3.海辺の夕暮れ
「葵」
「?何ですか?」
「んでよ、葵ぁよ、湘南なんだよ」
「お母さんの子どもだからです」
「遠いんだよ、横浜に越してこい・・・・・・」
七里ガ浜。
134号線と海岸を隔てる高い石壁に、その精悍な背中をあずけ、腕をくみ、バカシブいため息をつきながら、龍也は無責任なことをボヤく。
龍也より、ずいぶん背が低い。清潔な黒髪を海風にさらさらとなびかせている、龍也の小さな恋人、葵は、首をかしげながら、生真面目に答えた。
「それは無理ですよ、わたしの家は鎌倉だし」
朧童幽霊の榊龍也が、湘南にバイクで訪れる。
それは、湘南の不良少年や湘南の暴走族構成員にとって、非常に大きな意味合いをもつ行動だ。
恋人に会いにくる。
龍也本人はただそれだけのつもりでも、まわりはきっと、そうみなさない。何らかのけん制である等の、野蛮な意味があるのか。それとも、どこかのチームに狙いをすでにさだめたうえでの、宣戦布告か。周囲は、否が応でもそう解釈するのだ。
龍也とて、日常の行動すべてが、族である己の上にさだめられたものというわけではない。
たまには、年下の恋人だけに、時間と心を割くこともある。
湘南に単車でおとずれたことは、あらゆる意味合いのうえで、幾度もあれど。
葵をそういった争いに巻き込まないことを、真剣に考えるのであれば。
電車に乗るしかない。
週末、観光目的で鎌倉におとずれる数多の客に龍也はまぎれこみ、ほぼ満員にちかい横須賀線に揺られ、うんざりした顔で鎌倉駅にたどりついてみれば、来なくていいと命じたはずなのに、そこには龍也の彼女、葵のすがたがあった。
無理をするなととがめながらも、ちゃっかりと笑う葵の様に、目元や口角がゆるみかけるのをおさえられない。葵にそれが悟られぬよう、そのまま、すし詰めに近い江ノ電に葵とともに乗り込んだ。
葵が、体育の時間に捻挫したというものだから。
龍也という人間のかかえる特殊な事情から、自由に迎えに行ってやることもかなわず、電車の乗り継ぎを重ねる距離を無理にこさせることも、気の毒で。みずからがこの街に出向き、このまま鎌倉のあちこちに出向きたがる葵の頼みは一切無視し、鬱蒼としたしずかな町の小高い丘の上にたたずむ、葵の自宅へ彼女を引っ張っりこんだ。
それにしたって、あのうっとおしく、ちまちまとちいさく、己でそのスピードを支配できない乗り物に乗ることは、いまいましくてかなわない。葵の狭い部屋の中で、葵を腕のなかにおさめ、けがが癒えかけている恋人に無理をさせないように、しかし己の欲にはあらがいきれず、洋服の上からさんざんいとしい体を触れまわしながら、多少苛ついている龍也の様を葵も敏感に察知していた。自分のために龍也を足労させてしまった。少しでも龍也の気が晴れるだろうかと、一日の終わり。極楽寺の自宅から、この海辺まで、再び、龍也にとってはまどろっこしく、葵にとっては日常のひとつである江ノ電で、出向いたわけである。
けがはもうほとんど治っている。
何が楽しいのだかわからないがただ今この瞬間龍也のそばで幸せそうにわらっている葵は、幾度も懸命にそう主張した。ほっそりとした足首をむきだしにしたサンダルと、葵にしては短いワンピース。その白い足首には、ぺたりと湿布が貼られている。
海辺にたたずむ何軒もの店。どこもかしこも高級で、かつ混み合っている。そのうちのひとつ、ジューススタンドが一角にある店で、葵はごく甘いアイスティーを購入し、ストローですいあげている。
「貸せ」
葵が少しずつ飲んでいるドリンクカップを、龍也がとりあげた。
「甘いですよ?」
