日常シーン10題
8.横断歩道

汐汲坂通りをゆっくり下れば、そこは、きよらかで余裕にみちた賑わいであふれる、元町商店街。

両親には、経済的に無理をさせて入学したお嬢様中高一貫校。坂の下のこの商店街も、あすかには縁のない店ばかり。豪奢なお店で売っているゴージャスな家具など、あすかが暮す団地にはそもそも入らないだろう。歴史ある靴屋は、ボーイまでいる。商店街のかたすみのカフェでは、清潔感あるスーツを着た山手の教会の米国人牧師たちが、店さきで立ち話をしている。あすかも、学校の礼拝の時間で彼らの講義を聞くことがある。目があった瞬間、牧師たちが慈愛のこもった瞳であいさつをかわしてきたので、あすかも軽く会釈をかえした。あの人たちは、大金持ちの地元民にも、あすかのような私立校の女子高生にも、買い物客にも、観光客にも、そして、路地の裏からあらわれた、ホームレスのおじいさんにも、平等にあいさつをかわす。青いとんがり帽子をかぶった、ホームレスのおじいさん。「すてきな帽子ですね」と、流暢な日本語で牧師たちがほめると、おじいさんは、うれしそうにわらっていた。

あすかがアルバイトにはげんでいるコンビニにも、様々なお客がやってくる。そして、あっというまにあすかの前から去ってゆく。時間のながれの速さがこの仕事の特徴だ。
そして、あの人は、あすかの前に幾度もあらわれ、あすかにとってかけがえのない人となり、あすかのそばにいてくれる人となった。

そのまままっすぐ歩いて、黒い色の川ぞい。エスカレーターをつかって、地下に降りる。
ほとんどの同級生は、石川町駅をつかうけれど、諸般の事情で、あすかはこの駅を使っている。もちろん、あの駅を使うのが正しいルートなのだけれど、遠回りをして。学校にもクラスメイトにも先輩にも内緒のコンビニバイトだから。

元町中華街駅から、一駅だけ乗車して。
あすかはやっぱり、電車から降りた。

日本大通り駅。
この路線も、沿線で働く社会人でいつもいっぱいだ。

ここからまっすぐ歩いてゆけば、大きな客船が停泊している海にでるけれど、ひとまず県庁をとおりすぎたあと、税関のまえで、左に折れて。

今日のシフトは6時から9時まで。
それまで、すこしだけ時間はある。

こまごまと区切られた通りは、いくつもの信号と横断歩道で足止めをくらう。

ここは海岸通り。
今までにちょうど3回。
ばったりとあの人に遭えた場所だ。PHSやベルなんて、持っていない。会えるのを待つしかない。

あの人のように、轟音と独特の装飾を湛えた単車が、幾台もゆきかう海岸通り。すぐそばに県警本部があるのに、たいした度胸だとあすかは思う。

つい先日のこと。1度だけ、同じ女子校の中等部の制服を着た女の子が、純白の美しい単車の後ろに乗り、風のようにかけぬけていった姿を見たことがある。私以外にもいたのか。虚を突かれたことをおぼえている。

そして、今。
横断歩道を隔てて、向こう側に。
雷のような音をたてて、すっかり見慣れた服装で、これから仕事なのか、それとも終わったのか、まだ現場が待っているのか、ほんの少しだけ疲れた風情で。
サングラスをかけ、やや乱れた黒髪が、あすかをみつけて、片手をあげたあとその口元がニヤリと笑った。

信号が青になるのが待ち遠しい。
四方八方から人がわたってくるこの交差点。もどかしい時間、車や単車が行きかう様を焦れるようにながめながら、信号が、青に変わると同時に能天気な電子音をたてはじめると、あすかはたまらず駆け出した。

歩道の脇にとめて、紫色の単車のそばで待つ人。

白いエナメルのシートは、幼虫のおなかのようにうねうねと襞がきざまれていて、虫が好きなあすかは、このシートのこともだいすきだ。

「ヒロシくん!」

こんな呼び方は、まだ、はずかしい。お客さんと店員であったころは、お互いのなまえに、さんを付けて呼んでいた。

「今日は、相方さんは?」
キヨシくん。

エンジンをとめた単車から器用におりたヒロシ。いつも一緒にいる相方よりも、ヒロシの体格は一回り絞られている。分厚いドカジャンが、音を立ててばさりと舞い上がった。

「先けーっちまってよ、それがよ、ここにいりゃー、あすかちゃんくるかもしんねーっつーからよ」
んで分かんだ?あのクマ、エスパーか?

