冬恋い
黙り込む聖夜の街

山手。
足元の清潔な石畳は、ひそやかな闇に包まれている。
高級住宅のガレージ前のセンサーが、てくてくとあるく葵のことを遠慮なく照らし、すぐに消える。

足元がいつのまにか坂道になった。
そうとおもえば、今度は下り坂。
複雑な勾配をくりかえす高級住宅街。
大きな家家にはしあわせな明かりがともり、広い庭や手入れの行き届いているであろう樹木にきらびやかな電飾をこらしている住宅もある。

厳重なセキュリティと防音を誇る住宅は、通りに静寂を呼び込んでいる。

クリスマスイブ。

聖夜の街は、黙り込んでいる。

ぴかぴかとかがやく電飾に時折てらされて、幾ばくかの荷物をかかえた葵は、起伏が存外激しい山手の高級住宅街のなかを、てくてくと帰路についている。
石川町駅へ向かうか、それともみなとみらい線をつかうか。
少し悩んだ葵の足は、雙葉小学校のそばの教会から、元町公園の手前までたどりついた。
白い息を吐きマフラーに顔をうめながら、葵の足は、急勾配の坂をくだってみなとみらい線の駅へ向かうため、港の見える丘公園へたどり着くだろう道をたどりはじめた。うまくいけば、バスにも乗ることがかなうだろう。

こんな聖なる夜に、自宅から遠く離れたこの街にいるわけは、クリスマスイブだからというよりほかはない。

ピアノ教室の先生の知人である牧師に打診された葵は、教会のクリスマスミサで、パイプオルガンを弾かせてもらった。けして腕に自信はなかったけれど、参列者には満足していただけたようだ。クリスマスバザーの手伝いにも入り、こどもたちやボランティア特製の食事まで図々しくもいただいてしまった。

相応に充実したクリスマスイブの一日をすごし、夕方をすこしすぎれば、こんなに暗くなってしまったのだ。


それにしても、葵が予想していたよりずいぶん暗い。とはいえ鎌倉の葵の自宅の近辺と同じで、暗さのあまり、人が誰もいないだけだ。とくに治安は問題ないだろう。

姉は今日も家に帰ってこないだろう。
家では、双子の妹が恋人とともにふたりきりのクリスマスを満喫しているかもしれない。もっとも、母親も帰国しているから、三人のクリスマスになっているかもしれないが。

ここから、石川町駅のほうへ戻って電車でひと駅。
葵は何度かそこにおとずれたことがある。
あの町へ行けばあの人に会えたのも、もうずいぶん昔の話だ。
あれから一年。
あの人は、榊龍也は、今日のクリスマスイブ、どんな夜を過ごしているのか。

幸せに過ごしていてほしい。
でも、そこに、龍也にずっと片想いをつづけている葵の、ちりちりとしたわがままや嫉妬心も生まれる。もしも、すてきな女の人がそばにいたら。
葵は、立ち直れないほど落ち込んでしまうだろう。

見えないものは、ないものと同じだと言い聞かせる。
一方的な思慕にさいなまれていた葵は下り坂に足をまかせっきりで、目の前にせまる黒いものに気づかなかった。

「わっ!!!」
「……っ……」
「ご、ごめんなさい!!」

闇に飲まれていて、葵はひとつも気づかなかった。
すぐ目の前に、人の姿が迫っていたのだ。
勢いよくぶつかってしまった葵は、額にすこしはしった痛みをこらえて、あわてて謝罪のことばをのべた。

「…………」

そして、重々しい気配を醸しながら、振り返った、背の高い男。

それは。

「さ、榊、せんぱい……」

よくよく見れば、黒ではなくカーキ色。
ぶつかった背中は、とっさのことであったから、あたたかかったのかつめたかったのか、もうわからない。

振り向いてくれたその人。
榊龍也は、真下で龍也のことをじっと見上げてわびをのべた葵のことを、しずかな眼で見降ろし続けている。

「ごめんなさい……」
「……別にどーもしねーよ……」
「……」

もう冬休みを迎えているのだろう。
葵があこがれる長ランではない。
精悍な体躯には、チェスターコートが良く似合っている。
厳しい眉間に皺が軽く寄り、暗闇でもうっすらとわかる、ずいぶん疲れた表情だ。

そして、この人は、もうこのあたりの町に、用はないはずだ。
あれから一年たち、葵の慕うこの人は、違うチームを旗揚げしている。

実家はここからやや離れているはず。本牧と山手の境目あたりだ。
こんな夜くらい、家族で過ごすのだろうか。そのため帰宅する途中なのだろうか。ここは外国人墓地の手前。龍也がどこからあらわれたのかわからなかったけれど、ここから葵が辿って来た道を戻り、さらにすすんで降りてしまえば、龍也が使う根岸線の石川町駅があるだろう。

