夏的恋愛二十題
10.熱中症の君に膝枕

大家がスペアの鍵をくれない。

そう言った龍也から、合い鍵はわたされていないのだ。
高校生の恋人同士。そんなこと、至極当然のことだろう。
龍也の部屋の、閉ざされた扉の前で。まだ戻らないこの部屋の主を待ちながら、古いアパートの廊下の手すりにもたれて、葵は気ままに階下の景色を眺めている。

葵がきたときまだ俺が帰っていなければ、部屋の前で待ってろ。
そう言いつけられたことを思い出す。

それにしても、雲一つない、露草色のまぶしい空。
この空の色の鮮やかさは、爽快さ、美しさを通り越して、まるで暴力ともいえる。
それほど、今日の日差しは厳しい。
アスファルトからたちのぼる、ゆらゆらとした熱気。
肌を直火で加熱するかのような、強い暑気。
夏休みが始まったばかり。
真夏を迎えるにはまだいくばくか早いのに。

そんななか、日陰で待つことができているのは幸運だ。
ひさしが生んだ影がちょうどよく、その影のなかにかくれて、龍也の帰りを、葵はいまかいまかと待ち続ける。

葵の小さな鞄のなかには、さきほどまでさしていた折り畳み日傘がある。ぬけるような真っ白な肌でもなければ、色黒でもない、ごくふつうの肌。せめて、これ以上の日焼けは避けたいわけで。そして、熱中症対策にも効果的だ。

そこに響くのは、聞きなれた排気音。デビル管の唸り声だ。とたんにゆるむ頬を元に戻そうとしても、それはどうしたって無理で。

待っていたのは10分にも満たなかった。今日も、無事、龍也に会うことがかないそうである。階下の駐輪場までいそいそと出迎えにいくのも、大げさすぎるだろうか。
今すぐ会いたくてたまらない気持ちを自制して、良い子のふりをして待ち続けてはみるが、あのおどろおどろしい音が消えて、数分たてども、龍也はまだ階段をのぼってこない。
もしも、仮にバイクの整備中であれば、なおのことじゃまはできない。

そうして自制を重ねながら、待つこと、さらに5分。
たった5分ではあれど、妙に不安に襲われ始めた葵は、意を決して、駐輪場に向かってみた。サンダルのヒールが、金属の階段をカンカンとたたく。

そして、見慣れた駐輪場に、見慣れたバイクはあったものの。

息をのんだ葵が、龍也の名前を呼ぼうとした。

「龍也せんぱ・・・・・・!」

最後までその名前を呼ぶことがかなわなかったのは、見慣れた大きなバイクのそばに、シートに腕をあずけ、膝をつき、龍也がこうべをたれてしゃがみこんでいるからだ。
片手は、額にあてて、その表情を、ここから確かめることはできない。

もしかして、致命的なケガか。
傷ついている様を葵に見せることをひどく嫌う人ではあれど、そんなプライドと、龍也自身の安全、どちらが大事かというと。
そんなもの、後者に決まっている。

葵は小さなバッグをその場にほうりだして龍也にかけよった。

「龍也先輩!」
大丈夫ですか?

かけより、そっと寄り添う葵。その小さな姿に気づいた龍也が、葵、と、低くちいさく名前を呼んだ。

「先輩!先輩、龍也先輩……、救急車、呼びますか?手当・・・・・・は?」
えっ?

バイクと龍也のあいだにすべりこみ、バイクを傷つけぬよう気をくばり、龍也の体のキズを確認しようとしたところ。

どうにも、すずしげなTシャツごしには、血痕、傷跡、ケンカの後の土埃、衣服のみだれ、いずれも、何ひとつみあたらない。龍也の端正な顔も、あまりに顔色こそ悪いものの、キズひとつないのだ。うつろな瞳が、葵から目をそらしたとき、葵が気づいたのは。

「先輩、熱・・・・・・!」

龍也にふれた葵の手には、衣服ごしに、あまりにも異様な熱気がつたわってくる。
こんなこと、前にもあった。
あのときと違うのは、ケガを負っていないかわり、全身がかわいているのに体中が異常な熱をもっていること。あのときの熱よりも、これは、しゃれにならない。

「こ、これ、熱中症ですね・・・・・・?救急車」
「いらねえ・・・・・・」
「龍也先輩・・・・・・、じゃあ、涼しいとこ行きましょう・・・・・・。バイク、ここで大丈夫ですよね?」

うなずいた龍也の、力が抜けかけている体に、葵がけなげに手助けする。
プライドからくる行動か、龍也が、葵をすこし突き放して無理にたちあがった。そのふらついた足元が辛くて、葵はすぐに寄り添い直して、龍也の精悍な体を懸命にささえる。

さきほど投げ出した鞄をひろいあげた。小さな日傘をさしたって、意味をなさないだろう。龍也に、自分の体によりかかるよう懸命に促すものの、葵のそばをあるきながら、龍也は葵に頼ろうとしない。
手すりをつかみ、階段をのぼる龍也をかばい立てながら、なんとか部屋の前までたどりついた。

