さよならサンタクロース
たどりゆく
今は心も乱れ候
末の松山 思いの種よ
花道で、ガラスのような瞳のまま舞っている人。
彼は、今年30歳を迎えた、若い役者だ。
雄弁に物語る指先、すぐれた体幹。そして、慎重にさばかれるあしもと。
この役者は、肩の力がぬけた軽妙さ、そこから生まれる知性が強みだ。
持ち前のその小粋な風情は、この踊りと、見守る人のまえで、今日は見事に消え失せて、緊張感に満ちていることがありありとわかる。
それは、花道横のこの座席に、この踊りの振り付けと指導を担当したあすかの祖母がいるからだ。
あすかは、心情の表現と運動神経にすぐれたあしもと、そのふたつがバランスよくつながる瞬間を、固唾をのんで見守っている。
祖母の厳しい視線。
あすかはただ、澄んだ瞳で、この悲しい踊りを見守り続ける。
恋におぼれた放蕩男が、愛した遊女の幻を見る。
夢のなかで、好きなひとと過ごして、一緒に踊っている。
じつにシンプルな筋だ。
あすかはいつしか、自分の心にしまいこんだ気持ちを、懸命に踊る若い役者に重ねていた。
精悍な肩に、黒い十徳をひっかけている。
それを放ると、繊細なブルーの着物があらわれる。
そこにせりあがってきたのは、天下に名の轟く、伝説的存在の立女形。客席にジワが起こった。あすかも、ふたことみこと、挨拶をかわしたことがある。男だとか女だとか、そんなものは言葉にすぎないことを体現しているひとだ。
あすかの祖母が厳しく裁くように観劇していることにくわえ、相手がこの役者だ。
どれほどの緊張であろう。
あすかがそう案じたとたん、若い役者は持ち前の軽やかな足もとの操作力をとりもどし、ハリのある踊りをみせはじめる。
あなたといっしょにいた、楽しかったころのこと。
それを語れば、人はこんなに幸せになるのだ。
たとえ、それが、自分の空想にすぎなくとも。
偉大な女形の持つ恋い文が、ひのきの舞台の上にトンとおち、白波のようにひろがったとき。
あすかの白い頬を、一筋の涙がつたった。
祖母の前で涙をみせることははずかしい。祖母は変わらず厳しい瞳で舞台を精査していることであろう。
女形がすっぽんに消えてゆく。
舞台には、泣きながらまぼろしをさがしている若い役者だけが残り、幕が引かれてゆく。
手踊りがなっていない。
そんな批評をのべる祖母の後ろについて、あすかは座席から立ち上がった。
各家の番頭に挨拶をかわす祖母。さっくりと形だけのあいさつをかわして、祖母は売店へ向かう。
その背中に付いたあすかも、売店に出向いた。
お菓子のにおいがたちこめている。やきたての、あまくふかふかとしたかおりがあすかの鼻先をくすぐった。てぬぐいに、おみやげにごったがえす売店。要領のわるいあすかはすぐに人とぶつかってしまうから、売店のかたすみにかくれた。
観客に声をかけられている祖母の背中を見守っていたとき、一本の扇が目に付いた。
売店のかたすみに広げて飾られている。
どの演目にちなんだものでもなく、どの役者にちなんだものでもなさそうだ。
わかりやすく隈取をちらしていたり、ある演目にちなんだモチーフを描いていたり、そういった扇子にくらべると、質素だけれど。あすかが目を留めたのは、その色と、どこか威厳のあるたたずまいだ。
まるで、あの人のタンクのように、一色の蒼で深くぬりこめられた扇だ。
しるされている値段は、あすかの財布でどうにか間に合う値段であった。
あすかは気づけば扇子をゆびさし、せわしなく働いている店員をよびとめていた。
夜の部の打ち出しは、女形舞踊の大曲。あすかもあこがれる曲だ。いつか、あの鐘のうえで、あんな瞳ですべてを支配できるような踊り手になれるだろうか。これをやるには、途方もない人望、お金、時間、そして才能、美しさ、このすべてが必要だけれど。
あすかの慕うあの人。
八尋は、それらすべてを手にしている。
何かを求めたくなるとき。
何かに強くあこがれるとき。
何かを願いたくなるとき。
あすかの脳裏にうかぶのはいつも、八尋のことだった。
楽屋口にまわり、あすかの祖母が指示した車を待っているあいだ、あすかは、かばんのなかにしのばせた扇子のことを今になって後悔している。
何せ、真冬だ。
真冬にこれをつかう人なんて、踊りを職業にしている人以外いない。
そもそも、わたす機会なんてあるだろうか。
八尋にわたす勇気もないまま、これはあすかの部屋でねむることになるかもしれない。
東銀座から葉山まで、祖母の弟子でありあすかの遠い親戚の男性が運転する車にゆられていると、時刻はすでに10時をまわっていた。
東銀座も、凍てつくような寒さであったが、葉山もひときわ冷える。
吐く息の白さを感じたあすかが、黒塗りの高級車から降りたとき。
先に降りた祖母が、ためいきをつき、あすかの肩をたたいた。
みてみなさい。
祖母が、呆れまじりでつぶやく。
「あ!!」
あすかの厳しい祖母が、諦めたように笑った。
