汚れなき白に落つ涙
自身にはそぐわぬ大型バイク用品店をあとにしながら、12月の冷気のなか、緊張からくる汗ばみは冷たい風で乾かされ、あすかは慣れぬ疲労に今頃になっておそわれはじめている。
頼りない歩みで入店し、店内を所在なくさまよっていたあすかは、あっさりと店員に捕まった。あすかより10程年齢が上に見える若い店員は、正直に事情を打ち明けると、存外親身になってくれた。それでもはじめて訪れた店への緊張はおさまらぬまま、店員の説明をひととおりきいた瞬間前触れなく即決したあすか。店員は、おとなしげな女の子のその決断に目をまるくした。結局、ものごとを決める瞬間、あすかのかたちだけの熟考なんてどこかへ消え失せてしまう。あすかのギアが入る瞬間は、自分でも予期できない。
かくして、あすかは、ひとりぼっちで、こういった店に訪れてしまった。
倫子に頼る手もあったはずだが、忙しい倫子の足をこれ以上引っ張ってしまうのも申し訳なかったのだ。そういえば、須王のことで倫子を頼らなかったのは、これがはじめてであったかもしれない。
あすかは、右手に下げた大きな荷物の重みを実感しながら、しみじみと今日までのことを思い返してみる。
いや、よくよく考えてみると、今回も、倫子のことを頼ったといえるだろうか。
あすかは、倫子にさりげなくヘルメットのサイズをたずねたのだ。
そして、倫子と同じサイズのものから選択した。
ふたごの兄弟。
体格こそ須王が大きいけれど、須王も倫子も恵まれたスタイルで、頭のかたちが整っているうえ、小さい。
須王もきっと、倫子とおなじサイズであろう。
そしてあすかは、ヘルメットとは、実にさまざまなデザインのものが存在することを知った。アメフト経験者で今も母校を応援している父親がスポーツ専門チャンネルを契約している。そのチャンネルでは時折、バイクレースも放送されていた。出場していた選手が使うようなルックスのヘルメットまで販売されていた。
さすがに、それを購入するのは大げさであることは、あすかにもわかった。
なんにせよ、須王は、何を纏っても輝く。
本人の中に、唯一無二のものがあるからだ。
地味なものは好まないだろうけれど、須王のえらぶファッションに似合うものがどれであるか、あすかには検討がつかない。
選択すべきブランドがふたつあることは知っていた。単車が嫌いと主張しつつもそれに対する知識は旺盛かつ深く、こっそりと二輪免許も取得している倫子に教わったからだ。
ふたつのブランドのうち安価なほうをえらび、あらゆるカラーのなかから、あすかは漆黒のヘルメットを選んだ。
須王があの特攻服を纏うとき、これが選ばれることはないだろう。
それでも、あれを脱いでいるときは、どうかこれを身につけていてほしい。
値段は50000円。高校に入学してから居間まで、春夏秋とはげんできたアルバイト代にあわせて、あすかが幼い頃から貯めていたお小遣いにお年玉をあわせて問題なくまかなえる金額であった。
あすかが目的も意味もなくためこんできたもの。
須王のことを想いはじめて、とどまり続けていたあすかのまわりのものは、行き場をみつけて次々動き始めた。
そして、クリスマスの贈り物として準備したこれを手渡すには、そもそも須王に会わなければならない。
自宅に気まぐれにかかってくる電話。
須王の好みそうな場所に足を運んでみること。
そして、倫子のもと。
彼女となった今でも、あすかが須王に会う手だては、これしかない。
待ってばかり、あるいは、結局、慣れ親しんだ場所から一歩も踏み出せていないのだ。
当たり前の暮らしを送り続けていても、当たり前のことしか起こらない。
あすかは、何のめどもたたぬまま、クリスマスイブを迎えた。
冬休みをむかえてすぐにおとずれたイブ。あすかは、ふと思いつく。やっぱり、須王がいるのは、あの町のあの自動車修理工場だろうか。
あすかの部屋のかたすみにひそんでいるプレゼント。あの店でこれを買えるなら、買いたかった。めぐりめぐって須王の利益になるとは思えないけれど、須王がお世話になっている人であれば、還元したかった。
そして、人間、簡単に変われない。
結局あすかには、あの店に足を運ぶ勇気は育たなかった。
明日はバイトのクリスマス会があるけれど、今日の予定はなにもない。
