温かい指をください。



終了日が土日にかさなったゆえ、いつもより長い冬休み。
それは、あすかにとって、焦燥ばかり生む時間であった。

塾に通っていないあすかにとって、理解しかねる事項を質問できる相手は教師しかいなかった。無理をするなと肩をたたいてくれる親には尋ねられない。あすかの勉強の定番となった甘いアンコ玉は、糖分過多により勉強の妨げになるようでいて、あすかの脳にみなぎった余分な力を、うまく抜き取ってくれる。思春期にしては痩せていた体重は、健康体そのものの重量に達してしまったけれど、乗り越えるべき壁の取っ手を手探りでつかみながら、冬休みは気づけば、あけていた。

中学三年生の三学期など、まともに機能したものではない。
進学をなげだしている不良生徒を追い回して進路指導室に引っ張り込む教師。
あすかのように、受ける学校のレベルを直前であげた生徒は定期的な面談がくりかえされる。

教科書を抱えたあすかが生徒指導室へ入室しようとしたとき。

いじけた顔をした、リーゼントの不良少年が、項垂れたまま部屋からとぼとぼと出てきた。彼の背中をおしているのは、真里。
そして、真嶋秋生も続いて出てくる。

「だっからー、ランコーにしよーっつってんじゃん!」

項垂れた男子生徒の肩をだきながら、真里が元気づけている。いわく、私立校はダメだと親に言われているらしい。ケンショーもこのままじゃ無理だべ……、涙声で打ち明ける生徒の言葉に、真嶋も思案顔を続けている。

そこに真里が、彼らを避けて待つあすかのことに目を留めた。

「あすか!」
「おはよう……!マー坊くん」

真里とのたったひとことのやりとりが、あすかを勇気づける。真嶋ともかるく会釈をかわした。

「私立受けるかどうかって話……?」
「そー!このままじゃさー、学区越えっちまうんだって!」

真里が、さして実感のこもらない声で彼の現状を説明する。
同じクラスの、あすかより背の低い、あまり話したことのない不良少年がすがるような眼であすかを見上げた。
ケンショーがだめなら、根岸工業の夜間という手もあるのでは。あすかがそう進言してみると、三人ともいまひとつピンときていない様子だ。

生徒指導室の出口付近を4人でたむろしていると、白衣を着た数学教師が生徒指導室のなかから声をかける。オマエのはまた相談のってやっから、とりあえず教室戻れ。あすかはこっちこい。
その声におとなしくしたがった四人は、凍えるような廊下を各々の道へ消えた。

冬休み中に受けた模試の結果を、数学教師に見せると、今後どこを重点的に追い込んでゆけばいいか、簡潔にアドバイスをくれる。
すべりどめにランコーはやめとけよ!
そんな冗談を投げかけられたあすかは、あわてて首をふった。

あっさりと終わった面談。
教室に戻ると、自習時間を与えられたあすかのクラスは、受験前とは思えないほど騒がしい。騒ぎの台風の目にはもちろん、真里がいる。
受験直前のこんな現状に、ひそひそと目くじらをたてている生徒が大半だ。
気持ちはわかるし、至極正論だ。
しかし、にぎやかだろうが静かだろうがここまでくるとやることはひとつ。自分の勉強にだけ集中していればいいのではないか。むしろ、イレギュラーな環境で勉強に集中することは、鍛錬のひとつになるのではないだろうか。

そんな思考は、ただの、真里に片思いをする女子生徒の公平性に欠けた所見にすぎないのだろう。
あの体育祭前のままの自分であれば、あすかも、ひそひそ話の輪にくわわっていたはずだ。


自分の席。硬いいすにはふかふかの座布団が敷かれている。その上に腰をおろすと、なんだか生暖かい。ぎょっとしてみせると、さっきまで晶ちゃんが座ってたよ!鮎川くんがここにいたの。後ろの席の子にそんな声をかけられる。そういえば、前の席の女子は晶とも仲が良い。晶ならいいか。気を取り直したあすかも、周囲の生徒と同じく、勉強をはじめる。さきほど数学教師に助言されたとおり、完璧であることにこだわるよりも八割を確実にとることをめざし、教科書や問題集をひらき、シャーペンをにぎりしめる。

