冬恋い
ひかり輝く世界のすべて 後

緋咲が、ねむってしまった。

玄関にそっと置いた後、ポケットから引き出したハンカチで周辺を拭っていた。
小春が作業に励んでいた時間が、そんなに長いあいだであるはずはなかった。
ほんの少し。
5分にも満たない間だった。

小春が、微かな音をたてて廊下と部屋をへだてるドアを押すと、ぷつりとクリスマスソングが終わった。
そして、音のない部屋。
炬燵には、小春と緋咲がひととおり食べ終えたごはんののこり。

炬燵のそばに置いてあるひとりがけのソファ。
暖房があたたかくきかされた部屋で、質のいい部屋着をまとった緋咲は、いつのまにかしずかに眠っていた。

「緋咲さん……」

小春のかすかな声にぴくりと反応することもない。
長い脚は投げ出され、ソファに、しなやかな体がしずかにしずみこんでいる。

すこしだけ、寝かせてあげればいい。
こんなに無防備なすがたの緋咲もめずらしい。
小春をおもいきり無防備にさせてくれて、この部屋でまもってくれるけれど、緋咲がここまで素直なすがたでねむりこんでいるこのありさまは、めったに見られない姿だ。

緋咲のベッドのかたすみにまるめられていた、あたたかい毛布。
それをずるずると引きおろし、ソファまでひきずった小春は、緋咲のひざを、毛布でそっと覆った。



そして、緋咲がねむりこんで、一時間。
時計がきざむ時間は、小春が帰宅しなければならない約束の時間に、刻一刻と近づいている。

残っていたケーキを食べ終えて、食べ物もタッパーにつめて冷蔵庫にしまいこんだ。
そんなに数もなかった食器の片付けは、あっさりと終えられてしまった。
ぴかぴかにみがきあげられたこたつのうえ。

こたつにもぐって、緋咲にもらったトワレのボトルをいたずらにもてあそんでみたり観察してみたり。ねむる緋咲を見守りながら、独りで遊んでいた小春は、そろそろ不安に陥りはじめる。

無理に起こしてもいいけれど。

「緋咲さん……」

なまえを呼んでも、緋咲から、心地よい寝息が聞こえてくるだけ。

そして、いよいよ気が付く。


帰るタイミングを、のがしてしまった。


緊急事態だ。緋咲にはああ説明したけれど、母親があらかじめ待ってくれているわけではない。帰ると決めたときに電話しろと命じられたのだ。

おだやかに眠り続ける緋咲といられる、あたたかで静かな空間があまりに心地よかったから、つい時間が流れるまま、その時間にあるがまま身をまかせてしまったけれど。

小春がやるべきことは、緋咲をきっちり起こし、帰宅の準備をすることではなかったか。
至極当然の事実をいまさらさとり、小春は青ざめる。

もちろん、いますぐ緋咲をたたき起こせばいいのだ。

でも、小春にはそれがかなわない。

ぐっすりと眠る緋咲がかわいそうだから。
それもあるけれど、もっとエゴに満ちた理由だ。


小春は、このまま、クリスマスイブを、緋咲とずっと一緒にいたい。



「お母さんどうしよう緋咲さんが寝ちゃった」

8時をまわったところでひとまず、小春は、緋咲の部屋の電話をつかって母親に連絡をいれた。

母親にそう伝えてみると、へたな芝居をうつなと叱り飛ばされた。

そして、たたき起こせばいいと、至極まっとうな正論をたたきつけられた。

「ほんとだよ!」

そう主張しても、母親の正論を折ることはできない。起こせないなら書き置きでも残して帰れと命令されてしまった。

今から迎えにいくからね。
そう伝えてくれた母親に、緋咲さんほっといていいの?とたずねてみる。

知るかと一蹴されたあと、体でもこわしてるの?と詰問されるので、小春は、いまだしずかに眠る緋咲のことをちらりとふりむいてみる。

「わ、わかんないけど……こんなに疲れてるのはじめてみた」

ならなおのことジャマだから、無理に起こすか黙って帰れとぴしゃりと言ってのけられた。

なんと正しい言葉なのだろう。

強く起こしてしまえばよかったのだ。

こうしてこんな時間まで緋咲のそばにいたのは、ほかならぬ、小春自身の甘えにすぎないのだ。

「……泊まってってもいい?」

母親が、短く、バカ!と叫んだ。

小さなころから繰り返されてきたことだ。親に無理を強いる小春に、母親はしつこく押さえつけてくることはない。そのかわり、母親との取り決めや約束をやぶってしまえば、そのぶんきついお灸が待っている。

