夏的恋愛二十題
9.汗の匂いにまで興奮します

住宅街の端に見え隠れしたあすかの自宅。あの日のように、家には近づかない。あすかの背中が無事玄関の扉をくぐることを、遠目に確認したあと、土屋は足早にきびすをかえした。シャツは赤黒く乾いた血でよごれ、顔にはカーゼに絆創膏。こんな姿を、ごくふつうの家庭のあの子の親に見せるわけにはいかない。頭の出来が悪いわけではない不良少年として、その程度の分別はある。

それから、あすかと会ったのは、片手で数えるほどだ。
気付けば、一般人であるあの子の夏休みもすっかり深まり、土屋は、あすかのために、日中出歩くことが増えた。ずっしりとした暑さの真夏。緋咲をまねて纏うスーツは、さすがにこの季節に着ることはできない。胸元にべたりとはりつくシャツのボタンをあけて、すこしでも涼をよびこもうとしても、熱気だけが土屋にまとわりつく。目と鼻の先には、海軍施設と、海沿いの公園。そして、あすかが通う高校。ずいぶん便利な場所にある。運動部員の奇声が、夏風にのって流れてくるが、あすかのこえは、聞こえない。



権力をもたない弱小部は、練習もままならない。
サッカー部や陸上部、男子の野球部においやられるように、あすかの所属する女子野球部も練習を終えた。部活棟の片隅の部室で、ジャージから制服に着替える。汗ふきシートで一気に首元をぬぐえば、べたついた感触もひとまず取り払うことができる。

炎天下。
条件は非常に厳しいけれど、理論と体の正直な声に従って練習を執り行えばもっとも身になる時間に、あすかたちはグラウンドから追われてしまう。


土屋が待つここからでは、グラウンドの変化はわからない。あすかが以前、これからというときに練習が終わってしまうと嘆いていた。体育会的感動にも、体育会的成長にも、何の心も動かされぬ土屋だが、所属している集団は、それらと特別変わらないのではないか。そんな事実は棚にあげて、あすかのそういった愚痴を適当に聞き流したことを思い出す。
時間的に、あすかが帰るのは、これくらいか。こんな過酷な天候のもとで練習などしていたら体に害になるだろう。練習がはやめにおわって幸運とは考えぬあすかの、己とは違う生真面目さを想い、校門から出てくる女学生のすがたを、こっそりと物色する。ナンパ目的と思われぬように、さりげなく。見つけたい人はひとりなのだから。


帰路につくあすかは、グラウンドの土の香りと、水道水の金属的なにおい、そして、こまめな手入れにより、汗のにおいはひとつもかおらない。土屋の倍ほど鍛えられた女子高生や、真っ黒に日焼けした女生徒にかこまれて。
ひとりだけ違う方向へ帰宅するあすかは、校門で、彼女たちと別れる。

単車で迎えにゆこうともくろんでいたが、この暑さに、土屋は結局音をあげた。不健康な不良らしく、なるべく日陰を選んで、要領よく歩いてきたのだ。あすかの姿をみつけた土屋は、先ほどから手にしていたペットボトルを、手の中でころがしながら、あすかが近づいてくることを、しばらく待ち続ける。

あすかは、日差しをよけるためか、フェイスタオルを頭にかぶったあと、やはり暑いのか、ふるふると頭を振った。
スポーツバッグから、水筒をとりだしてみても、なかはからだ。
くるくる変わる表情を、あすかはまだ、土屋に見せてくれない。きりりとした目元は、過剰にセンシティブになることはなく、落ち着いてひきしまっている。
どちらかといえばクールなあすかの、そんな年相応の姿を、遠目で楽しんでいると。

その聡明な目が、土屋を見つけた。

「あ!土屋くん!!」

堂々と大きな声をあげて、眦をさげて、やわらかくわらった。
土屋も、精一杯クールをよそおってみる。その正直なすがたが照れ臭く、呼吸をするように、土屋は軽く笑った。
己とつきあうことで、あすかは、自由に笑えることを手にしたのか。そうであればいいけれど。土屋は、かすかなうぬぼれとともに、かけよってくるあすかを迎える。

軽く片手をあげて、あすかに、ペットボトルのドリンクを放った。

「お疲れ」
「ありがとう!!人の世話してきたばっかだからこーいうのうれしい・・・・・・」

器用にキャッチしたあすかが、即座に栓をあけて口をつけた。暑いね!土屋くんは大丈夫?さっぱりとした声色で土屋を気遣うあすかから、少し離れる。どう考えたって、今の自分はあせくさいから。

