5.午後の陽射し
冬の午後が、暮色に包まれてしまうのは、思いのほか早いけれど。
実力テスト最終日。それ相応の手ごたえをえて、千歳が学校からうちだされたのは、午後の陽射しのなか。
まだ、ずいぶん陽は高い。少しはやめに終わった学校は、特別な高揚こそあれど、いざ自由をあたえられると、どう過ごしていいものか、わからなかった。こんなとき千歳は、自分の頭の固さを知る。
ひどく冷え込むこの季節。分厚いデニールのタイツをはいて防寒にはげむものの、冷気を完全にたつことはできない。
けれど、今日は、日頃の花冷えにくらべると、ずいぶん穏やかな陽射しを感じることができる。
どんよりとした薄曇りの日がつづいたこのごろ。
水彩絵の具を真水にとかしたような空は、おだやかな陽射しにつつまれ、千歳をやわらかく照らしている。
この、特別な午後の陽射し。
隣にいる秀人のやわらかい雰囲気のおかげで、千歳はいっそう心地よく感じるのだ。
それにしても。
秀ちゃん、別にテストとかじゃないはずなのに、どうしてこの時間にここにいるんだろう・・・・・・
厳重なセキュリティの校門からのんびりと出てきた千歳を、外壁沿いに待っていたのは、いきなり遭遇するには心にかかる甘やかな負担が大きすぎる、清潔感に満ちたバイクと、短ラン姿。
「あっ……」
これでも驚嘆の声をあげたつもりだった。けれど、千歳の小さな声は、午後の陽射しのなかに淡くとけていく。アイドリング音はしない。またがったままたばこを吸っていた秀人が、悪びれない、自然な笑みで、片手をあげた。
「待ったぜ?」
「あ、ごめんなさい、ちょっとだけ残って友達としゃべってて」
会えるとは思いもしなかった。小さな喜びと、どれほど長く付き合っても薄れることのない、秀人への新鮮な想いと、その清潔なすがたをまっすぐみつめるには、芯のつよさを必要とする、どうしようもないはずかしさ。
「今日、そんなに寒くないですね?」
「そーだな」
「ここ、どうしたの?」
千歳は、秀人の頬にはりつけてある絆創膏を、指さして問いかける。それ以外、目立ったけがは見当たらない。
はがしたら、痛々しい傷がでてくるんだろうな。
「なんでもねーよ?」
やわらかだけれど、確かな忌避。そのかわり、秀人の片手が、しずかな風にあおられた、千歳のやわらかい黒髪をなでた。
きかなければよかった。
的確に空気をよむことができない自分に嫌悪感を抱きながら、千歳は小さな声で相槌をうった。
「そっか・・・・・・」
秀人は相変わらずマイペースな調子で、たばこを吸い続けている。
次の話題をさぐるため一生懸命頭を回転させ、やや以前の記憶をみごとたぐりよせることのできた千歳が、鈴のような声で話を切り出した。
「あっ!あの、二週間くらい、前」
「ん?」
「秀ちゃんが、かわいいバイクにのってるの、みかけましたよ」
「あ?」
まったく何のことだかわからない。
そんな言葉をそのまま整った顔に浮かべたような面持で、まるっきり素の声をあげ、秀人は、彼らしくない間抜けな問いかけを千歳におくった。その拍子に、秀人のかたちのいい口元から、たばこがぽろりとアスファルトに転げ落ちた。
「水玉のバイク!」
後ろにいっぱい何かついてるバイクです!
見て覚えたものを、得意げに報告する千歳とうらはらに、しばらくぽかんととまっていた秀人の時間は、やおら動き始めた。
秀人は、笑いをかみころしながらも、どこかむずかしい表情を浮かべる。
「・・・・・・」
ばつがわるそうな瞳、それでいて、何かを思い出し、かみころすような、いたずらっぽい笑顔。
秀人のそんな顔、じつにめずらしい。
「どうしたの?」
秀人の、めずらしく豊かな様相をみつめているだけで、千歳は楽しい。
「い、いや、ちっとな」
「あっという間に行っちゃったから。ああいうバイクも持ってたんですか?かわいいですね、ドット」
「どっと?」
「水玉のこと。草間弥生さんみたい」
「くさまやよい?」
「現代アートの人」
「げんだいあーと?」
「・・・・・・あ、あの、あれは秀ちゃんの?」
瞳をおよがせ、めずらしく秀人が、複雑に入り交じる気色をみせはじめる。不思議そうにその変化を観察する、混じりけのない瞳の千歳に、秀人は、さりげなくたずねた。
「・・・・・・・俺の後ろついてくるヤツ、見たかよ?」
「あ、その後すぐバスに乗っちゃったから、それはわかんない」
めずらしく、こちらを伺うような表情だった秀人が、あっというまにやわらかな顔にかわった。
「何か楽しいこと、ありましたか?」
千歳が思い出せるかぎり、秀人のその、ばつのわるさの奥にある、どこかおさないほほえみをまみえたのは、なんだかひさしぶりのことなのだ。
「ねーよ?」
「そっかー・・・・・・・」
きっと何かあった。何か、満たされるものに出会った。
秀人はまだ、おしえてくれないようだ。
「勘違いだね、ごめんなさい」
あっさりとひいた千歳のそばで、秀人は話題を変え始めた。
「それよかよ、俺転校すんだよ」
「そう……。せめて、二年生からじゃいけないの?」
いろんなことがばれてしまったのか、我慢ならぬ何かが起こってしまったのか。秀人の身の上を思いながら、驚きよりも、千歳の想像力は、このさきの未来のことへおよぶ。
「なんだ、おどろかねーのか」
「・・・・・・何があったか、わからないけど、今からっていうのはあんまりな仕打ちな気がする」
秀人は、ただその場で生きていただけだろうに。
だけど、只今この瞬間、こうしてそばにいてくれる秀人は、いつもの、おとなびた達観がないのだ。
ひとつの場所を喪っただけじゃなくて、その場所で、きっと何かを得ている。
「それがよ、ああ、まだ言ってなかったか」
「うん?もしかして、そのけがと関係ありますか?あっ、今日学校辞めてきたところだから、今ここにいるの?」
「よくわかんな、オメー」
「秀ちゃんのことなら、わりとわかるようになりましたよ」
妙にほこらしげな千歳の額を、秀人は、しなやかな指でかるくはじいたあと、両サイドにながされた前髪のすきまから、そっとキスをおくった。
さきほどまで、おっとりとした自負心をあらわにしていた千歳は、途端に頬を紅潮させ、真っ白の手でくちづけのあとをおおった。
「そのうち話すからよ」
「いつでも待ってます!」
ラフな調子で、だけれどやさしくかぶせられたメット。
その重さにおろおろとしながら、秀人に指だけでしめされたリアシートに、慎重に乗る。
短ランごしの秀人の背中は、この陽射しのようにあたたかい。
次の学校も、学ランなのかな?
それもきっといつか話してくれるであろう。
あの日も、今日とよく似た心地よい冬の午後だった。そして、あたたかな陽射しが射していた。
あの秀人は、なんだったのだろう。
まるで、幼いころにあたえられた、おもちゃのような。
ドットが散らされたメルヘンなバイクにまたがった秀人がどんな顔をしていたか、わからないけれど。平和で、ぬくもりにみちていて、きっと、優しかったのだろう。その秀人は、千歳といてくれるときと、同じくらいであればいい。そんなわがままを心の片隅に住まわせながら、千歳は秀人のあたたかい背中に、からだをあずけた。
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