゃっていいの?あのね、これだけおみやげにもってきたの。お酒」
「やっべーぞ、うちのばーさん、酒豪なんだぜ。お袋も一本あけちまうんだよな……オレが飲むとよー、キレんくせによ!」
「お正月だから、そういうごはんなの?」
「いーや。、鍋くわねー?」
「鍋!最近冷たいごはんばっかだったから、嬉しい……」
「冷たい……?帰りはおくるからよ」

ありがとうと伝えたあすかは、ポケットにしのんでいたライターをひっぱりだしてみる。がさついたジュンジの手を器用にからめながら、オイルの減った安いライターを観察していると、ずいぶん立派な鉄筋コンクリートの住宅にたどりついた。

ジュンジがあすかを玄関にみちびく前に扉をあけたジュンジの祖父は、ジュンジの話にきくよりずっとやさしそうな人だった。
祖母は、ちいさな体でいっぱい笑う人。
そして、ジュンジの母親。電話は何度も取り次いでもらっていたけれど、会うのは中学のころ以来。オトコノコにしては眼も大きく濃い顔立ちのジュンジによく似た美人だ。校内校外とわず問題を起こしていたジュンジ。彼のせいで学校に呼び出されている姿を、幾度となく見たものだ。那智や徹、奈良原など、ひとくせもふたくせもある問題児たちも、ジュンジの母親には頭があがらないようで、四人まとめて説教しているすがたも時折見かけた。あの那智すら、この人には素直に謝っていたのだから。律儀に挨拶をするあすかを3人とも歓迎してくれた。お酒をわたすと歓声をあげて奪い取られてしまった。

ものが少しだけごちゃごちゃと散らかっている、明るいリビング。夕刻を迎えるこの時分、テレビはバラエティ番組。そして、こたつの上には、すでに食事の準備がなされていた。

カートリッジ式のコンロに乗った土鍋。
澄んだお湯のなかに、昆布がすでに沈んでいる。

そばに添えられた籠のなかには、白菜、長ネギ、椎茸、えのき、春菊。そして、鶏肉。冬の野菜が輝いている。

素直に瞳を輝かせるあすかのことを、ジュンジの保護者達があたたかく見守った。ちょこまかと手伝おうとするあすかを制止するかわりに、母親からおしぼりを手渡される。

「ジュンジくんお肉ばっかりたべるの?」

ポン酢を注いでまわるあすかが、隣にすわったジュンジにたずねた。

「あすかも好きなもん食っていーんだぜ?」

祖父と祖母にしつけられているのか、箸の配膳も茶碗の配膳も、ジュンジは完璧にこなす。青ネギともみじおろしをそえた小皿も全員分ゆきわたり、鍋は、中火よりすこし弱い温度でぐつぐつとたぎってゆく。

おだやかに煮られていくあいだ、ジュンジの祖父や祖母が、この家でのジュンジのようすを教えてくれる。あすかから電話がかかるたび、二階からかけおりて受話器をもぎとるのだと。それはきっと、今日のあすかとよく似ているのだろう。
夜遅くでていくことも本当は知っているが、どんなことがあってもジュンジを守る準備も、ジュンジのことを心から謝る準備も、ジュンジのやったことについて頭をさげる準備もできていると。ジュンジは、何も聞こえていないふりをして火加減を調整している。そんなジュンジの頭を、母親が思い切りはたいた。

ぐつぐつと煮立つまえに投入される白菜、しいたけ、ねぎ。豆腐も慎重におとしてゆく。そして、鶏肉。ジュンジの母親が手際よく具合をたしかめて、器によそいはじめた。好き嫌いがほとんどなくてよかった。椎茸だけ不安だが、ジュンジの母親がよそってくれた器をありがたくうけとる。