勉強に没頭しはじめた足元を中途半端な熱気がからみつくと思えば、教室内に置かれたストーブだった。
その気の抜けた熱気は、気の抜けた眠気をもたらす。

昨日も、日付が変わるまで勉強を続けていた。
両親には、いまさら徹夜をするより、ありのままのおまえで合格する高校に行けばいいじゃないか。そんな窘めばかり貰っている。
あすかのがむしゃらな努力は、両親になかなか認めてもらえない。
いじけた気持ちと、それでも頑張りたい気持ち。
ややこしい頭のなかが集中をさまたげ、眠気をつれてくる。

シャーペンをにぎりしめたまま。
気付けば、あすかの頭は上下に揺れ始めていた。

右手からシャーペンがころがりおちた。
ことんとノートに落ちる感触。
夢とうつつのあわいをさまよう意識。
シャーペンを失った手がだらりとゆるんだとき。

あすかのかさついた手を、あたたかい指がそっと覆った。

「あすか!寒いとこで寝ちまうと、やべーんだって!」

意識の奥から、真里の声がする。

そのあたたかい指が、あすかの手に、シャーペンをぎゅっとにぎらせた。

「……」
「アンコ玉ってよ、目がさめんだぜーー晶知ってん?」
「それはアンタだけでしょ!寝かしといてあげなよ」
「……」

一度がくんと前方におちた頭は、ゆっくりとあがる。

あたたかな指に握らされたシャープペンを、意識をたぐりよせてぎゅっと握りしめる。

そして、あすかは、うつらうつらと漂っていた意識を、少しずつもとへ戻してゆく。

あすかの奥二重の瞳がうっすらひらく。

そして、寝ぼけ眼でつぶやいた。

「……アンコ玉は、めがさめるよ……?」
「ほらー、マー坊があすかにヘンなこと吹き込むから!」
「あすかもそーゆってんだからさー」
「マー坊くん……。晶ちゃん」

あすかが起きたことを確かめた晶が、机の上にブラックガムを置き、きれいなほほえみを浮かべて去ってゆく。

残った真里は、あすかの眼のまえに居座っている。前の席の生徒がすわるイスと、あすかの机のあいだにしゃがみこんでいる。あすかの机の上に腕をおき、そこにかわいい顔をあずけて、あすかをにこにこと観察していた。

「寝てたよ……」
「すっげーガクガクなってたぜ」
「アンコ玉食べるよ、かえったらね」

ちらりと振り向くと、ざわめきの中心にいるのは真嶋に変わったようだ。あすかの斜め後ろの真面目な男子生徒に緊張が走っている。このクラスの生徒はみな、この美しい男の子のあらゆる顔を否応なしに見たことがある。

真里の指。こどものようなぬくもり。
彼の指にシャープペンを握らされ、それは手の中におさまっている。
そういえば、真里がひろってくれたこれは、本番では使えないのだ。

「あの高校の入試ってね、鉛筆じゃないとダメなんだって」
「オレもってんよ、鉛筆」

真里がボンタンのポケットからとりだしたのは、半分ほどに小さくなってしまったぼろぼろのえんぴつ。ブランドロゴも剥げてしまって、どのメーカーなのやらわからない。
見るからに柔らかそうな芯。へたすれば小学校から使用しているのではないか。そんな疑問すらわいてくるそれ。

「あげる」
「いいの?私持ってないからさー、買いに行くの忘れてて」
「コイツで受かんべ?」
「ありがとうー……受かるね!絶対」

そこで、あすかにゴミ押し付けんな!と一喝したのは、いつの間にか戻ってきた晶だ。
真里のさらさらの茶髪をぴんと撥ねて見せる。
あすかの丸い指先とちがって、美しく尖った晶の爪。

「コイツ使ってよ」
「絶対、使う」

そして、真里はあっさりとあすかの前から消えてしまう。

温かな指は、あすかの髪の毛をかすめて、愛らしいボーイソプラノは真嶋秋生の名前を大声で呼んだ。

途端、周囲の生徒の緊張感がとけてゆく。真里が去ったあとには、一抹の安堵が残っている。

ノートのうえにころがる、ボロボロの鉛筆。
取り上げて書き付けてみるも、ぬるつく書き心地だ。きれいに研ぎ上げて、ペンケースに忍ばせればいい。

きっとあっさり訪れる、真里との別れの日。
そんな日を、自分の力で乗り越えるため、自分の道を自分で決めるため、この鉛筆はきっと力になってくれる。
かさついた手。あの指の温かさを思い出すように、あすかは自分の手を自分で温める。もう一度、あの温かさをたよりに歩きはじめるために。




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