今回もそのパターンだろう。

5時に起きて始発で帰ってきなさい。

厳めしい声でぴしゃりと言ってのけた母親ががちゃんと電話を切った。

たいして頭なんかよくない。自分を強いなんて思ったこともない。ただ、ふつうに生きてきただけ。

たしかに、ばかだ。

電話を切った小春は、緋咲のそばにそっと寄り添う。

このまま強くゆすればこの優しい人はすぐにめざめて小春をかえすだろう。

そうすることが、この人のためだ。自分のためだ。小春と緋咲の周囲の人たちのためだ。

自分はばかだ。自分勝手だ。

ただ、この夜、緋咲のそばにいたい。

それだけで、緋咲をずっと見守り続けているのだ。

すこしずり落ちていた毛布を、緋咲の固いお腹あたりまで整える。

「緋咲さん」

そっとその名前を呼んだ小春が、緋咲のすぐそば、足元にぴったりよりそって、緋咲を見上げた。




「今、何時だ……?」
「く、9時半……」

ヤマネコがぴくりと気配を察知するように、緋咲の精悍な肩がうごめいた。
こたつにおさまり、緋咲のことを片時も目をはなさず見守っていた小春も、それを悟る。

そして、勢いよく上半身を起こす。
はずみで、緋咲の毛布がはらりと落ちた。

がたんとたちあがった緋咲。小春もこたつから這い出して、毛布をきれいにたたんだ。

あしもとにちょこんといすわっている小春。
閉められたカーテン。
カーテンのすきまからしのびよる、夜の気配。
あたたかい部屋。
きちんと片づけられているテーブル。
湧かされたお湯。
すべてをさとった緋咲が、つめたい瞳で小春を一瞥し、まだ寝ぼけている頭で、ひとまずたずねるべきことを詰問した。

「殴ってでも起こせよ……オレぁんな寝てたか?」
「すっごく寝てました!!」
「なんで先帰らなかった  」
「……」

畳んだ毛布をぎゅっと抱きしめて、ばつがわるそうに緋咲を見上げた小春。
その小さな肩がぴくりと竦んだことを悟った緋咲が、小春と同じ目線にしゃがみこみ、ちいさな頭を何度も撫でた。

「お母さんに電話した……。帰ったら怒られると思うけど…今日、このままいていいの……」
「……フツー親に電話しちまうか……?」
「緋咲さんが言わせたんじゃなくて、わたしが、わたしで決めて帰らなかったの。ちゃんとそこも話します」

毛布を抱えたまま、懸命に宣言する小春。
緋咲はその小さな背中を抱き寄せて、何度も撫でてやる。

こんなつもり、ひとつもなかったのだが。
己のどじひとつで、おもいがけない事態となった。

「明日、始発で帰ってきなさいって」

紫色の髪の毛をかきあげた緋咲が、さばさばとしたため息をついた。
何せ、まだ少し眠いのだ。

タクシーで帰るか。
小春にそういってやればいい。

眠気で頭が回らないとはいいわけだ。
緋咲も、一人前に、小春を帰さない口実に乗っかる準備ができあがりはじめている。

とはいえ、小春を守ると誓った日、緋咲自身のなかで決めたこともある。
自分で自分にスジを通さなければならない。

「小春、オレでてくからよ、ひとりで寝ろ」
デージョブだ。あっちの部屋にいるだけだからよ。

小春が、ふるふると頭をふる。

「物置になってっからな…今から片づけっからよ。小春埃っぽいとこに寝かせるわけにゃいかねーんだよ」
「……」
「ひとりで寝るの、まだこえーんか?」
「お、おもいださせないでください!!」
忘れてたのに!

