6.縁日の景品
龍也の部屋のポストに乱雑につめこまれていた情報紙だの、町内会の催しのしらせだの、美容室の宣伝チラシだの、そしてピンクチラシだの。紙ゴミの山を目の前にした龍也は、至極じゃまくさそうに、苛立ったためいきをついた。
ピンクチラシは、葵の目につかないように、さりげなくごみばこにつっこんだ。
ばさりとテーブルの上におかれた紙の山。
龍也が面倒くさそうに放り捨てたそれを、龍也の部屋にくっついてきた葵が、いそいそとのぞきこんだ。
紙を一枚一枚分別して。
裏紙に使えそうなものは、半分に切り、ホチキスでとめてみる。
両面チラシは、紙ゴミ置き場の段ボールに積み上げてゆく。
そして、葵は、最後に一つだけ残ったタウン紙をひととおり眺めてみた。
タウン紙の一面には、祭りの記事が載っている。
「・・・・・・」
「お祭り・・・・・・?」
「夜店かよ・・・・・・あーいうとこはよ、ろくでもねーヤツら来んだぞ」
龍也が、冷静な声で即答した。龍也の家の比較的近隣で行われる祭りの記事をふむふむと読みふけりながら、葵は納得したようにこたえる。
「そうですよね、兄もしょっちゅう・・・・・・」
「別のとこつれてってやんからよ、」
「ありがとうございます!」
葵がそう元気な返事をしたのは、長谷寺の縁日にゆきたいと願う直前のことだった。
結局龍也が葵の浴衣姿を見ることがかなったのは、今のところ、一度だけ。あの、龍也が大遅刻をかました鎌倉花火大会のみ。
葵に会ってやる時間を長くとれることもありながら、しばらく会ってやれないこともある。長い休みになろうが、いたっていつもどおりだ。
暴走ったあと。バイトのあと。龍也の自宅の電話に、不在時に電話が鳴ったことをつげるランプがともっている。バイト先や族の者、実家からでなければ、葵だろう。あの子はあの子で忙しいだろうに。ある時、ちょうどその電話をとれたとき、電話口から、安堵したような愛らしい声が聞こえた。
そんな、たわいもない夏は瞬く間に過ぎ去って。
結局、長谷寺の四万六千日は、行くことはかなわなかった。
龍也は、恋人の葵より、族を優先したのだ。
ざわつく夜の音。葵の家に、公衆電話からかかってきたしらせ。
いけなくなっちまってよ。
龍也の声は、落ち着き払っていた。
そして、葵じゃない、何かを見ているような、うわずった声だった。
葵は、いい子のふりをして、龍也の断りをこころよくうけいれた。わがままをねだるように取り付けた約束だった。こうなることだって当たり前だったのだ。そう、理屈で頭を納得させようとした。
わかりました!でも、先輩、気をつけてくださいね?
