19.やり残したこと
古い木造家屋をぽつぽつとたたいていた雨はやがて強くなり、いまや、ずいぶん激しい雨が降っている。冷房の温度は28度。外気が忍び込んでくるわけでもないけれど、この部屋の温度も下がりきって、真夏に冷房を落としても平気なほど冷え切っている。
時計は、午前1時前。
お菓子や清涼飲料水、そして少しのアルコールをちゃぶ台の上にひろげて。
夏生と秋生に囲まれて。
あすかが、ちゃぶ台につっぷして、すやすやと眠っている。
つけっぱなしのテレビ画面では、競泳最終種目、メドレーリレーの結果が繰り返し連呼されている。決勝まで残ることはかなったものの、わずかな差で4位という結果であった。
ちゃぶ台の上ににつっぷしたあすかは、レースを見届けた直後、ころっと眠り込んでしまった。原因は、秋生にわけてもらった、わずかな量のチューハイだ。
「あすか、酒のめねーんかよ」
「ニガテなもん、あったな」
それなりににぎやかなテレビ番組。そして、地声で話す二人。
そんな騒音に左右されることなく、あすかは、すっかり眠りにふけっている。起きてしまう気配はないけれど、ともあれ夏生があすかをのぞきこんだ。
「あすか、おきれっか?明日けーんだろ?」
「……」
突っ伏したまま、夏生から顔をそむけて、あすかの寝顔は秋生のほうを向いてしまう。
「こりゃ、おきねーな……」
「ここに寝かすんかよ?客布団もってくっか?」
秋生が、膝をつき立ち上がろうとしたとき。片手でそれを軽く制止して、夏生がすっと立ち上がった。
「連れてくよ」
「は?兄貴が?」
ちゃぶ台のうえのお菓子のカスや空き缶をまとめていた秋生が、夏生の意外な言葉に、真顔で驚きの声をあげる。
「秋生がつれてかねーんならよ、オレがもらってくぞ?」
突っ伏したあすかの肩を引き、一度体を起こさせて。
あすかの骨格のしっかりした体は夏生のおもいのままに、がくんと折れた。
あすかの広い背中を夏生が支える。
そして、夏生が、あすかのしっかりと鍛えられた体をひょいと抱き上げた。
あすかの長い腕が、だらりと垂れさがり、長い茶髪もふわりとひるがえった。
「こんなもんかよ」
骨と筋肉があっからよ
「あ、ど、どこ連れてくんだよ」
あすかに貸している部屋に決まっているけれど、秋生は、そんなわかりきったことをたずねてしまう。まるで、夏生が、夏生しか知らない場所にあすかを連れ去ってしまうように思えたからだ。そして、二度と帰ってこないようにも感じられたのだ。
「いーだろ?おめーぁよ」
「あぁ?何言って……」
「秋生にはよ、色々いるだろーが」
だらりと力が抜けてしまい目立つ寝息ひとつたてないあすかの身体を、まるで、捕らえられたか弱い女を救い出した後のように抱いたまま、夏生は語る。
そして、鍛えられた胸板のなかに、あすかの頭をしっかりと抱え込んで、ぽつりとつぶやいた。
「オレには、何もねーんだよ」
そのとき、窓の外で、ずいぶん聞き慣れた直管の音が響いた。
あすかをお姫様のように抱き上げたまま、夏生は階段をのぼる。
あすかに与えている、手狭な客間。
一旦逡巡して、その部屋のドアの前を通り過ぎたあと、夏生は、自分の部屋の扉を足で押した。
たばこくさい部屋。
仕事や家のことが忙しく、掃除する暇もないから、秋生の部屋より雑然と散らかっている。ずいぶん洗濯されていないシーツ。まともにベッドメイクされていない寝床の上に、鍛えられた体格のあすかを寝かせた。
重みのある体がどさりところがったあと、あすかの纏っているゆったりとしたTシャツがひるがえった。ふつうの女のやわらかい腹とちがって、六つに割れた腹筋がのぞく。
実に短いショートパンツからのぞく太股やふくらはぎの筋肉は、実にしなやかだ。しっかりと日焼けしていて、真っ白なやわらかさや頼りない繊細さは、まったく存在しない。ただただ、努力でつくられた強さだけが、そこにある。しっかりとした肩から、ゆるいTシャツがずるりと落ちていく。
夏生がベッドに乗り上げると、スプリングがぎしりとしなる。
遠慮なく投げ出された手足を、まるで組みしくように。
