4.湿った路地裏
中学生の頃、修学旅行先で大きな遊園地におとずれた。
同じグループには、読者モデルをやっている美少女がいた。あすかより1センチ低い身長のその肢体は、中肉中背のあすかよりずいぶんすらりと見えて、実にミステリアスな美しさだった。
出席番号順でわけられたグループだった。日頃から、彼女とさほど仲がいいわけでもないけれど、とくに悪くもなく。普段一緒に行動しているわけではないあすかは、そのときはじめて思い知ったことがあった。
かわいい子が、いかほどナンパ被害に遭遇するかという事実。
遊園地内で、彼女は、彼女目当ての知らない男たちに終始つけ回されていた。最終的に、体育教師と生徒指導教師があすかのグループにくわわり、ことなきをえた。
美少女の苦労は相当なものなのだ。
誠実なナンパ、そもそもそんなもの存在するのかどうかわからないけれど。
女なら誰でもかまわないような見境のない中高年の男に声をかけられることはあれど、まともなナンパ経験などただの一度もないあすかには、縁のない苦労である。
そして今。
湿った路地裏で、あすかは千冬の背中でかばわれながら、美人の苦労は相当だと、思い知っている。
ただいまのあすかは、まるで空気のような扱いだからだ。
千冬が歩けば、すれちがった人々はほぼ100%の確率で振り返る。
ただし、気安く声をかけてくる者は、50人中1人程度。そして、千冬が何者かをしった男たちは、顔面蒼白で逃げ出すのだ。
あすかとさほど変わらない身長。ふたりで肩を並べて歩いていると、女二人組だと勘違いされることもある。
残念だけど、かたっぽは、美人の引き立て役なのね。
そういう女二人組って、いるよね。
そうそう、片方が美形で、片方は引き立て役。
ぜってー美人側が利用してるよな。
ブス側もそれくらい気づけばいいのに。
そういった嘲笑、愚弄の声が聞こえることもある。
そのたび、千冬はあすかの肩を抱き、間近に引き寄せる。
そしてあすかの艶やかな黒髪にくちびるをよせ、
ときには、あすかの浅黒い肌にくちびるをすべらせ、
あすかは、俺の恋人だ。
おまえたちより、あすかは何倍も美しい。
千冬は、そう主張する。
それにしたって、鎌倉駅付近で、この下品な行為はめずらしい。
千冬目当てで声をかけてきた男。
冷たい瞳で、中指をたて、千冬が一蹴したものの、その後から、さりげなくつけまわしてくるその集団は、人数が2人から5人に増えている。
真正面から千冬を目の当たりにし、真正面から千冬に一蹴されれば、湘南に暮す多くの男は、その段階で千冬が何者なのか、うすうす勘づくケースが多い。
少なくとも、あすかが遭遇してきた範囲内では、そうだった。
しかし、今日の連中はそうでもない。
地元の人じゃないのかな。完全に千冬の引き立て役扱いのあすかは、そう見当をつけた。
「ちっ、しつけーな」
あとをつけまわされ、あすかをしっかりとそばに引き寄せながら、千冬はいい加減うんざりといった調子でひとりごちた。
「駅に入っちゃうとか・・・・・・?」
「んー、人多いとこにはいかねーほーがいーな」
「そっか、ごめん・・・・・・」
「ん、デージョブだからよ、あすかは俺から絶対離れないで」
そういえば手をつないで歩くことや、腕を組んで歩くことはあまりない。あすかも、その行為はあまりピンとこなくて。二人で肩をならべて、お互いの二の腕がときどきふれあうくらいの距離で歩くのが好きだ。そして、時々肩を抱かれてあるく。
今もそうだ。千冬に思い切り肩を抱かれている。
小町通りの入り組んだ路地を、千冬に抱かれたまま縦横無尽に抜ける。
コンビニや、開店前の飲食店が立ち並ぶ細い通り沿いをぬける、もっとも狭い路地。
そこに男らを誘い込んだあと、千冬はぴたりと立ち止まった。
じめじめとした、湿った路地裏。
さきほどから、千冬目当てでつけまわしていた男数人。
前方に二人、あすかの後方に三人。
「あすか、デージョブだからよ」
あすかを背後にかばい、千冬は、壁を背中にして、男たちをさそいこんだ。
千冬が何者であるか。
その事実をいっさい嗅ぎ取ることはなく、男たちはご丁寧に口上ををのべたので、おおむねの情報をつかむことができた。
川崎かよ