葵のそんな清廉な声をきいた龍也が、断りをおとなしくうけいれた葵のことをほめてくれることなんて、勿論あるわけがない。
ああ、と短くこたえたあと、また電話すっからよ。短い言葉だけのこして、電話はがちゃんときれた。
のこったのは、花火大会の日、ひとりぼっちで待っていたあのときに似た、出口の見えないさみしさと、拗ねた心持ちだけ。そもそも自分が無理をいったのだからなんていう分別は、あっさりどこかに消え去った。
せめてもの抵抗で、葵も、電話をガチャンときってみた。
そんな切り方をするならば、その場ではっきりと龍也に、楽しみにしてたのに!だとか、約束だったのに!だとか、ひどい!だとか、いいたいことを正直に伝えてしまえばよかったのに。
こうして、いいたいことをためこんでしまっても、龍也にはなにもつたわらないのに。
いい子ぶった分、葵の鬱屈はおさまらない。
そして、なによりも。
また龍也が、族車にのって、暴走って、誰かと戦いはじめてしまった。
意味の違った不安がふたつ。葵のなかをいっぱいにうめてしまう。
食べかけていた夕ご飯なんて、もうどうでもいい。葵は、姉の声も妹の声も無視をして、自室に戻り、ベッドにわざとらしくばたんとたおれこむ。
枕に顔をうめて、鼻を2、3度すすれば、涙がどろりとあふれてきた。
すねたような、いじけたような、理由のわからない得体のしれぬ涙は、3分もすればとまってしまった。
すると、急に疲労がおそいかかってきて。
電気をつけたまま、歯磨きも食器の後かたづけも洗濯物をたたむことも怠けたまま。
葵は、泥のようにねむりにおちた。
泣きながら眠る夜は、とみに精神に悪影響を与える。詳細は覚えていないけれど、確かに見た悪夢。肌もこころなしかざらついている感触がある。
あせくさい部屋着のまま、だらだらとめざめた葵は、身支度をするまえに、クローゼットのひきだしをあけた。
そして、クローゼットの一番上のひきだしにしまいこんである浴衣をとりだして、いまは衣装部屋となっている兄の部屋に、押し込んでしまった。もうこの夏、浴衣なんて、着てやらない。そんなあてつけに似た気持ちを抱えて、葵は浴衣としばしの別れを告げた。
龍也から電話がくることもなく。
葵からかけることもなく。
心配だという思いを押しつけることも、いいかげん迷惑だろうかという気持ち。
いきなりかけても迷惑だろうという気持ち。
あてつけのような気持ち。
そのどれも、あまりのみっともなさでつぶれそうになる。
宿題も終えてしまって、習い事も、先生の本業が忙しいから中座していて。友達のスポーツクラブの試合を観戦したり、妹の学校のボランティアに混ぜてもらったり。そんなささやかな夏をすごしながら、葵は、残り少ない夏休み、夏の疲れがたまった体のケアを行いつつ、龍也のいない日々を、いつしか当たり前のようにすごしていた。
さみしいのか、さみしくないのか。
平気なのか、不安なのか。
自分に向き合うことがこわくて、できることだけこなしながら、刻一刻とすぎてゆく夏の日を、葵はそんな日々がどこか無為であることも、ちゃんとわかっていた。
自分の本心を自分で問いかけ続けることをなまけていたある日。
夏の疲労で、体のなかに逃がしようのない熱をためきった葵が、冷房をきかせた自室の清潔なベッドのうえでうとうとと昼寝をしていたとき。
その曖昧な眠気で、葵の自宅の庭に、ききなれた音をたてて族車がとまったことにも気づかなかった。
葵の自宅のチャイムがなった。
母親は仕事で外国にいる。上の姉はどこにいっているのかもわからなくて、双子の妹は、彼氏の家ですごしていて。結局、葵がでなければならない。けだるく起きあがった葵が、のろのろと玄関にむかう。
チャイムをおした人間が誰かたしかめることもなく、葵は、木製のドアをけだるく開けた。
「あ?体調わりーんかよ?」
葵が、軽く息をのむ。
そこに立っていたのは。
きつい日差しがその落ち着いた眼を刺したのだろうか、まぶしそうに、引き締まった目元をほそめて。
眉間に、しわをよせながら。
頬に、くっきりと走る傷跡。
汗のかおりをただよわせて。
葵が、一番会いたかった人がそこにいる。
葵は、やにわに夢かと思う。反射的に、乱れた髪の毛をととのえた。
「龍也先輩!?」
「カゼか?熱ぁねーナ・・・・・・」
