ひかり輝く世界のすべて 前
「小春が食えよ?」
結局のところ、こたつはこの冬、緋咲の部屋に、我が物顔で居座っている。
いちいち仕舞いこむことがめんどうであったうえ、自分もおさまってみると、けして心地のわるいものではないことに気づいたからだ。
とはいえ、この美意識の行き届いた部屋にはミスマッチ。
それでも、これにおさまった小春があたたかいと何度もくりかえし至極機嫌のよさそうな表情をみせるうちは、これをあの子から奪うことはかなわない。
こたつはこの部屋を牧歌的に染めあげてしまう。
かわいらしいセーターにスカートをまとった小春は、クリスマスイブの夕方、緋咲の部屋にいそいそと訪問し、それなりに量のある荷物を整理しながらこたつにおさまった。それらは、小春の母親が小春にもたせた食事。あの日のように大量ではないけれど、ふたりがこの日をのんびりと楽しめるボリュームの食事だ。花火を鑑賞した日のように迎えにくると言ってくれた母親は、花火の時よりも遅く到着するみたいだ。
とりたてて開始の合図があるわけでもなく、それなりのボリュームの食事をちまちまと準備し終えたふたりは、なんとなく手をつけはじめた。夕暮れ、すこしだけ早い、クリスマスのディナーだ。
そして、小春がとくべつ楽しみにしていたケーキ。
緋咲が、白い箱の真横を開けて、慎重にすべりださせたケーキ。
小春のリクエストは、モンブランと迷ったあげく、無難ないちごケーキだった。
「こ、これぜんぶですか?」
「おれぁくえねーぞ」
緋咲の部屋のこたつの上。
小春は、しれっと伝えてのけた緋咲の言葉に抗議を含ませた懸念の言葉をあげたけれど、こうして見ると、こぶりでかわいらしいケーキだ。
うんとおなかをすかせてきた今日なら、ぺろっと食べられてしまうかもしれない。
今この部屋に流れている音楽が、小春は何なのかわからないけれど、どこかで聴いたことのあるクリスマスソング。きっとこんなにしずかな歌は緋咲の好みではないだろうに、緋咲は小春のためにこんな音楽をしずかに流してくれている。
クリームの端をフォークでかすめ取り、ぽってりとした口元にひとくちふくむ。
「あ、大丈夫大丈夫、緋咲さんもいけちゃう味です」
「正気か?小春・・・・・・」
「はい」
「……」
「は・い!」
念を押した小春が、フォークで軽く切り取ったケーキのかけらを、緋咲のもとにずいと差し出した。
こうなってしまうと、緋咲は彼女にさからえない。
さしだされるままにかみついてみせると、口の中で水分とともに大きくなるスポンジと、好きでもなんでもない生クリームの感触が、どうにも不可解だ。
「小春……」
「大丈夫、後口いいですよ。も少しガマンしてみてください」
切れ長の瞳が、うらめしそうに小春をねめつけた。
緋咲のその鋭い視線をあっさりと受け流した小春が促す。
そして、その言葉どおり、ケーキは意外にさっぱりとした後味をのこして、緋咲ののどへと下ってゆく。
「ね、おいしいですよね!緋咲さんの先輩の人、すごいですね」
ちいさなナイフで、小春はさくさくとケーキを断っている。
それぞれふたつずつ。緋咲が片づけられないなら、小春が食べられなくもない大きさだ。
口のなかにのこる甘さをコーヒーで中和し、そこそこの量の食事を摂ったあと、ソファにしずみこんでしまった緋咲に、小春が言葉をかける。
「……」
「……甘さで目がさめましたか?」
「わかんかよ?」
「お疲れですよね……?あんまし、寝てない?」
小春がこの部屋に訪れたときから気付いていたこと。
緋咲が昨日、何をしていたのかは、知る由もない。
小春に隠れて負って、小春に隠れて治癒してしまうケガのため病院に行っていたのか。暴走っていたのか。そして仕事。
きっと、その全部だ。
つかれやけだるさが見え隠れする緋咲は、そんなことを小春にあてこすりもせずに、きっとムリして小春のためにこの日の時間をつくってくれたのだ。
「疲れてねえぞ」
「……緋咲さん、片付け全部わたしがやります」
「いいんだよ、すわってろ」
「甘えてください!」
まだちょっとしか食べてないですよね。
ぴょこんとたちあがった小春が、とことことキッチンに駆け込み、せわしなく動き回り始めた。そのちいさな背中を見送った緋咲は、無理してとめることはなく、呆れたため息をついて、やさしい色を帯びた瞳を気だるくとじた。
小春、緋咲のつくってくれたポトフをあたためる。小春の家よりも具材はシンプルだけれど、味わい深い気がする。やっぱり、緋咲はなんでもできる。少し余れば、ビーフシチューにもしてしまえそうだ。
食欲が旺盛ではなさそうな緋咲のために、ほんのちいさな器に盛った。いくら食欲がふるわぬといえど、ある程度栄養のあるものは食べるべきと考えたからだ。
ちいさな器をわたすと、質のいいロングセーターをまとった緋咲が黙ってうけとり、ソファにすわったまま口元に運ぶ。緋咲の倍ほど盛り付けたポトフは、食べれば食べるほど体に沁み込む、深いおいしさだった。
それにしても、いつ、クリスマスのプレゼントをわたせばいいか。
春から長く緋咲のそばにいても、さらりと贈ることもかなわない。
簡単なことすら緊張で落ち着かない。
食べ終わったポトフの器をすみによせ、フォークでケーキを慎重に切り取る。もそもそとケーキを味わいながら、どう切り出すか迷っていると、ソファにしなやかな痩身をしずめ、たばこに火をつけた緋咲が、なぜだか少し場所を移動し緋咲の足元でケーキをぱくつく小春のちいさな肩を何かでたたいた。
