冬恋い
オリオン座が消えてから

山手の、古い女子校。
その敷地内に建つ、古いチャペル。

入り口から、セーラー服に身をつつんだ少女たちがつぎつぎ打ち出されてゆく。
女生徒たちのひとなみのなかに、秀人の恋人、千歳の姿があった。

全校生徒が参加する礼拝がおわり、希望者はこれから大学の音楽学部によるコンサートを鑑賞し、その後、夜のクリスマスミサに参加できる。秋学期の音楽の授業では賛美歌の練習に熱がはいり、ひとまず構内のカフェテリアで休憩をとったあと、今日は一日この学校のクリスマスを満喫する子も多数いるようだ。

この歴史ある女学校のクリスマスは、おごそかにとりすすむ。

千歳も参加するのか。

友人たちにそうたずねられて、千歳は、あいまいに首をふり、家に帰って家族と過ごすと答えた。
それは、本当のことだ。
双子の姉は、この町の教会でクリスマスをすごすといっていた。姉もどこかへ出かけるだろう。兄はまだ帰国していない。
畢竟、帰国中の母親とともに食事をとり、母親の仕事のグチに耳をかたむけることになるだろう。

去年までの千歳であれば、それで満足していたはずだった。
あたたかい部屋で、母親のつくるごはんとともに、家族とすごすこと。
千歳にとってnもっとも大切な時間はそれだった。

そして、楽しそうにしている友人たち先輩たちを見ているのは、千歳にとっても楽しいこととなる。

いつだって、それで満足してきたはずだった。
本心から何かをのぞんだことはあっただろうか。
友人たちがわらっている片隅でしずかに話を聞いているだけでよかった。
みんなが楽しければ、それでよかった。


でも、今の千歳がいちばんほしいものは、ほかにある。


クリスマスの女学院の喧噪をあとにして、正門から一人、千歳は帰路につく。

チャペルで、音楽学部のエース学生によるソプラノを楽しみながら。
ありがたいお話に耳を傾けながら。
ハンドベルを鑑賞しながら。

千歳の頭のなかにずっといたのは、秀人だった。
秀人は、ときおり、この門のまえに唐突にあらわれる。
そして、千歳のことを、あの美しいバイクで風のように連れ去ってくれる。

千歳に、暴走族の彼氏がいる。
不思議と、この女子校に、そんな好奇にみちた噂は流れない。
千歳の大の親友は、この事実を知っているけれど、ひた隠しにしなくても、秀人のことは誰にも踏み込まれることはない。

クリスマスイブ。
とっくに休みをむかえていた女学院の正門まえに、あのアイドリング音がひびくことはなかった。

澄んだ冷気につつまれたしずかな高級住宅街をとぼとぼあるいても、やっぱり、あの音は千歳におくられてこなかった。

いつも受け身だ。こうして待っているばかり。
ただのぞんでいるだけでは、会いたいバイクにすれちがうことはできない。

チェックのマフラーを慎重に整え直した千歳は、この冬のことを思い返してみる。
12月に入って秀人と会えたのは、ほんの一度だけ。
電話で話すことがかなったのは3度。

秀人は、電話が好きじゃないのだ。
そのくせ電話越しに、千歳からの言葉を、艶っぽく意地悪にひきだすことはある。

電話で語り合えるのは、どれだけ長くても5分ほど。

電話でぐずぐずと語り合うより、会って抱きしめてあうこと、会ってキスを与えることが、秀人にとっては大事みたいだ。

八ヶ月間秀人と付き合ってきて、千歳はときどき、あのまっすぐな目、あのすずしい風、あの潔い声、あの美しいからだが、どうしようもないほど、くるしくなるときがある。

いとおしすぎて苦しいとき、電話はしっくりくる。

だから、もうすこし話していたい。
もうすこし、受話器を通して声をきいていたい。

そんな願いは口にだせないまま、風のように電話の向こうから去ってしまう秀人の背中をつかみそこねて、千歳はいつも、単調に繰り返される電子音を自分で確かめるまで、電話を切ることはない。