前髪ごしに、葵の白い額に龍也が無骨な手をあてる。いきなりのことでふらつきそうになったけれど、龍也が葵の腰をしっかりと支える。
「あ、り、龍也せんぱい、わたし・・・・・・」
「顔色わりーぞ?」
適当なTシャツに、ゆったりとした、サブリナ丈のカーゴパンツ。
だらだらと寝ていたせいで髪の毛もみだれていて、顔色も悪く、肌の調子もわるくて、表情もさえないはずだ。
「龍也先輩、あ、あの、どうされたんですか」
「ああ……」
「あ、あの、暑いでしょ、入ってください」
龍也をひとまずまねきいれる。リビングは、熱気がこもっていてへたすれば外より暑いであろう。
「わたしのお部屋」
「葵のアニキ、けーってくんのか?」
「なんだっけ、フィールドワークとかがあるみたいで、今年は冬に帰ってくるだけだって」
いつもより低い温度できかせた葵の部屋。
きつめにきかされた冷房が心地よく、もとめていた冷たさの風をあびた龍也は、葵のベッドではなく葵の勉強イスにこしかけた。グランドピアノがある部屋は少し手狭ではあるが、葵は、そのそばにつったったまま。
「座れ」
「あ、えっと、つめたいもの、なにか」
「いらねえ、具合わりーんだろ、すわってろ」
葵の、すこしやせた腕をつかんで、ベッドに突き倒すように座らせた。素直にベッドにすわった葵は、ひさしぶりに会えた大好きな人のすがたをじっとみつめる。当の龍也は、葵の机のうえのかわいらしい文房具や、カードスタンドをめずらしそうにいじっている。
葵は、その様をながめながら、何かをきりだそうとしても、言葉がでない。やっとの思いで出た言葉は、ずいぶん拙い。
「具合はわるくないです……」
「顔色わりーぞ。葵がそーゆーツラしてっときぁよ、疲れてんときだ」
熱もないし、めだった症状なんてものはもちろんないのだけれど。葵のからだから、不安と倦怠感がとれない。意欲というものもわかない。
「龍也先輩、暑いのに、わざわざ」
「んなこたどーでもいーんだよ」
びくりと葵のからだがふるえる。葵が龍也を想うことばは、実体をともなっていないのだろうか。
「長谷寺の縁日だけどよ……、約束やぶっちまってわるかったな」
「そ、そんな、わたしが、強引に……」
葵が、定型の言葉でありきたりな謙遜をみせる。
すると、龍也のまなざしに、厳しい影があらわれた。
いつもツヤツヤの肌で龍也に寄り添うこの子の頬や額は、どこか荒れていて、漆黒の髪の毛も持ち前のヘルシーさに欠けている。いったい何をためていたのか。それを正直に吐かせるために。いつも葵を甘やかし続ける龍也の瞳は、今日は誠実な厳しさを帯びてやまない。
一度うつむいてしまった葵が、黒髪を耳にかけて。
おそるおそる龍也をみあげたあと、ちいさな声で、口にした。
「でも」
龍也が、眼だけで続きを促した。
「さみしかったですし、悲しかったです」
「それがフツーだぞ」
「……龍也先輩、けんかしたの?」
「……」
「けんかしたんだ」
「……」
「けが、ないですか?」
見たかんじだと、いたいとこなさそーです。
葵のすべてのベクトルが、龍也のケガだのなんだのに集中してしまうまえに。
今日は、己がこの子に労わられるためにわざわざ訪れたのではない。
龍也は、目的を語りはじめる。
「埋め合わせすっからよ」
「埋め合わせ……?」
「出かけっかよ」
ポケットにつっこんだキーを鳴らして、龍也が、葵の勉強イスから立ち上がった。
「え!今から?」
「ああ、外、出んぞ。こんなあちーのによ、部屋こもってっとよ、ろくなことになんねーぞ」
「そーかもしれない……」
まともに外出したのは、一昨日のことだ。惰性でピアノの練習をして、だらだらと眠り続ける毎日。そんな日々に、やっと区切りがつけられる。
そのとき、葵が、何かを思い出したように高い声をあげた。
「あ!!!」
「どーした」
「七里ヶ浜、夏祭り、やってます!」
「……祭りかよ」
コイツ意外に食いたりねーんか?
少し乱れた葵の髪の毛を丁寧に撫でてやりながら、瞳をいきなり輝かせはじめた葵のことを、龍也が見守る。
「七里ヶ浜のお祭り、治安いいんです。もうやってると思う、行きましょう」
「……しょーがねーな、単車とめるとこあっ」
「江ノ電で!!!」
「……」
「江ノ電でいきましょう、歩くと遠いですよ」
「あのな、葵、オレがよ、ここくるときによ、江ノ電と併走したけどよ、頭おかしーくれー客が詰まってたぜ?」
あいつらなにがたのしーんだ?