「・・・・・・」
葵が使っていたストロー。そこに口をあて、ひとくちすいあげると、龍也の口中に、その場に倒れこみたくなるような甘い液体がまたたくまにひろがった。
「だから言ったのに・・・・・・」
龍也から取り返したアイスティーのカップ。緑色のストローを口にふくみ、ちゅっと吸い上げ、葵は間接キス!と笑った。
その幼さに呆れ、ドリンクの甘ったるさに顔をしかめながら、龍也は、砂浜をふみしめている、葵の頼りない足元を見やる。
「足デージョブかよ、んなもん履いてっけどよ」
「ほとんど治ってます。大丈夫ですよ」
それに、ヒールじゃないし。
足首を龍也にひょいと見せると、はずみで、青地にドットのワンピースの裾が、膝より高い位置を、ひらりと舞った。
「見せてみろ」
龍也の大きな体が砂浜にしずみこんだ。片膝を砂につけ、龍也は、葵の足下に、そっと手をふれる。
今日はいつもより短いスカートだから、そうしてしゃがまれると、じつに恥ずかしい。
いやそんなことより、ケガにかまけて、ケアもろくにできていない生足をさわられるだなんて。きっと、足下が汚れることも気にせず歩いたから、砂も汗も、ひどいはず。
龍也のいきなりの行動に、息をのむような悲鳴をあげて、葵が目を白黒させたが、龍也はそれにかまわない。
素足に繊細なサンダルを履いて、小さな湿布を張り付けている。
そのほっそりとした足首を、龍也が片手で覆った。腫れも熱もないようだ。
龍也の無骨で、長い指。それは、葵の足首を、簡単に一周した。
「あ、あの、わたし、足細くない・・・・・・」
妹のほうがずっと細くて。
「これがかよ」
立ち上がり、葵の手首をぎゅっと握りしめてみると、指が一周したあと余ってしまうほど華奢だ。
頬を紅潮させてうつむいてしまった葵の手首を、龍也はすぐに解放した。
「どっちか鍛えろ」
「だからどっちも細くないので・・・・・・」
「つーかよ、こんなに歩いて、ヘーキなのか」
「大丈夫です!」
「葵の大丈夫は信用できねーぞ……」
全然歩いてないでしょ?
そううそぶきながら、葵は砂浜の砂を、オープントゥのサンダルで軽く蹴りあげた。
渚のあたり。部活帰りだろうか。すぐそばの高校の制服姿の男女グループが、裸足で水遊びをしている。あっちへ行きたいと龍也に願っても、暑いと一言で一刀両断された。
葵も、あんな風に、冷たい海の水で、ほんの少しだけ痛くなるときもある足首を、冷やしたかったのだけれど。
そもそも、龍也はここに来たがらなかった。自分の足を気遣ってくれているだけではないような気がする。葵のカンだ。
きっと、大好きなバイクに乗れなくて、自分のスピードのままに走ることもできなくて、自分の小さな部屋に龍也をとじこめてしまったし、きっと週末の鎌倉の満員電車もうっとおしくて。自分にうんと優しくしてくれた今日の龍也に、一日、負担をしいてばかりだった。
ここから見る、海辺の夕暮れは、葵は大好きだから、龍也にも楽しんでほしかった。
そんな自分本位なわがまま、いざここに来てみると、なんだか情けない。
そろそろきつくなってくる西日が、葵を突き刺す。
もうすぐ暮れるころ。砂浜から見上げることのできる、ファミリーレストランの駐車場は、夕日がしずみきる様を、いまかいまかと待ちかまえているカップルでいっぱいだ。
「龍也先輩、海いやでしたか?」
「ぁあ?……葵はいやじゃねーのか」
「!?ぜんぜんです、海大好き。今から、すごくきれいな時間ですよ」
「無理してるわけじゃねーんだな」
葵には、話が見えない。
「無理、ですか?ぜんぜん。足、ちょっと、冷やしたいけど」