緋咲が、切れ長の瞳をやさしく緩めた。

やっと緋咲がわらってくれた。

小春の耳の裏から、かすかなせっけんのかおりがただよう。

緋咲に抱き寄せられながら、小春もわんぱくな顔で、いっぱいに笑った。




緋咲が、部屋着をクローゼットから選ぶ。
時間はもう10時。あまり好き勝手にテレビを見ることがゆるされなくて、母親の夜勤の日もその習慣になんとなくしたがってしまう小春は、日ごろならそろそろ寝る時間なのだ。

「かしてやるよ」
「あのときと同じ?」
「ああ。つかよ、どれもにたよーなモンだぜ…」

パタンととびらをとじると、部屋からバスルームまでつづく短い廊下に、小春がおくったかおりがもう充満している。
そういえば、シャワーをあびてしまえば、緋咲にもらったあのかおりもきえてしまうだろう。
この部屋のバスルームをつかうのは二度目だ。オーガニックブランドのシャワージェル、シャンプー、コンディショナーがずらりと並ぶ、清潔なシャワールーム。緋咲と同じシャワーグッズを使いたい。母親にそう伝えてみると、そんな高いモノはこの家の身の丈に合っていない。そうぴしゃりと叱り飛ばされながら、ソープだけ買ってくれた。

短いシャワーを終えた小春が、濡れ髪のまま部屋に戻ってくる。
たっぷりとした部屋着に身をつつんだ小春がお礼を伝えると同時に、緋咲が小春をベッドの上に引き上げた。
髪の毛をつつんでいたバスタオルで、小春の量の多い髪をわしわしと拭いあげたあと、ドライヤーを手渡す。

「さき、寝ちまってていーぞ?」
「……寝れないとおもいます……」

手際よく着替えを準備した緋咲が、あっさりと扉の向こうに消えた。

小春の家のドライヤーより、ずっと性能の高い機械で、乾きにくい髪の毛に熱風をあてる。緋咲があたえてくれたブラシも、上質なものだ。

しずかな夜。
うたたねをした緋咲は、ねむくないのかもしれない。
小春はもう眠い。
でもきっと、ねむれない。

緋先が、ものの数分ででてきた。
さすがに冷えるのか、部屋着をきっちり着込んでいる。
今日も一日ゆったりと降りていた髪の毛はさっぱりとあらわれている。

「緋咲さん、シャワー派ですか?」
「水浴びんの、あんま好きじゃねんだよ」
「ねこみたいですね…」
「……」
「でも緋咲さん、いつも清潔ですよね。あの、わたしが髪の毛かわかしてもいいですか?」

小春が、ドライヤーをぎゅっと抱きしめる。

しずかな目でそれを一瞥した緋咲が、部屋着ごしの背中を小春にむけて、ベッドにこしかけた。
小春がドライヤーのスイッチをいれる。
そのあいだ、緋咲が手にするのは、高級ブランドのメンズラインの化粧水。

小春が、幼い手を緋咲の髪の毛にとおしながら、慎重に熱風をあててゆく。

風にのって、化粧品のかおりが漂ってくる。小春も肌荒れが気になるときは、肌水を吹き付けて薬局で買った乳液を塗り込んでみたりするけれど、基本的にはあらいっぱなしだ。
緋咲がただよわせるかおりのひとつに、この化粧水のにおいもあったのかもしれない。

「わー、緋咲さんのにおい」

つぶやいてしまっった言葉が、どうにもはずかしい。ドライヤーの風のなかに、消えてしまっていればいいのに。



「12時まわってんな……」
「こんなに遅く起きたの、はじめてです」

緋咲が水をわたしてくれたので、小春も、ペットボトルのおなじ飲み口に口をつけてこくこくと飲む。緋咲の部屋着。これはまだおろしたてのものなのか、どこかたたずまいにハリがある。緋咲のかおりもあまりくっついていない。ベッドの上にすわりこみ、ぶかぶかの部屋着につつまれた小春のもとに、ペットボトルを捨ててたばこの火のしまつもたしかめた緋咲がもどってくる。

