3.うちわでパタパタ
今日の運送業者の担当者は、1から10まで指示してやらなければ動けないタイプの運転手であった。そのわりに、持ち運び場所を指示すれば、そこへ荷物をはこぶことを、露骨に面倒くさがるしまつ。
あすかの母親が対応すれば、このようなわがままな態度はとらないのであろう。
あすかが、母のかわりに店を切り盛りし始めた夏。
人によって態度を変える人間。
そして、そんなタイプの人間を器用に動かすことのできない自分自身の器の小ささ。
そんな現実を、いやというほど思い知った。
不平を思い浮かべていても荷物が勝手に動いてくれるわけではない。ストレスに耐え、根気強く丁寧に荷物のおきかたを指示した。
言葉だけのあいさつをのこして、運送業者は去った。
ぐちゃぐちゃとおかれた大量の荷物は、ひとまずそのままに。
生のお酒だから、それらすべてをなるべくはやめに大型冷蔵庫に運び込まなければならないのだけれど。
そのまえに。
あすかは、伝票をつかんだまま、レジ脇においてある大量のうちわをひとつぬきとり、ぱたぱたとあおいだ。前髪がふわりと跳ね返り、心地よい風が、あすかをつつみはじめる。
暑いのが大得意というわけでもないけれど、冷房には弱く、すぐにかぜをひいてしまう。なるべく適温に設定した冷房。真夏の店のなか、うちわをパタパタとあおいだときの微風は、救いの一つだ。
客用いすをひきだして、冷たい木のそれにあすかはぺたりとすわりこんだ。背もたれに背中をあずけ、うちわで、のろのろパタパタとあおぐ。
菓子パンをかじるだけの昼食をすませて、おなかがすいたかどうかすら自覚がない。今日は、配達の要請の電話がかかってこなかった。売り上げや稼ぎとしては深刻な話であるが、体の疲れにはありがたい話でもある。
うちわを片手に、あすかは、重たいためいきをつきながら、疲れに身をまかせたまま、目をとじた。
「あすか」
汗と皮脂でべたついたあすかの肌を撫でる微風。パタパタとあおがれて、ひらりと跳ね返る前髪の感触に気づき、重たいまぶたが、うっすらとひらいた。
「あすか!」
ゆるく冷房がきいた店の中には、いつのまにか、強いコロンのかおりがたちこめている。この世の醜いものやよこしまなもの、すべてをちからづくでおさえこんでしまうような、強い花のかおり。
「大丈夫か?」
ゆっくりと目をあけ、覚醒の一途をたどるあすかの顔を、パタパタとうちわがあおぐ。そのうちわの持ち主、このかおりの持ち主。木の椅子の背もたれに体をあずけたままいつのまにか眠り込んでいたあすかのそばに、ゴージャスな装飾のくっついたTシャツとしなやかなパンツスタイルで、すらりと立っているのは。
「あ、千冬さん!?」
勢いよく意識をとりもどしたあと、クセのおように髪の毛をととのえなおし、椅子をひっくり返さんばかりの力でたちあがったあすかに、千冬はニヤリとくちびるをゆがめ、実に優しい笑いをのこした。千冬の妖艶な笑みの奥にあるやさしさを、あすかにはいつのまにか理解できるようになっていた。
「ご、ごめんなさい、いらっしゃいませ。あ、今日、配達でしたっけ?」
「違うよ、オレが勝手にきたんだよ。つか敬語いらねーっつったろ?」
あすかが立ち上がったことにより空いたイスに、千冬が遠慮なく腰掛けた。
いつのまにか手に持っているうちわで、その美しい顔にパタパタと微風を送り続けている。
「まだ慣れないよ……。わざわざ来てもらってごめんね?」
「暇つぶしだよ。お袋もほとんどこねーだろ」
「そうですね、おいでいただいたことは一回くらいかな」
この香しいかおりと妖しく美しい姿が、このごちゃついた店に、あまりにもそぐわない。千冬が、いつのまにか目の前にあらわれたこと。そのまま、自然にあすかの店にいること。この事実に落ち着かなくて、あすかは、ぎくしゃくと会話を続ける。
「あすか、忙しいのにさ、悪いね」
「ぜんぜん。むしろお客さんに来させるほうがわるいよ」
まるで、ゴージャスな猫がマイペースに過ごすように。
木の椅子の背もたれに体をあずけ、無造作に足をひらききり、うちわでパタパタとあおぎながら、ふわふわのウェーブをかきあげて店のなかをぐるりとみわたしたあと、手元にもったそれを、あすかに見せた。
「これ、うちわ」