あの、金髪の、察しのいい人。同い年だと知ったときには、腰を抜かしそうになった。
あの人がいつも、ヒロシに会計をゆずり。あすかとヒロシが、少しでも多く語り合える機会を与えてくれたのだ。

ヒロシがあすかに想いをつたえてくれたときも、あの人の計らいがあってこその一幕だった。

「そうだったんだー、今度キヨシくんにお礼言わなきゃ」
「それぁそーとよ、・・・・・・セーラー服」

ヒロシの人一倍大きな声、これは仕事柄、そうなるようだ。
そんなヒロシの声が、妙に小さく竦んだので、あすかは思わず笑みをうかべた。

「そっか、見せたのはじめてだね。いつもバイト先の制服だし、外で話したときも、日曜日だったしね」
「それだとよ、単車・・・・・・」
「あっ、大丈夫だよ?30分もあったらここから歩いていけるよ、だからそろそろ・・・・・・」

あすかがちらりと腕時計を見たとき、

「お、おくってくからよ!」

ヒロシの大声が、あすかの言葉をさえぎった。

「ありがとう・・・・・・!今度、お弁当サービスする」
「バイトが勝手にんなことしたらよ、まずいんじゃねーんかよ?」
「あ、持って帰らなきゃいけないのも、あるから、そういうの、あげる・・・・・・」

そこで話が途切れてしまう。
うつむいたあすか。両頬にたれた髪の毛がさらりと顔をかくした。髪の毛の色の規定もない学校。バイト先で、実年齢よりもやや年上にみせるために、様々なタイプの客になめられないようにするために、髪の毛はあえて茶色く染めている。それでも、しっかりとした茶色が普段はなるべく目立たぬように、ポニーテールにまとめて。

ちらりとヒロシを見上げてみる。
サングラス。
眉間の黒子はとてもチャーミングで、今、どんな表情でたばこに火をつけようとしているのか。サングラスのせいで、まったくよめない。

「バイトね、学校には内緒なんだよ」
「バレたらどーなんのよ?」

まだ、付き合い初めて、間もない。こんなに基本的なことすら語ってなかった。

「退学にはならないけど、一週間くらい停学になる」
「そこまでして、やることかぁ?」
「行きたい大学があって、お父さんもお母さんも、反対してるから」

たばこを人差し指と中指にはさみ、大量の煙を吐き出しながら、ヒロシは黙ってあすかの話を聞いている。

「あとは、バイトしてたら、ヒロシくんに会えてたからかな?」

ヒロシが、照れくさそうに口をとがらせたのがわかった。まだ短くなっていないたばこをあしもとにおとし、派手な地下足袋でそれをふみけす。

「あすこ、危ねーべ?」
「むしろ、ヒロシくんたちがきてくれることが、抑止になってる」
「おー、そーかよ、そりゃよかったよ・・・・・・つーかそれどーいう意味だよ!?」
「だって店長も、パートの人たちもそういってるもん、あの二人が来てくれたら安心するわねーって」

パートの女性の口調をまねながらあすかが声をあげて笑うので、ヒロシも安堵した調子で、照れ笑いをうかべた。

「一日中いるわけじゃないし、大丈夫だよ。荒っぽいお客さん多いけど、いいひとも多いから」
「そっかよ、なんか困ったことあったらいえよ?」
「ありがと!」

再び会話はとぎれ、ふたりして、歩道のすみで、目をあわせてにこにこしてみたり、意味もなく中空やお互いの足元をみつけて、苦笑いをしてみたり。
そんな、初心で不器用な時間を過ごしていると。あすかがふたたび、腕時計を気にかけ始めた。

「そろそろ・・・・・・」
「お、おぅ」

ヒロシに指でうながされて、あすかは単車のそばに小走りで寄った。
ステップに足をかけて、一気にまたがる。
わたされたメットをかぶるまえに、あすかはあわてて髪の毛からヘアゴムをぬき、頭の低い位置にすばやくむすびなおした。

「デージョブかよ?」
「大丈夫、ありがとう」

不器用でおぼつかないかとおもえば、ヒロシはときおり、どきっとするほど大人びた声で、落ち着いた気遣いを見せてくれる。
あすかがヒロシにしがみつけば、ヒロシの単車は海岸通りを一気に直進したあと、横断歩道で、一度とまっった。

「ねえ、ヒロシ……くん」

ヒロシは、あすかのほうを振り向かない。雷のように大きな排気音。ふつうのバイクよりもずっと大きな音。フルフェイスのメット越しのあすかの声は、ヒロシに届いていないのだ。

ヒロシが激しく曲がるので、あすかは、ヒロシの腰にぎゅっとしがみつく。後ろのバーを持てばいいのだろうけれど。

馬車道を一気に走り抜けようとすると、そこでまた横断歩道の足止め。
歩行者のあゆみをまちながら、あすかは、メット越しに、ヒロシのドカジャンの背中に顔ををほせる。

いつも、彼ら二人がコンビニから去ったあとものこる、土やドロのあと。
そして、すこしの埃と、汗のにおい。
ヒロシが毎日、懸命に働いているあかし。

関内駅の大きな交差点でふたたびとまった。知り合いがいないか。メットをかぶっているとわからないだろうけれど、制服でわかってしまうかもしれない。よるべのない不安におちいり、ヒロシにぎゅっとしがみついた。