様々な思案を抱えた葵が、純粋な瞳で、龍也のことをじっと見上げている。

ポケットに手をつっこみ、己に比べてずいぶん小さく幼い少女を見下ろしつづけていた龍也が、おごそかに口をひらいた。

「……んな遅くに何やってる」
「えっと……教会で、オルガンを……クリスマスの……」
「……親ぁむかえにこねーのか」
「は、はい…」
「アニキは」
「まだ帰国しません……」
「姉ちゃんは」
「……どっかいっています……」

龍也が、不愉快めいたためいきを深くつく。
葵が、ぴくりと体をすくませて、反射的に一歩後ずさってしまった。
でも、こうして出会えた龍也におびえているわけにはいかない。
葵が、おそるおそるたずねた。

「……榊先輩は……?」
「ああ……バイトだ……」
「お、おつかれさま、でした……」

その刹那、黙り込む聖夜の街に響いた低い音。
それは、それなりにおなかを満たした葵の音ではない。
労働で疲れ果てた龍也のおなかの音だった。
龍也が軽く舌打ちを放つ。
生理現象をとがめるつもりもわらうつもりもない葵が、そういえばと思い出したことがあったのだ。

「これ、食べますか……?」

トートバッグのなかに手をさしいれ、葵がとりだしたもの。
それは、ミサを終えて、参加者みんなでクリスマスパーティーを行った際、頂いた食べ物だ。

「ローストビーフサンド」

暗闇に、すこし目が慣れてきた。
交番前。
ここからまっすぐ歩けば、すぐそこに港の見える丘公園がある。

「ひえてねーのか」
「あ、あの、そういうもので……冷たくてもおいしいですよ!」
「……」
「……あ、あの、」

明日のあさごはんにしようとおもっていたローストビーフサンド。

すぐそばに、有名な観光地でもある公園がある。
ただし、駐車場も駐輪場も満車。
そこでゆっくり食べることを龍也に提案してあげたいけれど、きっと、こんな夜だ。ゆっくりと過ごせる雰囲気ではないだろう。

すると、龍也が、葵がさしだしたそれを、ひったくるようにうばいとる。

そのまま、がぶりとくらいついた。

「……うめー……」
「おいしいですよね……レタスは、わたしがちぎりました……」

あっと言う間に食べ尽くした龍也のことを、食事中に凝視しすぎるのは失礼だ。そんなことを葵が自覚したのは、龍也が、のこりのひとかけらを整った口元に放り込んだ瞬間であった。

つつまれていた紙をまるめてポケットに突っ込んだ龍也が、それまで静かに眺めていた葵のことを、いつしか厳しく咎めはじめた。

「こんな暗いとこ、一人でよ……」
「……は、はい、でも……」
「いいわけすんじゃねえ」
「……気をつけます……」
「どやって気ーつけんだ」
「……あ、あかるいみち……」
「……きやがれ」
「?」

龍也がすたすたと歩き始める。きれいな石畳をかつかつと叩く革靴。
あわてて葵はその背中を追いかけて、気づけばあっという間に丘公園の山手側入り口だ。
その瞬間、赤く塗られたバスがふたりのそばを行き追いよく通り過ぎた。あれに乗ると、100円で山下までつれていってくれる。

「……」
「こいっつってんだろ」
「え、えっと」
「来いちび」
「ちびじゃありません……」

これもいいわけだろうか。

口をつぐんだ葵が、とことこと龍也のそばにかけよった。
真横に並ぶことなどできなくて、大きな背中の真下に、そっと隠れてみる。
こんなに近づけたこと、今まで何度あっただろうか。

「……葵」
「!!」
「どんなツラしてんだか、わかんぞ」
「……えっ!ど、どういういみですか……?」
「おくってやるよ」

丘公園には目もくれぬ龍也が、大股で谷戸坂をくだりはじめた。

「ま、まってください」

坂道をタタタとかけおりはじめた葵の足が、思わずもつれる。
先ほどのようなドジは踏まないように。それだけ心掛けると、もつれた足は、龍也の背後のすんでのところでとまった。
そして、先ほどあたえてくれたひとことを今更反芻し、葵は仰天する。

「……え!鎌倉まで!?」
「葵ぁ、んなにドタマの回転わりーヤツだったか?」
「……よく、ないです……。でも、先輩、帰りは?あ、わたしのお母さんに、送ってもらって……」
「だからよ、さっさといくんだろーが。おら、おいてくぞ」
「は、はい!」

