夏的恋愛二十題
4.水遊びって年でもないけど

曇天。
六月の最終週の日曜日は、空も大気も、海も灰色だ。
今日の材木座海岸は、荒れた波。まるで幅の広い階段が永遠につらなっているように、波は幾重にも重なり、それは水平線の向こうの、知らない海までつづいてゆく。その波を迎えうとうと、沖合にはサーファーが点在する姿がいくつも確認できる。

湿気をすいとり色が濃くなりはじめている砂浜にあすかはすとんと腰をおろして、ひざをかかえた。
カフェ店員のようなギンガムチェックのスカートに、砂がべたべたとまとわりついているが、気にしない。
薄手の素材の紺色のカーディガンでは、六月の終わりの冷えた潮風の肌寒さを完全にふせぐことはできないけれど、きつめの海風をあびながら、あすかは、うかない顔で、軽くためいきをついた。

自宅から海まで、歩けば15分ほどかかる。
自転車でも原付でもなく、無心に歩くその時間は、去年からこの時期におとずれはじめた憂鬱と、払いのけることのできない重たい眠気のようなもの。そんなものをすっきりと浄化させるために適した時間だと思ったのだけれど、六月の終わりの重たい湿気は、あすかの気分をより重くさせた。

店の客足が鈍くなる季節だけれど、とくにトラブルが起きたわけでもない。
夜学は、ひとまず慣れるのに精一杯ではあるが、とりあえず目の前にたまっているものをこなしてゆけば、なんとか突破できる。

憂鬱の原因はわかっているのだ。

たてた膝に顔をうめて、潮風になぶられ、べたついてゆく髪の毛もそのままに。

ギンガムチェックのスカート地に、息をおもいきりおくりこむ。
晴れることのないためいきが、あすかの頬をもわもわとぬるい温度でつつんだ。

顔をあげれば、目の前には、あいかわらず、灰色の海。
くちをとがらせて、たてた膝に、なさけなくあごをのせて。
うらめしい目で、暗い海をみつめる。

今日の海は、なんだか、音も野蛮で。
あのころもこうだったか。
思い出そうとしてみても、あのころの海の色も、海の音も、どうにも思い出せないのだ。
先のみえない海をみつめていると、無力さと、行き場のない憂鬱が増幅していく。

そのとき。
肩をおとして、この日幾度めになるかわからないためいきをついたあすかの浅黒い頬を、ここちよくぬくもったしなやかな手が、背後からそっと覆った。

わ、だとか、あ、だとか。
そのどちらでもない、なんともおぼつかない声をあげて、あすかはその真っ白の手を反射的におさえようとした。

とたん、しなやかな白い手は、するりとぬけてゆく。

あすかにさした黒い影。

振り向くと、質のいいロングカーディガンをまとい、強い海風に吹かれて飄々と立つ、千冬がそこにいた。女物の、先端のとがったミュールがあすかの瞳をかすめた。

「ここだと思ったぜ?」
「千冬さん」

きょろきょろとあたりをみまわすと、なぜだか、あすかの緑色の自転車がとまっている。

「そっか、バイク、潮風がね」
「置いとくと、これだけでも錆びんからよー」

なんであたしの自転車!とでも、元気に騒いでくれると思ったのだが。
ちらりと見やっただけで、興味なさそうに、あすかは海に向き直る。

「こんな曇った日の海見ててよ、たのしーか?」
「人が少ないのは、いいよ」
「材木座ぁいつも人すくねーだろ」

曖昧にうなずいたあすかが、膝に腕をのせて、そこに、小さな顔を、こてんとうめた。

「今日、さみーだろ?」

そろそろ七月だというのに。あすかの七分袖のカーディガンは、どうにも頼りない。
千冬も、薄手のロングカーディガンをまとっている。
さらりとカーディガンをぬいだ千冬が、軽くてあたたかいそれを、あすかの肩に、そっと羽織らせた。
普段であれば、大丈夫!としどろもどろに遠慮したあげく千冬に返してくるだろうが、今日のあすかは、ありがとうと小さくつぶやいたまま、えりもとをそっとひきよせ、カーディガンにくるまって、大学生になって少し痩せたからだを縮めた。


よっぽど滅入ってんのか?