名乗った族名と名字を、千冬はひとまず、頭の片隅にとどめておく。
案の定、千冬のことを「ネェちゃん」と呼ぶ。
冷や汗をかきながら、あすかは千冬の様子を見守るが、鬼畜なほほえみをうかべて、その言葉を冷笑に付すだけだ。
にやにやと下卑た視線でなめ回してくるその男たちはやはりぶきみで、あすかが千冬にそっと寄ると、千冬は、あらためてあすかを背中にかくし、守り通そうとする。
千冬の醸し出す、氷のようなオーラ。千冬の芯はどれほどプレッシャーをかけられても微動だにすることなく、五人組はそろそろしびれをきらしてきた。いくら殺気のつばぜりあいの現場に慣れていないあすかとはいえ、この不気味な空気の落としどころが、そろそろ近づいているということくらいは、わかる。
「あすか、そっちから逃げろ」
千冬は、あすかをかばったまま、背後のあすかの方に首をかたむけ、耳元でささやいた。
「ち、千冬さん」
「すぐ終わる。角のコンビニの前にいて」
こういうとき、千冬のそばにいるだけで足手まといなことは自覚している。
すぐそこのコンビニに助けを求めればいい。
公衆電話で警察を呼ぶこともできる。
今の自分にできることは、それくらいにすぎない。
千冬に軽くからだをおされた。
やむなく、この湿った路地裏から離れようとした瞬間。
「待てよ」
男のむきだしの腕が、あすかの行く手をふさぐ。
自分のことなど、歯牙にもかけない連中だと思っていたのに。
思わず、行動が阻まれて。あすかがわかりやすくおびえ、千冬のきつい舌打ちがあすかの耳にとびこんた。
一人の男が壁に手をつき、あすかの退路を断った。
そして、千冬とあすかの間にできたわずかな隙間に、もう一人の男が入り込む。
男から見ればきゃしゃなあすかは、あっさりと二人組に囲まれた。
そのすきに、千冬もずらりと囲まれたようだ。
「ああ?そっちでいいんかよ」
千冬を気圧そうとしている男が、あすかを取り囲む男たちに声をかけた。
戯れ言をはなしている男たちの隙間から千冬のことをのぞく。あすかに顔を向けないかわり、いまだ超然と腕組みをしているようだ。
「俺、こっちのほうが好み」
「あ、おれも。金髪だとぬけねーんだよな」
素人くせーオンナとヤリてー気分。
ゴテゴテした指輪がはめられている、品のない手が、あすかの髪にふれようとする。
千冬以外の人間にさわられるのはいやだ。
反射的にあすかが身をすくめると、分厚いブーツを履いた足が、男の頬にめりこみ、その勢いで、あすかを囲んでいた男は、ふたりまとめて吹っ飛んだ。
千冬をずらりと囲んでいた男たちがひるむと、あすかが目視できないほどの速度で、千冬がパンチを叩きこみ、次々と倒れていく。ものの十秒のできごとだった。
「んだァ?この程度かよ。いこーぜ、あすか」
「ち、千冬さん」
あすかが口をひらくまえに。あすかがおびえる隙もあたえず。あすかの手首をがしっとつかみ、分厚いブーツで千冬が走りはじめる。
湿った路地裏に肉塊をのこし、千冬に導かれ、ふたりはあっという間に、開けた通りにでた。
「あすか意外と走れんじゃん!」
「体育苦手じゃないから!千冬さんも体力あるね」
「じゃねーとよ、改造ハーレーなんざ転がせねーよ」
とはいえ、歩きやすい靴のあすかはともかく、豪奢なブーツの千冬。足下に負担はあるだろう。疾走する足をとめて、千冬は一度立ち止まり、上体をまげ、両手を両ひざにあてて、ぜいぜいと息をついた。
「千冬さん、大丈夫?」
「あ、足?大丈夫大丈夫」
「千冬さん、メーワクかけてごめん」
「ああ?ありゃオレねらいだぞ」
申し訳なさそうな顔でしゃがみこみ、千冬の足を気遣っているあすかの頭をポンポンとなでながら、さきほど得た情報を頭のなかで反芻した。次の的はあそこだ。まあ、勝手に動くと、八尋が怒るだろうから、一応話は通しておくにこしたことはない。
「立てよ。あすかのことはぜってー守るよ」
二の腕を引っ張って立たせ、千冬はあすかを至近距離に抱き寄せる。
「ありがとう……あ、えっと・・・・・・」
「どうした。怖かった?」
あすかが、だまって首を横に振る。
「オレが、怖かった?」
「ううん!」
「オレが怖ぇかよ、しょーがねーな……」
「ううん!って言ったよ!」
意地悪・・・・・・!