こんな朝をひとりでむかえて、きっと、夜も、ひとりでむかえる。
寂しいのだろうか。
自分の本音にすら鈍くなる。
自分に何かが起こることを待つのは、得意だった。
あすかには、それしかできなかった。
冬休みでも大量に与えられる宿題をこなしながら、あすかは、ふと思い出す。
冬休みに入る直前、あすかは、須王の実家へ向かった。
早めの冬休みをもらったという倫子は、おとなしく実家で過ごしていた。大晦日直前に、一度出勤して、年始は製作所自体が休みだという。
はやめのクリスマスプレゼントとして倫子に贈ったのは、すこし大人っぽい化粧品ブランドのクリスマスキットだ。
そして、倫子は、あすかに、万年筆とボールペンのセット、そして、ブックカバーをおくってくれた。
宿題をこなして、階下へ降りると、買い物へ出かける母親に留守番を頼まれた。
そして、今日はどこも行かないのか、念を押される。
多分と曖昧に答えると、いぶかしげな顔に変わったけれど、気にしない。あすかは、自分用の昼食のしたくをはじめた。
母親が心配する根拠は、あすかのなかにある。
須王と付き合いはじめて、あすかに起きた変化のひとつ。
帰りが、ほんのすこしだけ遅くなる。
といっても、須王に無理につれ回されたことなんてない。
むしろ、付き合う前の方が、須王の気まぐれに翻弄されやすかった。
須王はいつも、決まった時間にあすかを帰すようになった。
それでも、数10分の帰宅時間の差の積み重ねが、親の心配を増幅させ、つきあっている人がいることも言い出せぬまま、クリスマスイブ、あすかは結局、夜をむかえる時分となっても、自宅で母親の食事の支度の手伝いをしている。
クリスマスイブの夜、こぢんまりとした家の中で、何か特別楽しいことが怒るわけではない。
いつもよりすこし豪華な食卓。
いつもよりずいぶんやかましいテレビ。
県下一の高校で、このままゆけば来年度は準選抜クラスに食い込める成績もおさめれば、親の機嫌もなんだかんだでわるくはない。
クリスマスイブは、あすかにとって、ただのおだやかな一日にすぎない。
そして、さみしい一日にすぎない。
あすかがそうあきらめたとき。
やや防音のととのわぬ外壁をつきぬけて、あすかの自宅の居間に、不安をかきたてる音が響いた。
「えっ!!」
この家とは関係のない音だ。
そう高をくくっていた母親に反して、おもいがけぬ驚愕をみせたあすか。娘の変化にあっけにとられる親をのこして、あすかは居間をとびだした。
階段をかけのぼって、自室のすみにおいていたプレゼントをとりあげた。
おおげさな足音をたてて階段をかけおりると、親が怪訝な顔をみせる。
ルームウェアにすぎないワンピースに、厚手のカーディガン。つまらない格好だが、しかたがない。
スニーカーをひっかけて玄関を勢いよくあけた。
その音はやまない。
あすかが怖かった音。
あすかがずっと、焦がれつづけた音。
「須王くん!」
「あすか!!さみーなぁ!外」
あすかの家の玄関から庭先をひろくてらすライトをあびた須王は、やけにおとなびた顔で、やさしくわらっている。
男の子は急に大人になる。
あすかは、須王に焦がれはじめて、そんなことを思い知った。
プレゼントをかかえたあすかが、須王にかけよる。包装はしてくれたけれど、このプレゼントをつつんでいるのは半透明のナイロン袋。カシャカシャと音をたてて、あすかの腕のなかでやかましく喚く。
今頃、居間ののカーテンのすきまから、母親が見守っているに違いない。
父親ももうすぐ帰ってくるだろう。
めずらしく、白い特攻服だ。
血も土ぼこりもなにひとつなく。
今日の須王は、雪のように、真っ白だ。
イブの夜半。
外はひたすら寒いだけ。
雪の気配なんてひとつもないけれど。
「待たせっちまったなー?クリスマスイブだ」
そして、そのあたたかくざらついた手には。
己の肩をぽすっと叩いたあと、須王は、あすかの前にばさりとおろした。
ピンク色のパラフィンに包まれた、バラの花束だ。
「え、ば、バイクで……?」
「ああ、ヘーキだな……。散っちまってねーかよ……?あすかにやるよ!!」
「す、すごいね……!!ありがとう……!!」
「なんか数で意味あるらしーけどよー、カネがなくてよ!20本!!」
「ありがとう……!!」
勉強のため、中学にあがる前でやめたピアノ。