「それも、湘南の夏の風物詩ですよ!」
龍也に頭を撫でられながら、ようやく元気をとりもどした葵は、すっかり祭り気分にのまれている。そのくるくるとかわる愛らしさにあきれながら、龍也は、気にかかっていたことをたずねた。
「……葵」
「はい?」
「……浴衣ぁ、着んのか」
結局、花火のあの日、あまり堪能できなかった葵の浴衣すがた。
そもそも龍也は浴衣姿のオンナを脱がしたことがない。しばらくの間、今腕のなかにいる好きな女に会えなかったものだから、その時間相応のものはしっかりとためこんである。
龍也の都合のいい逡巡はよそに。
葵は、しまったといわんばかりの表情で打ち明けた。
「浴衣、しまっちゃった……」
「長谷寺んときよ、きよーと思ってたんだろ?オレが約束やぶっちまったからだな」
「ううん、しまう必要なんてなかった。わたしがすねてたんです」
たぶん、おねーちゃんが、どっかしまいこんじゃった・・・・・・。
二人のあいだに、しばらく、お互いが逡巡をくりかえすような沈黙が流れたあと。
葵が、元気に切り出した。
「ふく、着替えます!」
「ああ、そーしろ。どれにすんだ」
葵がいそいそと衣装を変える姿を見てやろうとからかいまじりで居座る龍也の広い背中を、葵がぐいぐいと押す。
こうして、このあたたかい背中にふれることも、ずいぶんひさしぶりだ。
このまますがりついてしまいたくなるけれど。
葵は、ひとまず、このだらしない服装を着替えるために。
「あれ着やがれ、豹のヤツ」
「あ、あれはお姉ちゃんのです!あ、でも、廊下でたら暑いですね?」
「さっさとしろ」
みずから部屋から退出した龍也がばたんと扉をしめた。
クローゼットをひっくりかえす。
汗をかいたままの、だらしない部屋着をぬぎすてて、バッグをえらんで。
龍也をまたせるわけにはゆかないから、結局いつも通りのおとなしい装いになりそうだ。
いつもよりざらついた肌に、日焼け止めをぬりこんだあと、姉のおさがりのパウダーをはたく。チークやグロスも、ほんのすこしだけのせてみる。
おそるおそるドアをおすと、龍也が、その精悍な顔の、かたちのととのった口元、その口角を優しくあげて、年齢相応の、少年らしい笑みをうかべた。
葵は、ふわりと翻るスカートと、キャミソール、そして半袖のカーディガンをまとっている。少し汗をかいた、Tシャツ姿の龍也に、ぴったりと寄り添って。そうしていると、龍也が、そっと手をつないでくれた。
七里ヶ浜の夏祭り。
龍也が、しばらくぶりに触れられた恋人を抱きながらすさまじい殺気をはなっていたものだから、混雑した江ノ電のなかで龍也の傍だけ不自然な空間ができあがっていた。
「ここは、地元の人がいっぱいだから、大丈夫だとおもいます」
毎年きてるけど、とっても安全なお祭りです!