わざとらしく悲しむ演技をする千冬に、あすかが抗議の声をあげるので、千冬が笑ってあすかの頬を抱き、額にそっとキスをした。
ずいぶん走ったあと、少し乱れたあすかの黒髪を丁寧にととのえてやったあと、千冬はあすかの手を引いて歩きだす。段葛の鳥居をくぐりぬけ、この開けた通りにでると、もう追ってくることはないだろう。
「千冬さんは、だれよりきれいだから」
「ああ?」
「あんな人等に、品定めされていいよーな人じゃないの」
「んだよ、オレぁんなこと言われ慣れてんぞ?」
ま、オメーの前でキレたかねーだけだよ。
懐から引っ張りだしたサングラス。妖しくととのった顔にそれを装着しながら、千冬はニヤリとわらった。
「サングラス・・・・・・」
「あんま似合ってねーだろ」
確かに、なぜだか千冬にはアンバランスだ。
ふつうのメガネとなると、実に千冬にマッチし、千冬の素顔を、非常に知的にひきたてるのだが。
「ハナからこれかけてりゃよかったよ。こーしてるとよー、あんましからまれねえの」
「千冬さんは、堂々としてていいの」
「あすかもしてて。あー、でもあすかかわいいかんな、心配」
「かわいくないってば!」
小さなバッグをあすかがぶんぶん振り回すと、千冬の背中にばしっとヒットした。おおげさに痛がりしゃがみ込む千冬の背中を撫でながら、あすかが必死であやまっていると、かすめるようにキスされる。頭を抱えたままのあすかを、千冬が再び手をつなぎなおし、ひっぱるように歩き始めた。
「でも、大丈夫なのかな」
「あすかにはぜってーメーワクかけねーよ」
「あたしじゃないの、千冬さんに何かあったら・・・・・・」
「あすかは、俺が弱く見える?」
「千冬さんは強いよ」
「俺がデージョブっつったら、デージョブじゃなかったこと、あった?」
「ない・・・・・・」
「だろ?あすかとおまえん家は、俺がぜってー守るよ」
夏の残りがただよう、初秋。七分袖のカーディガンは、緊張と、走ったことにより、すっかりあせばんでいる。カーディガンの下には半そでニット。いっそ脱ぎたいが、手をつながれているのでそれはかなわない。デニムスカートはタイトなものではなくてよかった。足もとは、おろしたてのスニーカーでよかった。千冬に、致命的な迷惑をかけずにすんだかもしれないけれど。
「足手まといでごめんね」
「あんなとき先陣切るオンナなんかいっかよ・・・・・・」
まだ混乱から切り替えられていないあすかの顔をのぞきこみ、千冬があすかをなだめた。
「な、元気だせよ。ほら、甘いもん食いにいこ」
「ごめんね、バイクだったら」
「どっちみち単車ぁ動かなかったよ、ちょーしわりぃんだから」
じゃ、あすかチャンが元気出るとこ行こ!