12月もずっとそうだった。
だから、千歳は、この日の約束を、秀人とかわせていないのだ。


秀人は、何も言わなかった。
千歳もねだれない。

八ヶ月たっても本当のねがいをつたえられないまま。
秀人のことを待っているだけ。受け身だ。

本当にこれでいいのだろうか。

なにものにもとらわれない秀人は、自分の誕生日すらめんどうくさがっていた。
クリスマスなんて、秀人にとってただの一日にすぎないのだろう。
いや、実家にかえって家族と過ごしていることも考えられる。そうであれば、秀人の家族を優先すべきだ。

そんな分別はあれど、千歳のなかには、やっぱり、慢性的な心配も去来する。
あの鉄の馬で昼夜を問わず走るには無茶すぎる季節だ。


暖かい部屋にいてほしい。
秀人が、幸せでいてほしい。

いや、あの人は、だいすきな仲間と、風を感じていることが、一番の幸せなのだ。
千歳の頭の中を繰り返しめぐる思考。幾度この真実にたどりついただろう。
曖昧な笑みをひとりぼっちで浮かべた千歳は、なまあたたかい地下鉄の駅構内にすいこまれていく。



食事をつくるだけつくり、ひととおりたいらげると、母親は愛車で出かけてしまった。
残ったケーキは到底ひとりでは食べきれない。姉たちにあげても、まだ残るだろう。
いつもであれば、こうして一人で過ごす時間も好きだ。
家族も友達も、かならず千歳のそばにもどってくれることがわかっているから。

でも、秀人は。

そして、今日は。

惰性で流していたテレビの電源を、人差し指の先でぷつりと断った。

今のあかりを消して、小走りに自室に戻った。
お気に入りの部屋着を勢いよく脱ぎ捨てる。

そして、クローゼットからさがしあてたのは、一番気に入っているセーター。
畳んでしまっていた、一番気に入っているスカート。
秀人がいつであったか、かわいいと伝えてくれたコート。
すこしひえるかもしれないけれど秀人がすきな、薄いデニールのタイツ。
秀人がたまに身につけるマフラーと、千歳の愛用しているマフラーは、デザインがたまたまにていた。
外出用のバッグの中身は、もう三週間もまえに秀人と会ったときのままだ。

そして、そこに、ひとつのちいさな包みをしのばせる。

くちびるに、色付きのリップをひいてみる。青白い顔色にきっと似合うと姉が教えてくれた、プラム色のチークをかるくのせた。

玄関に向かった千歳の視界を電話機がかすめた。
きっとつながらない。そんな予感がする。

オリオン座も見えなくなった、深く曇ったクリスマスイブの夜。

千歳は、あたたかい部屋から、夜の下に思い切ってとびだした。


冬の極楽寺は、音ひとつない。

刃のような寒さのなか、千歳は、自宅が建っている小高い丘から下る石段を、慎重にふみしめて歩く。

いくあてなんてない。
どこにいけばいるかなんてわからない。

そして、数十段の石段をくだりきった先には、自宅用の簡単な駐輪場がある。秀人はいつも、すこしまわりこんだ坂道から、単車を千歳の家の庭まで押して上がるのだ。近隣の迷惑になるから。よっぽど切羽詰まっている時をのぞいて、秀人はいつもそう述べて気を遣ってくれる。だから、気が付かない。秀人がここに、潔いほどの美しいバイクでおとずれてくれたことに、千歳はいつも、気づかない。

「秀ちゃん……!!!」

ああ。
エンジンを切ったバイクが、駐輪場とめられている。
そのそばでたばこをくわえようとしていた秀人が、そう軽く声をあげて、たばこをソフトケースのなかにしまいこんだ。

「どうした、こんな時間にかわいーかっこしちまってよ。ダチんとこ行くのか。オレに見せてくんねーのかよ」
「え、あ、あの……」
「オマエに会いに来たんだよ。イブだろ」

そして、特攻服をまとっている。
この精悍な背中にぬいこまれた、潔いなまえ。
それを、クリスマスイブの夜にまで背負っているのだ。

「こ、こんな、夜に……」
寒くない?

秀人にとことこと駆け寄ると、あっさりと腰をとらえられた。

「見慣れてんだろ?」
「イブに、特攻服……」
「イヤか?」
「秀ちゃんらしい……」

秀人を見上げて、ぽつりとつぶやく。
ケガひとつ負っていない秀人。
リーゼントを風ですこし乱した秀人が、やさしくわらってくれた。

「会いたかったです……」
「ああ、だろーと思ってよ。あっぶねえな、入れ違いになってたぜ?」
「ご、ごめんなさい……」
「千歳のかーちゃんの車とすれちがったぞ、相変わらず運転荒ぇな……」
はぇーけどよ?

