冬恋い

春を恐れた

あすかのくちびるには、苦みのつよいコーヒーの名残。

真嶋商会の店先で秋生とともにあじわったコーヒーは、後口が意外に深く残り、なかなか消えてゆかない。

舌でその名残をぺろりとなめとったあすかは、ダウンジャケットのポケットに手をつっこみ、山手の町を、駅まで歩いてゆく。ショートパンツからのぞく素足。少し冷えるけれど、ブーツ、そして、ニットの靴下があすかの足をふくらはぎまで包んでいるから、これくらい平気なのだ。

駅までおくるかよ。
すこし元気をなくしていた秋生がそう申し出てくれたが、笑ってことわった。これから友人がおとずれると言っていたし、一人で歩きたい気分でもあった。ダウンジャケットは、意外に暖かい。あすかの腰まわりも、入念にあたためてくれる。背中にまわっていたレザーのバッグをぐるりと左側にまわし、ふたたびダウンジャケットのポケットに手をつっこむ。

横浜の町を左から右へとおりぬけてゆく、冬の始まりの号令のような風。

すっきりと髪の毛をカットしたあすかの耳元を、くすぐるようになでてゆく。

「さむい……」

ひとりごちたあすかは、黄色の毛糸でざっくりと編まれた分厚いマフラーにちいさな顔を埋めた。これは中学時代、同じスイミングクラブの友人からもらったものだ。

少し重みのあるマフラーに顔を埋めて、歩き続ける。
この道もずいぶん慣れた。
幼いころからずっと訪れ続けてきたあの家。
小さなころは、親につれられるがままであった。こうして自分の意志を確立して、自分で決めてあの兄弟に会いに行けるほど物心が付いてから歩くこの道は、あのころとくらべてすべてがクリアに見える。ちいさなころ、真嶋家の自転車を借りて、急勾配の坂の上から三人で下りおりたこと。夏生とあすかだけアイスを買ってもらって、秋生がすねたこと。空き地で勝手に花火をやって、真嶋家の両親とあすかの両親にしこたま怒られたこと。
この冬はどんな思い出が増えるのだろうか。
そして、いつまでこんな関係でいられるのだろうか。
友達にたずねてみると、イトコと仲良く過ごしたのは小学生までだと語る子が多かった。
自分は彼女たちにくらべて、幼稚なのだろうか。

悶々と考え込んでいると、ざっくりとしたマフラーがあすかの首を温めすぎるがあまり、暑気がおとずれてくる。

それでも、マフラーをとってしまえば、凍えるような冷気に包まれてしまうであろう。

そういえば。
ふと思い出したあすかは、レザーのショルダーバッグのサイドポケットにまるめこんでいたネックウォーマーをとりだした。

マフラーをほどき、かさばるそれをショルダーバッグのなかに思い切りつめこんだ。
ファスナーを片手でしめながら、ネックウォーマーを見回してみる。

ずいぶん使い古したものだ。けば立っているし、シンプルな紺色にスポーツブランドロゴが刺繍されているだけのものだが、なんだか色あせている。
もう二日ほどここにつっこんだままだ。

スポーツ用品店で投げ売りされていたものだが、長く使えてなにより暖かい。使い続けてもう3年になるだろうか。それなりの愛着もある。確か、あの男友達と一緒に買いに行ったはずだ。あいつは先日も短水路で日本記録を更新していた。

さっぱりと短いショートカットは、ネックウォーマーを頭からかぶるにも実に便利だ。あすかの鍛えられた首筋に、それはぴったりとフィットしている。

中学一年生のころはぶかぶかだったのに。

しっかりと張った肩や首を恥じる感性はもちあわせていないつもりだ。
しかし、何かを成し遂げるために鍛えた体である。そこに結果が生まれなければ、はりぼてにすぎない。

ネックウォーマーにあたためられながら、あすかは軽くためいきをついた。
同い年のいとこにおみやげをわたす予定ももちろん本当ではあった。でも、大好きで尊敬している兄弟に、勝手に元気をもらいたい気持ちも心の片隅に在ったこともたしかだ。一方的な期待は、成就したのやらわからない。