すきとおった白菜。
すこし角がとろけた豆腐。

いただきますと手をあわせたジュンジのマネをして、あすかも挨拶を述べる。そして、口のなかに運んだ白菜は、実にあたたかく、幸せな味わいであった。

「おいしい!!」

やわらかくなった鶏は、とろけるようにおいしい。椎茸はにがてなのに、思い切ってたべてみるとこんなにジューシーなものだとは知らなかった。
ジュンジの器は緑色でいっぱいだ。食べつくすたびに祖母がよそっているけれど、肉はよけて野菜ばかり。野菜を食べないからおまえは気が短いのだ。祖父がそんな風に怒ってみせる。あすかは、ジュンジがいかに自分の話を気長に聞いてくれるか、そんな助け舟をだしてみせた。

あっというまに具はきえて、それでもいまだ澄んだ色を湛える鍋のなかに、ごはんが投入された。鍋のそばに置かれていた塩を、あすかが軽くふってみせる。そこにたまごが投入されて、ありったけの青ねぎもふりかけられる。

ジュンジに手渡されたれんげをつかって、出来上がった雑炊をすくいとる。
器に満たされたポン酢の味がしみこみ、実に上品な味を楽しめた。

家で担わされていた手伝いのおかげか、食器の後始末を手際よくすませることがかなった。
時計はさほど遅くまでまわっていない。いつまでもいたい温かい家を、あすかはあとにする。

「あすかん家までいくよ」
「え!藤沢まででいいのに……一緒にきてくれるの?」

すこしだけ火照った体を夜の風にさらして、帰りはポケットではなくて、澄んだ夜の大気のなかで手を取り合う。頷いてくれたジュンジに、あすかはあらためて伝えた。

「ごちそうさまでした!」
「じーさんもばーさんも、マジでもっと雑なんだぜ?あすかがいたからよー、かっこつけてんべ……おふくろももっと酔うんだぜ……」
「ありがとうー、楽しかった!」

さっぱりと笑ったあすかの表情をたしかめたジュンジが、穏やかな声でたずねた。

「元気でたか?」
「でた!でも、情けないよね、ジュンジくんとこに都合よく逃げちゃって」
「オレが呼んだんだべ?」

かすかにあすかのなかに残った自嘲を、丁寧にとりのぞくように。
ジュンジが、不器用に言葉をさがしはじめる。

「なんでもいいんだよ、オレぁ」

あすかが、少しだけ背の高いジュンジを見上げる。

「オレぁよ」

ぽりぽりと頬をかいたジュンジが、へらっとわらってくれた。

「あすかが元気でいてくれんのがよー、一番だからよ!」

結局、体のなかが寒いから、心も寒くなるのかもしれない。
体のなかがあたたかく満たされて、こうしてそばにジュンジがいてくれて、あすかはすっかり気持ちを取り戻しているのだけれど。
それでも、いつだって笑ってくれているジュンジに、あすかは尋ねる。

「ジュンジくんはー」
「ん?」
「息つまるときも、ある?」
「オレー?オレあ……ねえなあ……」


オレぁよっぽどバカなんか……?

おっとりとしているようで、どこか飄々としている。かわいくてユニークな彼女は、時々こうして、ジュンジには及びもつかぬ迷い道で立ち止まっていることがあるようだ。
あすかの抱く悩みは、実感したことがない。
もどかしいほどの息苦しさはすべて、拳と友といることによって解決してきた。

女の子はそうはいかないのだろうか。

「そっかあ、オトコノコは、いいなあ……」
「オトコとかオンナの問題か?個人のことだろ」
「ジュンジくん、わりとそーゆー正論いうよね!わたしの性格の問題か……」
「ば、そ、そーじゃねーよ!」

利便性の高い場所にある住宅から駅までの道はアッという間だ。それでも今日は、懐かしい湘南まであすかを送ってゆく。母親にわたされたパスネットを改札にかざしたジュンジがあわてて反論した。