「あすか、汗かかねえタチ?」
「かいてるよ!拭いてきただけ」

間近で見ると、ますますと涼し気なその姿。
あすかからほんの少し離れて、土屋は歩き始める。
土屋くんも飲む?
じゃれようとするあすかのその言葉を、笑って断って。


そうして、いつものように、あすかの家までおくろうとしていたとき、偶然を装って土屋とあすかのまえにあらわれたのは、相賀であった。日頃よりずいぶんハデな服装。すれちがう高校生は、目をそらしながら去ってゆく。

相賀には、あすかとの付き合いがバレている。

ほんの先日のことだ。今日と同じ場所で、校門から出てくるあすかを待っていたとき。
一緒に帰りながら、渡したかったの!と、押し付けられたのは、謎のドーナツ型のキーホルダー。自分が持っているものと色違いだからもっていろと無理矢理渡され、家の手前で別れた。
そのキーホルダーは、今、土屋の単車のキーにつけられている。
土屋の趣味でもなんでもない奇妙なキーホルダーに目を留めた相賀がさんざん騒いでいると、緋咲にぎろりとにらまれた。
勘のいい相賀が土屋から情報をひっぱりだし、このところの土屋の変化の真相にたどりついたのだ。

妙に愛想良くあすかにあいさつした相賀を不審がるよりまえに、あすかは、すぐにこいつのことを思い出した。

時々はなしたことあったよね?とフランクにやりとりをつづけるあすかに、あったあった!と相賀がおおよろこびで返していた。

ほとんどなかったはずだが。

土屋は、あのころのことも、しっかりと覚えている。

あすかとていつまでも相賀とはなしているわけでもなくて。
さわがしい相賀に数分ほどつきあったあと、土屋の彼女としてあすかは節度ある遠慮をみせた。

「相賀くん、下のなまえ、なんていうんだっけ」
「しらねーよ」

去ってゆく相賀に礼儀正しく手をふりながら、あすかが疑問を口にする。
やや暴走するたちであるだけで、緋咲に鍛えられた察知力、洞察力は十二分に長けている相賀が、薄気味悪いほど愛想のいいあいさつで、そのまま消えた。

去る直前の相賀の目の下品なかがやきにくわえ、あすかは気づくことのなかった、じつに下品なジェスチャー。
あれがいいたいことは、十分理解している。
まだあすかに、手など出せていないのだから。

あすかからただよう、人工的な粉末のかおり。
女と付き合うことでおぼえた、これは制汗剤のかおりだ。

この、暴力的な熱気のなか、あすかはすずしげに歩いている。

手をつなぐこともなく。
あすかの他愛ない話に耳をかたむけて、スムーズに相槌をうちながら。土屋くんは自分のことを話してくれないと僅かに拗ねたあすかの機嫌も、さりげないほど的確にとってみせた。
灼熱のひざしに照らされて、あすかの赤茶けた髪の毛の一本一本、その少し煤けた茶色が、透き通って見え始める。

そうこうしていると、いつも、あすかのことを見送る場所にたどりつく。駅からも学校からも徒歩圏内。ずいぶんご立派な立地だ、そんな愚にもつかぬことを思案しながら立ち止まると、あすかが、やっぱりさっぱりとした声で、切り出す。

「土屋くん、いつもここまでだね、あ、あの、いつもおくってくれて、すごくうれしいの」
「こんな族がよ、あすかんち近づくとよ、ご近所でなにいわれっかわかんねーよ?」
「いわれたら彼氏です!っていうよ?お母さん、六時くらいになんないとかえってこないから、今なら大丈夫だよ」
「え?さそってんの?」
「さ、さそうって、そんな、暑いでしょ、夕方まで、家で休んでってよ」
あ、約束があったら、ごめん、いいの

妙に言い訳がましいあすかに身を近づけようとすると、己の汗のにおいが気になり。コロンを強めにつけるべきであったか。過剰にコロンをかおらせて、汗のかおりひとつさせず、不機嫌な清潔さを湛え続ける、あのひとのように。
小器用に体をひいた土屋が、まだ一緒にいたがるあすかをたしなめた。

「いーんかよ、オレいれちまって」
「い、いいよ?」
「おまえになにすっかわかんねーぞ」
「か、彼氏だし!」
「そうだね、あすかはオレのオンナだね」
「ば、ばかにされてるみたい……わかっていれてるもん!はいって?」

