なくならない記憶



真嶋商会。
自宅と仕事場をへだてる扉の向こうから、ハスキーなアルトが秋生の名前を呼んだ。

一昨日昨日と、その声は弱り切り痛々しさを帯びていたが、今日はうまれもったハスキーな声にもどっている。秋生が、幼いころから聞きなれた女の声。あすかだ。

扉はぴたりとしまっている。
そういえば、バネがゆるんだ扉を、あすかの父親であり秋生の叔父がなおしていた。
慎重に扉をおしたあすかが、ずいぶんさっぱりとした顔をのぞかせた。

「うつってない!?」
「……ケロっとしてやがんな?」

しかし、幾分か顔色がわるい。
彼女の日焼け肌には日頃から透明感があるが、これからじょじょにそれをとりもどしてゆくのだろう。

「ごめんねアッちゃん、うつってない?」
「うつんねーよ……?」

正月三日目にして、あっという間に日常に戻った秋生は、それでも受け持つ仕事のペースはまったりとしたすすみぐあいであるようで、兄弟ともに、昼食前のこの時間は静かな店で、休憩をとっている。夏生は簡単な仕切りをへだてた工場にいるようだ。

「もーしんどくねぇか?」
「ないよ!メーワクかけちゃったね、ごめんね」
「べつに、あすかぁ寝てただけだべ?」
「アッちゃんは暴走してきたの?」
「暴走ってよ……おまえが寝込んでんときによー。ほっといてあそべっか?」
「いーんだよーほっといてくれてーーでも気つかってくれたんだね」

あすかがおおげさに歓ぼうとしたとき、
大きな電子音をたてて電話が鳴った。
古い黒電話から、押しボタン式に変えたばかりの電話。
隣の工場からあらわれた夏生が受話器に手をかけた瞬間、ぷつりときれた。
そして、扉を通して、玄関あたりから、あすかの父親のだみ声が聞こえてくる。自宅のほうてとったようだ。
仕事の用件ではないか。
あるいは爆音メンバーからの電話ではないか。
案じる兄弟をよそに、父親の声が、あすかを呼んでいる。
そして、兄弟ふたりは知ることのない苗字を連呼している。

扉の境目にすわりこもうとしていたあすかが、しぶしぶ立ち上がり、扉を開けたまま不平の声をあげる。

「えー!なんでここにかかるの?」

名簿の連絡先、ふたつめにここがかいているんだぞ。
父親からそんな説明をうけたあすかが、家のなかに戻った。

仕事ではないと悟った夏生は、昼食をとるまでに手をつけかけていた仕事を仕上げるため、持ち場へ戻る。
秋生は、小汚いマグカップに浸されていたぬるいコーヒーをあおりながら、あすかを待った。

数分後、顔色も表情も明るいままのあすかが戻って来た。

もこもこのくつしたにつつまれた足下をつっかけにつっこんだあすかが、工場におりる。なぜかタオルもつかんでいる。
そして、秋生の顔を遠慮なくのぞきこんだ。
今の電話は何だったのか。そう尋ねようとしたとき、あすかが、秋生の頬を指さした。

「アッちゃん、これオイル?」

近すぎる。
あすかのマイペースな様に気圧された秋生が、反射的に顔をそむけたとき。
あすかが悪びれない顔でわらって、おもむろにタオルをさしだした。

「ふいてあげるよ」

秋生にもらったタオルで、秋生の有無の了解をとるまえにごしごしとぬぐいはじめた。

「い、いいよ!おちねーんだぞ……洗濯してもよ……」
「アッちゃんからもらった感じが強くなるからいい」

あすかが、よごれたタオルをみつめて、満足そうにわらった。
タオルがよごれてよろこぶオンナなど、あすかくらいのものだろう。
強くこすられて乾燥した頬をおさえて、秋生がわざとあきれ果ててみせる。

いつのまにか事務机のまえに戻り、ふたりのようすを横目で見守りながらカタログをひろげていた夏生に、あすかがむきなおった。

「ナッちゃん、わたし、今日もナッちゃんの部屋で寝る!」

秋生が目をむく。
夏生が、余裕の調子でわらった。

「あの部屋気に入ったか?きったねーだろ?」
「居心地よかったよ」
「だーめだ、部屋に戻れ。あすこの布団のがきれーだろーが」

冗談だよ!
あすかが実にヘルシーに宣言した。

一度のびをしたあすかが、結局大掃除など行えなかった工場をみわたす。

そして、澄んだ声で伝えた。


「冗談なんだ、わたし、もう帰るから」


兄弟二人が、同じタイミングであすかを振り返った。
体調も回復し、すっきりした表情。
そのさっぱりとした様子に、さきほどと変化はない。

「……けーんのか?」

さきに口をひらいたのは秋生だった。

「うん、帰るよ?」

夏生が、つとめていつもどおりに、あすかをうかがう。

「ギリギリまでいるんじゃなかったんか」
「6日までの予定だったんだけどね」


オマエが何かしたのか。


そんな目で、夏生が弟をとがめる。


バカヤローそりゃアニキだろ。


秋生は、そんな目で兄を見返す。


おおかた、アニキが一線でもこえようとして……いやいったいあすかという従姉妹に向かって、一線とはなになのか。
からのマグカップをもたもたとこねまわした秋生が言葉をえらぶまえに。
あすかのようすを静かにうかがう夏生がきりだすまえに。

「今日中に帰るよ」

あすか食もう一度伝えた。
けろっと意志を唐突にみせはじめたあすかに、日頃落ち着き払った兄弟がふたりして、そわそわとした様相をみせつづけている。
はっきりとたずねなければだめか。
そう決めた夏生が、声音に真剣さをにじませてたずねた。

「どうした、あすか」

夏生が、深刻な色をしのばせる。
あすかは、よごれたタオルをぐるぐると首にまきつけたりほどいたりしながら、あっさりと答えた。

「さっきの電話!召集かかっちゃった」
「召集……?集会でもあんのかよ」
「アッちゃんなに言ってんの?代表候補合宿」

代表……?