あすかの隣に腰をおろした千冬が、ポケットからたばこをひっぱりだす。

「梅雨、まだあけてねーんだぜ?雨降んぞ?」

お店は定休日だけれど、事務作業はたまっている。
夜学の課題もなげだして。
こんな日の海で、ぼんやりと時間をむだにすごしていることは、あすかは自覚しているけれど。

「そうだねー・・・・・・それもまあ、いいかなあ」
「よくねーよ、かぜひくよ?」
「・・・・・・髪、ストレートだね?」
「潮風でべたべたになっちまうしよー、風でとれっから意味ねーもん」

おりから突風にあおられるので、千冬もあすかも、さらさらの髪の毛を、顔をしかめながらおさえた。

「元気ないときは、ここにくんだよな」
「そうだねー、何回も、ここでこーやってしゃべってるね?」
「これ」

千冬がさしだしたのは、朝7時からサンセットまで営業している、材木座海岸沿いのカフェの、ドーナツ。ハイビスカスがプリントされたペーパーにつつまれている。テイクアウトも可能で、二人がよく利用しているハワイアンカフェである。千冬が好きなドーナツがソーセージチーズで、あすかが好きなドーナツは、ゴマミルクとキナコミルク。

「あ、ありがとう・・・・・・!」
「食欲なかったら無理してくわなくていーよ、あいつにやっから」

千冬が、頭上を旋回するとんびを指さした。
あすかがあわててドーナツをぱくつく。
口の中がぱさつく糖分過多なべたべたのドーナツと違って、さっくりもっちりとした口当たり。適度にお腹と心を満たしてくれる。

もくもくとドーナツをたいらげるあすかを、やわらかい笑みで見やりながら、千冬は、先ほどのやり取りを思い返した。

たしか、店も学校も休みであった今日。
あすかの家に気まぐれにおとずれると、あすかはあいにく留守にしていた。

去年から、この季節がくると、いつもこうなる。

千冬をむかえたあすかの母親がぽつりとこぼしたことば。そして、その心模様の理由。
家にとめられていた緑の自転車には、鍵がささったままだ。おもむろにそれにまたがり漕ぎはじめた千冬を、あすかの母親はあたたかく見送った。

「煮詰まったの?」

たばこを気ままにふかしながら、千冬は、そばでちんまりと座り込むあすかに、澄み切ったアルト、こざっぱりとした声音でたずねる。

「それもあるかなあ」
「ほかは?」
「うーん・・・・・・」
「新しいガッコ、しんどい?」
「大丈夫だよ?忙しいクラスメイトばっかりだから、人間関係も何もないし。まえ、ガッコまで迎えにきてくれたでしょ」
「行ったね」
「すごくうれしかった。ありがと」
「いつでもいってやんよ」
格好は保証できねーぞ!

冗談ぽくめかしても、あすかは、表情をくもらせて、うつむいてしまう。

「・・・・・・」

だれかが忘れた小さなボールを指で引っ張り寄せて、片手でもてあそびながら。
あすかがおくった吸い殻入れに律儀に吸い殻をつっこみながら、千冬があすかの顔をのぞきこむ。

「おとーさんのこと?」
「・・・・・・お母さんにきいた?」
「何でも話してくれるよ。頼られてんな、おれ」
「親子そろってねー・・・・・・」
「うちも、親子そろっておまえんちに世話になってんだろ」
「そう、この時期なの」

あすかが高校一年のときに病気で亡くなったという、父親のこと。そろそろ命日が近いという。

「あんま看病もできなくてね」
「うん」

空の色は浮かなくて、波は荒くて。
風の音も不穏だけれど、妙に日差しが強くなりはじめた。
カーディガンを着せていると、暑いだろうか。気がかりだけれど、あすかは、濃いコロンのかおりがまとわりついたロングカーディガンをおもいきりたぐりよせて、その香りに顔をうめるように、語り続ける。

「びょーいんの帰り、よくひとりでここにいたの。あたし」
「わかってから早かったんだっけ」
「そうなの」

こうしてしれっと相手をしてもらったほうが、いくぶんラクかもしれない。
いや、軽快な会話をできるからではなくて。
千冬だから、そうなのだろう。
罪のない言葉で、千冬はいつも、あすかがひとりよがりに背負ってしまった荷物を、軽くする。