心の優しいピアノ講師が、最後の発表会のとき、花束をおくってくれた。
今よりさらに内気で、お礼をつたえることもニガテだったあすかは、まっすぐお礼を伝えられなかったことを、ずっと後悔として抱えている。
今の自分なら、きっとあの先生に、まっすぐ、ありがとうと言えると思う。
そんな、かすかな自信を育ててくれたのも、倫子と須王だった。
「けどよー、花って枯れんよなあ」
「ちゃんとお世話するから……ほんとにありがとう……あっ」
片手に荷物をさげたままのあすかの、頼りない腕のなかから、花束はこぼれそうになる。
「須王くん、わたしも、あ、あるの!!」
あすかが、花束をあわてて抱え直そうとする。
その不器用なすがたをわらいとばしてくれた須王が、単車にまたがったまま、花束をとりあげた。
「え、えっとね」
「んだよ、気つかわなくていいっつったろー?」
「え、言われたっけ?」
「ああ、ナッちゃんにゆったんだったわ」
「ナッちゃん?あ、あのね、そのお店にもね、行こうと思ったの……」
「マジかよ!!あすこよー、スクラップ積んでてこえーかもしんねーけどよ、おまえんこと取って食うやつなんかいねーからよ!」
あすかがもたもたと包装をほどく。
こんなことなら、あらかじめハコも包装も、とっておけばよかった。
そして、ハコのなかから登場したもの。
ごそごそと不器用な調子ででてきたそれを見た須王は、整っためもとをまんまるにさせた。
「……須王くんには、余計なものかもしれないけど……」
ほどいた包装を足元においたあすかが、おそるおそるヘルメットをさしだす。
花束をあすかにかえしながら、須王は、めずらしく茫然とした調子でつやつやのヘルメットを受け取った。
「げっ、あすこのじゃん!高かっただろ」
アイドリング音は町中に響き続けている。
近所に何か言われても、もう気にしない。
こんなのいらねえよ
こんなの、おれにぁ必要ねーよ!
そう拒まれてもしかたのない、あすかの気持ちの押しつけにすぎないけれど。
乱れてしまった前髪、そしてずれかけたメガネをととのえて、花束を抱え直しながら、あすかはおそるおそる須王のようすを伺う。
「ありがとなー、あすか」
須王は、それをかかえて、笑ってくれている。
嘘がないけれど、すごくおとなびた笑顔だ。
「須王くん」
せっぱつまった調子で名前を呼ぶ。
薔薇を、ぎゅっと抱えて。
「それ、使ってね」
「そーだな、オマエと一緒んときにつかうかよ?」
気付けば、あすかは、唐突な疑問をこぼしていた。
「須王くん、どこも、行かないよね」
足元はルームソックスだけ。
それを気遣う須王の目線、慈しみもふりはらって、あすかはすがるようにつぶやいてしまったのだ。
そして、須王は、あすかにとって聞きなれたフレーズをつぶやく。
「……遠い国?」
「行かないで」
メットを器用に抱えた須王が、思案するように、アーモンド型の瞳を2,3度瞬かせた。
「あすかー」
「……」
「花、家にしまってこいよ!んでよ、親にテキトーにいいわけこいたあと、また戻ってきてくれっか」
「う、うん!!」
玄関で待ってくれていた母親に、バラの花束をたたきつけるようにわたす。
「それ、わたしが活けるから、すずしいところにしまっといて!」
大輪のバラに目を白黒させた母親が、とにかくあれは誰なのか。懸念の声をあげた。
少し考えをめぐらせたあすかが説明したのは、彼は倫子の双子の兄だと伝えた。とたんに、警戒をほどきはじめた母親に、倫子への信頼は如何ほどなのか、愉快な気持ちも味わった。
「でね、私の彼氏だよ。あのね、私、少しだけ出てくる。ごはんは家で食べるから」
そう伝えると母親は呆れるだろうか、怒るだろうか、それとも本気にしないのだろうか、見当がつかなかった母親の反応をあすかが伺っていると、倫子ちゃんなら大丈夫ねと、意味がわかっているのかいないのか、そんな言葉であすかのことを見送ってくれた。
そういう問題でもないのだが、とにかく親の許可はとった。着替える間もないまま、玄関をとびだして、まだどこにも行かない須王のもとへあすかは戻った。
「焦んなよ、おれぁまだここにいるぜ」
「うん。寒いのにごめんね」
「親、怒ってた?」
「倫子の双子のお兄さんっていうと……、倫子ちゃんなら大丈夫!!とか言ってた……」
「まーーたリンコかよ!!おれぁリンコに勝てんのか……?