土屋の手首をつかんだあすかが、土屋がまだ超えたことのない境界をあっさりとやぶった。
見たことのない景色、味わったことのないにおい、
ほんの少し足を踏み出すだけで、見えるものは変わる。
あすかの家のまわりには、夕方のにおいがただよっている。

「部屋行ったら、すぐクーラーつけるよ」
「ありがとー」

土屋の小汚い靴と裸足。運動部の補佐というハードな仕事を終えたあとだというのにこぎれいなあすかのソックス、きれいに手入れされたスニーカー。
そんなものがころがる玄関は、人の家のにおいだ。車の芳香剤とも違うし、人工的な脱臭剤のようでそうでもなくて。まぎれもなく、あすかのにおいのひとつ。

土屋がわたしたペットボトルはとうに空になっていて。
リビングにそれを置いたあと、あすかはキッチンにかけこみ、かばんをほうりだしたあと、冷蔵庫をあさる。
盆にコースターを律儀に敷き、ざっとあらったグラスに涼し気な麦茶を注ぎ。
そのお盆を不器用に支え、おそるおそる歩き始めたあすかから、さらりと奪い取った。
こんなもの片手で楽に運ぶことができる。
なんでそんなに器用なの!?自室にみちびきながら、土屋をたたえるあすか。オレにはこえー女王様がいるんだよと告げたい気持ちをおさえ、バイトで培った技術だと説明した。
あの人が己にとっての女王であれば、あすかは姫か。キザなことを思いながら、あすかが開いたドアの向こうの、フローラルのかおりは、土屋にとって、思っていたより正気を保ちにくいものであった。

きちんと片付いていて、やや統一感のない家具もあすからしく。テーブルの上に盆を置いて、土屋はフローリングにどさりと腰をおろした。
あすかがリモコンを操作した冷房は、すぐに冷風をおくりはじめる。

「ごめんね、汚くて」
「片付いてんだろ?これで汚かったら俺んちすげーよ」
「土屋くんち……」
「俺んちは、もちっと先な」
「……?あ、まだ来ちゃだめってことか。この近くなのかと……」

同じ学区であるから、極端に遠いわけではない。あすかの家から歩くことが、ほんのわずか億劫に感じてる程度の距離だ。照れ笑いするあすかを流し見ながら、よく冷えた茶に口をつけたあと、一気にあおった。あっという間にからになったそれにあわてたあすかが、階下に向かおうとするその細い手首をつかんで。

このフローラルの香りのもとは、窓辺に置かれているルームパフュームだった。

視界をかすめたそれに合点しながら、土屋は、冷房にかわかされた胸元に、あすかのことを引きずり込んだ。

「……びっくりした……」
「汗くせー?」
「ずっと待たせちゃったもんね。でも。あたしもそうだよ」

あすかの首もとに顔をちかづけてみると、妙にフローラルなかおり。
無遠慮にふれてみると、さらさらしている。

「何これ、なんかはたいたんかよ」
「わ、さわられると・・・・・・」
「さわられると?」
「な、なんでもない・・・・・・さらさらなのはね、シートで、ふいただけだよ」

しばらく体をかたくしていたあすかが、土屋の腕のなかで、ようやく緊張をほどきはじめる。

「汗くさくないよ?」
「気ーつかわなくていーぜ?」
「土屋くん、気にしてたよね?会ったときから。全然気にならないのに」
「バレてた?」
「このにおいするたび、土屋くんのこと思い出すとおもう」

土屋の首元にまるでしみ込んでしまっているような。強くふっているわけではないのに、土屋の中から、生まれてくるような。そんな香水の香りが、奥から立ち上ってきたのち、汗と混ざり合い、あすかでしか知りえない香りを漂わせる。
土屋の汗のにおいは、あすかだけのものだ。
土屋の、思いのほか厚い背中と胸元に、ぎゅっとしがみつきながら。あすかは、土屋の首元に、素直に顔をうめた。ここのかおりは、とりわけ強い。

「あすか不足」
「あ、あたしも土屋くん不足だよ」

短い人生で一度も与えられたことのない言葉。
戸惑いながらも、うずくような甘美をおぼえて、あすかは、土屋のまねをしてみる。

「素直に甘えてこれるようになったな?」
「あたしなんかが甘えてもいい?」
「まだ治ってねーのな?すぐには無理かよ?」

あすかに、まっすぐな自尊心を取り戻させるには。
些か生きづらそうなあすかは、自力で立ち上がり、自力で土屋のそばにいる権利を得たけれど、ときおり、その場で足踏みする姿をみせる。土屋が指摘すると、あすかが実に傷ついた、そして実にけなげな顔をすることも、土屋は知っている。
まっすぐな。まっとうな。健康な。
そんなこと、オレが言えっか?
自嘲しながら、土屋は、あすかの卑近なことばをとがめたあと、そのかわりに、すこやかな言葉を与えるのだ。