そろそろ駅にたどりつく。

足を少しはやめようとしたあすか。

そこに、ずいぶん乱暴な運転の軽トラが急停車した。

「あっ……!」

車体には見慣れた文字。
運転席には、しぶい金髪リーゼント。

ぐるぐると取っ手をまわして、窓ガラスが降りてくる。

かるく手をあげたその人は、助手席の鍵を上にはじいて、とびらをおし開けた。

さきほど、あっさりとわかれてしまった夏生だ。

もう会えないかと思っていた人。
あすかのあっさりとした顔立ちが、安堵したように綻んだ。

「仕事、終わったのー?」
「ああ、さっきの用事は済んじまったぜ」

ドアをはじくように押せば、あすかを助手席に迎えるための道ができる。

シートベルトをしたまま体を倒した夏生が、ぼやく。

「……あすかんこと、連れこめねぇな……」
「さすがのなっちゃんでもここまでとどかないよね」
「リーチぁあすかのがめぐまれてんじゃねぇか」

ネックウォーマーに下唇までうめたあすかが、くせのない笑顔をみせた。

「のれ」
「あ、でも、駅そこ」
「横浜駅までつれていってやんからよ、のれ」
「いいの?ありがとー!」

夏生にむりやりひっぱりこまれることなんてない。
あすかは、自分の意志で夏生のそばに乗り込んだ。

ありがとう。そうつぶやきながら、あすかはぼろぼろのシートの上に、ちょこんとおさまる。

シートベルトを引っ張り出そうとしたとき。

ステアリングに手をかけていたはずの夏生。
作業服につつまれたその腕が、あすかの前をひゅっと通った。

オイルによごれた精悍な指がシートベルトをよびよせて、あすかの鍛えられた体を拘束してゆく。
あすかは、夏生に体を素直にあずけたままだ。

あすかがハスキーな声で礼をつたえようとしたとき、夏生があすかの言葉に被せる。

「湘南まで行ってやれなくてよ、わりぃな」
「いいよ!!遠すぎるよね」
「仕事たまってんからよ……」
「だったらそこでも」
「もーすぎちまったぞ。横浜駅までいくぜ」
「ありがとうー」

山手駅を通り過ぎてゆく軽トラ。
珈琲の空き缶はからっぽだ。
たばこの吸い殻はあふれだしている。
ダッシュボードに、オイルが半分ほどに減った100円ライター。
珈琲とたばこの、慣れ親しんだにおい。暖房が入っていないから、車内の冷気は、外と変わらない。

「秋生と遊んでやったんか?」
「友達からTELきたみたいでね、じゃまかなっておもって、帰ったの」

車内ににおいはのこれど、夏生は、たばこをくわえていない
年末に近づき、仕事もせわしなく、一服をとる時間もなかったのだろう。

そんなときに、手間をかけさせてしまってもかまわないのだろうか。あすかがたずねようとしたとき、夏生がまたも言葉をかぶせる。

片手でステアリングをあやつりながら、夏生がアゴだけであすかのネックウォーマーをさした。

「んだそれ、さっきしてなかっただろ」
「あ、ネックウォーマー。暖かいんだよ。マフラーは重くて……。あ、あのね、クリスマスのプレゼントなんだけどね!」
「ああ、おれぁクリスマスも仕事だよ……」
「大変だね……わたしも練習だけどさ……」
「んだ、オトコとあそばねーんか」
「部活の女子でクリスマス会するよ。あのね、年末」
「ああ、くんだろ?」
「いくよ!そのときにね、クリスマスプレゼントわたすから」

父親の運転だと酔ってしまうことがあるのに、夏生の運転はあらっぽいけれど体につたわる感触はじつにスムーズだ。あすかの体に、何一つ変化は起こらない。

「気ぃつかわなくてかまわねーんだぜ、オマエがくんのがプレゼントだよ」
「そうなの?まっ、そんだけじゃなくて、ネックウォーマーあげる!」
「ネックウォーマー?」
「……アッちゃんとナッちゃんのおそろいのやつあげようとおもってたんだけど、いらない?」
「はぁ?おそろい……?何言ってやがんだよあすか」

