日常シーン10題
6.壊れた街灯

ユニセックスなコロンのにおいと、ほんのわずかただよう、オイルのにおい。

殺風景な和室に、品のいいドレッサー。部屋の隅には、丁寧にたたまれた布団。そのうえに、枕がひとつ、かわいいくまのぬいぐるみもひとつ。
鏡の前には、最低限のヘアケア用品に、あっさりとしたたたずまいの基礎化粧品。
そして、ドレッサーの引き出しの中には、色とりどりのアイシャドウやチークがつまっていることも、あすかは知っている。

小さなアパートの一階。
この部屋は清潔感に満ちている。

こぶりのテーブルのまえで、思い切りひろげられたいろとりどりのフードを目にし、切れ長の瞳をかがやかせているのは、あすかの友人の、倫子。

「アタシ、ここのパン大好き!あんま食ったことないんだけどねー」
「やっぱしおいしいよ、ここのは」

倫子の部屋の小さなテーブルに広げられたのは、元町のパン屋で買ったいくつかのパンに、ケーキがふたつ、そして紅茶のティーバッグ。

「こんなにいいの?」
「初めてのバイト代が入ったから、倫子にプレゼントって思って」
「そっか、何だっけ、図書館?」
「簡単なバイトだけどね」
「あんた本ばっか読んでたもんねー」

ありがと、お茶いれるねー!
そう残して台所にたった倫子の声は、ハスキーで、こざっぱりとしている。狭い部屋に響いたそのきもちいい言葉に、あすかは笑顔でうなずき、礼を述べた。

「あそこ校則厳しそうだけど、バイトオッケーなんだね」
「それがぜんぜん厳しくないの」
「しかしすごいよねー、雲の上のガッコだわ」

自分の成績より、ややレベルは高かったけれど。今の高校に入るために、努力をつづけられたのは、すべて倫子のおかげだ。


弱いものイジメはゆるせないけど、アンタもちゃんと自分を持たなきゃダメ。


いつだったか、あすかに、きっぱりとそう伝えてくれた倫子。

周囲の顔色をうかがうだけで、自分の意見をもたず、すぐに卑屈になり、はっきりと不平を伝えらないにもかかわらず、なにごとも人のせいにしがちで、自分の弱さをあやまってすませていたあすかは、倫子のおかげで、まず、拒否の言葉をきっちり伝えることを覚えた。その後、素直な言葉を伝えられるように努力した。
それだけで、人付き合いの問題の九割は解決できた。

まだ、内気な性格が完全になおったわけではないけれど。時々こうして倫子に会うと、まだ入学したばかりの高校での疲れやほんのちいさなストレスが、少しずつ濾されてゆく気がする。

倫子は、申し訳程度に中学を卒業したあと、中学3年生の終わり頃から本格的にはじめていた工場での仕事を、そのままなりわいとした。この部屋からかすかにただようオイルのにおい。守られた空間で、ちいさなことで頭をいっぱいにしている自分に比べて、倫子は凛々しく自立していて、とてものびのび、いきいきとしている。
これまでも、これからも、倫子はずっと、あすかの、あこがれの女の子だ。

真っ白のティーカップにおさまった紅茶のティーバッグ。やかんからお湯がそそがれると、お湯の中に品のいい紅色が熔けだし、かおりが一気にたちのぼる。

ティーバッグをもちあげた倫子が、あすかにたずねる。

「これってここに置くもんなワケ?」
「マリンタワーでこれ置くグッズ見つけたよ」
「マリンタワーぁ?んでんなとこ行ったの」
「親戚の結婚式。タワーでやったの」
「はー、金持ちもいるもんだね」

ティーバッグは、ソーサーのかたすみにおかれて。
倫子は、片膝をたてたまま、繊細な取っ手をほっそりとした指でもちあげ、少しかさついたくちびるで紅茶を少しだけあおった。ふたりとも、砂糖もミルクもつかわない。

このティーバッグは何回淹れられるのか。
アールグレイとダージリンならどちらがすきか。
一番はじめに、ふたりで遊んだ日のこと。
一番はじめに、あすかが倫子のまえで泣いた日のこと。
一番はじめに、倫子があすかの前で泣いた日のこと。

そんな話をかわしていたとき

「リンコー!!」

鼻にかかった男声。
低すぎもせず高くもない、その、どこか澄んだ声は、あすかが、ほんの少しだけ怖くて、ほんの少しだけ聞きたかった声でもある。
明るい声と同時に、倫子の部屋の扉が、ドンドンと叩かれ始めた。