「そう、夏の間はお客さんにくばってるの、無料で」
プラスチックのうちわと違い、骨も縁も柄も、すべてが竹でできている。竹の骨には、白地に赤と白の金魚の地紙が貼り付けられている。青地の朝顔模様と迷ったけれど、このクールなデザインを選択したのだ。
「裏、なんも書いてねーじゃん」
「裏に広告いれると、仕入れ値が500円くらい高くなるんですよね」
「500円くらい払っちまえよ!」
この、冷たくもあたたかい口調の少年。その言葉が、まるで氷が丸く溶けてゆくように時折くだけはじめることを、あすかはこの夏でゆっくりと知りはじめている。
「オレんちであおいだらよ、宣伝になるよ?」
あー、でもよ、んな酔っぱらいどもをここによこすのはな・・・・・・
業者につくってもらった、高級品とはいえないうちわではあるけれど、白地のうちわは、千冬によく似合っている。洋風の美しさをたたえているけれど、千冬には和風の小物もマッチするのか。ささいな発見に、あすかはおのずと顔をほころばせた。
「いれたほうがよかったかなあ」
「よかったとおもうね。来年からはそーしなよ」
「はい、そーします。アドバイスありがと」
にしてもよ。
そうつぶやいた千冬は、鎖骨あたりにうちわを軽く叩きつけるようにあおぎながら、長く麗しい髪の毛をうっとおしそうにかきあげて、再度ぼやいた。
「暑くねーか、この店」
「あたし、これくらいがちょうどいい。でもお客さんが暑いならさげようかな」
「オレ、お客さん?」
「・・・・・・、そうですよね?」
千冬の目をまっすぐ見て、生真面目にあすかは問い返す。そうすると、形のいいくちもとをゆがめて、千冬がニタリとわらった。その唇にひかれているルージュは、正確には何という名前の色なのか。一度、千冬にたずねてみたいとあすかはぼんやり考えた。
「お客かよ、あ、さげなくていいよ、これあるし」
あでやかな装飾が施されたクルーネックのTシャツの首元を乱雑にひっぱり、千冬はうちわで体の中に風を送った。日焼けの境目も、何一つ存在しない、純白の肌。乙女チックなキャラクターがプリントされた子供っぽいTシャツをまとっている自分の体の日焼けのあとを、あすかは思い返す。
「もってかえってね」
「お袋のぶんもいい?」
「いいですよ!」
「柄が竹なのがいいよな」
「でしょ、いいよね!プラスチックじゃなくてね」
あすかの腕に巻き付けてある、シュシュ。白地にドットが散らされた、シンプルなものだ。幾度も髪の毛をかきあげる千冬。そのすがたが気にかかり、あすかは自分の浅黒い腕からそれをぬきとり、千冬に手渡した。
年相応の笑顔でそれをうけとった千冬は、片手をあげて礼をのべながら、髪の毛を軽くまとめあげた。
「そのふわふわの髪の毛、暑い?」
「あつい!!」
千冬らしくないおどけた口調がおもしろくて、あすかはけらけらと笑ったあと、真顔にもどった。
「あ、ごめんなさい。シニョンにするのは?」
「これ団子にすっと、重いよ・・・・・?あすかはずっとその長さ?」
「そう、これ以上長くしたことはない」
「単車乗るからな、あんまいじれないんだよ。つか、体調わりーの?」
うちわをレジカウンターの上に放って。千冬は、あすかの顔をのぞきこみ、その顔色をじっくりたしかめている。
「大丈夫、眠くなっただけだよ」
手を顔の前で横にふり、あすかはさきほどの醜態をおもいだしたあと、苦笑いを浮かべるしかない。千冬は、あすかのかかえるタスクを、指を折りながらひとつひとつかぞえてゆく。
「店やって、しめて、事務処理もあんだろ、そのあと家かえって、お母さんの病院行って、メシ作って家事やって・・・・・・?」
「あと、勉強もだね、一応受験生だから。宿題はもうやっちゃったけど」
「そっか、ガッコ行ってんだったね」
千冬がうちわをとりあげて、あすかのことを、真顔でパタパタとあおぐ。風で翻る黒髪をそのままに、あすかは千冬が与えてくれる風を遠慮なくあびた。そうして、気持ちいい風をおとなしく浴び続けていると。
「入り口の荷物あれでいいの?」
「!!もってかなきゃ、あれ、生酒だから」
千冬が冷静な指摘をおくると、あすかが刹那、思い出したようにとびあがった。ジーンズのポケットにつっこんでいた軍手をはめて、いそいそと仕事にとりかかる。木の椅子から立ち上がった千冬が、髪の毛からシュシュをひっこぬき、もう一段高い場所に結びなおしながら、あすかに伝えた。