鈍い秋生は悟らないが、夏生があすかを気遣う。
そもそも休むための正月ではなかったのか。

「おまえ、ケガいいのか」
「腰の調子見つつやるからおいでって、代表のコーチにいわれたの。いってくる!」

まだ要領をえない秋生に、夏生が説明をかさねた。
つまり、あすかは急きょ水泳の合宿に呼ばれたのだと。
やっと理解した秋生が、ぽつりとこぼした。

「急だな」
「パスポートあるし、しあさって手続きして、それからいくからー、準備あるし、帰る。お父さんも帰るってさ」
「ぱ、ぱすぽーと?」
「グアムだよ!」

国内だろう。そう決めつけていた夏生も、さすがに驚愕の色をみせる。秋生はぽかんとあすかを見守るだけだ。

「帰る準備しよっと」

あっさりと切り替えたあすかが、つっかけをぬぎすてて家にもどった。

いれちがいで母親が顔をのぞかせて、お昼作るからねとずいぶんマイペースな調子で兄弟に伝えた。
あすかは、ものの10分でもどってくる。
夏生があたえた真っ赤なバッグに、タオルや、着替えをつめこんできたようだ。これも、タオルも持ってくから!あすかがからりと語った。

グアム。代表合宿。そんな言葉をリアルに想像することにおいつかぬ秋生は、いまだ首をかしげつづけている。
夏生が、軽トラのキーをつかんで立ち上がった。

「おくるぜ、駅まで」
「いいよ、お昼ごはん食べて!おとーさんが明日帰ってー、おかーさんは、まだふたりの面倒みてあげるっていってんから」

ダウンジャケットに両手をつっこんだあすかがつぶやく。

「あーー、もちょっといっしょにいれるって思ってたけど……」
「そっちのが大事だろ?なんだ、さみしいんか」

あすかの頭をぽんぽんと撫でた夏生が、茶化すように尋ねた。
あすかがずいぶんあっさりとしていたものだから。
ものたりないのは、むなしいのは、ぽっかりとあいた穴を抱えるのは、こちらだけかとおもっていたから。

「ずっとなくなってほしくないなあ」
「何がだ?」
「こやってすごすこと」

秋生をしっかりみつめて、あすかがわらった。
秋生も、真面目な表情であすかを見返した。

「こーやって、すごしたこと」

あすかが、頭をぽんぽんと撫でてくれた夏生をみあげて、秋生にみせた笑顔より少し穏やかなものをみせる。

永遠なんてものはないことを、夏生は知っている。

永遠を信じれば実現するかもしれないと、秋生はのぞんでいる。

「でも、友達に聞ーたらー、コーコーセーになってイトコとんな仲良いのヘンっつってた」
「ダチってアイツかよ」

秋生が即座につっこむ。
夏生はまだかかわったことのない、あすかの男ともだち。
夏生の目元が静かに据わり、二人の会話から情報をさぐりはじめる。

「アイツ?あっ、グアムいったらアイツいる!!」

秋生が、ふーんと生返事をするのをよそに、夏生がますます耳をそばだてる。

「アイツじゃないよー、女の子の友達」

ぼろぼろのタオルでオイルをぬぐった夏生が、きれいになった手であすかの頭をもう一度ぽんとなでる。
ほらこーゆーのー。指さすあすかを意に介さず、つたえた。

「イトコじゃなかったらおかしくねーんかもな」
「え、戸籍ぬくってこと??」
「あのなあ……」
「あっ、もう行く!」

腕にまいたこどもっぽい腕時計を確認したあすかが、工場に持ってきたスニーカーをもう一度確かめて、つまさきをトントンとコンクリートにあてた。

「じゃあね!」
「おお、速くなって帰ってこい」
「テレビ出んとき教えろよ、アイツにもよろしくなー」
「Okアッちゃん!またあそびにくるね」

みやげはいらねーぞ。
軽トラのキーをポケットにつっこみながらあすかを見送り、軽口をたたいてみせる夏生。

あすかは、工場の手前でもう一度振り向いた

「アッちゃん!」
「んだよ」
「また初詣行こうね」
「もー来年の話かよ……」

敷地の外までふたりしてでてくるが、夏生がずいと前にでた。
秋生は、精悍な彼の肩越しにあすかをのぞきみる。

「ホントに大丈夫か?腰もだけどよー、病み上がりだろ?」
「大丈夫。いきなり帰っちゃってごめんね。昨日、看病してくれてありがと。また軽トラのせてね」
「コイツでいーんか」
「代表になったらね、他人の後ろにものっちゃだめなんだよ!バイク乗れないよ……」
ま、なれっかどーかしんないけど。

じゃあね!
もう一度手をふったあすかは、真冬の山手の町を、強く歩き始める。

この数日で、少し痩せてしまったあすかの背中を見送る。

あすかは一度もふりかえらない。

揃いの作業服を着た真嶋兄弟。
あすかのそのすこやかな背中を、しずかに見送り続ける。

あすかの母が、ふたりの名前をよぶ。
香ばしい焼きめしのにおい。昼食だ。
シャッターを半分おろし、休憩中の看板をおいた兄弟は、自宅に戻った。




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