「リーーンーーコーー!!」

倫子の部屋の薄い扉が、わんわん波打って。
チャイムの音が、何十回と繰り返される。

しかめっつらで、しらないふりで、紅茶をゆるりと飲み、パンをかじりつづける倫子。

その間にも、扉をたたく音はやまず、ますますつよくなる。

あすかは、おそるおそるたずねてみる。

「・・・・・・あけなくていいの?」
「あけてほしーの?」
「そ、そーいうわけじゃないけど、でも気の毒だし、隣にまた苦情いわれるかもよ」
「しょーがねーなー、ほっときゃあきらめんだけどな」

はいはい!
そう、乱雑な返事をしながら、立ち上がり扉の前に立った倫子が鍵をがちゃりとまわした。
とたん、部屋にたおれこむように入ってきたのは、特徴的な髪型。ハデな迷彩Tシャツに、短パン。汗と土のすえたようなにおいがただようものの、そのたたずまいには、独特の華と、彼にしかない、確固たる雰囲気がある。
倫子によく似た、すっきりとした目鼻立ち。
倫子の双子の兄。須王。

「お袋にしめだされっちまってよー、行くとこねーからよぉ」
「るっせーな、オンナんとこいけっつんだよ」

売り言葉に買い言葉のようにそうはきすてた瞬間。倫子が、実にきまりわるそうな顔で、あすかのほうを、ふりむいた。
あすかは、つとめて笑顔で、首を横に振る。

「オンナあ?いねーからここきたんだろーがよ!」

かかとをふみつけたスニーカーを玄関にぬぎすてた須王。それは、あすかの真っ白のスニーカーのうえにほうりだされた。

靴きたねーんだよ!
靴をそろえながら罵声をあびせる倫子を背に、須王が、なぜだか服に付着していた土ほこりを一気にはらいおとした。あすかの姿をみつけると、須王は軽く手をあげ、邪気のないさまで、おもいこりわらった。あすかも、軽い笑みを浮かべてみた。

そうこうしていると、清潔な畳に一気に汚れが広がる。あわてて掃除機に手をかけたあすかを倫子が笑って制したあと、須王の後頭部を思い切り平手ではたいた。

「リンコはなんか勘違いしてんよなー、なぁ?あすかチャン!」

須王のあたまに見事にヒットした倫子の平手。患部を大きな手でさすりながら、須王があすかにうそぶく。

「え、あ、は、はい」
「かたくるしいのやめよーぜ、タメだろー」
「須王さん」
「さんーーー?呼び捨て呼び捨て」
「それはさすがに。じゃ須王くん……?」

あすかにちょっかいだすな!

掃除機の轟音の底から、倫子の大声がひびく。

倫子と須王が漫才のような会話をくりひろげているのを、見ているだけで楽しい。
それだけで、じゅうぶんだ。
己に言い聞かせる。

チェックのカバーがかけられた、倫子愛用の座布団をうばいとり、須王がそこにすわりこんだ。ちょうどあすかの向かいだ。

「あたしのだろーが!」

倫子が、須王の下からそれをひきずりだし、奪い返すと、須王がマンガのように、あおむけにころがったあと、マイペースにおきあがり、パンを盗み食いした。
そしてあすかの横に這ってきた須王が、すぐそばにマイペースに腰をおろす。やや身じろぎしたあすかは、ほんの数センチ、須王からはなれた。

「あすかチャン、なんで離れんのよ、じゃーその座布団かしてよ」
「えー?この座布団小さいよ」

あすかが、もじもじと逡巡していると、結局須王はその真横にあぐらをかいてすわりこんだ。そして、あすかのティーカップを遠慮なくうばい、口をつける。あすかは反論・拒否・抗議する暇すらなかった。

「ウェっ、ノンシュガーかよ」
「須王くん、砂糖いれるの?」
「コイツ味覚がガキなんだよ」

あすかのケーキを、須王が土臭い手でつまみあげようとするので、倫子がその手をはたこうとするまえに、あすかが自分でやんわりと制した。

「食わせて」
「ダメです・・・・・・」
「あすか、何っにも恵まなくていいからね!」

泊まってく気かよ!と須王にくってかかる倫子を、須王はのらりくらりとかわしながら、いまだあすかのケーキをねらおうとする。

「いちごだけならいいよ」
「んー?いいよ、あすかチャン食べろよ」
「あ、そう?じゃあ食べようかな」

そんなやりとりをつづけていると、須王が結局、品のいいショートケーキの上にのっかったいちごをひょいととりあげ、口にほうりこんだ。

「須王!てっめー、今日のメシそれだからね!」
「倫子のメシまずいんだもんよ。なーあすかチャン、こいつに料理教えてやってくれよ」
「ええ?私も料理は調理実習でしかやらないよ……」
「文句言うなら食わなきゃいーだろ!」