葵のその軽い吐露を聞いた龍也が、きつく舌打ちをした
「痛ぇんだろうが!」
「あの、ちょっとだけ、です、ほとんど痛くない!」
龍也が葵の手首をひっつかみ、渚へひきずるように歩き始めた。
「・・・・・・龍也先輩、怒ってますか?」
「葵は、いやじゃねーのか」
龍也の手をていねいにほどいたあと、その不器用であたたかい手を、葵のほうからきゅっとにぎりしめる。即座に龍也がほどきなおし、お互いの指をからめるように、葵の手をきつく握った。葵は、少しあせばんでいることが気になるけれど。龍也はそれを気にもとめない。
「何も?龍也先輩と一緒にいて、いやなことなんて何もないですよ」
「……あんなことがあったところでよ、俺と一緒でよ、つらくねーんかよ」
龍也の手がいっそうきつくなる。葵は手を強くつながれたままで、懸命に、その言葉の意味を考える。
ああ、そういえば。
ここは、あの真冬。葵が、真冬の朝に、ひどく傷ついた龍也を見つけた場所だ。
そして、龍也に、龍也のそばにいることをゆるしてもらえた日だ。
確かに、あの朝。知らないひとたちに、葵はきずつけられそうになったけれど。
龍也がそばにいてくれて、龍也がすぐに葵をうばいかえしてくれて、龍也がたすけてくれた。
龍也にそうして迷惑をかけたこと。いまも、龍也に守られてばかりなこと。そのなさけない事実は、葵にとって、とてもつらいけれど、自分がされたことなど、なんでもない。
「ああ、そんな、ぜんぜん大丈夫ですよ」
そんなことか。
葵のあしもとには、泡のような波がしのびより、またもとにもどってゆく。空はとろけそうなオレンジ色に染まりはじめ、水のような雲が、そこにとけてゆく。
「あのときも言ったじゃないですか、先輩がいたからって」
厳しい西日。そのだいだい色の光をものともせず、葵は、やわらかい微笑をうかべた。
「わたしがみたかったから、ここに来たの。それで、龍也先輩にも見せたいなーって、思っただけです」
渚の手前で、龍也はたちどまる。きつくつながれていた手を、葵のほうからほどいた。葵は、アンクルストラップを器用にとりはずし、湿布もぺろっとはがした。龍也がそれをとがめるまえに、葵は笑って、大丈夫ですと語る。
のみおわったカップを砂浜にそっと置いたあと、繊細なオフホワイトのサンダルを両手に、葵は、海にバシャバシャと入る。
「私、あの日から、あの日のまえからも、ずっと先輩に迷惑かけっぱなしです」
気持ちいい。そうつぶやき、足首から下を海水に浸した葵は、ひとりごとのように語り続ける。片手で西日をよけながら、龍也は、年下の恋人が懸命に吐き出しているその言葉に、注意深く耳をかたむけている。
「もっとつよくなって、龍也先輩に迷惑かけないようなオンナになります」
浅瀬で、何度も足踏みをする。真っ白のふくらはぎに、潮が散る。今日はそのやわらかい体に、服の上から、ずっと抱きしめていただけ。それ以上は触れていない。
「冷やしてたら、気持ちいいです」
「痛かったんだろーが」
「痛くなくなりました!龍也せんぱいは・・・・・・、はいれませんね」
ほとほと呆れ果てた様で、龍也はたばこをひっぱりだした。
「んなガキくせーことすっかよ」
ぼそりとつぶやき、渚に立ったまま、龍也はたばこに火をつける。龍也のスニーカーの先に波がうちよせ、海水がぱしゃりとかかった。
龍也の悪口をものともせず、葵はしれっとたずねた。
「夏にたばこ吸ったら、暑くありませんか?」
「くだらねーこと言ってねーで冷やしてろ・・・・・・」
だいたいまだ夏じゃねーゾ・・・・・・。
もうすぐ6月ですよ!