「手伝うよ」
「いいよ!」
「冷蔵庫あすこだろ、何往復すんのよ」
「5くらい」
「オレがいたら1往復ですむぜ」
「えー、ありがとう」
お礼します、お礼。
あすかの大げさな感嘆を鼻で笑い飛ばした千冬が、要領よく荷物をもちあげた。半袖からすらりとのびる、真っ白だけれど、しなやかに鍛え上げられた精悍な腕。繊細な指が、段ボール箱を両腕にあっさりと提げた。顔色ひとつかえないその姿にあすかは吃驚の声をあげる。
「え、二ついけるの?」
「じゃねーと改造ハーレーころがせねーよ」
「今日バイクできてたんだ」
「音聞こえなかったの!?」
その段ボール箱のなかには1800mlの瓶が合計12本詰まっているはずなのに。あっさりと歩きはじめた千冬が、勝手知ったる様子で、店脇のプレハブのなかの冷蔵庫をめざしている。千冬があけた自動ドアから、なまぬるい夏の風がすべりこんでくる。あすかも段ボールを1箱提げて、千冬のあとを追いかけた。
「聞こえなかった」
「疲れすぎだろ……、来た客がオレじゃなかったらどーすんだよ!休みの日増やせば?」
「うーん、お母さんも、何があってもこのスケジュールで頑張ってたしなあ」
「お母さん、怒んないとおもうよ?」
適当に手を抜いてしまえばいいものを。嘘やごまかすことを知らぬこの子は、目の前のこととまっすぐ向き合うことしかできないのか。様々な角度から見ればいい。疲れた時に休むことは悪いことではないのに。そんな発想の種すら持たないあすかのことを、千冬はあきれたように笑った。
すべりどめのついた軍手越しの、年相応の女子らしい手を千冬は知っている。10キロの荷物を懸命にもちあげて千冬のあとをくっついてくるあすかのその姿を、妖しい瞳でちらりと流し見た。
1度の往復だけであっさりとしまい込めた荷物。大きな冷蔵庫のなかに、千冬が次々と手際よく荷物を放り込んだ。初めて会ったときの千冬の冷美な印象からは想像できないほど、この美しい少年は、常人が汗水垂らして執り行うことを、汗ひとつかかずにやってのける。若い母親と、幼いころから二人だけで暮らしてきたという千冬。そんな暮らしのなか身に着けた生活力と、それらを大げさに誇示しない、冷水のように落ち着いた内面、そして、厳めしいまでの凍り付いた美しさ。こうして、店の中心となって一人で切り盛りしなければ、この美しい人に出会うことはできなかったし、この人の中身まで、たどりつけなかっただろう。
一度店に戻ったふたり。あすかが律儀に、千冬に向かって頭をさげた。
「ありがとう……!」
「いいよ、軽かったよ」
「お店の買い物だったよね、好きなのひとつ持っていって」
「いーよ、お礼はこれ」
白地のうちわ。それを二枚とりあげて、千冬は自動ドアを開けた。
「それでいいの!?」
「それとこれ」
千冬の豊かなロングヘアを束ねるシンプルなシュシュ。それを指さした千冬。千冬のあとを追いかけてきたあすかは、ずいぶん合点がいったような表情でうなずいたので、千冬がニヤリと口元をゆがめ、やさしい笑いをうかべた。
「じゃーな?また注文の電話すっからよ、すっとんできてよ」
「ありがとう!」
流れるような所作でハーレーにまたがった千冬は、すさまじいエンジン音をとどろかせて、あっという間に消えてゆく。ノーヘルのまま、ポニーテールよりすこし低い位置にむすばれた髪の毛は、爆風にあおられて、黄金の鳥がまたたくまに飛んでゆくように、千冬は消えてしまった。
「あ、あれ、買い物じゃなかったのかな」
7月下旬。ひどく蒸し暑い夏のさなか。千冬があすかのなまえをよんでくれるようになって、千冬とあすかが対等な言葉で話しはじめて、千冬がすこし近くなって、まだ間もない。
時折、彼のなかからのぞく、真水に隠された、熱っぽさ。それはこの、夏の蒸気のなかにのこった風と煙に似ているのかもしれない。
あの美しいひとが、自分にのこした高いかおりの残りと、熱く漂うガソリンのかおりを楽しみながら、あすかは千冬のエレガントな後姿を、いつまでも見送り続けた。
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