ぼやいてみせた須王のことをあすかがやわらかく笑う。
すると、須王のざらついた手が、あすかの目元にのびた。
おもわず体をすくませると、須王が、あすかのメガネに手をかける。
あすかの小さな顔から、ゆるやかにぬきとられるメガネ。
あすかの視界がいっきに不安定になった瞬間、
須王が、あすかのちいさな頭にメットをおしこむ。
かぶりかたなんてわからない。
開いたシールドから、須王がメガネを器用にさしこみ、わるびれないさまでわらってみせる。
「おー、あすかにもぴったりだな」
「こ、これじゃ意味ないよ!!!!」
「ん?でけーかよ、ここで調節したらいーんだぜ」
「いみないよー……」
「でーじょぶだよ、おまえがオレのリアにのってんうちはよ」
あすかの幼い頭に、無事ヘルメットを装着させた須王が、しずかに宣言した。
「オレぁ、まだ、ここにいるよ」
リップ一つもさしていないくちびるをかみしめたあすかが、訴える。
「ばら、ちゃんとお世話するね」
「水やるだけじゃだめなんかよ?」
「むずかしいんだよ、お手入れ」
須王が、アクセルをふかす。
この音なら怖くない。
この音があすかのもとからきえないかぎり怖いことなんてない。
「……ごはんは、家で食べなきゃいけない、かも……」
「オレもよ、今日ぁよー、ちゃんと実家でメシくったんだぜ?」
「実家で!!須王くん、えらい……!!」
「倫子に蹴られっちまってよー」
「そっか、じゃあ、ごはんおわってたんだ」
「あすか、ハラ減ってる?」
「ううん、そんなにすいてない。まだ大丈夫」
「そんじゃよ、今日中には帰すからよ」
メット越しに頭をこつこつと叩かれる。
あすかをまもってくれる分厚い素材ごしに、音は意外に響き、ぬけてゆく。
「乗れよ」
「……」
須王が、あごでさす。
「のれよ」
「……のったことない」
「ああ、そーか、あすかぁ乗せてなかったよな……」
そこ、足乗せてよ。
須王の指示どおり、あすかは、車高のひくい単車にちょこんとまたがった。
やっぱり、帰る。
家でごはん食べなきゃ。
須王くんも、お腹いっぱいかもしれないけど、よかったら。
そんなことを伝える手だてもあったはずだ。
でも。
あすかは、一つの予感にかられている。
「マジで大事なヤツはよ」
もう遅いのかもしれない。
「オレぁ、そばに置くんがよ」
「須王くん」
「こわいんかもしんねー」
そんな直感を振り払うがごとく、ちょうどいいけれどずいぶん重たいメットに頭を守られたあすか須王の精悍な腰に、ぎゅっとしがみつく。かすかににじんだ涙が、あすかのメガネにひとしずくこぼれる。
メガネでヘルメット、なんてみっともなくて不便なのだろう。
あすかはますます須王にしがみついてみせる。
車高の低い単車は、安心感がある。
「遠い国まで、はしるかよ」
さむいか?
須王がささやいてくれる。
重いメットのままぶんぶんと首をふったあすかは、須王の腰に、ますますしがみついた。
須王のしなやかな体は、いつだってほかほかとあたたかい。こんな冷気にもこんな季節にも、須王は何も奪われない。誰にもこの人を奪われてほしくない。このスピードにも、だれにも、どこにも。
無力な腕で須王をとらえたまま、あすかは、須王がうみだす風のひとつとなる。
← →