夏的恋愛二十題
5.今日から別々に寝よう

7月の終わり。
もうすぐ夜8時。
窓を閉め切った蒸し暑い部屋に、ぼろぼろの扇風機の、間抜けな機械音がひびく。
部屋にあるおんぼろテレビをつけていたはずが、なぜだか突然消えてしまった。

この部屋は、キヨシの亡くなった叔父が買い上げ、すみついていた部屋だ。
六畳の部屋の、かびくさい畳。
ひんやりした洋式トイレに、風呂はシャワーブースのみ。湯船につかりたければ、徒歩一分の銭湯へ行くことが多い。

月々の家賃こそかからぬし、その他にかかる金も微々たるものではある、実に便利な部屋。キヨシは、この部屋を申し分ないほど気に入っているけれど。

果たして、今目の前にちょこんとすわっている女にとっては、いかがなものか。

もっとも、彼女は、不満ひとつ口にしないのだ。
いつだってニコニコ笑って、キヨシのそばにいる。

だからこそ気にかかる。

そうであるから、提案したのだ。

今日から、別々に寝ようと。



「別っておっしゃいますけど、いつも、別じゃないですか!」
お布団、二枚!

二組敷かれた、うすっぺらい布団。
その間には、10センチほどの距離がある。
こうして敷いてしまうと、この狭い部屋は布団で占められてしまう。

おとなしいワンピース姿で、うすっぺらい布団のうえにぺたりと正座をして、まっすぐな瞳を湛えたあすかが、そう提案したキヨシに抗議の言葉をおくる。


実家の畑でとれたデカすぎるきゅうりだの、異様にふてぶてしい形の茄子だの、じいさんが育てた米だの、そんなものをどさどさと部屋の前に置いて帰ろうとした祖母が、玄関にきちんとそろえられていた、こぎれいな靴に気づいた。

あすかが明るくあいさつをするまえに。
あわてて駆け出した軽トラは、祖母宅とキヨシ宅を往復し、祖母の家から運ばれてきた薄い布団が、キヨシの部屋に放り込まれた。

それ以来、その布団は、あすかのものとなった。

二枚の布団は、くっついて敷かれる。

今日は、それをもう少し離そうと。

キヨシは、そういう意味で、言ったのだ。



二度もその身を助けることとなり、なぜだかなつかれ、なしくずしでこうしてそばにおいている同い年の女子高生は、己にいつまでも敬語で話し続ける。

名前はあすかという。
山手のお嬢様学校。あの三校のなかでもっとも厳格な女子校の生徒だと聞いたのは、少しまえのこと。

キヨシの好みは、あくまで、もっと艶やかなオンナだ。
髪もメイクも服装も顔立ちも、もっと飾られていたほうがいい。

相方には、美女と野獣つったっけかよと指を指して笑われた。
おとなしげな容貌に反して意外に人見知りしないあすかは、美女じゃありませんし、キヨシさんは野獣じゃありません!と真剣に反論すると、ヒロシはますますわらった。

そして、うすっぺらく、まともに干されてもない布団に正座し、凛とした瞳でまっすぐキヨシをみすえるあすか。
その瞳から、ばつがわるそうに逃げようとしてあぐらをかいているキヨシ。

部屋にあるのは、ゴミ捨て場から拾ってきた扇風機。
十分動くのだが、キヨシはいつだって、それがあすかに負担をかけていないか、心配でしかたがない

「私、キヨシさんの、カノジョですよね?」

いつのまにかそういうことになったらしい。

「お、オウ」

うらがえった情けない声で、キヨシは、「カノジョ」という言葉に同意を表明した。

料金を払ってサービスを受けたことはあるが、かたぎの少女と一夜をともにしたことなどなく。
二度にわたって、あすかを守ったキヨシは、あすかが彼女になってからというもの、一度だって手をだしたことはない。


いや、あすかを守ったのは、二度ではないかもしれない。
これは、夏休みが始まる前のこと。

キヨシとのその相方の横暴、もっとも本人は何物にもしばられず自由にふるまっているだけであるのだが、その自由さは、ずいぶんうらみもかっているものだから。
ちょうどあすかがこの部屋をおとずれているときのことだった。
一階のすみのキヨシの部屋のドアが突如蹴られ始めた。
ぴくりと震えたあすかが、きょろきょろと部屋をみまわしはじめた。
ただし、この家に電話などはないのだ。仕事の連絡は、ヒロシを通じてつたわってくる。警察などに電話できる機器は、この家にはない。不便に思ったキヨシが携帯電話を持つのは、もう少し後の話だ。