こどものような声で、千冬は、青信号で向かいの通りにわたり、小学生の群れのあいまをぬって、住宅街に入った。
「で、結局ここなんだよなー」
「地元は平和だよね・・・・・・」
材木座海岸の砂浜。平和でだだっぴろい海岸にふたりよりそって、座り込んでいる。
あすかだけが買った、レモンをしぼったサイダー。心地よい炭酸で満たされたドリンクカップを奪い取り、千冬がストローですいあげた。
「でも、千冬さん、家までこられたことあったでしょ」
「あのチームつぶれたよ」
「・・・・・・」
「あたりめーだろ、オメーに手だしたやつはそーなるんだよ」
このドリンクを買った店は、ドーナツが有名な店だけれど、海辺で不用意にものをたべていると、とんびにさらわれかねない。せっかくのお店でサイダーだけを買うこととなった。よく冷えた炭酸を吸い上げながら、あすかは誓う。千冬によけいな面倒をおわせないようにように、自分がしっかりしていなければ。あすかはキリリと表情を引き締めて、ひとつうなずいた。
「元気でた?」
ストローをかみながら、あすかはうなずく。
「ありがとう」
「あすか、ここ好きだろ」
「大っ好き。千冬さんは、落ち込んだとき、どこにいくの?」
乾いた笑い声をあげて、千冬があすかのその言葉を、一笑に付した。
「そういうとき、あると思うんだけどな、人間だし」
少しだけ残ったサイダーを慎重にすすり上げながらひとりごちあすかを、妖しい流し目で眺めたあと、千冬は、ウェーブのかかった髪の毛をくるくると指にとりながら、うそぶく。
「あすかの隣」
「それって結局、あたしが元気でるだけじゃん・・・・・・」
ガシガシとストローにかみつくあすかに、千冬がもう一度笑った。
「やすいデートになっちまったなー」
「18歳だよ、充分だよ!千冬さんがいたらどこでも楽しいよ」
ん、そーゆー話でもないのかな?そーゆーことかな?
カップのふたをあけて、残ったサイダーをあおろうとするあすか。そのカップを千冬がうばって、ルージュをひとさししたくちびるのなかに一気に流し込んだ。
「もう怖くない?」
「大丈夫だよ、千冬さんもいやなカンジ、消えた?いやでしょ、勝手なこと言われるの」
「オレぁんなデリケートじゃねーんだよ」
カップをそばにころがし、少し湿った砂浜に、勢いよく寝転がろうとする千冬の背中をあすかがとめる。この美しい髪の毛に砂がついてしまうと、あとが大変だ。
「寝ちゃだめ」
前も砂いっぱいついたじゃん。
カップを拾いよせるあすかに、千冬がぺたりとしなだれかかった。
「手いたくない?」
「ぜんぜん」
「よかった。ケガないよね?」
「見てただろ?ないよ?」
まるで千冬をちいさな男の子のように扱う、あすかのそのやさしい腕。妙に居心地が悪くなった千冬は、あすかからいったん離れたあと、あごを指でくいともちあげ、世にもやわらかく、みずみずしいくちづけを送った。
気づけばすっかり暮れ始めていて。秋のはじまり。海辺の風は、ずいぶんつめたくなった。
「歩いて帰る?バスに乗る?」
「歩く」
「あたしん家に着いたら、原付に乗って帰る?」
「いーんかよ?しばらく借りといてかまわねぇ?」
足がねーからよー
材木座海岸の白いトンネルをくぐったそばにしつらえてあるごみばこに、カップを放った。
「いいよ、お母さん最近車だし」
あ、でも、ルール守って乗ってね……
じめじめとした湿った路地裏から、気づけば、いつも二人で過ごす海へ。そして、二人が暮す町へ。材木座。行き交う人々は、千冬のことを見慣れたのか、じろじろと眺めまわす人はいない。それぞれのお店のお客さんか、微妙なレベルの顔見知りもいて。軽く頭をさげると、どこか照れ臭かった。
夕暮れの鎌倉の町を、手はつながずに、千冬とあすかは寄り添いながら、ぴとりとくっついて歩いた。
「腹へった」
「ごはん食べてってね」
「何なの?」
「ぎょーざ、にんにく抜いてるから」
「んじゃ店立てんな」
「日曜なのにお店開けるの?」
「二次会だかなんだかいうやつがよー」
「繁盛してるなあ、また欠品してるものがあったら言ってね」
「またどっかいこーな」
「行く!」
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