身長が150センチにも満たぬあすかは、本来小柄で華奢な来栖の体すら、大きく見える。華奢で、デリケートで、ガラス細工のようにやさしいと思っていた体。あすかは、その体を、いつもまぶしく見上げていた。

今こうして、あすかの眼前に立ち尽くす来栖の畏怖といったらどうだろう。

華奢で儚いと思っていた来栖の背中が、あすかにくらべるとしっかりと厚いこと。しっかりとみなぎった腕、半袖からのぞくその腕に浮かぶ青い血管。そんなことを意識したのは、図書委員を半年間のみ、共につとめた時であった。

今こうして、あすかの目の前で、うつむき加減に立ち尽くしている来栖の後ろ姿は、そのとき感じた、爽快な少年らしさとは、ほどとおい。

あすかにとって、来栖は、大きく、切なく、まぎれもなく、ひとりの、好きな男の子だった。

しなやかな体をつかって、小粋に着こなした学ラン。
色素の薄い髪の毛は、真っ白できれいな顔立ちに、おそろしいほど似合っていた。
来栖は、いつだって、そのままできれいだった。
先生に乱暴な言葉を吐いたり、まじめな人を脅して楽しんだりする生徒とは違って、繊細に笑ったまま、来栖はいつも教室のすみでしずかにすわっていた。

そのきれいな容貌は、あすかにとって、緊張の対象でもあった。

あすかと同じ思いを抱いている女子が、意外に多いことは知っていた。中学校の屋上で、あか抜けた女子生徒と楽しそうに語り合っている姿は、幾度も見かけた。ああして、自信をもって、来栖に話しかけられたら。あすかはずっと、そう抱いていた。

喘息とカゼをこじらせて一週間ほど欠席していたから、その日のことは知らなかったのだ。

気がつけば、教室のかたすみで静かに笑っていた来栖は、居場所もその姿も、ここから消されようとしていた。

そうして、ずいぶん久しぶりに会ったような気がする来栖は、激しい血のかおり、気を失った人間の塊がいくつもころがるなか、ゆらりと立ち尽くしている。

その顔を、ここから見ることはできない。

「来栖くん」

その切ない背中めがけて、あすかは何度も名前を投げつける。

「見るな」

久々に聞いた来栖の声は、あくまで、澄んだメゾソプラノだ。

「来栖くん」

倒れている人々。この中学校の制服とは違う服。血塗れ。その肉塊をまたぐようにとびこえ、あすかは来栖に近づく。

「見るな!!」

そのメゾソプラノは、怒気と殺気をおびた、厳めしい声にかわった。

「来栖くん」

来栖の背中。来栖の真後ろに届く。
すると、血のかおりが強くなる。真っ黒の学ランに、血がしみこんだあと、それは赤黒く変化していく。

「見るなっつっただろ」

せめて、その顔が見たくて、あすかは、来栖の警告を気にもとめず、学ランにつつまれた肘をひっぱった。

あすかの手をふりはらうように、来栖は思い切り肘を振り切る。はずみで、あすかは少しよろけた。

「デージョブかよ?ぶつかったらそいつら起きっかもよ?」

そううそぶく来栖の口元を見たくて、あすかは、いまだあきらめず、来栖に近づこうとした。

とたん、来栖が、この屍のような軍団を軽やかに飛び越えはじめる。
猫のような身のこなし。
運動会でも、体育の授業でも、来栖の運動神経を気にかけたことはなかった。
この繊細な体のなかに、いかほどのものが眠っていたのか。

あすかも、屍のような塊のあいだを縫い、来栖のあとを追いかけた。

もう関わらない方がいいと何度も忠告された。
あれほどそばにいたがっていたあの美人な女子生徒も、切なそうな表情で、来栖のことを、無に帰していた。

「待って!来栖くん、これからどうするの」

そんなことを聞きたいわけではない。渡り廊下で、あすかの少しまえを早足で歩く来栖に、息を切らせてそのか細い姿を追いかけながら、あすかは叫ぶ。

「あっ、私立とかに転校したらいいよ、寮のある学校とか、奨学金ももらえるよ、来栖くん、国語とか英語とかできるし」

くだらない提案だ。来栖をこちらにふりむかせるためなら、もうなんでもいい。やけくそのようにあすかは叫んだ。
足には自信があるのだ。思い切りスピードをあげて、走り抜くと、軽やかに早歩きをしていた来栖の背中に、あっさり追いついた。

「来栖くん!」

その優しかった背中。学ランをつかみ、励ますように叩きながら、来栖の名前を呼んだ。

来栖は、歩調を変えない。あすかは、来栖の顔をのぞきこむために、今どんな顔をしているのか確かめるために、隣にまわろうとする。

「見るな」
「来栖くん!」

刹那、あすかの体が思い切り反転させられた。
このまま突き飛ばされるかと覚悟したとき、
あすかの肩口に、来栖の腕がまわる。

「見ないで・・・・・・」

しつこいこと、くどいこと、あまりに来栖の気持ちに寄り添えていないこと。
すべて、あすかは自覚していた。
まるで、来栖への最後のあいさつのように、あすかは、来栖の名前を呼び続けたのだ。

このまま、絞めあげられるかと思った。

その、しなやかな腕。
来栖の、女の子のようなやわらかい手。
その手には、血しぶきが散っていた。

来栖のしなやかな腕が、背後からあすかを抱く。

そして、白い先端が細くとがった、
雪のような純白の指が、
あすかの眼を、塞いでいる。

来栖に後ろから抱かれ、眼を隠されて、来栖があすかの髪の毛に、頬をよせた気がした。

「見るんじゃねーゾ?」
「来栖くん、もう学校には」

ふわりと覆われたその白い手を、無意識にふりほどき振り向こうとしたあすかに、来栖はもう一度短く命じた。目を隠す手のひらの圧が強くなり、胸元にまわった腕にも力がこめられる。

「見るな」

結局、あすかは、来栖の顔を見られない。

眼をそっと覆われたまま、あすかは、穏やかな声で、来栖に語りかける。

「来栖くん、あのころ何の本読んでたの」
「しらねー」

肩にまわった来栖の腕をぎゅっと両手でつかみながら、あすかは、くだらない提案を続けた。

「来栖くん、わたしのお母さんの同級生に、弁護士がいるよ。わたしがお願いしたら、安く相談にのってくれるかも」
「ハッ」

来栖が、こんなにラフな口を利くなんて。
来栖が、こんなに正直だったなんて。
眼を覆われたまま、あすかは言葉をつづけた。

「来栖くん、最後に笑ったのはいつなの」
「今だよ」

あすかの目元から、来栖の冷たく血のかおりがする指が離れる。
瞳をあけると、昼の光がおもいきりとびこんできた。
眩しく眼を瞬かせた瞬間、胸元にまわった腕がほどかれ、来栖が、あすかの背中を思い切りおした。

どさりと音をたて、あすかはそのまま、渡り廊下にひざをついた。

振り向くと、来栖の横顔が見えた。
美しくととのった、デリケートな口元。
繊細な髪の毛に、しずくのように付着した返り血。

血をひとしずく浴びながら、来栖は、確かに、笑っていた。
その軽やかな足は、幾分機嫌がよさそうだ。
細い足下が軽快にステップをふみ、鼻歌をうたいながら、来栖の背中が小さくなってゆく。来栖は、もう一度、横目でちらりとあすかの姿を見る。
そのまま、ケタケタと、愉快そうに笑いあげた。

もう名前は呼べない。
最後に笑ったこのとき。
あすかは、冷たい廊下に座り込みながら、いつまでも、来栖の背中を見送るしかなかった。

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