「オレがバカだっつー話だよ?」
「こんなふうに話聞いてくれるジュンジくん、バカじゃないよ」
「湘南に行けるガッコなかったオレがかよ……?」

ジュンジの自虐を聞いても、顔色ひとつかえずけらけらとわらったあすかが、さっぱりと言ってのけた。

「ジュンジくんは、ちゃんとしてるよ!ね、大晦日は那智くんに会った?」
「いや、会ってねえなぁー」
「え、また那智くんにあってないの?ホントは会いたくないの?」

そーゆーわけじゃねーけどよ。
湘南と横浜。ジュンジの心は今、確かに横浜にある。
会いたくないわけではない。懐かしくないわけではない。
然程思い出さなくなったあのころに、まだ踏み入る時期ではないのかもしれない。
あすかがジュンジの思考をさえぎるように、飄々と言ってのける。
すべりこんできた東海道線。行きに比べて、帰りはガラガラだ。

「私、那智くん毎月見かける」
「マジで?アイツ生きてんのか?」
「このまえ、由比ヶ浜の駐車場でコロッケ食べてたよ、おっきいオトコの人と」
こーんな!!こんなひと!!

ガラガラの車内で立ったままのふたり。ジュンジを手をつないだまま大きくジェスチャーをアピールしてみせたあすかが、那智とともにいたその男性がいかに大きかったか語る。

「んで、那智としゃべんの?」
「ジュンジくんとのこと?色々話せるほど一緒にいてくれるわけじゃないんだってば。オウ……とかゆってそのまんまどっか行っちゃうよ」
「い、いや、オレだけじゃなくてよ……そっか、ゆってねーんか。つか那智の物まね似てねーぞ……」

自分から切り出した、あのころのジュンジの友の話はコロっと飽きてしまったようすで、あすかは、のびのびと腕を大きくうごかし、背すじをのばした。

「ああーおなかいっぱい!」

つり革につかまっているジュンジを見上げて、何度もくりかえした礼をつたえた。

「ホントにありがとね」
「何かあったらよ、」
「うん」
「オレじゃ役にたてねーかもしんねーけどよ」
「そんなことないよ!」
「また、ばーちゃんのメシくうか?」
「ありがとー!お母さんにもまた会いたいし、おじいさんにも……あと、次ちゃんとお手伝いするから」

藤沢に滑り込んだ電車から要領よくとびだしたふたりは、慣れた様子で江ノ電乗り場に向かった。行儀などつゆほどもしらないジュンジも、あすかのそばにいるときは行儀がいい。きちんと列にならんで、江ノ電が到着する時刻を腕時計と見比べている。

「またしばらく会えないね」
「湘南帰ってくるときぁよ、ぜってー連絡すっから」
「帰ってこないときも、電話してね」
「あ?あ、ああ、するよ、あすかもかけてこいよ」

マフラーを巻きなおしたあすかが穏やかにわらってうなずいた。
この穏やかさは、心からの物だ。それを確かめたジュンジが、あすかに笑いかける。

「また逃げてこいよ」
「そ、そやって私のこと甘やかす!」
「マジだぜ?まってんよ、いつでもよ」
「ありがとー……ジュンジくんもだよ!」

あたたかいものと、あたたかい心で、あすかのすべては満たされる。
きっとこうして満たされることが、あすかに、次に歩いてゆく力を与えてくれるはずだ。

「あとちょっとだけ、いっしょにいられるね」

そういえば、たばこをひとつも吸わなかったジュンジ。
たばこくさくても、たばこのかおりが漂わなくても、あすかはどちらでもかまわない。
男の子にしては肉厚のジュンジのくちびる。
今日、まだキスはしていない。
鵠沼駅からの帰り、きっと辺りには誰もいないだろう。
あの静かな町で。
ジュンジと過ごしてきたあの町で、帰りに、軽くねだってみようか。

江ノ電が、しずかにすべりこむ。
もう一度ポケットに導かれたあすかの手が、ジュンジの分厚い手に、ぎゅっと握りしめられた。



参考文献 暮しの手帖86号




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