夏的恋愛二十題
18.暑さで食欲が湧きません


エアコンの温度は27度。
風量はしずか。

音をたてずに吹き出した冷風が、緋咲のことを、おだやかに冷やす。

青白く精悍な両腕をむき出しにしたタンクトップを纏って。長い脚をつつむのは、ゆったりとしたジョガーパンツ。

鍛えられた片腕を、まぶたのうえにおいて。
緋咲は、キングサイズのベッドにしなやかな体をしずめて、静謐なためいきをついた。

体をベッドになげだしたまま、すこし頭をかたむけると、緋咲の怜悧な瞳が、そばにいる少女のことをとらえる。

カーペットの上にぺたりとすわりこんで。
ベッドにだらりと横たわっている緋咲と、ほぼ同じ目線。
まっすぐな瞳が、けだるくよこたわっている緋咲を涼しくつらぬき、その愛らしいぽってりとした口元に、木のスプーンでアイスクリームを運んでいるのは、緋咲の彼女。小春。

目元から腕をとり、緋咲は、けだるく腕をのばす。

その優しい指が、小春の黒髪をたどった。
小春は、緋咲の指に身をまかせながら、アイスクリームをマイペースにぱくついている。

「小春」
「はい」
「何食ってんだ」
「アイスです。緋咲さんも、どうぞ」

アイスクリームのカップから、木のスプーンでひとくち分すくいあげて。

キングサイズの清潔なベッドにぐったりとよこたわった緋咲の口元に、小春はいそいそとアイスクリームをはこぶ。

「・・・・・・」
「すぐ、とけちゃうから」

緋咲のうすい口もとに、小春のよそったアイスクリームが近づく。
緋咲が力なく目をとじて、整った口が、すこしだけあいた。
小春が、木のスプーンで、緋咲のととのった口のなか、にアイスクリームをすべりこませた。

「食べられましたね?よかった!」

ぐったりとベッドにねころがった緋咲を、猛暑の中でもけろりと元気な小春が、大きな瞳で見守る。

「おいしいですか?」
「・・・・・・甘い」
「たまには、甘いものもいいですよ!」

口に忍び込んでもすぐにとけるわけではなく、咀嚼をしなければ溶けないアイスクリーム。その不思議な触感は、緋咲の口の中を甘くコーティングしたあと、体の中を、すこしだけ冷やした。

リラックスしておろされた紫色の髪が、シーツの上にふわりと広がる。
額におりた髪をかきあげた緋咲が、けげんな声でたずねた。

「それアイスか?ヨーグルトみてーな味すんだけどよ」
「トルコ風アイスって書いてあった。おいしいです」
「トルコ・・・・・・?」

緋咲が、不可解な声でつぶやいた。
ぐるぐるとかきまぜて、とろりとこねあげたアイスクリーム。木のスプーンでもうひとくちすくいあげて、小春は、緋咲の口元にふたたびちかづける。

形のいい口元から赤い舌がのびて、それを奪い取る。
甘いけれど冷たいものを、黙って食べてくれる緋咲をみて、小春はにこにことよろこんだ。

「小春ぁ夏ばてしねーのかよ」
「もう体調もずいぶんいいし、夏ばては、したことないです」

さばさばとした声音で言ってのけた小春が、アイスクリームをご機嫌にほおばる。

午前中のみの夏期講習が終わったあと、やっぱり制服はかたくるしいと思った小春は、一旦帰宅した後さっぱりとしたブラウスとスカートに着替えて、緋咲の部屋に訪れた。

「緋咲さん、大丈夫ですか?」

アイスクリームのカップをガラスのテーブルにおいて。
小春は、アイスクリームでしっとりと冷やされた手を、緋咲のひたいにあてる。

「熱中症じゃなさそうですね」
「たりめーだろ!?おれぁよ、つぇぇんだよ」
「知ってます!そっか、暑いだけかあ」
病気じゃないなら、よかった!

小春がこの部屋には訪問するまで、部屋の温度設定は、24度であった。

夏が本格的に始まる前。ほんのすこしのなまぬるさすら不快な緋咲は、この部屋の温度も、おもいきり凍り付かせていた。そんなとき、小春が、春と夏の境目にふさわしい洋服で、緋咲に会いに来る。緋咲にとってはちょうどよく、小春にとってはやや寒い、緋咲の部屋。長袖のカーディガンを着込み、薄手のタイツすらはいた小春が、くしゃみをくりかえすものだから。これから寒いときは必ず言えと、いつになく厳しく注意を告げた緋咲は、その日から、小春のために、部屋の温度を少しだけあげている。

プラスチックケースのかたすみにのこった、最後のアイスクリーム。それをかきあつめて、小春は、緋咲の口元にはこんだ。

「最後です!暑いでしょ?」
「・・・・・・」

澄んだ声で、緋咲にアイスクリームをすすめる小春。そのちいさな手が木のスプーンで、アイスクリームのかけらをさしだすようすを、緋咲は横目でつめたく眺めながら、顔だけあげて、ぱくりと飲み込んだ。