「キヨシ……さ……」

おびえた声でそうつぶやこうとしたあすかの体を、とっさにひきよせた。
キヨシのあまりにも分厚い胸のなかに、あすかのほっそりとした体がおさめられる。キヨシの胸元に、あすかの小さな頭を抱いて。

「おとなしくしてろ?デージョブだからよ?」

あすかの小さな頭が、こくんと上下した。あすかを抱きしめながら、注意深く外の様子をうかがう。

「家ぁわかってんだぞ!でてこいや!」などと怒号を響かせている者どもが扉を叩いている間、あすかを抱きしめながら、息をひそめつづける。

己一人ならば、その命知らずのものどもを、ものの数分で片づけていただろう。
逃げたことなどない。これまで、そういった連中はすべて、返り討ちにしてきた。

しかし、こんなか弱いオンナがそばにいるのに。

後日、その連中は、ヒロシとふたりで八つ裂きにしたうえ、頼んでもいないのにセロニアスも加勢してきた。
そして、気丈に耐えながらも、その下劣な大声に反応しびくりとふるえるあすかの体を、キヨシは抱きしめ続けた。
水道メーターのプラスチックのかこいが割れる音をきいたあすかが、小さな声で悲鳴をあげそうになるものだから、キヨシは無骨な手のひらでそれをふさいだ。
あすかのほっそりした背中を何度も撫でてやりながら、あきらめて帰ることを心から祈った。

すると、外から、老人の怒鳴り声がきこえた。あれは町内会長のジジイの声だ。若干胡散臭いおっさんだが、意外に思いやりにあふれた老人。きっと、ゲートボールの道具をふりまわしながら応戦しているはず。そしてかさねて聞こえてくるのは、交番のおまわり。こっちもうっとおしいジジイだが、話のわかるヤツだ。柔道が強いらしい。

キヨシの部屋に攻撃をしかけようとしていた連中は、ジジイたちに圧されて退散したようだ。

「わりーな……こんなことめったにねーんだけどよ……。怖がらせちまったな」
「・・・・・・大丈夫です!」
「……汗臭かったよナ?」
「あはは!大丈夫ですよ!おじさんたち、強いですね!」

遠慮がちなノックの音。扉の向こう側から、ジジイ二人の、キヨシの身を案じる声が聞こえてくる。ほっと胸をなでおろしながら、ジジイどもに礼と詫びを伝えるためにたちあがったキヨシが、あすかの華奢な背中をもう一度撫でた。



これが、ほんの以前のことだ。

「キヨシさん、私と一緒にいるの、いやですか?」
「っっ……!ん、んなこといってねーだろーが……!!そーじゃなくてよ……何かあったらよ、責任もてないだろ」
「何かって何ですか?あれから、キヨシさんちにおじゃまするときも、一度もああいうことないですし」
「そういうことじゃねーよ!!ほら、あれ、あんじゃねーかよ」
「あれ?」

おとなしそうに見えて、どこか大胆で、今もちゃっかりとキヨシのそばにいるあすか。ほっそりした体。腕の細さなど、キヨシの5分の1程度だ。いくらあすかの芯の強さを知っていても、あすかを傷つけずにそういうことをできる保証など、どこにもない。

「避妊をこころがければ大丈夫ですよ?100%じゃないですけど、ちゃんとお互い気をつけましょう!」

キヨシはそのまま布団に卒倒しそうになる。そのままあすかが畳みかける。

「ほかに、私と付き合ううえで、気になることはありますか?」
「……あすかはねーのかよ、オレなんざでよ」
「私は、何もありません!」

凛とのびた背筋で、快活にほほえみながら、あすかがはっきりと口にする。

「だって、キヨシさんよりすてきな人なんて、この世界にひとりもいないもの」

大きなため息をつきながら閉口し、照れ臭そうに顔をしかめるキヨシのその様を、あすかが実に不可思議そうに見つめた。そして、あ!そうだ!と一声あげて。

「でも、うちの学校、男の人とお付き合いしてるだけで、退学なんです」
「・・・・・・」

キヨシには想像もおよばないお嬢さん学校。さぞや、受験も苦労があったであろう。
キヨシには、あすかの未来を懸念して身をひける程度の常識はある。
やはり、あすかのことを手放すべきか。
重い口をひらこうとしたところ、

