ひとつの手袋をふたりで



真冬の横浜を朝から激しく叩いていた雨は、昼下がりをむかえ、葵が学校をあとにするころには、きれいさっぱり止んでいた。冷たい雨は雪に変わることはなく、どんよりとたれこめた雲の間から、透き通るような青空をつれてきた。
地下に駆け込めば、雨上がりのアスファルトの強い金属臭を感じることもない。葵の乗る東横線は、夕方の横浜駅に無事すべりこんだ。

横浜駅構内。
金曜日の放課後だからか、今日はひときわ、学生の数が多い。
思い思いに着こなした制服のむれ。葵はつまらない着こなしだけれど、自分はこれでかまわないと思っている。
眼につくのは、生真面目な着こなしから、雑誌に出てくる読者モデルようにあかぬけた着こなし。

そして、あちこちに、改造ブレザーや改造学ランの男の子たち。
でもきっと、そういう人たちは、葵のことなんて見えていない。

雨あがりのおかげで、湿ったタイル。葵は、すこしうつむきがちに、ぺたぺたとタイルを踏みしめて歩く。
学ランすがたの高校生とぶつかりそうになったので葵のほうから器用によけた。傘の先が前を歩く人の靴に引っかからないように、地面と垂直に立てて持つことをこころがける。今日は、長い傘を持っている。いつもの折りたたみ傘は双子の妹に貸してあげた。葵が手袋越しに手にしているのは、色気のない黒い傘。

登校時はずいぶん冷えこんでいたけれど、この雨は、なまぬるい暖気もつれてきた。
いったん底を打ったあと、急に上昇した温度。
マフラーは首元をあたためてくれるけれど、この暖気ではもう、手袋なんて、なくても平気だ。
姉のおさがりである、派手な柄の大きな手袋を、コートのポケットにひとつずつ、つめこんでみる。いつだって冷たい葵の手。今日は手袋につつまれて、十二分に保温され、潤いもたもたれている。

人ごみを、足早にすりぬけてゆく。

親友は、みなとみらい線に乗り換えた。
この構内で、葵はいつもひとりだ。
葵は、いつまでも横浜にいるより、はやく鎌倉に帰ることがすきだ。

天井からぶら下がる電光掲示板。
横須賀線・鎌倉行きの電車の時刻は、あと5分ほど。
これを逃すと、15分待たなければならない。

急いだ方がいいかもしれない。

葵のローファーが、ぬれたタイルを叩く。
つまさきで体を撥ねさせて、軽やかにかけだしたとき。



「おい!!」

葵のコート越しの肩が、力強い手のひらにがっしりつかまれた。

途端漂う、男性者の香水の重たい匂い。
驚愕の声もあげられなくて、葵は、思い切り振り向き、声のぬしをさがす。

葵の耳元をすぱっときりさくようなバリトン。はりさけてしまうように葵のからだのなかで響いたあと、葵の体の奥底にゆっくりたまっていくようだ。

「いきなり走んじゃねえ……」

おもわず振り向いた葵のひとみにとびこんだのは、カラスのように漆黒の学ラン。そして、金属のボタン。
その長い長い学ランは、燕尾服のように重々しく翻っている。

葵のくるくるとした瞳は、スローモーションのように、ゆっくりと上昇していく。

「あぶねえだろーが……」

おどろおどろしい低音が、もう一度葵をつらぬいた。

「え、あ!!」

まさか、会えると思わなかった人。
常日頃からこの人のことは葵の心の奥底に忍ばせてあるけれど、たった今、会えるだなんて考えてもみなかった人。

そこには。

「榊先輩・・・・・・!?」

葵の頭上には電光掲示板。
そして、葵の手前には横須賀線のホームへのぼってゆく階段。

この人が立つと、人垣が割れる。
数多の人は、この人を恐れるように避けてゆく。

榊龍也。

葵がずっと慕い続けている人。
彼が今、コート越しの葵の細い肩を、しっかりととらえ、葵のことをがっちりと捕まえている。
振り向いたまま、奇妙なかたまりかたで、葵はちいさな口をぽかんと開けて、龍也のことを、見上げ続けている。