「病気わかってから、おとうさん、すごく落ち込んじゃって、闘病も何もなかったなあ、半年くらいで死んじゃったの」

声を漏らすことはなく、首を幾度か振りながら千冬は相槌をうちつづける。

「親戚に、あすかちゃんは学校行かずに毎日お父さんのそばにいるべきっていわれたの」
「無理があんだろ、それ」
コーコーセーによ。

そばで、ジッポがこすれる音がする。
火がつく瞬間の香ばしいかおり。
あすかの好きな、オイルのにおいだ。

「でもふつーにがっこいってたの。いいわけだけど、あの高校だと、勉強しなきゃついていけなかったし」

荒い波がすぐ目の前まで迫り、白いしぶきをあげたあと、元に戻ってゆく。
もてあそんでいた小さなボールは、波にさらわれて、沖合へ流れた。

「それでね、あたし、最悪なの。お父さんが入院してるから、仕事全部あたしとお母さんでやるんだよね。だから、時々、あー病院行くの、めんどうだなあとか、なんでいてくれないんだろうとか」

千冬があすかの肩に腕をまわす。
ロングカーディガンからかおる百合の薫りが、いっそうたからかになる。

「思っちゃったの」
「生きてる証拠だよ、生きてりゃよ、そういう場面はいくらでもあっからよ、後ろめたく思わなくていーよ」

たかぶった口調に反して、あすかの乾いた目元。
千冬が、詰まった最後のひとつぶを、丁重に吐かせるように、あすかの肩をもう一度ぎゅっと抱き寄せた。

「あたしがガッコに行ってるとき死んだの。葬式のとき、遅れていったの。家に帰るとね、もう来てた親戚に、すっごいにらまれたの!!」

「葬式でも、あたしが泣いてるかどうか、監視してくんの」

「で、まあ、もうすぐ三回忌だなあ、だとか。いっぱい自己中なこと考えて、お父さんおくって、後悔がすっごいあるから、この時期になると、なんだか憂鬱になるの」

「それだけ。終わりです」

「すっきりした?」

さりげなく問いかける千冬に、あすかは、首をすこしだけかしげて、どこかむずかしい顔をしたあと。
あきらめたように、ためいきをついた。
そして、千冬を見上げ、にっこりとほほ笑む。

千冬があすかの手首を思い切りひいて、立ち上がらせる。
ギンガムチェックのスカートにまとわりついた砂をはらうスキもあたえずに。
千冬は、波打ち際まで、あすかを連れてゆく。

「いこーぜ」
「でも、ちょっと荒いよ」

あすかのスニーカーを、波がぬらしてしまうような渚まで。
千冬は、美しい素足にミュール。
海べりにしゃがみこんだ千冬。
そのそばに、スカートをまきこみ、あすかもすわりこむ。

「ね、何するの?」
「城」

しなやかな指を、おもむろに砂につっこむ。
貝のかけらや、石や、これからくさってゆく海藻。
ときおりガラスの破片もあるから、そのしなやかな指を傷つけぬか心配ではあるけれど。
千冬は、あすかの訝し気な視線をものともせず、砂浜を掘り返してゆく。

「城!」
「チビのころさ、渉とつくったよ」
「へえ、八尋さんと」
「渉のオヤジの車でさ、ここじゃなくて、逗子のほうに行ってたからよ。作り方覚えてんもん」
「二人とも器用そうだもんね」
「ほんとはバケツがあればいーんだけどよ」
濡れてる砂だったら、こやってかためたら、すぐできる。

整えられた爪は透明に塗られていて。そのしなやかな指先を遠慮なく砂浜につっこみ、砂で大胆にケガしてゆく。
造るといっても、あすかは、千冬のそばで砂をいじりまわしながら、たばこをくわえたままの千冬の手つきをじっとながめているだけ。煙があすかにぶつかると、千冬が小さな声で謝るので、あすかは笑って手を振った。
瞬く間に完成した小さな砂の城を、あすかは澄んだ瞳で眺め続ける。