気が付けば夕方も16時30分。この町にそびえるヤシの木のあいだには、青や黄色、赤の提灯がつるされていて、はやくもぼんやりした光をはなっている。街灯にも照らされ、この町はてかてかと明るい。そして、こんがり焼けた肌をおしみなくさらしたハワイアンワンピースを纏う女性たちがゆきかっている。
葵が知らない女子と手をふりあっていた。聞けば、小学校の同級生だといった。
「知り合いいんのかよ」
「それなりにいます。ガッコの先生も、ひとりすんでるとおもう」
こどもののど自慢大会が行われている。龍也が片手で耳をふさぐので、葵がぴしゃりと叱った。西友前のステージでは、こどもがフラダンスか何かを踊り狂っていて、親や祖父母らしく大人が、写真撮影のために場所をとりあっている。
ふわふわと漂うカレーのにおいは、七里ガ浜の有名カレー店から流れてくるものだ。祭りと関係なくできる行列。カレーにしては高価すぎる価格。湘南民の葵は幾度か訪れたことはあるものの、龍也は以前葵とのデートがてら昼食としてここを利用したあと、一度食っちまえばもう充分だと項垂れていた。
カリブ料理の屋台で、龍也がフローズンカクテルを購入する。うらやましそうに見上げた葵から、腕をたかだかとかかげた龍也がそれを思い切り引き離した。
「おいしそう……」
「酒だ酒」
「ひとくち……」
「葵、オレが葵んちに泊まったときんこと、忘れたわけじゃねーよなァ……?」
「……わ、わすれた……」
龍也の腕をぎゅっとつかみ、そこに顔をうめてしまった葵のちいさな頭をぽふぽふと叩くと、葵がちらりと龍也を見上げた。かわりにかき氷を買い与えてやると、葵は実にふにおちない顔をした。龍也が氷のかたまりをスプーンですくいあげ、その愛らしいくちにいちご味の氷をつっこんでやると、葵はあっさりと機嫌を直した。
さきほどまで青白かった空が薄紫にかわるころ、タヒチアンダンスを鑑賞できる舞台のすぐそばに設置されている簡易ベンチをふたりして占めることがかなった。
確かに、ずいぶん安全な祭りだ。育ちのよさそうなこどもとまともな大人しか見当たらない。この平和な祭りにすんなりなじんでいる葵を、龍也はしばしの間ひとりでまたせた。
ひとりでちょこんと待ち続けている葵は、本格的なタヒチアンダンスのステージを心の底から楽しんでいた。葵の前に、調達した食料をどさどさと置く。二人して、食べ物の好みは似通っている。からあげだの焼き鳥だのお好みやきだの、地元の飲食店が出す屋台で見つけたソーセージだの。あのカレー店の屋台は、大変な行列であったから、葵のために買ってやろうと思ったもののやむなくあきらめた。
「ありがとうございます!こんなにいっぱい……!」
「コーラでいーんかよ」
「先輩は?び、びーる・・・・・・?」
「うるっせーよ、おい、つくねよこせ」
「や、焼き鳥とビールって・・・・・・」
オジサン、と述べようとして、葵はそれを口にすることを、やめておいた。
さめてしまうとおいしくないお好みやきを引き寄せて、葵は割り箸をぱちんと割ったあと、いただきますとつぶやく。
コーラをあおって、お好み焼き。葵は至極こどもっぽいメニューに舌鼓をうちながら、焼き鳥を櫛からがぶりとかじりとる龍也に、そわそわとたずねてみる。
「ビールと、合うんですか?」
「・・・・・・ちびにはわかんねーだろーよ」
「・・・・・・龍也先輩に、久しぶりにちびってゆわれました」
懐かしいです。
「中2くらいのころ、よくいわれてた」
お好み焼きを半分食べつくして、からあげをはふはふと口にして。葵は一生懸命咀嚼したあと、コーラでそれらをでながしこんだ。
「ちびじゃないですよ、わたし、普通です」
有名なカレー店の出店のにおいが、食欲をそそる。
龍也は、紙コップにそそがれたビールをがぶがぶとあおった。
「龍也先輩は、身長、最初から高かったですよねえ?」
中学生のときに180こえてたんですよね?
「くだらねーこと言ってねーでよ、これも食え」
龍也がにがてで、葵が好きな皮を、葵のからあげの上に乗せた。
「先輩、これ、美味しいですよ」
ありがとうございます!