「こっちこい」
「え!!」

龍也は、そのまま、葵の小さな肩をぐいと抱きよせて、構内のかたすみにひきよせた。
階段の真ん前だ。さすがに、衆人環視のもとやり取りを続けるわけにはいかない。

「あ……」

龍也に肩を抱かれた葵は、されるがままにずるずるとひきずられてゆく。

葵が見上げると、龍也の精悍な顔には、透明色の傷あとがざっくりと確認できる。短髪は、ワックスでかためあげられて先端は赤く染まっている。いつもしっかりとかためられている龍也の髪の毛は、気候のせいであろうか、水分をふくんで幾分かざんばらにおりている。

龍也の手元には、黒い傘。
葵を駅の片隅まで引き寄せた龍也は、コンクリートの固い柱に傘をたてかけた。

澄んだ瞳をまるくして見上げる葵から露骨に目をそらした龍也が、葵とむきなおる。

「……」
「……」
「……」
「……あっ、あ、あの、兄の……あれぶりで……」
「んなこたどーでもいーんだよ……」

世にもかなしげな顔にかわった葵が、龍也を見上げることをやめてうつむいてしまった。
それでも、龍也の吐き捨てたその言葉に懸命に納得することをこころみ、深く深くうなずいてみせた。

「……」
「え、えっと……わたし、何か……」
してしまった、でしょうか……。

いきなり呼び止められたものの、龍也も押し黙ったまま。
葵も押し黙ったままでは、話が前をむいて進まない。
勇気を少しずつかきあつめた葵が、ひとまず、なにか龍也に失礼なことをしでかしてしまったか。
そんなことを質問してみせる。

うつむいてしまった顔を、ゆっくりとあげてみる。

そのとき。

「コイツだ」

葵の目の前に、さしだされたもの。
それは。

「落としやがったぞ……」
「あっ……!!」

コートのポケットをあわててさぐった。
右からはでてきたものの、左からはあらわれない。

龍也がさしだしてくれたもの。
それは、コートのポケットに突っ込んでいたはずの、手袋だ。

「お、落としちゃって……た……」
あ、ありがとうございます!!

踏まれたりけられたりしてしまったのか。
何色もの毛糸で編まれた華やかな手袋は、ほこりまみれで情けなくまるまってしまっている。
それを、龍也が律儀にみつけてひろいあげてくれたのだ。

葵は、よろこびをかみころしてわらう。
そして、もう一度くりかえす。

「榊先輩、ありがとうございました…!」



人混みの中でみつけた、地味なコートに包まれたちいさな体。

龍也は、この子を見分けることは容易だ。

特徴のない地味な制服。
特徴のない地味なスタイル。
特徴のない地味な髪型。

それでも、この子のことは、いやというほど見分けがつく。
ちまちまと手袋をはずす動作。
それをぞんさいにポケットにつっこむと、案の定だ。

葵がポケットからぽろっとこぼした手袋は、行き交う通行人どもに遠慮なくふみつけられていた。

龍也が雑踏をあるくと、自然と人がよけていく。

その手袋をひろいあげることは、いたって容易なことだった。


「ひろって、くださったんですね……」

何度も踏みつけられてしまったようで、ぼろぼろだ。
破れてはいないが、一度洗濯しないと身に着けることはできないだろう。
葵は、大きな笑顔でそれをうけとった。

「姉にもらったものなんです、ありがとうございます……!!!」
よかった……。

葵は、持ち物をなくすと、自分の半身をうしなってしまったように悲しい思いにかられることがある。
だから葵はものをあまりすてられないし、ためこんでしまうたちだ。
お気に入りのハンカチを落としてしまったときなど、随分長く落ち込んでしまった。

そんな葵を見守りつづける龍也が、くせのように舌打ちをする。

「そいつよ……」

龍也がひろってくれた、左手にはめる手袋。葵のコートのポケットにおさまっていた、右手にはめる手袋。手袋をかかえた葵が、龍也をみあげてじっと次の言葉を待つ。
尊敬する人に忠誠をちかい、そして、弱いモノをいじめたりしない龍也。
葵のことも、いつも不器用にいたわってくれた。
それがけして特別ではないことを、葵はつとめて自覚するようにした。
それでも、こうして、龍也へ想いを抱いてしまった。

「……」
「……」
「葵にぁよ、デカくねーか?」

葵が、両手にそっとしのばせた手袋をに視線をおとす。

「合うのか、葵に」
「わたし、そんなに手ちっさくないんです」

右手に身に着ける手袋をそっとコートのポケットにもどして、龍也がひろってくれた汚れた手袋をぎゅっとにぎりしめる。
そして、葵は、空いた手のひらを大きく広げて、龍也に向かってさしだした。