朗らかな声で宣言したあと、葵は、一度、西日をみつめた。そのきつい光にはやっぱり耐えられなくて、右手を額にあてて光を弱めながら、きゅっと瞳をとじて、光の衝撃を緩和させようと励む。
龍也は、強い夕日の光に動じることなく、堂々とした視線を、くれてゆく太陽におくった。
「湘南も悪くねーけどよ」
「ほんとですか?よかった」
葵の置いたカップのなかに、すいがらを押し込んだ龍也が、指だけで葵をよびよせる。戻ってこい、そう解釈した葵が、ぱしゃぱしゃと音をたてて、裸足で渚から歩き出た。
葵の濡れたあしもと。繊細なサンダルを履くよりも、そのままのほうが楽かもしれない。
龍也は、濡れた砂浜に、葵の足を傷つけるものがころがっていないか。慎重に気を配り、ぺたぺたと戻ってきた葵の頼りない背中をそっと引き寄せた。
「横浜に越してこい」
低い声で、わずかに真剣さをにじませてみた。龍也は落ち着いた瞳で、葵の純粋な瞳をつらぬき、戯言といえるようなことばをうそぶく。
「ま、またそういうこと・・・・・・こどもだから、まだ無理です」
小さな頭を龍也になでられながら、葵は、背中を龍也にとらえられている。背の高い龍也のことを思い切りみあげて、葵は、龍也がうそぶく珍しい冗談に、恥ずかしそうに返事をした。
「俺んちでいーんだぜ?」
「え、あ、えっと、そ、そ、それはもうちょっとさき・・・・・・」
しどろもどろにこたえる葵のやわらかい頬に、無骨な大きい手を添えて、葵の薄いくちびるに、龍也はそっとくちづけをおとす。それはさほどふかくならずに、葵のくちびるを、龍也は、実にやさしく、撫でるようにあじわった。
葵の大きな瞳はまっすぐに龍也を見つめ、龍也に吸いつかれてしっとりと濡れたくちびるは、恥ずかしさから、きゅっとむすばれた。
「大丈夫か?」
「大丈夫です!」
ふたたびたずねられる、龍也のその言葉に、葵はまっすぐこたえた。あなたがいれば、いつでもわたしは大丈夫なのだ。そんな想いが、大丈夫という言葉の前に、いつでも在ること。
無理などしていない。
「葵を迷惑に思ったことなんかねーぞ」
もっと甘えてほしいくれーだ。内心、更にそう抱いたことは、腕の中にいる、気丈な葵につたわっているか。小さな頭、潮風でべたつきはじめた黒髪をそっと胸にひきよせ、ぽんぽんと軽くたたいたあと、幾度も撫で上げる。
「……つよいオンナになります」
少しだけ、はなをすすりあげ、葵は龍也におとなしく抱かれたままでいる。
「……つぇーよ、葵ぁよ」
「……湘南、好きですか?」
「葵がいるからな」
葵はたまらず、龍也の胸元に、ぎゅっと顔をおしつけた。
わたしも、あなたがいるところが、全部、いつでも、大好きだ。
それがつたわるように、葵は、龍也の厚い体にまわした腕に、うんと力を込めた。
激しい光線のような西日が二人をさす。
海辺の夕暮れ。
燃えるようにおちていく夕陽。
龍也は、腕のなかの恋人を一度ぎゅっと抱きしめた。そして腕のちからをゆるめると、葵の瞳が不安でゆれる。
強くなると誓ったばかりなのに。
そう逡巡している葵の両頬を、龍也が強くかかえる。
湘南に、夕陽が暮れていく。
燃えたまま。
龍也の熱い眼。それは、あの夕陽よりも激しく燃えている。
葵も、まっすぐそれを受け取った。
燃えさかる夕陽。
その熱気よりもつよく、龍也は、葵に、激しいキスをおくった。
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