日常シーン10題
7.霧の濃い朝

早朝。今日は、始業前に国語のテストがあるため、小春は普段に比べ、30分ほど早く学校に向かっている。昨夜遅くまで勉強をしていたため体には疲労がのこっているが、渾身の力で全身をめざめさせ、テストには充分間に合う時間に、無事、登校中である。

それにしても、市街地に近づくほど濃厚な色をみせはじめる、この霧。
これほど霧の濃い朝は、小春の思う限りはじめてではないだろうか。
昨夜深夜の天気予報で、横浜付近の霧の濃さは伝えられていたけれど、どうも、夕べから、横須賀のこのあたりも、こうして濃い霧に覆われているらしい。

ひどくしっとりとした天気。
小春は、一度、霧のなか、海に出向いたことがある。

まだ小学生のころ。秋谷の祖父の家に泊まったとき。
霧のなかをつっきれば、しっとりとぬれてしまうほどの朝だった。

水着のまま家からとびだし、目の前の海岸に、浮き輪をかぶったまま突進した。
何も怖くなかったのだ。
海に入れば、そこだけ晴れたように、霧が裂けた。

そして浮き輪をつかんだまま砂浜の方を振り向くと、砂浜と海の境目から向こうがわは、真っ白な霧につつまれて、何も見えない。

怖くなんかない。
そう思い、浮き輪につかまり、真っ白な霧のなか深緑の海へバチャバチャとこぎだしていると、霧のむこうから、祖父の声が聞こえた。

何も怖くないのに。
でも、大好きな祖父は怒らせたくない。
泳ぎは得意だった小春は、まだ浅い沖合いで、浮き輪をくるりとまわして器用に方向転換し、まだ漕ぎ出して間もなかった渚に、あっさりとたどり着いた。

祖父にしこたま叱られたことを思い出して、小春は口元に笑みをうかべる。

小春は何も怖くなかった。
霧の向こうで泳いだ、あの海水の感触、ほんのわずか、口にとびこんできたあの海水の味を今でもおぼえている。

あのころは、まだ何も怖くなかったのだ。

昨夜の霧は、まだあたりにたちこめ、それはとても深く、濃い。

あの日の強さはどこへいったのだろう。
大切な人ができてから、小春のなかに不安ばかりうまれるのだ。


緋咲さん

声になんてだせないまま、こころのなかで、大切な人のなまえをよんでみる。
もしもこんな霧の日に、あの人が、バイクで走ったら、まだ治りきってないあの傷や小春が知らないうちにつくっているだろう傷に、いたくさわるだろう。
そして、あの人は、深く傷ついているときほど、小春に会ってくれない。
小春が傷つきそうだったときは、あの人がそばにいてくれたのに。

それが、もどかしいけれど。
あの人のいつくしみや、小春に心を砕いてくれていることが、小春には、痛いほどわかるから、どうしようもないのだ。

二輪車や自動車の、いきすぎた轟音とすれちがうたび、小春は目をぎゅっととじる。友達と歩いていれば、その輪のなかにまぎれこむけれど、今日はひとり。学校へ近づくたびに同じ制服が増えてくるから、さりげなくその群れのなかにまぎれこむ。

あの人がそばにいてくれれば。
轟音が、ふたたび小春のそばを通り過ぎる。
見たことのある色だった。
よく知ったスーツだったかもしれない。
あの人がそばにいてくれれば。
小春は、そんな都合のいい夢を、朝の霧のなかでみた気がした。




横浜中さがしまわったが、見つからなかった。このまま見つけられないままでいてほしいほど、緋咲は、その名前がゆるせない。かつて認めたあの男がそう呼ばれたことを、それは、ついこの間のことであったことを、そして、そのなまえは、喪われたはずだったことを。

忌々しい霧だ。
灰色の夜に、幽霊は、緋咲の手で見つけることは、かなわなかった。

包帯で覆った腹部が痛む。じくじくと血がにじみだしている。

日頃であれば、無傷の自分であれば。このうっとおしい朝靄の時間は、けだるく眠りに落ちるころだ。

まだ病院から出ることはかなわない身分である緋咲。
がらにもなく規則正しい生活を強いられ、体内時計は妙に健全だ。ずいぶん長く休みすぎて、そのしなやかな体には、ふりはらいたいほどのだるさすらおとずれる。本当は、もっといたわるべきなのだが、緋咲は、余計なことであると思ってやまない。

土屋に買いに行かせた整髪料で、ざっくりとたちあげた髪は、だらりと一部分が落ちきり、こうしている今も失われつつある血液は、緋咲の頭をふらつかせる。

判別などできないスピードで、制服姿の学生グループと、いくつもすれちがう。
無職少年の緋咲にとって、こんな朝も早くから、霧のなか。勤勉という名の退屈さを、思考停止してのんべんだらりとこなすことなど、かんがえられない。
かつては、解き放たれた枠の教育システムに身をおいたこともあったけれど。名ばかりのグローバリズム。もっと真の意味で公平な環境に、腕だけがものをいう世界に、体とこころを置きたくて、朝から昼の世界に、緋咲は背を向けた。

見覚えのある制服とすれちがっても、スピードをゆるめることはなかった。

特定の女を作るには、己の立場は危うすぎる。
この緋咲薫に、余計な荷物は要らない。
そんな信条は、ひとりの少女の前でくずれた。

見覚えのある制服だった。
朝の霧のなか、そのそばを思い切りとおりすぎた。

きっと気づかれていないだろう。

この唸り上げるFXを停めて、振り返ってやりたい。
俯きがちに歩いている小春に、当たり前のように言葉をおくってやりたい。
俺は大丈夫だから。
そう伝えて、小春を抱きしめてやりたい。
なにも怖いことなどないと、小春の頼りない体を抱きすくめながら伝えてやりたいが、その言葉はあまりに無責任で、そして緋咲は、己の傷を、小春に見せることができない。あの子を、この世界から断っておくために。小春を守るために、緋咲は、朝の光の下で、昼の陽射しのなかで、小春には会ってやれない。

それでも、こんなに濃い霧のなかなら。部屋の外で、小春のことを抱きしめてやっても、大丈夫やもしれない。こんなに濃い霧につつまれていれば、小春と己のことは、だれも気付かないかもしれない。

その甘い考えをふりきるように、緋咲は、おもいきりアクセルをあけ、恋人のそばを走り去った。まだ、この霧のあるじを見つけられていない。たくした男はいれど、この忌々しい霧は、だれのものか。緋咲はそれを知っている。濃醇なピンクが吼えるように、この朝霧を切り裂いていった。

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