黒塗りの車は、そのまま去ってゆく。
ちいさく叫んだあすかの声は、森戸海岸沿いのしずかな通りのまえに、きんと響いた。
あすかが見つけた人。
深い蒼のバイクのそばで立っている人が、軽く手をあげた。
「八尋……わ、わたる、先輩!!」
「ああ、いきなりでわりーな?」
「どうされたんですか…今日こんなに寒いのに、お待たせしてしまいましたか……?」
「1日はえーけどよ」
「え……今日は23日で……明日は……」
「イブだろ?」
八尋は、片手に荷物のようなものを提げている。
玄関から、祖母があすかと八尋のことを手招きしている。
もう、夜も10時をまわる時分だ。
東銀座をあとにしたときも、氷の室のなかに足をふみいれたような寒さだった。
そして今。車から降りたあすかは、長い黒髪で耳をかくしているものの、全身をつきさすような冷気につつまれている。
ただでさえ冷え込む、今日の神奈川の夜。ましてや、ここはほぼ海のそばといってもいい。冷気はますます濃厚になる。
目の前にいる八尋は、豪華なジャケットに身をつつみ、真冬の夜に単車を繰るための防寒対策は抜け目ないようすであるが。
「あの、寒いです……本当に、こんななか、おまたせしてしまって、ごめんなさい……」
「オレが勝手にきちまったんだよ」
去年は、クリスマスに八尋と会えなかった。
まだあすかが小学生のころ、八尋の家のクリスマスに招かれたことがある。あすかちゃんがきてくれると、渉も家にいてくれるの。八尋の母親に、そんな言葉をかけてもらった。
もうずいぶん、会えていない。
そして、あんな機会は二度とないだろう。
あすかに招かれて、八尋も、この家の厳重な門をくぐり、玄関に足を踏み入れた。
ここでかまわないと伝える八尋に、せめて居間まではとねがう。すでに入浴の支度に入っているであろう祖母が気を利かせてくれたのか、床暖房が効かされているうえ、室内にはあたたかな暖気がみちている。床暖房にあまえきってねむっている柴犬。三毛猫は、どこかへかくれているようだ。
「キモノじゃねーんだな」
「はい……おばあちゃんだけです……」
「久々に見たかったんだぜ、あすかのキモノ姿」
「……」
タートルネックのニットワンピースにつつまれたあすかが、八尋をリビングまで案内する。
リビングは洋風だ。
もともと、長居するつもりもなかった。
ソファのすみに腰掛けた八尋は、飲み物を用意しようとするあすかの細い手首をひき、真横に座らせた。
「今日は、仕事のつきあいか?」
「えっと、そうですね……お婆ちゃんの……です」
浅く腰掛け、ほっそりとした手をひざのうえで重ねたあすかが、こくりとうなずいた。
「あすかも、そっちの世界に興味あんのか」
「そうです……」
「けどよ、男社会だろ」
「は、はい……でも、がんばりたい……ので……」
いつのまにか目標をみつけていたあすかの、すこし冷えた髪の毛。ちいさな頭。グローブをとった八尋の大きな手が、あすかのことをやさしく撫でた。
「あ、あの、渉先輩……」
「ああ」
あすかの足元のバッグ。
そこにおさめられているもの。
思いがけず、これをおくるチャンスを得られた。
自分からがんばって足を運んだわけではない。
結局、八尋に甘えきっている。
それでも、勇気をだして、わたしたい
「……」
「……」
「あすか」
「は、はい!」
「逃げねえよ、おれは」
すうと息を吸い込んだあすかが、決意したようにうなずいた。
「こ、これ……」
あしもとにおいたバッグを膝のうえに持ち上げたあすかが、バッグの奥をさぐる。
そして、劇場の名前が散らされた紙包みをとりだした。
「一年間の、お礼です……」
うつむいたまま、そばにすわってくれている八尋のひざのうえに、そっとわたした。
「一年じゃない、ですね……。ずっと気にかけてくださってるお礼です……」
いったい、誰が、この子をこうして傷つけたと思っているのか。
そんなことを伝えられないまま、今年もこうして、寒い冬を迎えた。
八尋にとっても、この展開は意外であったのだ。八尋は、あすかのうつむいた顔をいたずらな表情でちらちらとみやりながら、紙の包みをびりびりとむいてゆく。
そのまま、何に包まれることもなく滑り出してきたもの。
八尋は、骨ばった指でさぐってみたあと、2本の指で器用にひらいてみせた。
「扇子か?ああ、香みてーなニオイすんな?もともとついてんのか?」
「えっと、塗料がそういうかおりに……」
「へぇ?……ああ、きれいな青だな……でもよー……」
あすかが、ぴくりとかたをふるわせる。
八尋が、一旦とじた扇子を左の手のひらにぽんぽんと軽くぶつけながらつぶやいた。
「こんな豪華なモンが似合う18のオトコっつったらよ……日本に何人いるんだ?」
「お似合い、です、わたる、先輩に……」
「あすかがそう思ってくれてんだしな。ありがとな、大事にするぜ」
これ、どこにしまっときゃいいんだ?