極楽寺に、ぽつりぽつりとたたずむわずかな街灯。
それに照らされたふたり。
秀人は、千歳の前髪を弄びながら、

「すれちがったんですか……。そうなの、お母さんどこかに行っちゃって、わたし、ひとりで家にいたんです」
「ああ。わりーな、千歳。ほっといてよ。よくガマンしてくれたな」
「……秀ちゃんに会えるの、待ってばっかりで……」

千歳のことをそっと抱き寄せたまま、秀人は、特攻服のボトムのポケットをごそごそあさる。
たばこのかわりに出てきたケース。
秀人は、親指ひとつでそれを器用にぱちんとはじいた。

「かせ」
「な、なにを?」
「めんどくせえな、こいつだよ」

クリスマスカラーのダッフルコート。
分厚い生地におおわれた千歳の華奢な手首。

オイルですこしだけよごれた秀人の手が、千歳の手首をおもいきりつかんだ。

そして、青色のケースの中からとりだしたもの。

わっとちいさく叫んだ千歳を意に介さず、秀人は無遠慮に手のひらをとりあげ、華奢な左薬指に、あっさりとそれをはめ込んだ。

「……」

あまりにも唐突なことに、千歳は、あっさりと解放された左手首を茫然を見つめている。

ほんのちいさなパールが埋め込まれた、シンプルな指輪だ。千歳の細い指にすっきりと嵌りこんでいる。

「あとこいつ」

秀人がボトムのポケットから、何かをちからまかせにひきぬいた。
ポケットの中で、くしゃくしゃにまるめられていたもの。
それを、千歳の小さな頭に力任せにかぶせた。
茫然と左薬指を見つめ続けていた千歳が、またもかすかな声をあげた。

「千歳は何つけてもかわいいな」

それは、ざっくりと編まれた白いニット帽。
きゃっと小さく悲鳴をあげた千歳が、瞼のすぐ上までかぶせられたものを、おそるおそる指先で確認する。

そして、ちいさな頭から抜いて確かめてみる。

「かわいいです……!!あ、ありがとう……!!あ、あ、あの、ゆ、ゆびわ!!??」
「オマエのガッコ何もいわれねーだろ?」
「はい、華美なものじゃなければって……あ、あの、こんなにきれいなもの……ありがとうございます……、シルバー?」
「じゃねーんだよ、ホワイトゴールドっつんだとよ」
「ホワイトとパールですか……秀ちゃんもおそろいですか?」
「ああ、ここによ」

ニット帽をかぶりなおした千歳が、秀人の指をのぞきこもうとする。
その澄んだ視線に追いかけられることがさすがに照れくさいのか、秀人は、さきほどとりやめていたたばこをおもむろにポケットからひきだした。
ケースから歯でひっぱりだしたたばこをくわえたまま、千歳に尋ねてみせる。

「そいつつけてったらよ、怖い先輩になんかいわれっか?」
「こ、怖い先輩とかいないから、大丈夫です……、いつもそゆとこ気つかってくれて……」

そして、たばこを目にした千歳が、ちいさな声をあげた。
素直な恋人のかわいらしい変化を、秀人は慈愛をこめて瞳で見守る。

「あ、あの、わたしもあるの……」
「いらねえ」
コイツで充分。

ポケットからさぐろうとしたライター。
それをいったん戻した秀人が、くわえていたたばこを右手にはさみ、ニット帽で隠れてしまった千歳の前髪にキスをおくろうとしたとき。

「ちょ、ちょっと!」

片手だけで抱きよせられた秀人の、冷えてしまった胸板を叩いた千歳が、自身のバッグのなかに潜ませていたものを思い出した。
たばこをひとまずポケットにつっこんだ秀人が、千歳の変化をあたたかく見守っている。

「ま、まって……」

ちまちまとものが詰まっているバッグのなかから、ちいさな包みをさぐりあてる。
ときおりきつく吹き付ける夜風から千歳のことを守りながら、恋人の不器用で一生懸命なすがたを、秀人はいつくしむように見守りつづけている。