「どーした?」

排気音をとびこえてとどく、ヒロシの大声。あすかはメット越しにおもいきり頭をふった。

「こえぇかよ?わりぃな、もーすぐだかんな?」

怒鳴り声にちかい声が、あすかをいたわる。
あすかが、気にかかっていたことを、メット越しに、大きな声でつたえようとすると。

横断歩道の歩行者のあゆみがとまり、信号が赤に変わった。
そのまま一気に、伊勢佐木モールをくだってゆく。

そして、バイト先のコンビニ手前の、最後の横断歩道。

あすかは、やや強めにヒロシの背中をたたいた。

「ああ?」

振り向いたヒロシが、あすかを気遣うために大声をあげた。

「ここまででいいよ!!」
「かまわねーぜ?コンビニの前までいくからよ」

1ブロック先のコンビニに無事にたどりつくと、あすかの腕時計は、17時30分をさしていた。
おそるおそるリアシートからとびおりて、ヒロシが与えてくれたメットを、そっと返却する。そのうやうやしさに、ヒロシが口元に苦笑いをうかべた。

「おくってくれて、ありがとう、これも」
「気にすんじゃねーよ!キヨシのヤツなんかよ、これが完成してからずっとのってっけどよ、んなこと一度もゆったことねーんだぜ!?」

どちらからともなく、さればいいものを、どうにも離れがたくて。
ひっきりなしに人が行き来する、人口密度の高い街。
ヒロシの単車のそばに、だれもよらない。単車によって守られるひととき。

あすかは、勇を鼓して、先ほどから伝えたかったけれど排気音の渦にのみこまれ続けたことを口にしようとこころみた。

「あ、あの、ヒロシくん」
「ん?」

ドカジャンのポケットに手をつっこんで。ヒロシの喉の奥から滑り出してくる、やさしい声。たばこを吸おうとしているのだろう。それに火がついてしまうまえに、あすかは言葉を接ぐ。

「どうして、私だけヘルメットかぶるの?ヒロシくんは・・・・・・?」
私免許持ってないけど、ルール……。

「ルールなんか、きーたトキねーよ」

あすかのほうを見ることはなく。結局ヒロシにより取り出されてしまったたばこには、安いライターで火がつけられている。

こんなことをしていると、いつか。
そんな気持ちの押しつけをできるほど、己はヒロシのことを知っているのか。

「ううん、あの、なんでもない、気をつけてね?いつも、現場、お疲れさま」
「デージョブだよ、ありがとな」
「でも、体調くずして来たとき、あったよね」
「忘れてくれよ……あれぁよ……」

たばこを指に挟んだままのヒロシが、鼻の下を指でこすった。あすかは苦笑いしたまま、話を続ける。

「ケガしないでね、あの、無理しないでね」
「現場えらべる立場じゃねーからよ!あちこち行かされちまって大変よォ!」
「ヒロシくんたちが優秀だからじゃないの?」

己が生涯一度もかけられたことのない、「優秀」などという言葉。
ヒロシよりも背の低い、ずいぶん純粋そうな同い年の女子高生が、真面目にそんな言葉を吐くものだから、ヒロシはせきこむように大笑いしたあと、はずみでたばこがぽろりと落ちた。

「いつも、優しくしてくれて、ありがとう」
「んなかたくるしーの、いらねーよ!あすかちゃんはよ、お、おれのよ」
「カノジョだもんね、ヒロシくんは彼氏!」

少しさみしそうなほほえみをうかべ、えへへと笑う恋人の、少し乱れた髪の毛を、ヒロシは照れくさそうにひとつ撫でた。

「キヨシくんにもよろしく」

流れるような所作で単車にまたがり、片手でへらりと手をふって、サングラスをずらし、とてもチャーミングな笑みを残して、ヒロシは風のように消えていった。

力なく手をふりながら、あすかはその姿を見送り続ける。
まだ、どこまで彼に踏み込んでいいのか、わからない。

頭の裏側にいまだ残り続ける、雷のような排気音。
その記憶が不安をあおりつづける。

どうか、彼になにもおこらないように。
どうか、彼が誰のことも傷つけずにすむように。
私を愛してくれるように、ほかの人も愛せるように。

元町で見かけた牧師たちの説教のようなことを、考えてみる。
信心なんてないけれど、中等部と高等部一年でおそわった言葉の数々を、断片的におもいだしてみたりする。

どうか、できるだけ長く、彼と一緒にいられるように。
ずっと、だなんて、贅沢なことはねがわないから。

残されたガソリンのかおりに浸りながら、あすかは、信じてもいない神に、願い続ける。

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