「すきだよあすか。自信もってよ」
「ご、ごめん・・・・・・」
「TELしてきてもいーんだぜ?」
「ありがとう・・・・・・でも自制してないと、毎日しちゃいそうなの!」
「いいよ、しろよ」
ま、たぶん妹がでるぜ。

土屋に、背中と腰を抱かれながら。あすかは、土屋がめずらしく教えてくれた自分自身の情報に、感嘆の声をあげて、すこし体を引いた。
土屋と額をあわせながら。あすかは土屋を羨望のまなざしで見つめて、語り続ける。

「妹さんがいるの?いいなあ、うち一人っ子だから」
「まだ小学生だぜ、誰からかかってきたとかよ、しょっちゅう忘れやがんの」

あれがよ、時々TELいれてくる緋咲サンに懐きやがってよ。
そんな言葉が続きそうになるけれど、押しとどめる。土屋の生息する世界のことをあすかに語るのは、もうすこし先だ。あすかには、順番というものが大切なのだ。

「あすかベルもてよ」
「えー、お母さん厳しいもん、むりって」
「そっかよ、ちゃんとしたいえなんだな・・・・・・」
「ふつーの家だよ、お母さん、パート。お父さんは、単身赴任」
「ああ、母子家庭かと思ってた」
「違うよー、お父さんしばらく京都にいるの」
今度一緒に京都行こうよ!

あすかの思い付きの提案をあいまいに流しながら、土屋は、どうしようもなく気がかりなことを、あすかに尋ねる。

「オレ、あせくさくねえ?」
「夏だもん」

いつだって涼しそうなあの人の比べて、己はああはなれない。あすかに偉そうなことをいっておいて、そういう自分自身は、あのひとへの憧憬がやまないのだ。どうしたってなれないあの男に。
そして、腕のなかにすなおにおさまってくれている、こざっぱりとしたあすか。
まだべたついた薫りを残しているようにおもえてならない己。
やわらかい花のかおりが漂うこの部屋で、土屋は己への違和感に、どうも落ち着かない。

「そんだけじゃなくてよー、どーもな」
「・・・・・・けんか?」
「はぁ?見ろよ、顔きれーだろ」

どこをどう解釈してそんな文脈にもってゆくのか。心配めいた表情にかわったあすかにあきれはてながら、己の顔をゆびさす。
今日はさすがに、誰とも揉めてはいない。
では昨日はどうであったか。明日はどうか。それは保証できないまま、瞳が陰ってしまったあすかの赤茶色の髪の毛を、丁寧に撫でてやる。

「そうだね、いつもの土屋くん。見えないとこに、ケガしてんの?ぎゅってしてたら、痛くないの?」
「いたくねーよ、いたくてもあすかがしてくれてたら治るっての」
「治らないよ?そういうのは、あたしじゃどうにもできないよ、病院」
「どこも痛くねえよ。こうさせてろよ」
「うん」

はなにかかったようなあすかの返事が、妙に煽って。
あすかの前髪をかきわけ、額にくちづけたあと、くちびるをそっとかすめた。
すきだらけだったあすかの口元が、次のキスを待っているけれど、土屋のうすい唇は、そのまま首筋をたどる。

「あ、このあたり、汗の匂いするわ」
「ご、ごめん、そのあたりまで拭いてないの」
「これ以上はいかねーから」
「……それ以上も、大丈夫だよ?」
「そーいうこと言うなって」

あすかの強がりを笑ってたしなめたあと、ブラウスの胸元のボタンを、長い指でとばした。
そのままあすかの胸元に顔を埋める。
あごのあたりをくすぐる土屋の髪の毛の感触に眩暈をこらえながらあすかは土屋の頭をだきしめる。

あすかの体を覆うパウダーのようなものにくちびるをすべらせて。
体の奥にひそんでいた、あすかの汗の匂いをさぐりあてて。
土屋はあすかをどさりと押し倒してしまうのをこらえながら、しばし、この夏の、あすか汗の匂いを、楽しみ続ける。

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