小春のほっそりとした体をぎゅっと抱きしめて、前髪ごしにキスをおくった。
そして、小春のくっきりとした目元。鼻。
すこし乾燥したぽってりとしたくちびるを、やさしく覆うだけのキス。

額をこつんとぶつけあわせて、緋咲がつぶやく。

「おやすみ」
「おやすみなさい……」

ちいさな子を寝かせるように、小春のことを壁側におくった。
そして、痩せた肩まで毛布を引き上げる。

緋咲は、そのそばに慎重に長身を横たえた。

枕元にも、照明のスイッチが備え付けられたある。
パチンと部屋のあかりをおとすと、テレビのそばの間接灯が、ぼんやりとひかった。

「……」
「……」

小春をぎゅっと抱きしめて、緋咲の精悍のからだのなかにおさめてくれるわけではない。
緋咲は、小春に背中を向けて、小春ではなくテレビやこたつやソファがある、小春と逆側を向き、体を横たえている。

小春が、緋咲の背中にすがるように額をあててみる。

緋咲の精悍なからだが、小春から少し離れた。

これ以上はだめだ。
迷惑だ。

小春は、おもいきり壁によって、ぎゅっと目をとじた。
こどものように体をまるめて、自分で自分のことをぎゅっと抱きすくめてみる。
眠いはずなのに、なかなか眠ることがかなわない。
自分の寝付きの悪い性分がうらめしくなる。

そのとき、小春の背中から、しずかであたたかい声が落ちてきた。

「小春」
「はい……」

ぴくりと振り向こうとしたとき、小春の身体は、背中から思い切りつつまれ、緋咲にぎゅっと抱きしめられる。
小春がぐるりと体を反転させようとしたとき。

「まて」
「……」
「こっちむくな、そっちむいてろ」

壁を向いたまま、小春は体をかたくしてうなずく。

「……」

小春の華奢な腰を軽く抱きしめ、小春のことを抱え込み、緋咲は小春の漆黒の髪の毛に鼻先をうめた。

「これだけだ」
「……」
「これだけだぜ?」
「ずっと、こうしてて、ほしいです」
「これ以上はないからな。安心してろ」
「ごめんなさい…」

緋咲の腕のなかの小さな子は、どんな意味であやまっているのだか。

「緋咲さん…ホントに寝てたんですよね?」
「違うって言ったら?」
「!!」

暗闇にすっかり慣れた小春の瞳。
思わず振り返ろうとしたとき、小春が身動きがかなわぬほど、緋咲が強く抱きしめる。

「…マジで寝ちまってたんだよ……」
「人間だれだってねむいときはありますよ」

小生意気なことをのたまう小春のふわふわの耳元を、緋咲がかわいたくちびるでそっとたどると、小春がキャッキャとわらった。

「ったくよー」
「……はい……」

緋咲が、やさしいためいきをついたあと、かすかに笑った。

「ヘンな夜だな」

ふたりして、クスクスとわらう。
わらってん場合かー?緋咲が小春をからかう。

「親、眠れてねーと思うぜ……?」
「どれだけ怒られても、わたしが悪いからちゃんと謝ります」
「殴られっちまうか?」
「お母さん、わたしに手はあげない。そのぶん厳しいですけど」
「なんかあったらよ、オレが頭さげるからな」
「大丈夫!自分で責任とれます!」
スジを、とおすんです!

緋咲に教わった言葉をうそぶいてみる。
緋咲のしなやかな手は、小春のみぞおちをしっかりと抱きしめている。
緋咲の胸のなかにおさまりながら、小春は今日最後のお礼をつたえた。

「緋咲さん、香水ありがとうございました。ずっと使います」
「オレもよ、アイツありがとな」
終わっちまったらよ、おなしラインのさがすか……。


クリスマスイブ。
明日の朝のばたつきを思い浮かべて、ふたりしてわらう。

緋咲に背後から抱かれた小春は、ことりとねむりこんだあと、ぱたんと寝返りをうつ。
夢とうつつのあわいをさまよう緋咲が、小春の小さなあたまを胸のなかにかかえこみ、ぎゅっと抱き合ったまま、ふたりは眠りに落ちた。

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