ぱくりとかみついた葵が、もぐもぐとかみ砕きながら皮の感想をのべる。タヒチアンダンスの激しい腰さばきをちらちらと見やるのも飽きてしまった龍也が、葵のくちもとに付着したソースを親指でぬぐいとった。
夕食替わりのお祭りメシを二人してたいらげて、すっかり暮れた七里ガ浜の町の雑踏のなかを、龍也と葵は手をつないで歩く。西友に近づくと、七里ヶ浜高校の吹奏楽部が、アップする音がきこえてくる。ステージに近づくと、幼稚園の頃からの葵の旧知の友達が手をふってきた。友達が非常にふるくさいジェスチャーで彼氏なのかとたずねてくるので、おろおろと龍也をみあげると、葵の細い肩をを抱いた龍也が葵をそこから連れ去った。
カレーにつけて食べ歩きできるバゲットをかじり、人ごみをかきわけながら、葵は、龍也に感慨深くつぶやいた。
「あっというまですねー」
「三日もやってんのかよ」
「昔はちーさいお祭りだったんですけど、今はこんなにすごい」
「ま、いんじゃねーのか」
「龍也先輩、楽しかった?よかった!」
「葵がいりゃーよー、どーでもいーモンもどーでもよくなくなんだよ」
南の端から北の端まで何度も行ったり来たり。
葵はこうして目的もなく歩くことが大好きなのだけれど、龍也は如何なものだろうか。
龍也の全部がわかるだなんて、だいそれたことは言えないけれど。
それでも、龍也が言ってくれたことを信じたい。
「あんなんが多いな」
龍也が指さすのは、ハワイアン雑貨の出店。すっかり暗くなってしまったからか、お客は寄り付いていない。
「そうですね、土地柄!」
「好きか?あーゆーの」
「すきです!詳しくはないんだけど……」
それでも、まだ日の高い夕焼けどきに、あらかた売れてしまったのだろう。出店のディスプレイから、商品はずいぶん消えている。
龍也の手をひきながら、葵がとことこと近寄った。龍也の足取りは途端にもたもたとしたものに変わるものの、葵の行きたいところに優しく付き合ってくれる。
「かわいいですね!」
おとなしそうな少女と、年齢不詳の背の高いスカーフェイスの男。不可思議なとりあわせに、ハワイアンなマキシ丈ドレスを纏った女性も、一瞬だけ戸惑ったものの、この日最後のお客になるであろう二人にプロの笑顔をみせた。
高価そうなジュエリー、貝殻のピアス、ストーンのブレスレットにひとでのかざりがくっついたもの。
売れ残っていたハンドメイドのアクセサリーのなかに、葵は、貝殻と人魚のモチーフがかわいらしいブレスレットをみつけた。わぁと歓声をあげて、大きな瞳はそれにすいよせられる。手にとってもらってもかまわないですよと声をかけられて、葵がおそるおそるそれをとりあげた瞬間。
龍也が、無骨な指先で奪いあげて、お札を押し付けた。
「え!」
「ここはあるけどよ、ここはねーだろ」
葵の首元にひかる、キャラクターのネックレスを指さす龍也は、葵の手首をそっともちあげた。どう考えたってただの10代のカップルであることに気づいた店員が、出店の下から、ガラスと貝殻でできた指輪をとりだした。
いわく、景品だと。それがずいぶん好みのデザインであったようで、葵は、パッと笑ったあと、かわいらしい声でまたも歓声をあげた。
セロファンの包み紙に、繊細なブレスレットと、玩具細工のようなかわいらしい指輪をすべりこませようとした店員から、龍也はそれを無言でうばいとる。
葵の手をぐいと引っ張って、龍也は出店から離れた。
きょとんとした表情のまま見送る店員にぺこぺこと頭をさげつづける葵は、龍也にずるずるとひっぱられるように歩く。
「せ、せんぱい」
ぴたりと立ち止まった龍也が、葵の右腕をつかんだ。
存外器用な手つきで、人魚のブレスレットを葵の細い手首につけてやる。
「ありがとうございます……、きょう、買ってもらってばかりで」
ひとことも口をきかない龍也のそれは、照れからくるものであることを葵は分かっているけれど。