龍也がポケットからおぼつかない手つきでひっぱりだしたカギを奪い取って、葵はがむしゃらな手つきでカギをあけた。

そのまま勢いよく倒れ込みそうになりながら、龍也は玄関にすわりこむ。ふれた箇所から葵にダイレクトにつたわってくる熱は、あいかわらず、常軌を逸した熱さだ。

カギをしめたあと、サンダルを脱ぎ捨てて、葵はすぐそばの冷蔵庫からあわてて水をとりだした。

「龍也先輩、お水」

キャップをあけて手渡すと、龍也が一気に水をあおる。
かって知ったる場所にあるリモコンで、部屋の冷房のスイッチをいれたあと、温度を2度ほどさげる。
そして、救急箱。あのなかには、冷却シートもはいっているはず。クローゼットの上からさぐりだしテーブルに乱暴に置こうとすると、はずみで床におちてしまった。あわてながら、クローゼットからタオルも引っ張り出して。片づけるのはあとだ。冷却シートの在庫を確認すると、葵はすぐに龍也のそばに戻る。

「龍也先輩、部屋で、横になって」

玄関に座り込んだまま靴箱に体をあずけ、龍也のその厳しい瞳は、眉を寄せながら苦しそうにとじられている。
そして、ようやく、葵にしなだれかかってきた分厚い体を、葵は、その重みに顔をゆがめながら懸命にささえ、息をはずませながら、龍也をベッドまでつれてゆく。

ものは少ないが、雑然とした部屋。

龍也の体を、ベッドの上にドサリとなげだした。
いつになく荒い息で、龍也はベッドに倒れ込む。

「先輩、ちょっと、ごめんなさい」

ひとことだけわびをいれて、龍也のベルトをゆるめた。

「悪ぃ」

存外素直にうけいれた龍也も、葵に礼をのべる。

あまりにもあわてた葵がひっくりかえしてしまった救急箱が、龍也の視界をかすめた。クローゼットの引き出しも、中途半端に開いている。ベッドに腰掛け、背中を倒したようなかたちで、ベッドに倒れ込んでいる龍也。あまり清潔ではないそこに背中をあずけながら、冷風の中、直射日光下にいた先ほどより幾分かラクになった感覚を味わいつつ、逞しい腕を額にのせながら、荒い呼吸を繰り返した。

「これ貼りますね」

葵がそばに寄ってくる。龍也の腕を、そっともちあげた。冷却シートをはりつけながら、相変わらず変化のない高い熱を確認する。汗はかいていないのに、燃えるように体が熱い。本当は救急車ものなのだろう。

まだ冷やすべきところはある。

台所に小走りでもどり、小ぶりな冷蔵庫の冷凍コーナーを確認すると、アイスノンは、小さなものをふくめて合計3つ。すべて抱えて戻ってきた。龍也をまっすぐ寝かせたあと、声をかけながら処置をはじめる。

「ここに、冷たいのあてたら大丈夫です」

小さいものは、直にわきの下にはさませて。
龍也のクローゼットから勝手にひっぱりだしたタオルをまいて、首の下にもアイスノンをしく。

「お水しかないですね・・・・・・」
スポーツドリンクは、あとで買いにゆくか。水も、2リットルのペットボトルがひとつと、500mlのペットボトルがひとつだけ。小さなほうを、もういちど龍也につかませる。

「ちょっといいですか、ごめんなさい」

畳んだタオルケットと、ベッドのすみにころがっているまくらをつみかさねて、龍也の足のさきをもちあげ、その上に置いた。たしか、足を高くしたほうがよかったはずだ。その根拠は知らないけれど、とにかく、覚えているだけのありったけの知識で介抱にはげむしかない。

「慣れてんな・・・・・・」

冷却シートをはりつけられた額を気にしながら、けだるい声で龍也がつぶやいた。キャップをあけて、もう一度水を口にふくみ、のみくだす。

「姉が一回倒れたんですよ、そのときに」
オール明けだったのもあるんですけど。

びしょびしょにぬらしたタオルを、龍也のキズごしに、頬にあてた。

「龍也先輩・・・・・・大丈夫ですか……本当に気持ち悪くなったら救急車呼ぶから……」
「葵・・・・・・わりぃな・・・・・・?」
「先輩、ゼリー飲料とか、スポーツドリンクとか、お水も、買ってきますね?」
「全部いらねえ・・・・・・」
「・・・・・・」

にわか知識の看病など、気持ちの押しつけにすぎなくて、うっとおしいだけかもしれないけれど。そうして拒否されて悲しい顔をしているヒマがあれば、拒まれてしまっても、今できることをするしかない。

「全部いらねーから、ここにこい」

ぼそっとこぼした龍也が、そう決意しなおした葵の腰をだきよせ、ベッドに座らせる。

「え・・・・・・。ゆっくり寝たいでしょ?」
「膝だ」
「・・・・・・。少しだけ、さがってください」

龍也の願いどおり。
ベッドに上り、慎重に体の向きをかえて、正座をつくる。葵のワンピースのすそが、ふわりとベッドにひろがった。
龍也の首の下から引き出した葵のももの上にくるんだアイスノンをおいたあと、そのうえに、龍也をのせた。