「だけど、退学になったら、公立の高校に転校すればいいだけでしょ?」

あすかが、夏のひざしよりもまぶしい、夏に咲き誇る花よりも堂々とした笑顔で、そういってのけた。

「私、すきなひとのそばにいるだけ。何も悪いことしてないもの」
あの学校はすきだから、いたいんですけどね。

世間知らずというには、あすかのハラは据わっていて。だけれど、どこか守ってやりたくなるあどけなさもあって。
結局、キヨシも、あすかがいつのまにか好きになっていたのだ。

「キヨシさんの足手まといにならないようにします!だから、高校の合気道部に入ろうかなって!」
「・・・・・・吹奏楽っつってなかったか・・・・・・?」
「兼部したいの」
うちの吹奏楽部、弱いの!もう負けました!管弦楽部のほうが中心だし。

それは果たして誇らしげに言うことか。キヨシは、妙に肩に力が入っているあすかをたしなめた。

「……そーゆーんをよ、ちっと習ったぐれーでよ、どーにかすんのはムリだぞ?」
「自分の身は自分で守りたいの。キヨシさんにメーワクかけたくなくて」
「おめー、オンナだろ」
「女でもなんとかできるのが合気道なんじゃないの?それに、そういうの、キヨシさんらしくない」

こうなってしまうと頑固なことも、キヨシは短い付き合いのなかで充分承知している。
そして、自分を曲げないなかで、キヨシの言葉に耳を傾けてくれるところも。

「キヨシさんはいつだって、平等な人だもの」
だから、ヒロシさんも、天羽さんも、キヨシさんのことが、だいすきなの!

布団の境目を飛び越えてキヨシににじりよってくるあすかの甘いかおりの誘いをこらえながら、キヨシは理性的に語り合おうと努める。

「そ、そーゆーことじゃ、なくってよ。オレに守られてろって言いてーんだけどよ……、なんかよ、その考え方もよ、ちっと違うんじゃねーか」
「そうですかね……」
「ああ、あーゆーのをよ、マジでやってる人間はよ、やべーときは自分の身ぃ守んじゃなくてよ、逃げんだぞ」
「そっか……確かに、不純だったかも……。」
「わるかねーかもしんねーけどよ、オレが教えてやってもいーぞ」
「本当ですか!じゃあ、夏休みは、キヨシさんから教わります!!」

両手でぎゅっとこぶしをつくって、何やら誓っているあすかに、キヨシはぼそりと以前から気にかかっていたことを尋ねてみる。

「なあ、あすかよ、んで敬語なんだよ」
「だって、はじめてあったときから敬語だったでしょ?」

その丁寧な言葉遣いが、まるであたりまえのように。何を些細なことを気にしているのかと一蹴したあすかが、いそいそと布団をくっつけはじめた。そして、玄関の段ボールに駆け寄り、今日は何のごはんをつくろうかと、ずいぶん楽しそうに思案している様子だ。
そもそも料理が趣味だというあすか。キヨシが、家族からただで手に入れる野菜やコメの質に、ずいぶん感激していた。

「わりーな、こんな狭い部屋でよ……」
「六畳あれば、人間はなんでもできるんですよ!」

家に入ることは、どこか申し訳なくてできなかった。
だけれど、あすかのずいぶん立派な家は、こんな部屋は足元にも及ばなかった。

「キヨシさんのいるところが、いつだって一番なの!」

少なからずこの世に背をむけて、けものみちを真っすぐに走っているキヨシ。それでいて、社会でも揉まれていて。そんなキヨシに、純なあすかはどうしたって、いまもまぶしい。
まだ汚せない。まだ、この無骨な指で、そのほっそりした体に大胆にふれることはできない。
キヨシは、今一度決意をあらためた。そして、

「だからよ……しばらくは、今日から別々に」
「一緒に寝ましょう!」

あすかの、さっぱりとしたほほえみと声が、キヨシの決意を、夏空のようにさわやかに打ち砕いたのだった。

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