倫子のアパートに、ときおりこうしてひょうひょうと訪れる須王。この、粗野だけれど、どこか憎めない雰囲気。ときどき須王があげる大声や乱暴な言葉には、怖さをおぼえてしまうことも、あすかにとって正直なところだ。ここには、倫子に会いに来ている。そして時折ばったりとあえる須王のことが、妙に気になったり、会えないとさみしく思えてしまったり、今日は会わなかったとほっとすることがあることも、本音なのだ。
まだまだ、自分と似たタイプの人としか仲良くできない。
自分と正反対の友達は、倫子だけ。
あすかはまだ、須王が、どことなく怖くて、そしてどうしたって気になることも、そのどちらも、事実なのだ。

そうしていると、そろそろ夕方も5時近くなっている。

「じゃ、そろそろ帰るね」
「須王がくっから、あすかとちょっとしかしゃべれなかったじゃん!どーしてくれんの」
「あすかチャン、おくってってあげよーか」
「いや、いいよ、駅まで近いし」
「あんなモンにあすかのせんじゃねーよ」

倫子の声が、いつになく据わっている。
須王が、いやにまじめな顔になったあと、双子がしばらくまじめな顔で視線をかわしあう。
そして、須王は、目線を畳におとしたあと、あきらめたように笑った。

「あの、ほんとにいいよ、歩いて帰れるから!」

なるべく、あかるい声をだして。
これ以上、このきょうだいの雰囲気がわるくならないように。

そう言ったとき、あすかはもう靴をはき、ノブに手をかけていた。

ノブをにぎったあすかの手。そのうえから、須王のざらついた黒い手が重なった。
それはしなやかなんかじゃなくて、太く、ざらざらしていて、真っ黒で、やっぱり怖い。
あすかはつとめてこっそり手を抜こうとするものの、須王がそれを、ゆるさない。

「おくるっつってんだろ?」
「ご、ごめんなさい」
「そーゆーときは、ありがとうっつんだよ、あすか。おくってもらいな。ほら、あそこの街灯壊れてんじゃん」
「ま、まだ明るいけど・・・・・・、あの、ありがとう」

さきに外に出た須王。玄関まで見送りにきた倫子が、あすかの耳元でつぶやく。

「言ったじゃん、ちゃんと自分をもたなきゃって」

須王をおいはらうように手の甲でシッシとはねのけたあと、あすかにむかってサムズアップした倫子。
明日もあの子は仕事だ。
不安や不満をわずかにかかえつつも、ルーチンのように学校に行き安穏とくらすあすかと違って、倫子は自分の足で生き、自分の腕をみがき、かざらないのに、とってもきれいだ。

ドアから顔をだして、手をふりつづける倫子に、あすかもぶんぶんと手をふった。

「あすかチャンち、こっち?」
「あっ、駅まででいいよ」
「家までいくぜー?」
デージョブだよ。狼になんねーから!

そういうシャレには慣れていない。
須王のことは、警戒すればいいのか、リラックスして付き合えばいいのか、まだわからない。とりあえず、近いうちにまた倫子に電話をしようと思う。

「二回乗り換えるんだよ、遠いでしょ」
「オレカネもってなかった!」

あすかの少し前を須王は歩く。これくらい離れてくれているほうがいい。

「倫子、性格キッツイだろ?」
「そんなことないよ、ずっと優しくしてくれたよ」

汗と土のにおいの奥からかすかな香水のにおい。海のにおいに、人工的なものをくわえたような。あすかは、香水は苦手だ。とくに男のひとの香水なんて、くさいとしか思えない。倫子の香水だけは平気だ。そして、このかすかな香り。あすかにとって、大切なのか、怖いのか、わからない。

「あ、ここの街灯かあ」
くるとき気づかなかった。

ガス灯を模したような街灯。ゆっくりと青白くなっていく町のなかに、あかりもつけず、たたずんでいる。あすかは立ち止まってそれを見上げた。須王も、そのそばに戻り、街灯に手を置き、じっとみあげている。

「この辺物騒だぞ?倫子はつぇーからいいんだけどよ。あすかチャンみたいなおじょーさんは、俺心配」
「私、別に何にも遭ったことないしなあ。大丈夫だよ。でもおくってくれてありがと」

短パンからセーラムを引っ張り出した須王は、その場でたばこに火をつけた。これは、倫子と同じたばこだ。煙が少しあすかにかかったあと、須王は軽くあやまり、歩いてきた方向に向き直り、街灯に背中をあずけた。

「あすかチャン、ランコーだっけ、大変だな?」
「ち、違うよ!!県立のほう」
「ああ!そーなんかよ!んなヤサシー性格でよ、ランコーでやってけんのかってよ、心配だったんだよ」
「優しくもないけど・・・・・・」