夏生が、こんこんと眠り続けるあすかに、おおいかぶさった。
「あすか」
あすかのぱさついた茶髪が、清潔感に欠けたシーツにひろがる。
オイルよごれがとれない指を、茶色い髪の毛にとおしてみると、すとんと降りずに、きしんでからみあった髪の毛にひっかかってしまった。
そのままおろしてしまうと、あすかを起こしてしまうかもしれないから。
髪の毛から手の先をぬいた夏生は、その間からのぞく、日焼けした首筋に、唇をよせた。
真嶋家のせっけんのにおい。
夏生と秋生とおなじ、シャンプーのにおい。男物のシャンプーを、あすかは何の遠慮もなく使っていたから、あすかの髪の毛はいつにもまして、ぱさついている。
たばこと酒にまみれたくちびるが、あすかの耳元に近づく。
息をふきかけても、あすかは、微塵もおびえることはない。
あすかののどからは、耐えるような声も、しどけなく甘い声もなにひとつもれてこない。
ただただ、健康に眠り続けている。
風呂に入ってもオイルよごれがのこる夏生のゆびがあすかの脇腹を這おうとしたあと、シーツをつかんだ。
たばこくさいくちびるが、あすかに襲いかかる。
あすかの、強靱にきたえられた首に、夏生は、おもいきりかみついた。
目覚ましを使わなくても、あすかは、早朝に、見事にめざめるのだ。
そして気が付くのは、この家で借りている布団とは違う感触。身体を起こすと、自分のからだは、いつもより高い目線の位置にあるようだ。そもそも、今日はベッドに寝かされているみたいだ。
あすかのそばには、だれもねむっていない。
そのかわり。
「ナッちゃん・・・・・・?」
ベッドから視線を隣に向けると、そこにあるのは、夏生の無防備なすがた。
座布団を何枚か並べて、その上に、背の高い体をよこたえて、枕だけ頭の下に敷き、大きなバスタオルが腰を覆っている。
呆然としたあすかの声に反応した夏生もまた、あっさりと目覚めた。そもそも、あすかをそばにして、夏生の眠りは浅かったのだから。
「よぉ、二日酔いねーか?」
「二日酔い?あ、あのチューハイかあ・・・・・・ナッちゃんがここまでつれてきてくれたの?」
「ああ、悪くなかったゾォ?」
「重かったでしょ?」
あすかが、かぶせられていた薄手の布団を手早くたたんだあと、ベッドからとびおりる。
「ごめんね、わたしがベッドうばっちゃったの?」
「たばこくさかっただろ?」
「悪くないよ!ありがとね!あ、まだ5時だ、始発間に合うね」
「んな早く帰んかよ」
あすかの動揺はほんのすこし。いつだってあすかはすんなりと現状をうけいれて、すぐにその場に適応する。上体を起こしただけの夏生のそばをとおりぬけて、あすかは自分の部屋に戻った。
荷物はすでにまとまっていたようだ。部屋着をぬぎすて、Tシャツとショートパンツをまとったあすかは、散らばっていたものや服をバッグにつめこんで、そのまま荷物を肩にかけた。
「朝飯くうか?」
「いらない!どっかでパン食べる」
階段を静かな足音でおりてゆく。
その生命力あふれる背中を、夏生も追いかける。
あすかの身支度は、顔をあらって歯を磨き、髪の毛を一気に梳かすだけ。
その間に、夏生も、寝起きのツラはそのままに、歯だけ磨き、しまい込み忘れていた前日の洗濯物の中から適当に着るものをひっぱりだした。
玄関を開けると、夕べから降り続いた雨が、きれいにやんだかわりに、秋の気配をつれてきた。
「わあ、寒いね!」
口元から歯磨き粉の匂いを漂わせたあすかが、夏生の背中を追いかけてきた。
暴力的な光と熱が襲い掛かっていた昨日までの朝と違って、今日の朝は、やさしい風が吹いている。短いTシャツをまとったあすかの腕を、ゆるやかな風が撫でた。
「アッちゃん、まだ寝てるよね?」
「いや、まだけーってきてねーみてーだぜ」
「とうとうどっかいったの?」
「ああ、おまえが寝ちまったあとによ、迎えにきた連中がいてよ」
「じゃ、アッちゃんにはあえないな!」
「秋生に顔みせねーんかよ?」
「お昼前から練習が始まるんだ、だから、始発で藤沢に帰んないと」
おとーさんとおかーさん、残してくから!