とたん、キャッキャと大喜びになる小春。
猛獣が餌付けされているのではないのだから。
複雑な様相をうかべた緋咲をよそに、小春は食べ終わったカップをあらうためにたちあがった。
そんなことはオレがやるからここにいろ。
そういわんばかりに小春の手をつかもうとした緋咲の腕は、ほんのすこしおそかった。
暑さにばてているのか。緋咲の腕は、ベッドのわきに、だらりとたれる。

ひょいと立ち上がった小春はすでに背を向けて、カップをきれいにあらったあとごみばこにほうりこみ、洗われずに積んだままになっていた緋咲の朝食の皿とグラスを、きれいに洗い上げた。

完全に水気がぬぐわれていない手のまま戻ってきた小春を、怜悧な瞳でみやった緋咲が、低く忠告した。

「んなことさせるためによ、小春を呼んでるわけじゃねーからな」
「・・・・・・緋咲さんって、ほんとに優しいです」

くっきりとした瞳で、まっすぐに緋咲をみつめながら、小春はちいさな顔いっぱいに破顔した。

そして小春は、カーペットの上に乱暴にほうりだされていたエアコンのリモコンを手にとる。

「小春。待てよ」
「緋咲さん、温度さげましょう」

寝転がったままの緋咲が、小春のほっそりとした手首をやおらつかむ。
すこしも痛くない強さで制止された小春が、手首を緋咲にあずけたまま、首をかしげて緋咲を見やった。

「ちげーよ、あげたらよ、小春がひえんだろ」
「わたし大丈夫ですよ?」
「前、おれんちきたときよ、鼻カゼみてーになってただろーが」
「緋咲さん、それ覚えてたの?もう大丈夫ですよ」

手首は、緋咲にやさしくとられたまま。少しだけこもった熱を感じながら、小春がすこやかに提案した。

「わかりました、じゃあ、あいだとって、一度だけさげましょう!」

冷房は、26度に。
わかりやすく冷えていく室内。

ささやかな風量を肌に感じて、すずしげに笑う小春の腕を、緋咲が引っ張る。

「えっ、わ、わたし」
「いーからよ」

緋咲がつかめば、いとも簡単に支配できる、小春の体。
でも、ベッドサイドに少し引き寄せただけで。
緋咲は、最後の選択を、小春にゆだねた。

「あがってこい」
「……いいんですか?」

小春を強引にベッドに引きずり込むことはしなくて。
小春は、緋咲に命じられるまま、ベッドの上にいそいそとよじのぼる。
緋咲にみちびかれて、小春は、ベッドの上に横になって。
ほんのすこしの隙間をあけて、ベッドにぐったりと横たわる緋咲のそばに、小春は、そっと寄り添う。

鍛えられた腕が、小春を抱き寄せる。
ごろりと体を傾けて、小春の小さな体を、両腕で、そっと抱きすくめる。

そして緋咲が、わずかにまゆをよせる。

「・・・・・・」
「ね、熱いでしょ?わたし体温高いの」
平熱が、36,5度くらいです。

こうして抱いたとき、衣服越しに感じる、小春のあたたかさ。少し冷えた室内で、湯たんぽのようにじんわりとぬくもりをはなつ小春を、壊れ物のように抱きしめて。黒髪に、キズが走る鼻梁をよせながら、緋咲がささやいた。

「やせてんな」
「もともと、もーちょっとふとってました。3キロくらいやせて、そのまま」
「あれからだろ」
「・・・・・・」

緋咲の胸元に、小春は頭をあずける。
体の中に、妙な熱はこもっていない。熱中症ではなく、やっぱり、暑がりなだけ。
そんなことをたしかめながら、小春は、おそるおそるうなずいた。