本当にやさしいのは、倫子みたいな子だろうな。


まだまだ、他人とまっすぐ向き合う勇気をもてないあすかは、須王のたばこの煙のゆくえをおいながら、暗い街灯を意味なくみあげてみる。

たばこのかおりも、そんなに好きじゃない。
こうして時間をつぶしていると、あたりはどんどん暮れてゆく。
まるで、青い大気が、まわりをゆっくりとむしばんでいくように。

壊れた街灯の下。
顔はよく見えない。

「あの、須王くん」
「何?」

気づけば、あすかは、須王のなまえをよんでいた。

「え、えっと、倫子の家にくるとき、あんなふうに戸をドンドンたたくのはやめたほうがいいとおもう。倫子、いつも、隣の人にあやまってるの」

たばこをくわえたまま、壊れた街灯にもたれて、須王は、横目で、何かを絞り出しはじめたあすかの姿をじっと眺めている。倫子とおなじ、嘘をつかない瞳で。

「あ、あと、私、須王くんのこと、時々怖いけど」

明かりのともらない街灯のした、須王の目元が茶目っ気たっぷりに、ゆがんだ。

「そういう偏見、なくしていくから、これからも、須王くんが倫子ん家きたとき、私がいたら」

ぺこりと頭をさげたあすかに、須王は、こどものように破顔した。

「よ、よろしくおねがいします・・・・・・」

明るい光のもとだと、いえなかったこと。
暗く、壊れた街灯の下で。

「あすかチャン、ランコーでもやれたんじゃね?」
「だ、だから県立のほうだってば!!!それに、無理に決まってるよ!!!」
「ヤサシー子だと思ってたけどよ、強いよな、あすかチャンは」
「そんなことはないんだけど・・・・・・倫子みたいになりたいな」

たばこをぽいと投げ捨てた須王が、マイペースに歩き始める。
須王が投げ捨てた吸い殻を、あわてて側溝に蹴落としたあすかは、その背中を小走りに追いかけた。

「あすかはあすかでいいんじゃねーノ?」
「な、なまえ……呼び捨て」
「オレぁよ、どんなヤツのことでも、ファーストネームで呼んできたんだぜ?女のコは特にな。最初からそう呼べなかったのは、あすかだけだぜ?」
「そ。そうなんだ」

それがどういう意味を為しているのか。あすかにはまだわからない。
この場に倫子がいてくれれば。
まだ、あすかは、倫子のことが大好きで、須王は、少しだけ、怖いのだ。

「そういえばバイクはどこに置いてたの?」
「今日はよ、バイク屋に預けてきたんだよ。倫子にあんな言い方されなくてもよ、どっちみち歩きでおくってたっつの。なあ?」
「あ、あはは」

こういうとき、苦笑でごまかすわけじゃなくて、さらりと会話をひろげていければ。

「じゃあね?」

車が行き交う大きな通り。夕暮れ。学校帰りの小学生や、生真面目な制服姿の中学生も、ぽつぽつと歩いている。この歩道橋をのぼれば、そのさきに駅がある。

「またあそびにこいよ!俺もときどきいるからよ」
「そうだね、また遊びに行くよ。ありがとう。須王くんも、ケガとか、しないようにね。倫子、あれですごく心配もしてるから」
「おれがいっちゃんわかってんよ?」
「そうだね、よけいなこと言ってごめん」

ポケットから、再びセーラムをとりだした須王が、マイペースにそれに火をつける。あすかは、最後のあいさつを残した。

「ありがとう、倫子によろしくね!」
「あすかはいつになったらリンコよりオレを好きになってくれんだよ」
「……あの」
「じゃあな、気ぃつけろよー!リンコに電話でもいれてやれよ?」

須王はもう背を向けて、すたすたと去ってゆく。歩道橋の一番下に立ち尽くしたまま、あすかはその背中を見送る。
須王が歩きはじめたのは、おくってくれた道、倫子の部屋に続く道ではなく、大きな道路沿い。

あの部屋には帰らないのだ。
須王は、これから、どこへゆくのだろうか。

須王くん!だなんて、人目を気にせず叫ぶことなんて、できなくて。その姿に背をむけて、歩道橋をのぼる。道路を横断する橋の上から、さがしてみると、もうその背中はみつからなかった。

いつになれば、勇気をだして、須王を好きになれるのだろう。
いつになれば、倫子みたいに、美しくなれるのだろう。
いつになれば、自分自身を見つけて、自分自身のまま倫子や須王を好きになることができるのだろう。

倫子の部屋のオイルのかおりが、はなをくすぐる。須王の、汗と土と男くさい香水と、あのがさついた手の感触。この感触に耐えられる力はまだあすかには、養われていない。
あたりはゆっくりと暮れ始め、歩道橋の下は、もう判別もつかない。
早く帰らなければならないのに。

あすかは、歩道橋に腕をあずけ、いまだ、須王が去ったその道を、ながめつづけている。

prev next
- ナノ -