「ほら」

葵が、腕を思い切りのばして、清潔な手のひらを龍也に見せる。

それは、あまりに自然なことだった。

龍也も、大きな片手をさしだす。

葵がさしだした手のひら。

手袋とハンドクリームでしっかり保湿された葵の手。
龍也の、がさついた手。

龍也と葵の手が、そっとあわせられた。

葵の手は、ゆるやかに温度を喪われてゆく。
龍也の手は、がさつき、無骨で、分厚くて、そして、いつまでも熱をもちつづけている。

葵の手は、龍也の手の第二関節にもみたない。

わぁとちいさなため息をつき、葵が重ね合わされた手の平を、じっと見つめた瞬間。

ふたりして、ふと我に返った。

葵がびくりと腕を引いた瞬間、長ランにつつまれた龍也の腕も、ゆっくりとおりてゆく。

「……」
「……」
「……」
「あ、あの……」
「てぶくろ、ありがとうございます……」

両手に、ぼろぼろになった手袋を寝かせて、葵はそっとささやいた。
人並みが濃くなってゆく。龍也は、無遠慮にすりぬけてゆく人々のむれから、そっと葵を守る。

「いっぱい踏まれちゃってますね」
「大事にしてやれ」
ねーちゃんにもらったもんだろ。

葵がしずかにうなずいた。
葵はいつまでも龍也といたいけれど、きっと龍也はそうじゃない。
そもそも、単車を操ることが日常の龍也が、この駅の構内にいること。
それには理由があるはずだ。

手袋をぎゅっと胸元に抱えた葵が、龍也のことを、素直な瞳で見上げた。

「……んだよ」
「か、傘、わすれないでください……」
「……ああ」

葵が、柱にたてかけていた龍也の傘をゆびさした。
葵の傘は、葵の腕にコート越しにひっかけられているから忘れようがない。
葵は、龍也がここにいる理由をおそるおそるうかがい知ろうとしてみる。

「……雨、でしたよね」
「……」
「雨だと……」
「朝のちょーしだと、さすがにな」
「横浜も強かったんですね、鎌倉も、すごかったです」

まだ葵に付き合って、そばにいてくれる龍也。
ほんの数センチだけ龍也のそばによってみた葵は、行き先をそっとたずねてみた。

「……根岸線……です、か?」
「実家だぞ、そっちいくと。横浜線だよ」
「……あ、バイト……」
「……よくわかんな……」

龍也の口元。
傷一つ負っていない精悍な顔。
その整った口元が、ゆるやかにあがってゆく。
龍也がかすかにわらってくれることが、葵のひとつの救いであり、希望だ。

「あ、ば、ばいと!!引き留めてちゃ、だめですよね!」

顔色をころころと変えて龍也を気遣う葵のことを、呆れたようにわらってくれる。
そして、ちいさくつぶやいてくれた。

「忙しいな、葵ぁよ」

榊先輩のまえだけ、です。

そう言えてしまえばいいのに。

龍也が、あっさりと背中を向けた。

「次ぁひろってやれねーぞ……?」
「ありがとうございました……先輩、気をつけてください……」
「葵もな」

龍也がきびすをかえした。
真横にまっすぐのびた、広い肩。
ぶあつくて、あたたかそうで、葵のだいすきな背中だ。

そのとき、柱に立てかけられていた黒い傘に気づいた葵が、短い声をあげた。

「あ!傘!」

忘れ去られそうになっていた龍也の傘をつかみあげた葵が、龍也の背中を追いかける。
ああ。ちいさく声をあげた龍也は、無造作な表情で振り返ってくれた。
葵が、両手をつかって傘をさしだす。

片手だけで長い傘を受け取った龍也が、葵のちいさな頭をぽふぽふとなでてくれた。

「さよーなら」

最後にひとつだけ笑みをのこしてくれた龍也の背中を見送る。

そのまま、一度も振り向いてくれない背中。

龍也がひろってくれた手袋と、龍也のもっていた傘より一回りちいさな傘を抱える。

見送り続けた横須賀線が、またもでていってしまう。
葵は、斜め向こうの階段に消えてゆく龍也を、一心に見送り続けた。




*prev next# CLAP←感想はこちら
back
- ナノ -