「今は、ちゃんと食えてんかよ」
「はい!もう、大丈夫です。緋咲さんが、いてくれたからです」

元気に答えた小春が、緋咲のやさしい拘束をほどこうと、身をすこしだけよじった。

「あ?何離れよーとしてんだよ」
「緋咲さん、あついかなあって。緋咲さんは、体温がひんやりしてますよね」
熱はこもってないみたいですけどね。

「オレは、怖くねーかよ」
「・・・・・・」

緋咲の腕のなかで、大きな瞳をふるわせて、しばらく緋咲をみつめた小春が、ふるふると頭をふる。

「ホントだな?」
「緋咲さんがいるから、わたし、がんばれたんです。だから、そんなこと、絶対に思わないで」

一旦離れようとした小春が、緋咲にぴとりとくっつく。
緋咲の、冷たく優しい体をあたためるように。

「ああ」
「緋咲さん、自分に自信もってください!」

虚を突かれたと申すべきか。
小春からの、思ってもみない、わけのわからぬ激励に唖然とした緋咲が、それでもぬくもりのある声で、吐き捨てた。

「……なにいってやがる・・・・・・?」
「暑さに弱いのも、緋咲さんの個性です」
「・・・・・・小春……てんめぇ」

お仕置きのように、小春の体を、やさしく抱きすくめて。
小春のむき出しの足もとらえてしまえば、小春がうれしそうに、声をあげてわらった。

「えへへ。熱はやっぱないんですよね。冷却シートをはっても、しかたないですね」

緋咲の優しい拘束をあっさりとほどき、ころんと上体だけを起こした小春が、青白い顔色の緋咲の額に、ぺたりと手をあてる。

手をぬらしていた水はすっかりかわき、あつくもつめたくもない手。小春のちいさな手の、人肌のあたたかさにまかせて、緋咲は、しずかに瞳をとじた。

己の下半身をだらりと覆っている薄手のタオルケットをひきあげて、小春の肩にかぶせた。

「わたし大丈夫です。緋咲さんが、使って?」

小春の気遣いは無視して。緋咲が短く命令する。

「リモコンかせ」
「は、はい」

テーブルの上に手をのばした小春が、寝ころんだままの緋咲に手渡す。

そして、緋咲が手早くリモコンを操作した。

緋咲がすこしはなれたソファにリモコンを器用にほうるまえに、小春が確認した電子画面は、25度。

緋咲には、きっとそれがちょうどいい。

ふたりで部屋で過ごす時、小春のことばかり優先してくれる緋咲が、自分が心地よい温度をえらんでくれたこと。その事実に、小春はほっとした笑みをうかべた。

そのとき。

すずしげなブラウスすがたの小春のからだを、緋咲があたえたタオルケットが、おもいきり拘束した。

わっ、と短い声をあげて。

緋咲によって、小春のからだは、タオルケットでぐるりとおおわれたのだ。

そのまま、緋咲にぎゅっと抱きすくめられる。
そのちからは、先ほど迄より、わずかに強さを帯びた。

「緋咲さん」
「こーしてたらよ、小春は寒くねえ」
「・・・・・・緋咲さんは?」
「俺ぁ、ちょーどいい」
「わたし、あついでしょ?」
「ちょーーどいいっつってんだろ」

タオルケットのなかから、小さな頭だけちょこんとだして。
そのおかしみあふれる姿に、緋咲の冷涼な口元がやわらかくほころびる。

そうして、いそいそと腕だけ引っ張りだした小春が、緋咲の額に、もういちど手をあてようとした時。

そのやわらかな手首をつかまえて。

緋咲は、小春のぽってりとしたくちびるを、やさしくふさいだ。
くちびるをなぞり、かすかにひらいた小春のくちびるの先を、少しだけ舌で舐めとる。

「これアイスじゃねーだろ、ヨーグルトじゃねーんかよ」
「アイスですってば。でも、ちょっと甘すぎたかな」
ふたつかったから、緋咲さんちの冷蔵庫に、おいてますよ。

緋咲のかおりのするタオルケットにくるまって。
緋咲に抱きしめられたまま、よく冷えた夏の部屋で。

「ガッコだったんだろ」
「そうです、講習!午前中だけ!数学と国語」
「よくガマンできんな、んなメンドイもん」
「そんなにレベル高い学校じゃないから、ベンキョしないと・・・・・・」

そうボヤいた小春は、緋咲におとなしくだかれて、緋咲をみあげる。

「すずしくしたら、食欲はもどりますか?」
「水とエナジーバー・・・・・・」
「アイス!冷凍庫にあるから、食べてくださいね」
「……あんな甘いモンをか・・・・・・」
「エネルギーのたしになります」

きっと、だるいからだをひきずって、それでも暴走らずに入られないのだから。
小春がそう口にすることはない。

「はらぁすくんだけどよ」
「今度、夏バテのときも食べやすいごはんつくります」
「さっきもゆったけどよ、んなことさせっためによ、小春を傍においてんわけじゃねーからな」
「うん、わかってます!わたしがやりたいって思ってるだけなの」
「ま、今日はアイスくうからよ」

緋咲の腕のなかで、何が幸せなのだか、食欲をわずかに回復させた緋咲のことを、小春はこころからキャッキャとよろこぶのだ。

「タオルケット、ちょうどいいです」
「さむくねーかよ」
「ぜんぜん!ちょうどいいです!緋咲さんこそ、あつくない?」
「ちょーどいいっつったろ?」

ごきげんにわらった小春を抱きしめて。
胸やけや気だるさがゆっくりとおさまっていくなか、緋咲は、小春を腕のなかにおさめたまま、小春の話に耳をかたむけつづけ、やがて穏やかに眠りに落ちてゆく。

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