「すっごいなあ。ここさわったらくずれる?」
「さわんなよ!くずれっからよ」

千冬のくわえていたたばこが砂浜にぽとりと落ちた瞬間。
ひときわ荒い波が押し寄せ、波は砂の城を力任せにのみこんだ。

「消えたな・・・・・・」
「ぬれたね・・・・・・」

千冬のかわりに、波打ち際のすぐそばに座っていたあすかが、頭から海水を浴びた。

「ぁ、千冬さんはぬれてないね、よかった!」

黒髪がしっとりとぬれ、千冬のカーディガンの一部も、海水に浸される。

「ごめん、これ、洗ってかえすから」
「ああ、いーよ、やるよ」
「返すよ、ごめんね」
「これで消えただろ?なあ、カゼひくよ、帰んぞ」
「まーた、話し聞いてもらっちゃったね・・・・・・」
あたし何回こんなこと繰り返すのかな。

自嘲気味にため息をつくあすかの声は、幾分澄み始めているかもしれない。
千冬が、あすかの手首をとったあと、すこしあせばんだあすかの手に、砂まみれの手をからめる。

「何回でも言ってよ?一人で抱えられるよかよ、ずっといいよ」
「千冬さんの、・・・・・・お父さん、前も、ちょっと教えてくれたね」
「いったとおりだよ、オレがチビのころ出てったよ?」

自転車に鍵を差し込んだ千冬が、マイペースにまたがった。
千冬があごだけで荷台を促すので、あすかは慎重に腰掛け、千冬の腰にそっと腕をまわした。

「これ以上聞かない方がいいよ」
「・・・・・・」
「聞かない方がいい」

たばこもうねーな。
舌打ちのあとボヤいた千冬が、自転車を難なく漕ぎはじめる。

「でもよ、あれのおかげでよー」
「ん?」
「あすかが苦しいとき、わかるんはよ、あいつのおかげかもしんねーや」
「……千冬さんは、どうやって……」
「ん?だから暴走ってんだよ?」

わかったような口などきけなくて。
背中に頭をあずけて、くちびるをかみしめて、意味なくこぼれてきそうな涙をとめるしかなかった。
こんな涙、千冬にとって、何の意味もない。
だから、あすかは、とめなければならなかった。

「お袋以外だとよ、くわしーことぁ渉だけが知ってんからよ!気になったらさ、渉に聞いてみな」
「そうなの?」
「だからよ、おれのお袋には、聞かないで?」
「わかった。聞かないよ」

千冬の優雅な腰に、ぎゅっとしがみつき、段差を乱暴に越えてゆく自転車の衝撃に耐える。

「千冬さんがくるしいとき、あたしもいるから」
「なんもくるしーことなんかねーよ?」
さんざん発散してっからよー!

自転車のスピードを、千冬が難なくあげたので、あすかは千冬に縋りつく腕をおもわず強めた。

「あすかの顔みたら、忘れるしさ」
「いつも、千冬さんに支えられてばっかだから、あたしも千冬さん支えるよ」
「おれも、何かあったらここにくるよ」
「じゃあ、あたしもいくよ。今日みたいに」

曇天から、妙に明るくなった黄昏どき。
切なくてしなやかな背中に、体をあずけながら。
あすかは、ただ千冬のそばにいることしかできない。

「帰ったらさ、すぐシャワー浴びなよ」
「千冬さん、ごはんたべてくでしょ」
「おかーさん、俺の分もつくるっつったからよ。でもさ、おふくろの分も持って帰っていい?」
「いいよ、てか、何なんだろ、今日のごはん」
「あさりの味噌汁と、ルッコラのサラダと、ハンバーグ」
「あたしの好物ばっかだ」

自転車が、一度上下に大きく揺れたので、あすかが千冬にいっそうしがみつく。
いつものルートと違っていることに気づいた。海辺を大きく回ったあと、少し複雑なルートで。
ここから幾度か曲がれば、あすかの家。
いつもは、ただまっすぐ走るだけなのに。

千冬のなまえを無意味によべば、冷たく、そして慈愛に満ちた瞳が、あすかをちらりと流し見る。
そして、くちべにをひかないくちもとが、今日は、ひときわやさしくゆがみ、くっきりとした笑みをのこしたあと、千冬は前をむき、あすかを乗せて、自転車をこぎつづけた。

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