闇と同化する龍也のあたたかそうな背中をめざして、葵は懸命についてゆく。
この広い背中があたたかいのか、つめたいのか。今の葵は、まだそれを知らない。

「葵ははらへってねーんか」
「大丈夫です。今の、あさごはんにしようと思ってただけで……教会で、いただきました」
「そうかよ」

クリスマスイブだ。
バザーでは、販売の手伝いをするばかりでついぞ自分では何も購入しなかった。
龍也におくることができるものなど、かばんのなかにはローストビーフサンド以外、もうなにもない。

そして、思いがけず龍也に会えたこの時間は、葵にとって最高のおくりものだった。

龍也についてゆけば、あっという間に坂の下までたどり着いたうえ、こんなに暗い夜なのに、こわいことなんて何一つなかった。元町中華街駅の長いエスカレーター。龍也の二段後に、葵はちょこんとたって、エスカレーターがくだってゆけばのぞける龍也の赤い髪の毛をじっとみつめる。すこし崩れ落ち始めている。皆が各の幸せを満喫しているとき、この人は、人のために働いていたのだ。

みなとみらい線の始発駅から乗り込むため、座席は選び放題だ。
龍也の隣にぴとりとくっつく勇気はなくて、少しだけ離れた。

みなとみらい駅でどっとお客は増えて、はからずして龍也にぴったりとくっつくこととなった。
そして、チェスターコート越しのその体は、本当にあたたかかった。


横須賀線に乗り換えるため、ここからの定期を持っていない龍也が切符を買い求めている。
こんなに珍しいすがた、なかなか見られない。
じっと不躾に観察することも失礼だ。それよりも、みなとみらい線に乗れる定期を持っていたことが葵にとっては意外であった。もしかすると、龍也の両親に持たされているのかもしれない。

少し離れた場所で、葵は、定期を無意味にもてあそびながら龍也のことを待つ。

「葵が先改札とおるだろ、したらよ、ソイツ投げてよこせ」
「!!お、降りるときどうするんですか?」

そして龍也は、ともに過ごしてくれる時間がなじみはじめると、こうしてちゃかすような言葉をまじえて一緒にいる人間のことをリラックスさせてくれる人であることも、葵は知っていた。

そんな龍也が、葵はずっと大好きだった。

大好きな人と、こんな夜に、二人で一緒にいられる。

なにかと龍也の背中をおいかけてきたけれど、これからは葵の慣れた道程なのだから、龍也のそばを歩いてもいいはずだ。

そっとくっついて歩いていた背中から、龍也のそばに歩みでる。
すると、意外にきれいな革靴がいやみなまでに大股になり、葵をおいこす。
葵が小走りにはしり、そのそばへくっつく。

うんと見上げれば、きっと龍也の表情はたしかめられる。
でも、今の葵は、はずかしくて、うつむいてばかりだ。

横須賀線は、混み始めている。夜を横浜で過ごし地元へ帰る人たちなのか、それともこれからクリスマスを楽しむ人たちなのか。

混雑が始まりはじめているとはいえ、龍也のまわりだけ、空間ができる。
その背中にちょこんとくっつき、あいているシートに、ふたりですわった。

長い足を組み、ふんぞり返る龍也。
そのそばに、ちんまりとおさまる葵。

数十分の時間を、ぽつぽつと語らいながら過ごした。
足元が暖房であたためられる。

「ぶつかったとこ、いたくねーか」

ぽかぽかとあたためられる足元。そのぬくもりに、うとうとと意識を飛ばしそうになっていた葵が、龍也のその言葉にはたと目覚めて、お礼ともう一度お詫びを伝えた。


今度こそ、葵にとって慣れた道程だ。
江ノ電の鎌倉駅には、どうやら人はまばら。
極楽寺駅から自宅までの道は真っ暗だけれど、何か起きたことなど一度もない。

もしかしたら、みなとみらい線を降りたところで、龍也にここまででいいと告げるべきだったか。
龍也のことばは、むしろ、あの駅までをさしていたのではないか。

ただただいっぱいになったまま、龍也におとなしくおくられている葵は、うつむき、せっぱつまったようすで、江ノ電乗り換え口までとぼとぼと足をすすめている。

「疲れっちまったか」
「い、いえ!!ちがいます……。榊、先輩は……」
「オレがんなやわにみえっか」
「…いいえ、そんなこと……」

だけど、あなたは、つらいこともすべて隠してしまえる人だから。
心配です。
そんなことを伝えられる度胸は、葵には存在しない。
葵は、先導しようとする龍也の背中に、ちいさくさけんだ。