右腕をほうりだされた葵は、今度は左手をうばわれて。
龍也が、じつにいまいましくためいきをついてみせる。
おそるおそる機嫌をうかがう葵のことも放置して。
なぜ、この子に初めて与える指輪が、祭りの景品になってしまったのか。
こんなはずではなかったのだけれど。
しかし、これを見た葵は、確かに幸せそうであった。
龍也が、葵の左手をとる。
ほっそりとした指。ピアノを弾く、いさましい指。龍也ことをおずおずと求める、いとしい指。
ずいぶん乱暴に指輪をはめこんだあと、龍也は、その長い脚で、ごったがえす人のなかをぬけてゆく。
「ま、まって!せ、せんぱい」
とてもかわいい指輪。
生まれて初めて、大好きな人からもらった指輪。
生まれて初めて、大好きな人にはめてもらった指輪。
そんな儀式は、夏の終わりの人ごみのなかで、あっさりと終わった。
「待って!」
照れが最高潮に達した龍也は、こうして、対話を拒むのだ、
いつもなら、そんな龍也の繊細なこころが落ち着くまで、ぴとりと背中にくっついて待ち続ける葵だけれど。
「押しつけて帰らないで」
今日は、大きな声で、龍也のことを追いかける。
この町の祭りは、平和だ。
スカーフェイスの大男と、さわやかなかおりを漂わせてその広い背中を追いかける、黒髪の小さな女の子。そんな二人を、人ごみは、大人っぽく知らんぷりをしてあげる。
「いつも、龍也先輩ばかりで」
龍也のあせばんだ背中にぶつかる。
そして、おもいきりTシャツをつかんだ。
その、大好きな背中に、葵は顔を埋めて。
泣き出しそうな声で、訴える。
「わたしの気持ちもわかってください」
立ち止まった龍也が、背中にすがりついてなにごとか訴えようとしている葵の頭をくしゃりと撫でた。
「わたしが、先輩を、大事にしてる気持ちを、わかって・・・・・・・」
ほっそりとした手首に光る、人魚のモチーフ。
左の薬指にぶかっこうにおさまっている、貝殻の指輪。
「龍也先輩、ありがとうございます……」
ありがとう……すごくかわいい……ずっとつける……。
汗臭いだろうに、Tシャツにぐりぐりと小さな頭を押し付ける葵。
そんな葵を呆れたように流し見た龍也が、葵の名前を呼ぶ。
「葵」
はたと顔をあげた葵が、Tシャツをつかむ指をゆるめたスキに。
葵に正面から向き直った龍也は、葵の頬をたしかめた。べたついた夜。あせばんだ肌。パウダーもはがれてしまって、すこしかざったあとに、ぜんぶはがれおちてしまった正直な顔は、龍也にとって、どうしようもなく愛おしい。
「泣いてねーな」
「そんな、いつも、泣きません!ゆったじゃないですか、わたし、人前で泣くことはほとんどないの」
一生懸命うったえる葵のことを、龍也は、穏やかな瞳でみつめつづける。
龍也の大人びた余裕に包み込まれてしまうことが不満なのか、葵は鈴のような声で、一生懸命に訴えをつづけた。
「龍也先輩のまえだけです!だけど、いつも泣いたりしないんです!」
いつのまにか、二人が建っているのは、七里ガ浜プロムナードの喧騒をぬけて、鎌倉プリンスホテルと七里ガ浜高校に挟まれた坂のどまんなか。交通規制を受けているので、この夜、この坂は、車も単車ものぼってこない。
龍也と葵だけの坂。
江ノ電が通り過ぎる。
葵の薬指に、早めの夜の暗がりのなかで、貝殻のモチーフがあまりに上品にひかっている。
「葵」
「は、はい」
「大好きだ」
さきに言われてしまった。
そんな虚脱を、可愛い顔に露骨にうかべた葵のこどもじみた様に、龍也も同じく、少年らしい笑みをうかべながら。
葵の汗ばんだ頬に、龍也の汗ばんだ手をそえて。
ひさしぶりのキスは、ソースとタレと、ビールくさくて。
あせだくのTシャツと、同じく汗ばんだ半袖のカーディガンを、お互いがぎゅっと抱きしめあって。
龍也と葵の宝石のような夏は、こうして幕を閉じる。
prev next
TOP