缶コーヒーのにおいを漂わせて、夏生はあきれ果てたためいきをつく。
このためいきの音が、あすかには懐かしい。

「工場寒いでしょ?」
「ああ、寒いな」
「ネックウォーマー買うからね、おすすめのブランドあるから」
「今おめーがつけてんやつか?」

信号待ちの渋滞の後ろについたとき。

夏生が、おもむろにあすかの首に、しなやかな指をひっかけた。

そして、そのまま、布を一気に引き上げる。

「わ!」

短い茶髪。あすかのちいさな頭から、ネックウォーマーはあっさりと取り払われてしまう。
長い車の列はまだ動き出さない。夏生は、指先にひっかけたネックウォーマーをにやにやと眺めたあと、リーゼントがくずれることをいとわず、一気に頭からかぶり下ろした。

「クリスマス、コイツでいいよ」
「それ、わたしが中1んときからつかってんやつだよ」
「モノ大事に使うんだなあすかは」
「それだけだよ。二日くらい洗濯してないよ」

レディースでもメンズでもない。使うべき性別はさだめられていないネックウォーマーだから、夏生の精悍な首にもフィットしているようだ。その精悍な首もとをいつもあらわにしている夏生。ネックウォーマー姿も、また、見慣れないが、かっこいい。

「あったかい?今暖房ついてないね」
「ああ、それによ、塩素のにおいだな」
「最近練習いけてないけど……クリスマスあたりで再開する」
「どっか痛いんかよ」
「腰……」

守るものをうしなった首に手持無沙汰に手をあてながら、あすかがぼやいた。
夏生と八景島に行った後、オーバーワークで痛めてしまった腰は、冬になると時折うずいてしまう。ショートパンツは体に毒といえ、あすかの冬のワードローブのなかにはこれしかない。

夏生が、あすかのシンプルな造りの顔がむずかしく変化するさまを確かめて、伺った。

「ひでーケガなのか」
「ううん、休めばなおるやつだよ」
「年越しはウチでゆっくりしろよ?朝の練習もやめとけ」
「コーチにもいわれてて……」
「そうしろ。んでコイツぁもらうからな」
「ええーーそれでいいの?」
「コイツ以上にいいもんなんかねーよ」

夏生渾身の甘い言葉を、目の前にそびえたつ駅を見つけたあすかは、あっさりと流した。

あ、もう駅だ……。
茫然とした寂寥感を浮かべてそうつぶやいたあすかが、シートベルトのボタンを押して、金具を引き出す。

拘束からのがれながら、あすかは、夏生に礼をつたえる。

そして、ふと思い出す。

夏も、このまえも。
こうして車から降りるとき、夏生が与えてきたもの。

今日もあすかは、夏生に抱きしめられてしまうのだろうか。

さらりと流れるあすかの前髪。
あすかが運転席の方を向く。
その下の切れ長のひとみが、やや不安な色をうかべて、夏生のことを見上げた。

「……いいよ?」
「今日ぁよ、やめとくよ」
「いいのに」
「簡単にゆるすな」
「……うん」

こくりとうなずいたあすかが、レザーのバッグをあらためて体にさげた。

「カラダ大事にしろ。無理して練習するな」
「ありがとう、うん、休まないときついから、そうするよ」

少しだけ離れがたい。

まだ助手席に背中をあずけたままのあすかが、気をとりなおして伝えた。とざされた室内にハスキーな声が響く。

「おとまり、楽しみにしてる」
「ああ、気ぃつけて来んだぜ」

ひょいと助手席から飛び降りて、あすかは慎重に扉を閉じた。

軽トラは走り出さないようだ。
車を見送ろうとするために、中途半端な間をつくってしまった。

きょとんとした表情をうかべたあすかは夏生に手をふり、背の高い体をあっさりと翻す。

涼しくなったあすかの首。
あたたかくなった夏生の首。

クリスマス。

そして。

この冬のさきには、あの日が夏生を待ち構えている。

夏生が二度と逃れることのできない日。

軽トラのエンジンはかけられたまま、夏生はたばこをひっぱりだし、安っぽいライターで火をともす。

夏生は、あの日がくることを、確かに恐れている。
そして、そのさきの春も。

塩素のにおいと、シャンプーのにおい。しばらくこいつを洗濯することはないだろう。

あすかの体温ののこるそれに、生きることしかかなわない血が脈々とながれる首をまかせながら、夏生は、冬を、生きぬくしかないのだ。

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