たんすの奥、ですとか……。
小さな声で、あすかが説明をつづける。
あすかと違って、和風の文化にはとんと疎い八尋だが、いつか使う機会もあるかもしれない。持ち歩くことなく、大事にしまっておくことが最良であろう。
そして、八尋の本題はほかにある。
ソファのうえに、八尋がほうってある荷物。
扇子をジャケットのポケットにしまいこんだ八尋が、さらりと切り出した。
「おれもよ」
「……?」
「あすかによ。プレゼントだ」
単車でよー、こうしてよ、もってきたかんな……。
八尋が、そばにほうってあった青色のショッピングバッグをひきよせた。
ボヤいた八尋は、そのショッパーを肩にかつぐマネをしてみせる。
「けどよ、皺にぁなってねーはずだぜ」
あすかのひざのうえにぽんと放ってみせる。
「え!!!!」
「……何しにこんな時期に、オマエんちに来たと思ってんだー?」
さ、時間もおせーだろ。はやくあけてみな?
八尋がうながす。
何度もうなずいたあすかが、おそるおそる、ショッパーの絞り口に細い人差し指をさしこんで、こじあける。
あすかが、短い声をあげた。
ひざのうえにぽふっと置かれた感触は、あまりにも軽量で、やわらかく、負担がなかった。
袋のなかからとりだしたそれは、あすかが思い描いていたよりずっと厚く、あたたかく、豪奢なものであった。
「えっ……」
形もうつくしい。手触りもなめらか。
あまりにも素材がよくて、上品だ。
「コートだ。こいつならよ、オマエのガッコも大丈夫だろ」
八尋があすかに贈ったものは、漆黒のPコート。
これは、まるで。
まるで、あの若い役者が体にひっかけていた、十徳みたいだ。
裏地には一面のチェック。
上半身がちいさくまとまっていて、やせたあすかの体にもぴったり合う、このブランドの最小サイズだ。
「今ガッコんとき着てんの、ガッコ指定のだろ?コイツのがあすかに似合うと思うぜ」
「そうです、学校がデザインしたもので……。黒のコートだったら、なんでもかまわないんです……これ、高いのでは……」
「一年、がんばっただろ」
「……こんなに、すてきなもの……」
せいいっぱいの遠慮とうらはらに、あすかの弱弱しい手は、コートをぎゅっとにぎってやまない。
「ここに越してきてからよ。いや、そのまえもよ」
八尋は、力の入りすぎているあすかの肩をやさしく撫でた。
あの役者のように、澄んだ呼吸をくりかえして肩の力をぬいてみる。
「おまえはずっと、がんばってんよ」
「……ありがとう、ございます」
こうして思いやってくれるひとに、何と伝えるべきか。
ようやく学んだあすかは、渾身のちからでお礼をつたえた。
「着てみてくれるか」
「……」
ニットワンピースのうえから、あすかは無言で袖をとおす。
こんなにあたたかいもの、あすかは知らない。
舞台の上に先ほどまでいたあのひともきっと、幻のなかで愛した女性のそばにいるときは、冷たい浜辺でも、さぞあたたかったのではないだろうか。
「ああ、そのワンピースにも似合うな。学校以外でも使えるぜ」
「嬉しいです……でも、こんなに高価な、もの、申し訳、ないです……」
「あのな、もうしわけねーのはオレだ……。こんなに立派な扇子似合う男じゃねーからなあ……キモノもきれねーしよ……親にぁ教われって言われてたんだぜ?でもよ、茶も、花もよー……しらねえしよ」
「そ、そんな!!……あ、あの、ごめんなさい」
「ああ、オマエが選んでくれたもんによ、似合う男になんべ?」
めずらしくくだけた口調。
ショッパーは必要ないだろう。そう判断した八尋がそれをひろいあげて、ソファからたちあがる。もう11時だ。
「じゃましたな」
八尋は、今日も、あっさりとかえってしまう。あすかがおくった扇子は、ジャケットのポケットからのぞいている。
「ありがとうございました……」
「ああ、遅いのにわるかったな、早くやすんじまえよ」