「これでいいですか?」
「あぁ・・・・・・」

すっかり冷えてしまった葵の手を、龍也の頬にそえて。
葵は、ベッドのすみに放り出されていた濡れタオルをとり、龍也の顔じゅうに、そっとあててゆく。

「昨日は、現場の・・・・・・?」
「だな……。朝まで現場でよ・・・・・・その後よ、流してたらよ、このザマだ」

夏休みは、龍也の稼ぎ時だろう。そんなときに、疲れや忙しさを想定せず、呼ばれていたからといってろくな手土産ひとつもたず、うきうきと遊びにきた自分自身ごと、葵は自己嫌悪におちいる。

「なんつーオオゲサな顔してんだよ」
「……命に関わることです・・・・・・」

葵の深刻な瞳を、驚異の回復力をもつ龍也が、鼻でわらいとばした。それでも、ただのカゼや、外傷からくる熱とはちがう症状だ。すっかり火照ってしまった重い体は、炎天下を暴走っていた先ほどに比べ随分よくなったものの、まだ熱はおさまらず、けだるいままだ。
葵にうつすような症状ではないことだけが救いだが。
己の症状を心配する以上にシリアスな顔をしている葵の頬を、大丈夫だと撫でて、引き寄せて、くちづけをおくってやりたくとも、その気力すらわかない。
龍也を膝にのせたまま、葵が問いかける。

「食欲は・・・・・・?あの、さっき、お水とったとき、冷蔵庫の中みたけど、何もない・・・・・・」
「・・・・・・」
「ごはん、食べてましたか?いくら龍也先輩でも・・・・・・」
「バイト代ぁ明後日だな・・・・・・」

頼ればいいものを。
そして、そんななかで葵に会ってくれようとした龍也。
これほど体調が優れず、朝まで働いていて。
そして、とりつかれたように走って。
自分も、龍也のせわしなさをきちんと察知したうえ身をひけばよかったのに、龍也の声を聞くと、龍也に会いたいと願われると、すぐにとんでゆきたくなる。
龍也がこうして疲労に負けているさまは、自分も原因のひとつなのではないか。
そんな、無意味な自責にかられながら、膝越しのアイスノンのつめたさと、龍也の熱を確かめ続ける。

「わたし、ごはんの材料とか買ってきますね」
「俺も行」
「な、なにを……寝ててください・・・・・・!」
「こんな時間から葵一人で」
「あのですね、真昼間ですし、夕方にもなってないですし、何があるっていうんですか・・・・・・寝ててください・・・・・・」
「なに作る気だ……」
「お味噌汁と、冷しゃぶです。ちょっとだけですよ」
塩分をね、とるんですよ!

なぜだか元気をとりもどし、葵が妙に得意げに胸をはった。そばにいる葵まで参ってしまえば元も子もない。口元に苦笑いをうかべた龍也は、すっかり、葵にまかせきりである。

「もちっとここにいろ」
「スポーツドリンクだけ、あの、すぐそこの自動販売機で買ってきていいですか?」
「よくねー。ここにいろ」
「・・・・・・」

水にほんのすこし塩をまぜたものでもかまわないだろうか。
膝にのせた龍也の頭を丁寧に撫でながら、葵は考えこむ。
ちゃんと食べさせて、ちゃんと休ませて。
とにかく、今自分にできることは、それだ。

「明日はバイク禁止です……」
「オレに指図すんのか」
「します。禁止です」
「チッ・・・・・・・」
「禁止です……」
「オレにんなこと出来んのぁよ、葵だけだぞ・・・・・・」

柔らかい素材のワンピースごしに、龍也の熱を感じる。
龍也の、すっかりくずれてしまった髪の毛をいとしく撫でながら、葵は、ひとつだけ願った。

「こういうことは、絶対にやめてください・・・・・・」

はらりとくずれおちた龍也の髪の毛を、しなやかな指で幾度もときながら、葵が訴える。

「やわらけぇーな・・・・・・」
「聞いてますか・・・・・・?龍也先輩は、ほんっとに・・・・・・」
「……なんだよ」
「・・・・・・大事に、してください」

龍也の頬の傷に、力を込めて指をあてた。
その傷ごと、とがめられているようで。

口を出すなと、厳しい視線をおくっても、
葵はその目に負けない。
凜とした瞳で、龍也に訴える。

「無理して、暴走らないで」
「オレぁ、んなに、ヤワに見えっか」
「どんなに強くても・・・・・・」

葵がそこで口をつぐむ。
どんなに強くても。
どんなに速くても。
そんなこと、あなたが一番知っているではないか。

「また葵に心配かけちまったか……」
「……お願いです」
「デージョブだ」
「・・・・・・大事にしてください」

その願いは届いているのか、それとも、そんなこと、龍也はとっくにわかっているのか。
ずいぶん穏やかになった目元をゆるめて、龍也は、静かに休みはじめた。
やわらかな膝を龍也にかしたまま、葵は、願うことしかできず。
龍也のからだから、熱がはぎとられてゆく感覚を味わいながら、葵はそっと、龍也のことを、冷えた部屋で、守り続ける。

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