フォークをかちゃりと置いた小春が、振り向く。
緋咲を素直にみあげる、きょとんとした大きな瞳。
やっぱり、これは、この子に似合うはずだ。
小春の澄んだすがたをそばに置くと、焦燥にかられていたのは初めの頃だ。いまや、こうして小春がのびのびとそばにいることがあたりまえとなって、この日はもうすぐ夜をむかえる。
小春の肩をたたいた、ちいさなもの。
小春のきょとんとした瞳のおくる視線が、素直な様でそこに降りた。
「コイツ」
もう、箱からとりだしてあるのだ。
小春のようにピュアなボトル。半透明のボトルには、ブルーの文字でフランス語が綴られている。
清潔なデザインのボトル。
「えっ……」
緋咲の手から自然にそれを受け取った小春が、緋咲の整った顔とうけとったものを、何度も見くらべる。
「おまえに似合うと思うぜ」
「……クリスマスの?」
「ほかに何があるんだよ……」
「あ、ありがとうございます……」
澄み渡った小春の声が、恥ずかしさと幸せで、仄かにか細く消えてゆく。
照れてしまったときに小春はこうなる。それを知っている緋咲が、やさしくて意地悪な顔で小春を見守る。
「香水ですか?」
「オードトワレ」
「香水とは違うんですか?」
「また今度教えてやるよ」
身をしずめていたソファから体を起こして、トワレをぎゅっと抱きしめているような姿の小春に緋咲がうながした。
「つけてみるか」
「香水って…もってなかったです」
噴き出し口をとじていたシールをはがした小春が、指をかけた。
そして緋咲を見上げる。どこにどう吹けばいいの?言葉にしなくてもそんな疑問がつたわってくる。
「ああ、ふきすぎんじゃねーぞ」
「どれくらいですか?」
「かせ」
ソファから降り、小春の横にどさりとすわりこんだ緋咲が、小春からトワレをうばいとった。
「ひとふきでいいんだけどよ」
てっきり、小春のほうに吹かれると思いきや、緋咲は、緋咲みずからの手首にふきつける。
小春はそれをじっと見守っている。
「こうしとけ」
手首に噴射されたそれ。
みるみるうちに、清潔なせっけんのかおりがあたりに満ちる。
緋咲のきついコロンとまざりあって、とけてゆく。
静脈になじんでゆくその液体をしなやかな指先にとった緋咲が、小春の耳元に、指をそっとさしこんだ。
「わっ!」
小春のふかふかの耳たぶ。
緋咲のゆびが、そっとふれる。
「この裏によ、つけてろ」
「ここがいいんですか?」
「ああ」
「自分じゃあんま、においがわからないです……」
充満していた香りはすぐにとけて、小春の身体に馴染んでしまったみたいだ。
緋咲によって、清潔なトワレのボトルが、コトリとこたつのうえにおかれる。
「わ、わたしはこれです…!」
この流れで贈ってしまえばいい。
お気に入りのリュックを引き寄せた小春が、そのなかから、丁重に包装されたおくりものを引き出した。
「あ、あの、ルームフレグランスなんですけど……」
おずおずとさしだしたそれを、緋咲があっさりと奪い取った。
そして、包装を器用に剥いてゆく。
小春があの日見つけたものは、男性向け有名ブランドのルームフレグランスであった。
かすかにただよったかおりにひかれて見つけたそれは、ずいぶん高価なものではあったけれど、きっと緋咲の部屋に似合うと思ったのだ。
「ああ、コイツかよ」
「えっ!!持ってましたか!!??」
「あ?もってねーよ。けどよ、買うかもしれねーなってよ」
銀色のパッケージ。
そこから引っ張り出せば、すりガラスのシンプルなボトルとスティックが出てくる。
「どこ置くかよ……」
ありがとな、小春。
ルームフレグランスがおさまっていた箱をどうしたものか。緋咲は少し思案をかさねたあと、小春の香水瓶をおさめていた箱とともに、そっと並べて部屋のかたすみにおいた。
瓶を閉じている蓋をはじくと、一気にただよってくる艶やかなにおい。
小春は、緋咲そのものだとおもったのだ。小春はだまりこくって緋咲の手つきを見守る。緋咲もそう思ってくれているか、いささか不安であったからだ。
はじいた蓋。品のいいボトルにスティックをさしこみながら、緋咲はふと気づく。
「そーいやよ」
たばこのかおりを、あっというまにうちけす強いかおり。
緋咲は、これくらい強いにおいが好みだ。
こたつの上、残っているケーキのそばに置かれているトワレを指さす。
「同じだぜ」
「同じ!?」
「ああ、ソイツ、一緒。同じとこがつくってんだよ」
「一緒だったんだ……!」
緋咲さんが、いまつけてるのは?
そばにぴとりとくっついた小春がたずねる。コイツはちがうやつだと答えた緋咲が、ルームフレグランスを置く場所を思案している。
「コイツ、玄関においとくか」
「あ、じゃあ、わたし持っていきます!」
半透明のすりガラスのボトル。
スティックをさしこまれたそれを慎重に持ち上げた小春が、部屋と廊下をへだてる扉の向こうにきえた。
コロン、ルームフレグランス、トワレにたばこにたべもの。
そして、小春自身のにおい。
あらゆる幸せなにおい。
緋咲の愛するものに満ちた部屋。
緋咲は立ち上がり、ソファにもう一度身をしずめる。
やさしく瞳をとじた緋咲が、しずかにこたえて、そっと目をとじた。
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