「こ、これです!」

ようやくとりだした小さな包み。
秀人がおくった指輪がおさまったケースと同等ほどにこぶりだ。

無言でそれをつかみとった秀人が、しなやかな手で、包装をこじあけた。

質のいい紙につつまれたそれが、ころんと秀人の手のひらの上にころがる。
オイルのかおりにつつまれた、しなやかな手。

片手一つで包むことがかなってしまうそれは、夜のひそかなあかりに鈍くひかる、ライターだった。ブラックラッカーとよばれるその装飾は、質のいいトランクのように真四角の意匠をほこっている。

「えっと、ラ、ライター……。これ、実はわたしが買ったものじゃなくて、お母さんにお願いして、アメリカで買ってきてもらって……」

雑誌でみかけた、パールホワイトにひかるライター。
日本では販売されていないものだと知った。そして、現地で購入すると、値段は半分ほど下がる。
母親への説明不足で、秀人のバイクのタンクと似た色を手に入れることはかなわなかったが、この黒のライターも、秀人の特攻服、そしてバイクに映える気がしたのだ。

「こいつぁなくせねーな……」
「ううん、気にせず使ってください」
「見せびらかしたくねえけどよ……ありがとな」

秀人のしなやかな指がカチリとふたをはじいた。
爪先が黒くよごれた親指が、ローラーをこする。

ガスのにおいとオイルのにおい。

ポケットにぞんざいにつっこんでいたたばこをもう一度ひっぱりだして、歯でぬきとる。

セブンスターの先に、あたたかな火がともされた。

味に変化はあるのか。
秀人の好みであっただろうか。
そもそも、恋人の未成年喫煙を肯定するようなものをおくってしまった自分自身とはいったい。
秀人におくられた指輪。その薬指を、右手で無意識に覆いながら、千歳は今になってこの選択が正しかったのか、思考は迷走をはじめた。

「よかったよ、イブに千歳をひとりにさせなくてよ」

おいしそうにたばこを味わう秀人が、悪びれないちょうしで千歳に笑いかける。

「……会いたいって、ちゃんといえばよかった」
「千歳が言わなくてもよ、わかってるぜ?」
「……ひでちゃんに、あまえてばかりだから……」
「そーかぁ?」

まだ長いままのたばこを、千歳がかつてお礼に贈った携帯灰皿にこすりつける。
それをポケットにしまった秀人が、ニット帽につつまれた千歳のちいさな後頭部をそっとつつみ、たばこくさいくちびるで、いつまでもおとなしく初心な千歳のくちびるを、いとおしくつつみこんだ。

千歳のことを怖がらせない優しいキスから解放されて、千歳は秀人に矢継ぎ早に心配の言葉をあびせはじめた。

「ね、寒いでしょ……?」
「こんなモン慣れてんだぜ?ま、湘南ぁよ、ハマよりさみーよな……」
「こんなにさむいのに、特攻服一枚……」
「んじゃ、あったけーのくれよ」
「あ、あげたじゃないですか、誕生日に……ネックウォーマー……。なのに使ってない……」
「コイツ一枚攻めにいっちまうからな。オマエといっしょにいるときぁつかってんだろ?」
「……じゃあ、いつもわたしが一緒にいます……」
「そーかよ、頼もしいな」
「います、ずっといます……」
「千歳」
「ずっと、います……」

千歳を、胸のなかにおさめながら、秀人がぼやく。
むきだしの肌を頬にかんじながら、千歳は、秀人の冷たいからだにつつまれる。

「腹へった……」
「ごはん、残ってるよ。たべよ」
「千歳がつくったんか?」
「うん、わたしと、お母さんで……」



やや勾配のきつい石の坂。
千歳の自宅まで、秀人がバイクを押して歩く。
その隣を、千歳がそっと寄り添っている。

「秀ちゃん、きてくれてありがとう」
「イブだぜ。千歳にあいにこねーわけねーだろ」
「わたし、ちゃんとこれからは会いたいっていう」

庭の片隅に停めた秀人が、せっぱつまった宣言をみせる千歳の、ニット帽ごしの頭をぽんぽんとたたく。

「さみしかったか」
「さみしかった!」
「うれしそーにゆーことかァ?」

クリスマスイブ。

鎌倉の谷戸の奥。
真冬のくもった空は、星がまたたくことはない。
秀人と、秀人の愛するバイクに寄り添った千歳が、左手でニット帽をととのえながら、満足そうにわらった。

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