「あ、あの!」

鎌倉駅改札から出た龍也が、ふりむいて葵を見下ろす。
すぐそばの切符売り場。
ポケットからひっぱりだした小銭を券売機につっこみ、極楽寺駅と鎌倉駅の往復券を選びながら、龍也は葵のことばを待つ。

「榊先輩と、クリスマス、会えて……」
「……」
「うれしかった、です」
「……ま、いーんじゃねーかよ?」
「……ほんとうですか?」
「あんな暗ぇとこ、二度とひとりであるくんじゃねーぞ?」
「……はい……」
「小さい」
「は、はい!」

切符をつかんだ龍也が歩きはじめる。
その背中をおいかけた葵が、ぽつりとつぶやいた。

「な、なんか、こどもあつかい、ですね……」


真っ暗な鎌倉は、海もなにも見えない。
ただひたすら寒いだけ。

江ノ電口へ向かう、手狭な地下通路。
その入り口の案内板を見上げた龍也がぼやいた。

「ここ、こんなんなんかよ」
「駅を使われるのははじめてですか……?」
「ああ」
「そうなんですね、いつもバイク……」
「手広のほうからよ。葵のアニキ行っちまってから、ほとんどきてねえぞ」
「そうですか……」

ふたりのそばを、乗客が小走りにかけてゆく。
気付けば、江ノ電が到着していた。

「あ!江ノ電、でちゃう!はしりましょう」
「終電じゃねーだろ」
「はい、あの、榊先輩が帰られるときも、じゅうぶん大丈夫だとおもいます……」
「ならよ」
「……?」
「一本、待つかよ」



そして、ここ。

去年のクリスマスイブ、二人で歩いた丘公園前。

龍也は、ここに関心はない。
体のいい駐車場としてつかっただけだ。

洋館を再利用したカフェで、葵がおそろしく甘いケーキを食べた。龍也は、苦みが特徴のケーキをつつきながら、葵のその姿を眉間にしわをよせて見守った。

あれから一年たったクリスマスイブ。
葵が龍也に贈ったものの一部は、自宅においてある。生活に何かと役立ちそうなお茶だのコーヒーだのこまごまとした嗜好品にくわえて、革のキーホルダーにバイクの根付け。バイクの根付けは、これまでむき出しであった龍也の部屋の鍵にむすびつけられ、革のキーホルダーは今、単車のキーにくっついて龍也のコートのポケットの中にある。

バイクから慎重に降りた葵が、かわいらしいリュックのなかから、ごそごそととりだしたもの。

ちまちまとしたクリスマスプレゼントをこの朝いそいそと贈ってきた葵の耳に、ふざけたものが装着された。


わかんねーからてめーでえらべ。


そうして龍也は、クリスマスイブ、ごったかえすみなとみらいに葵を連れていった。

遠慮する葵を自身の前に歩かせて、なんでもいいから一個えらべとつたえた。どれほど高くてもかまわないから、一個だけにしろと。

そして葵がえらんだのが、今、葵の耳をあたためている、うさぎのキャラクターのかたちの、耳当てであった。

「バイク乗ってるとき……に……」
「……」
「メットが……ありましたね……」
「……」
「あ、でも、朝、駅まで行くとき、寒いんです、ずっと耳当てほしくて!」

それをさっそく装着している葵が、龍也にそっと寄り添っている。あのころよりもずっとそばに、ぴったりとくっついている。

「先輩、去年のこと覚えてますか?」
「……」
「覚えてるってことですね!」
「知るかんなもん。葵もよー、んなとこフラフラフラフラしやがってよ……」
「ふらふらしてません。歩いてただけですもん……」
「いいわけ」
「いいわけと、自分の意見を伝えることは、違います……」
「言うよーになったよナァ……」

葵のさらさらの髪の毛をガシガシとなでると、すこしひろがったあと、すとんと元に戻った。

「ローストビーフはさめてもおいしいですよね」
「アレが一番うまかったな  今年はいいのかよ」
「牧師さん、アメリカに帰ったらしいから、今年はもうやってないんです」

あの日素通りした、港の見える丘公園。
龍也は、バイクを置くために使うにすぎないつもりであったが、やはり、葵の気持ちはこの公園で一緒に過ごすことにベクトルが向いているようだ。

それを悟った龍也が、葵が願う前に伝える。
ポケットにつっこまれた龍也の左手が、単車のキーにつながれた革のキーホルダーをにぎりしめる。

「行くか」
「いきます!!」

ずっとそばで、こうしてわらっていてほしい。
お互いに抱いたおなじ想いは、あたたかな手のひらに込められ、手をつなぐことによって、厳かに贈られた。

- ナノ -