門の前で、あすかは夏生と向き合った。あしもとには、送り火が地面を焦がした痕がのこっている。
「なんかやり残したことねーか?」
「それが、あるの」
「なんだ?ゆってみな?」
「ナッちゃん、明日誕生日だよね?」
プレゼント、わたせなかった……。ごめんね、何もない・・・・・・。
そういえば、そうだった。生まれた季節のまま、安直な名前をつけられてしまった。去年あたりから、誕生日を数えることなど忘れていた。同じ速度を知っていると宣言していた女がこまめに祝ってくれることで、それを思い出していたことも、もう昔の話になった。
「ああ・・・・・・そーだな……」
「ごめんね!でも、本当におめでとう。ナッちゃんが、生まれてきてくれて、よかったな!」
「……」
「だって、こんなに夏休みが楽しかったから!でもプレゼントはあげられなくて、ごめんね」
「ああ、これでじゅーぶんだよ」
あすかの鍛えられた肩を、思い切り抱き寄せる。
額にキスでもおくってやろうと思ったが。
さすがに、それはかなわなかった。
それなりに背の高いあすかも、夏生の胸元にあっさりおさまってしまう。
あすかのぱさついた髪の毛をつかんで、己の胸元にひきよせて、しばし、あすかのしっかりとした体の感触を味わった。
どこもかしこも、媚びのない女だ。女らしさのない女だ。鍛えられた女だ。自分らしい女だ。こんな女、夏生は、あすかしか知らない。
しばし引き寄せたあと、あすかを、広い胸板から解放する。
いつだって顔色をかえず笑っているあすかが、ほんの少しだけ茫然としている。
「らしくねーぞ、んなツラ」
「??こんなのでいいの?」
そうして、けろっともとに戻った。
こんな自分を抱いて、何がおもしろかったのか。
こんな安いプレゼントでいいのか。
あすかは、まるでそう言いたげだ。
「おまえ・・・・・・」
「こんなんでいーなら、いつでもあげたのに!!」
夏生が、施錠を確認したあとすたすたと歩き始める。
結局秋生は帰ってこないようだ。
「駅までおくっからよ」
「ありがと!」
「始発かよ、まあデージョブか」
「始発ふつーに人多いしね。てかナッちゃん起こしちゃったね、ごめんね。アッちゃんってまだ帰ってこないの?」
「こーゆーときぁよ、7時っくれーになるか・・・・・・」
そっかー、しょーがないアッちゃんだね!でもね、きっとアッちゃんもね、楽しいんだよ!
わかりきっていることをわかったように語るあすかの後頭部を軽くこづいてみると、あすかがケラケラとわらった。
夏が終わる。雨が、秋をつれてきた。夏の終わりの朝のにおいは、どこか頼りない。
「じゃあね、また・・・・・・次は、お正月か?」
「そのまえに、会いに行ってやるよ」
「えっ!何しにきてくれんの?でも楽しみ。あっ、それじゃーね!色々ありがとう!」
電車きちゃう!ナッちゃん、おめでと!!
重いスポーツバッグを軽々とさげて、あすかは、夜明けの山手駅のなかにあっさりと消えてゆく。
おろされたままのぱさついた茶髪がひるがえった。
この夜、夏生があすかにこっそり残した痕は、ヘルシーな日焼けのあとに、とけこんで消えていった。
prev next
TOP