「いえ、わたる先輩も、おそいのに……」
廊下では、柴犬が大人しく眠っている。
足運びに気を遣った八尋が、玄関で振り返った。
八尋を見上げたあすかが、さみしげにつぶやいた。
「さよなら……」
「一日はぇーけどよ。サンタがわりだ」
あすかぁ、信じてただろ。
あすかが、はずかしそうにうつむいて打ち明ける。
「わたる先輩に、いないって教えてもらいました……」
この夜に、一足早くおとずれてくれたサンタクロースに、さよならを告げれば。
月が輝く夜、海のそばで悄然と泣いていたあのひとのように、あすかも、夢からさめてひとりでクリスマスを待つ。
八尋は、器用にブーツを身に着け、足下をととのえる。
「ああ」
八尋が、何かを思い出したようにちいさく声をあげた。
その、あたたかいバリトン。
もう一度振り返ってくれた八尋を、あすかは、八尋に贈られたコートを纏ったまま再び見上げる。
「それとよ」
八尋のすごみある瞳が、なぜだか自信なくおよいだ。
そんなすがたの八尋など、めったにみられない。
あすかは、おだやかに澄んだ瞳のまま、八尋のことを不思議そうに見上げた。
そして八尋が、彼の長い足をつつむボトムのポケットからとりだしたもの。
それは、透明色の袋。
そこに、カリカリとかじれそうなものがつまっている。
「柴んチビのがなくてわりーんだけどよ……三毛のチビのよ、メシをよ」
高級なやつなんだぜ?こいつ。
八尋のそんなせりふを耳にした瞬間。
あすかの瞳に、切実な色がうかぶ。
「あ、あの!」
「なんだ?」
「か、かくしたほうが……!!あっ!」
そこへ、どこからかあらわれ、八尋の蒼紺のフォアと同等の高速ではしりぬけたもの。
足が床をたたき、風のようにとびあがった。
それは、あすかの家で飼われている、みけねこのすがたであった。
器用な前足が、八尋の手元を遠慮なくたたいた。
八尋のしなやかな指から、袋につめられたごはんが落下する。
そして、玄関に落っこちたそれを、みけねこが、前足でとらえた。
するどいきばで包装をくいちぎり、みけねこは、バキバキとごはんを食べ荒らし始めた。
そして八尋は、おそろしい事実を悟りはじめた。
「み、三毛のヤツ……肥えちまってねーか……?」
「……ふとりました……。すごく賢くて、ごはんある場所おぼえてて、食べるんです……」
獣医さんにダイエットしなさいっていわれてるので……。
あわれ猫のごはんは、気の強い性格の三毛猫にうばわれ、くいちぎられたあげく、玄関にばらばらとちらばってしまった。
「そーかよ……。そりゃ事情もしらなくてよ……。わるかったな……」
おい、チビ
しゃがみこんだ八尋が、やぶれた袋をひろいあげ、散らばってしまった猫のごはんをつめこむ。手伝おうとしたあすかを制止して、猫の背中をなでた。
八尋に抗議の視線をおくった三毛猫は、相変わらず、ごはんをバキッバキッとかみ砕いている。
「わるいコだな、オマエぁよ」
玄関さみーぞ、あったかいとこ帰れ。
八尋のことばを素直にのんだ猫が、むしゃむしゃとごはんを咀嚼しながら、そのまま廊下を歩き去った。
ここおいとくからよ。
趣味のいい陶器のそばに、あつめ終えた猫の食事をおく。
耳まで赤くそめてしまったあすかが、何度もうなずいてみせた
「さよなら、渉先輩」
「あすか」
「はい」
「よいお年を」
「……先輩も」
「じゃあな?コイツ、大事にするからよ」
ポケットを指さし、八尋は玄関の向こうへ消えてしまった。
あすかの、たったひとりのサンタクロース。
すぐに聞こえてくるのは、あすかにとっていとおしく響く排気音。あっというまに角をまがり、森戸海岸のそばを駆け抜け始めるだろう。
コートをそっと脱ぐ。
上質なウールを、ぎゅっと抱きしめる。
あすかは、これが幻ではないことを、自分の体温の熱を、与えてくれた八尋のことを、幾度も確かめ続けた。
← →